羊たち





第三幕 喫茶店店長




 どうもお初にお目にかかります、神父さん。お噂はかねがね。このたびはとんだ災難でしたね、お互い。
 結構いい造りしてんですねえ。何にしても人がいないっつうのは心地がいいや。そういや入り口のかわいらしいお人形はもしかして神父さんが? ああ貰い物ですか。いや、なんだかどっかで見たような気がしたもんでつい。
 ――しかし警察の調査からやっと解放されたかと思えば次は教会とはいやはや、最近ついてねえ――なんてね、本音を言えばこの日をうっすら覚悟していました。
 いいえ、ただの勘みたいなもんです。ここで起きたことは他言無用なんでしょう。安心されてください、誰も何も言っちゃあいない。ただ、こんなに閉塞的なコミュニティで、もしあなたが何かひとつでも隠しごとを貫けるなんて夢を見てるならそれはさすがに甘すぎるとは思いますがね。
 こんな仕事してると話ばかり長くなっちまうな、すみません。さっさと本題に移りましょう。



 警察、そう、ようやく店に来なくなったんですよ。今回の事件のせいで妙な共通点ができましたよねえ、一回も会ったことなかったっていうのに――じゃあオレの知ってるところだけ。
 二週間ももたなかったんじゃなかったかな、あの人。
 いやとんでもないです、ケータイどころか身分証の一枚すら持ってませんでしたよ。だからね、働きたいと言われたとき、こんな得体の知れない輩に関わったってまともなことにゃならんだろうと既に予想はついていたんですが、しかしこれがほんとに困ってる様子でどうしても無視ができなかったんです。想像できますか、服だって一着しかないっていう、棒っきれそっくりの手足余らせた家出中の子どもみたいなやつが、でも実際のところオレとそう歳も変わらんだろう大人がですよ、仕事がほしいと頭を下げてくる、その光景が――する側とされる側お互いの気持ちが――途方もないんです。あんまり冷たくあしらって店の評判が落ちるのも不本意だった。
 だから雇ったのはやむをえずなんです。勘違いしちゃあいけない、神父さん、優しさなんかオレには微塵も備わってない。
 こんな職についちゃいますがオレは基本的にひっそり一人で生きていきたいタイプなんです。興味が湧かないんですよ、世のすべてに。だから一応この町の住人だけど、町内会がやってる浜の清掃活動なんかも全部スルーしてる。意外ですか? そうかもしれませんね、ふだんはさすがに隠しているし。仮にも喫茶店のマスターをしている男がこんなに人間嫌いだなんて誰も想像できないでしょう。
 話を戻しますが、ともかく正式な雇用じゃなかった。表向き、遠い親戚のお手伝いってことにして、モップがけに机拭き、食器洗いなんかの雑用全般をやってもらってました。服はオレが店で制服にしてるシャツの替えを貸して、就労前と後にシャワールーム使わせて。給料には頭を抱えましたが、まあ、なんとか。
 意外と働き者だと認識を改めた記憶があります。懸念していた接客態度もわりとしっかりしていたので驚きましたね――気になったのは、時折前触れなく膝をついたり、柱にもたれかかって苦しそうにしている姿です。なんかの病気だったのかもしれない。どうやら本人は隠しているつもりのようだったから、オレは何も問いませんでした。
 なんか野良猫みたいだった。
 客足が途切れて二人きりで店にいる時間が一番気まずくて。オレを助けてくれたのは音でした。店に流しているラジオやレコード、サイフォンが溺れるみたいに出す声。むらのあるガラス窓をうつ、したしたしたした騒がしい雨音。
 そう、
 あの人、「音楽が好きだ」と、握りしめた手を解くようにぽつりと打ち明けてきたことがあったな。今日みたいな小雨の日でした。続きをふってみたら、パンクが特にいいとそう答えてました。言われてみれば私服がそっちの系統に見えなくもないな、と、ゆらゆらたゆたう細い後ろ姿見ながらそのとき気づいた。
 履歴書なんて書かせたところで何にもなりはしない。どこの野良猫だったんでしょうね。



 飲みたくなってきましたか? たぶん匂いがオレの衣服に染みついてるんでしょう。毎日豆を相手にしてるもんだから。
 けっこう人来ますよ。でも一日に二人来るか来ないかだから、オレの感覚が麻痺してんのかもね。来るのは、井戸端会議するには椅子が恋しい奥様方、あとは家に居場所のないお年寄りが主です。
 神父さんはうちの喫茶店、来たことないすよね。あなたみたいな目立つ人が来たら忘れられないでしょう、ここはただでさえ若い人が少ないんだし。――若い人といえばちょっと前に一人出禁にしましたねえ、他のお客さんに絡んで大変だったんで。見ない顔だったから出張ビジネスマンだったのかな――あとはそう、生活に疲れてそうな会社員とか、ああ、昔一度だけ駐在さんも来たことがありましたっけ。
 覚えますとも。人嫌いですけど一応はマスターなんで。こういう技持ってないと田舎じゃ嫌われるんです。神父さんならわかるでしょう? 茶店も教会も体のいい井戸、森の穴って意味じゃ似たり寄ったりですもんね。

 実は、オレが引き継ぐ前の話ですが、うちの店はもともとスナックバーだったんです。なんでもオレの祖母の知り合いが始めた店だとかで、小さくてもそれなりに大切に続けてきたもんらしいんですけどね、歳も歳だし引退するって話が出て、そこで心配した祖母がオレに声をかけてきた。それが始まりだったんです。当時のオレはというと都会でつまらん激務に押しつぶされてちょっとばかりおかしくなって、アパートで寝込む日々を送っていました。いっそ世捨て人にでもなろうかと思いかけていたところに、店を継がないかと提案されたんです。
 祖母が心配していたのがオレとこの店とその知人っていうのと、いったいどれのことだったんだかそれはわかりません。祖母はオレと違ってお節介だから、全部かもわからない。でもどうでもいいです。
 聞けやしませんよ、事実オレはここで好き勝手させてもらってる。それで十分でしょうや。ありがたいことに、店っていう建前があるから、もう父も母もオレの生き方にうるさく口出ししてこないんです。もしかしたら死ぬまでここの店を続けてほしいとまで思ってるかもしれません。



 またちょっと脱線しましたね。すみません。
 住所すか。いえ、そこは空欄じゃありませんでしたよ。だからぎりぎりで雇えたって感じですかね、まあ正直言うと一瞬「仕事ほしさの嘘だろうか」と疑いはしましたが、真相は案外すぐわかりました。例のあの大きいマンションだったんです。このへんじゃ否応なしに目立つ場所ですよ、オレでも知ってます。
 実在する部屋であることは保証します。電話をかけたら繋がったから。でもあのときもやっぱりまだ心のどこかで半信半疑だったな。なんせ最初に出たのはあの人とは似ても似つかない、ひらたいかんじの女性の声だったからです。彼女が戸惑った様子だったのもオレの不安に拍車をかけた。でもすぐあの人に換わったんで、事情はなんとなく把握できましたね。
 問い詰めるまでもなくすぐ白状してくれました。住んではいるが一時的に間借りしているだけであること、それから同居人の女性には黙ってバイトに来ていたこと。オレが電話したから女性にばれちまったらしくって、あのあとどうしたんだか。
 違いますよ。向こうから辞めるって言いに来たんです。だから受理しただけ、それっきり。
 理由……聞くべきだったのかな。同居人の女性とトラブルになっておんだされたのかもしれない。単に仕事がつらくなったのかもしれない。あるいはもっと居心地のいい仕事場を見つけたとか――はたまた稼がなくても食い扶持に困らなくなった、とかね。でもすべて憶測、今更です。神父さん、あなたの知ること以外は。



 オレにあなたを責めるつもりはない。そんな権利もない、というかまず、何度も申し上げますけどオレは他人と関わるのが嫌いだからどうでもいいです。だから何も言わなくていい。オレが何か知っているにしても、それが真実なのか見分けがつくわけでもない。
 もし何か説明するにしてもその相手はオレじゃないでしょう。
 他のみんなはきっと聞きたがってる、あなたの告白を。それなのにあなたときたら自分自身についてはだんまりでこうして他人をつついている。
 あなたの心がまったく読めないのは、オレが他人に興味を持てないからってだけなんですかね。

 神父さん、あんた、オレを変だと思いますか。いったいこんな世で誰が異常なんでしょうか。

 最近できたお得意さんにね、とんでもないひとがいるんです。これがまあたまげるほど非常識極まりないんですよ。人間ってのはなんつうかどんなに違う生き方してても、初対面でも、一応は相手と話が成り立つじゃないですか。ところがそこから通用しないんです。挨拶ひとつ噛み合わない、まったく予測つかないところで罵倒が飛ぶ。どこの星の生まれなのか首傾げたくなるくらいひどいんだ。
 一人で店に入ってきて、話し相手もいないくせにずっと何かにぶつくさ文句をつけてるんですね。そいつが悪名高い例の歯科医だっていうのは、これまでにお客さんから聞いていたので気づきました。こりゃオレの偏見でしょうけど、医者だなんて、人格破綻者にはとても就けそうもない立派な職でしょう。笑っちゃうほどアンバランスなひとなんです。いやこれはこれで釣合が取れているのかな、しっかりしすぎて性格だけはみ出たのかもしれません。
 ほんとにへんなひとなんです。
 営業妨害になるから帰ってくれとオブラートに包んで言ってみたら、そのひとなんて返事したと思いますか。「この自分が来たことで潰れたんならむしろ光栄に思いなさい」ってそう言ったんですよ。ふつう初めて入った店のマスターに言いますか? 今でも信じられねえ。
 でもオレも大概おかしいんです。問題起きないか窺ってるうちになんだか、それこそ奇妙な……そのひと相手にくらい、好きに向き合ってみてもいいかもしれないっていう、言いようのない、沼とかぬるま湯みたいな気持ちがじわじわ体に広がってきて。それがいつのまにか全身の細胞に浸みて。
 なんであんなに他人に興味が湧くのかオレには想像できない。ゴシップ大好きなご婦人方さえそそくさ逃げ出す始末です。それでね、ときどき我に返ったように苦み走った顔で口を噤むもんだから、独り言くらいご自由にと言ってやったんですよ、そしたら「他人に興味を持つのは悪だから」とそう答える。――矛盾してるじゃないですか。相手もオレも。
 で、これがおかしなところの最たる部分なんですが、それから付き合いがプライベートで続いてね。
 今神父さんと話してて少し気づきました。オレはあのひとがオレを壊していく過程とか、ふみにじられるオレ自身に興味があるんだ。あのひとそのものに対してはこれっぽっちも、きっとそうです。
 でもそんなの些細なことだ。どっちにしてもオレにあのひとが必要なことにかわりはないんだから。

 あのひとの過去は知ってます。庇う気は一切ありません。
 でもね神父さん、オレもこれはお客の話をつなぎ合わせて知ったんですが、あの歯科医が来てから地域住民の口腔ケア問題が目に見えて改善されたんだそうです。オレは自分が来る以前のことはよく知りません、でも確かにお客さんたち、年齢の割に元気に固形物食べて帰っていくんすよ。――あの歯医者は人気がない、ひとでなしだ、それも真実でしょうが――みんな病院に行く必要がほとんどなくなってるんです。
 わかってます。これであのひとの罪が帳消しになるわけじゃない。被害者のことを思えば尚。
 ただ、神父さんにくらい覚えていてほしいと思ったんです。みんなあのひとを鼻つまみ者にするけど、それだけじゃない。あのひとはオレなんかと違ってちゃんと仕事してる、貢献してる、一方でいつも誰かを見下して嘲笑あびせかけたくてたまらなくて、それでもそういうすべてがオレには必要だというこの矛盾した真実を。



 雨、やまないっすね。
 これどうぞ。湿気ちゃったかもしれないんですけど。いえ、ほんのお土産です。ほんとのこというとオレ、近いうち店畳むつもりなんです――家族はうるさいだろうけどね、そばにいたいひとができたから――だから貴重ですよ、うちの店名入りマッチ。火を熾すものなんていくらあっても困らないでしょう?
 よかったら使ってやってください。興味も情もないが確かに一時期うちの従業員だった、それは忘れていません。バイト先の店長がこんなんであの人も災難でしたよね。オレがもっと興味を持てていたら、何か変わったのかな。

 近いうち一回来てくださいよ、コーヒーサービスするんで。じゃあさよなら。お互い、いつまでも葦の生えない穴でいたいもんですね。








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