羊たち





第二幕 精肉屋店主




 おじゃまいたします。先日のミサ以来ですねえ、おげんきそうで何よりです。おかげさまですよう。ここはほどよく暗くて、みまる、子どもの頃にかえったみたいにすごく落ち着きます。そうそう、来るまでに福寿草を見かけましたよ。神父さまのお庭はどうですか。春までもう少しじゃないですか、何かお手入れされたり、したんですか。
 ところでバザーはやっぱりまだしばらくおやすみですか? いえ、このあたりは雪が深いから仕方ないってわかってるんですけど、でもどうしても恋しくなっちゃって。そうです、いつものお人形です。みんなきちんとおめかしして準備してるんですよ。まず教会に来るのが楽しみで。
 告解室って、思ったよりずっと静かなんだなあ。外の静けさとはまた違って、木が息を吸い込むみたい。

 あの人が最初にうちに来てくれたのはいつだったかな。

 もちろん、知っています。あの頃あの人は家も着替えも持っていなかった。それでもどこで集めたのか、なけなしの小銭を握りしめて、うちに来てくれたんです。
 いいえ、お人形は見せたことはありません。うちはお肉屋さんでしょう、あぶらがついたりするといけないから、お人形はみんなみまるのお部屋にお留守番してもらっているんです。初めのうち何回かはあの人が指さすものをただ出すだけでした、ちょっとおまけをつけることもありましたけどそれだけです。みまるたちはお店の人とお客以外のなんでもありませんでした。そのうち、開店の時間をあの人が覚えてくれて、シャッターを開けるときに会うようになって。みまるもお惣菜を追加する時間をこっそりほのめかしたりして。
 「ときどきの贅沢だ」と言って笑うあの人の帰ったある日の深夜、いつもみたいに賞味期限切れのお惣菜をざあっと裏の大バケツに流し入れ、たったそれだけでごちそうからごみへ急に転身する肉の、胃を押すにおいに包まれながら、ああこんなに無駄になるほど作るんじゃなかった、もう商店街が賑わう日などきっと来ないのに、祈りのように作る癖を早くやめなくちゃ、そうやって罪悪感をいだくことでまるで何もかもゆるされてるみたいに感じるいつもの行為、そのあとでふと思いついたんです。
 おごってくれとかそんなことは言われませんでした。あの人のことを誤解するかたも多いようですけど、少なくともみまるは悪印象を抱いたことがありません。ただの一度も。

 だから余りものをお渡ししたのはみまるのわがままなんです。もちろん安全かどうかはよくよく注意していました。あの人に出していたのはみまるがふだん閉店後や翌日に食べているような、よく加工したものです。おげんきですか。おいしかったですか。これがみまるの挨拶でした。みまるのせいで何かあったら大変だから。もっともあの人はみまるのせいで体調を崩したとしても、おいしかったと笑ったんでしょうけど。
 あの人、何も疑わずに受け取ってくれました。途中からみまるが余りではなくあの人のためにちゃんと作るようになってもしばらくは気づきませんでした。
 いつものですね。コロッケとハムカツ、どっちがおすきですか。ついつい作りすぎちゃうからたすかります。……こうやって挽肉に玉ねぎ混ぜるみたいにほんとに嘘を織り込んで、味付けしてごまかして。
 でもそれが通用したのも最初だけでした。こっそり用意したものを渡すようになってひとつきほど経って急に、あの人が申し訳ないと言い出したんです。たかるような真似はもうやめると。気づかれたとわかったのに、みまるは自分を恥じるのにいっしょうけんめいで、あの人に気の利いたことひとつも返せませんでした。

 それにしても今日はとてものどかな日ですね。こんなひなびた町だから、もう子どもたちもすくないけれど、なんだか耳を澄ますとたくさんの笑い声が聞こえてきそう。

 憐れまれていると思われたんでしょうか。
 あの人はあれ以上何も言わなかったし、みまるを責めもしなかった、どこまでも遠い瞳で見つめてくるだけでした、真っ暗だけど、すごくクリアな、ただ、それ以来次第に間が空くようになって、いつしかぱったり途絶えて影も見なくなりました。それまではときどき公園なんかでも見かけたのに、存在自体が嘘だったみたいにきれいにみまるの世界からいなくなった。しばらくしてから風の噂でこの教会に身を寄せているとうかがって、でもミサやバザーのときでも痕跡ひとつないものだから、てっきりただの噂にすぎないのかとも思っていました。たぶんあの人は群衆そのものを避けていたんですよね。でももしほんとに神父さまのおそばにいるとしたら、それならばもう二度と会えなくっても安心だと思ったんです。あの人が神父さまのもとで神さまに見守られながら生きている、そう思うだけでみまるは満足していたんです。
 憐れみにすぎないんでしょうか。
 今となっては自分が何をしたかったのかわかりません。せっかく作ったのに誰にも買ってもらえなかった、自分で食べてやることさえできないたべものをこの手で廃棄する日々から、あの時期だけ確かに救ってもらえていたんです。他にどんなごまかしをしようと、それに関しては心底のまじりけない感謝をあの人に伝えていたつもりです。あの人にとっても悪い時期じゃなかったと信じたい。明日をもしれぬ生活のなか、みまるのお店の看板を見るだけでおなかがいっぱいになった気がするって確かにそう言ってくれました。最初から最後までみまるたちは、ただのお店の人とお客にすぎなかったのに。
 それさえ消えてなくなって、あとは神父さまのほうがお詳しいでしょう。
 みまるはやっぱり間違っていたんでしょうか。どこがいけなかったのか、神父さまならおわかりになりますか。



 ごめんなさい。答えがほしいわけじゃないんです。
 いいんですよ、神父さま、冬場はきっと話し相手が減って日々張り合いがないんじゃないですか。だから、もしみまるがお役に立てたのなら、みまるはそれでいいんです。それにほんとはみまるが話したくて、神さまがそれを見抜いてここへ呼んでくださったのかもしれませんし。
 そうだ、神父さま、ここにこの子を置いていってかまいませんか。
 よくできてるでしょう? このあいだできたばかりの新しい子です。完成する前から、なんだかこの子はここに来たがるんじゃないかって思ってて、連れてきたんです。そしたら案の定。最初のご挨拶が格子越しでごめんなさいね。もしよかったらあとで抱っこしてあげてください。……そうですか? そんなつもりじゃなかったんですけど、そう言われてみればそうかもしれません。じゃあなおさらですよ。
 いいえ。なんとなく、そんな気がしただけです。

 もう夕暮れですね。やっぱり日が長くなってもまだ冬なんだなあ。いえ、でも明日はまた喫茶店の人に会わないと。神父さまはあのお店ご存知ですか。商店街の北の端にある、古い喫茶店です。うちの店、昔っからあそこにお肉を卸しているんです。個人的に何ってわけじゃないですけど、定期的に連絡はとってますよ。ありがたいですよね。
 そう。みまるにはお仕事があるんだもん。しあわせなことです。

 明日の準備もあることだし、そろそろおいとましようかな。
 さようなら神父さま。
 今日会えてよかった。なんだか今年の雪はいつもと違う気がするんです。だからこうしてお話しできてすごく安心しました。またいつでも呼んでくださいね、次はぜひ神父さまのお話を聞きたいです。
 どうか次にお会いするときは、厚い根雪も消えていますように。








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