羊たち
疾病や障害の可能性があるもしくは治療中である・民事刑事問わず何らかの形で事件に関わったが回復できていない・影響を受けやすくフィクションと現実の区別がつきにくい・以上のような事情を持った知人や家族のためにストレスを抱えている、など少しでも不安定になりやすいかたは、大変恐縮ですが閲覧をお控えください。
第一幕 開業歯科医院長
神もここまで堕ちましたか。いたいけな一市民をこんな場所まで呼びつけて、神父ともあろうお人がいったいぜんたい何のご用でしょう。 暇と言えば常に暇です。でも患者を診るだけが医者の仕事じゃあないんです。いいえ心配は結構、わたくしが路頭に迷うことだけはありません、誰かさんとは違ってね。貴方は素直に祝福なさればよろしいのでは? 素晴らしいことです、閑古鳥の鳴く歯科医院、この町の人間は揃いも揃って虫歯知らず。 それだったら貴方のほうが詳しいでしょう。何故今更こんなことを。 仕方がありませんね。わかりましたよ、話したら出してくれるんでしょう。気が済むまで付き合ってあげましょうとも。だから、ねえ、わたくしが何言ったってただ聞いていてくださいよね、呼びつけたの貴方なんですから。さっきも言いましたけどうちの病院は流行んないんです。看護師も事務員もいなくなっちゃってわたくし一人でね。こんな窮屈な部屋で、貴方相手に話すことしか許されないんだから、我慢なさいよ。 ここはのんびりしていていい町です。冬は長いし物はないけど、海も見えるし、野菜や海産物はうまいし安いし、栄えていないぶんこれでもかと言わんばかりに静閑で。 わたくし県外出身なんです。代々医者をやる家系でね。わたくしが就職活動してた時代は薬剤師なんかも人気があって、つまり安定してるってことです、それでわたくし大学入ってもしばらく悩んでました。迷うほど選択肢があったんです。まあ、でも、いつまでもふらふらするわけにいかない。ふらふらしていたいんだったら決めなきゃいけないときもある。それで腰を据えて歯科医になったわけです。順調にキャリアを積んで、歳もそこそこだしじゃあ開業するかってなって。そう。 でもねえ、ここ数年で一気に過疎化が進みましたよね。山は文字通り木々が根こそぎ取られていって、唯一の商店街なんか見てくださいよ、かつての賑わいが想像できないほどにシャッターだらけになっちゃって。今や通るのは北風ばかりの枯れた川のようでしょう。 開業する前からわかってはいたんです、いずれこうなるだろうってのは。だってどこもかしこもそうでしょう? 逃れられるわけないんです。未来のなさそうな場所に開業、なんて愚かだとお思いでしょうか? でもわたくし、何度も言いますけど困んないんで。ここに来たのは気まぐれ、ほぼ道楽です。世のため人のためどころか金のためですらない。 貴方みたいな人だったら他人が喜ぶ顔だけで生きていけるのかもしれませんし、実際それが生きがいなのかもしれませんけど、わたくしには一生無理でしょう、そんな命の燃やし方はね。 しかしすごいですね。格子越しでもしっかりわかる――なんともまあ複雑で豪奢な格子だこと――貴方の白い眉はさっきから微動だにしませんね、口角も視線も。貴方なんだかアクリルに閉じ込められた魚の模型みたいだ。 こんな人がねえ。あんな人をねえ。 いいえ別に。何でもありません。 改めて伺いますが、何故わたくしを呼んだんです。わたくしはミサにだって来たことがない、況してや信徒ですらない。あの人とさして親しかったわけもない、貴方が求める答えを持っているはずがないんですが。 ……はい。来ましたよ確かに。でも一度だけです。あの人お金どころか保険証すらなかったんですよ。それで揉めたんです。いつだったっけな、去年の春だったか、もっと前だったか。これくらいしかないですよ、エピソード。 そうだ、商店街に精肉屋ありますよね、そこの店員なら何か知ってるかもしれません。よくあのあたりで見かけましたよ。ほらあの人、格好といいふるまいといいとにかく目立ってたから。誰も表だって話はしなかったけど、皆知ってたみたいです。……そういえばあの服って一張羅だったんですかね。 いや、 だって何度でも言いますけど貴方のほうが絶対に詳しいじゃないですか。まさかわたくしが知らないと思ってるんですか? あの人と貴方のこと。 誤解はよしてください。別にじっと見てたわけじゃありません。なんせがらんとした町ですから、興味がなくても伝わってくるんです、貴方も隠していたわけじゃないんでしょう。 この町ってビルとかないでしょ。だからひとつ抜きん出た建物ができると、そこからの見晴らしがいいのは当然として、周囲からもその建物がよおく見えるんです。うちの二階もそう。こことか、あとはちょっと遠くにあるあのマンションとかもね。――そういえばあの人、マンションについて何か言ってませんでしたか――そうですか。いや、こっちの話。 もうそろそろいいですか。実は今日これから寄ろうと思ってたところがあって――いえ、ちょっと喫茶店にね――大したことじゃないんですけど。なんかねえ、ちょうどよくて。 昔の話ですよ。 あの人がここに来る前です。マンションに住んでる女性とちょっと。わたくし昔その女性のあとをよくついて回ってたんですが、あるとき駐在さんに止められて。度を超してたらしいんです。――相手が嫌がってるのは薄々わかっていましたが、確信なんか持てなかったし自分じゃどうもできなくて――あれからわたくしはあっちまで行ってはいけないんです。 そうです。わたくし前科者なんですよ。罪人。 ここでさっきの実家の話の続きなんですが、うちの家の人間ってほぼ例外なくものすごいお人好しでね。他人に親切にするのは当たり前、それでいて押しつけがましくなく、社会にうまく馴染むだけの愛嬌や道徳心があり、自立心にも恵まれ、弱さや欠点をカバーする知恵と行動力に優れ、努力を惜しまず、それぞれ趣味や仕事に生かせる得意分野をしっかり持っている。 なんて言えばいいんでしょう。まさしく絵に描いた聖人みたいな「善人」。笑っちゃいますよね、嘘とお思いになられるかもしれませんが、本当にいるんです。 でもそんなのやっぱり不自然じゃないですか。あそこにいるとまるで「善人」以外存在しちゃいけないって言われているみたいで、気味も居心地も悪くて逃げるように家を出ました。今だってどうしても理解できないんです。他人なんかそんなに思いやるもんじゃない、誰一人信用できないし、仲良くする義理もない。多くの人にとってはわたくしのほうが異端なんでしょうが、わたくしはこれがデフォルトなんですよ。 そんな背景もあって、マンションの住人とのいざこざ以来、〝何かに興味を持つこと自体がいけないこと〟になったんです、わたくしにとって。それまでよりずっと強固に明確に。自分が困るんです。他人に迷惑をかけるのがいけないんじゃなく、興味を持つのが悪。 根本的にだめなんでしょうね。反省の仕方がわからない。で、他人にうまく近づけないならもうどうでもいいかなって最近は思ってて。酷くしても優しくしてもねじまがるんだから諦めようって。外側から観察するだけで十分おもしろおかしいし、もし次誰かを困らせたとしても何にも考えないで振り回していい気がしていて。 間違った存在だと自覚し続けるのもなかなか至難ですよ。 いいんです。他の誰がわたくしを理解できなくとももういい。止められるものなら止めてみせなさいよ。誰にも許されずとも、わたくしさえ納得していればいいんです。 罪って、目に見えるものなんでしょうか。 手で触れるでもにおいがあるでもいい、とにかく何かはっきり感じることって可能ですか。常々気になっていたんです。召命を経た聖職者ならわかるものなのかもしれないって。 告白されたならそれは形を持つんでしょうか。罪悪感を覚えなくなって久しい者にもそれはあるんでしょうか。明らかになっていない罪にも裁きは訪れるんでしょうか。この小部屋で貴方はこれまでどんな罪を見てきたんですか? ないと思えばないんじゃないですか。罪も命も、この世界も、あるいは救いさえも。 ……どうしてそんなことを聞くんです? 貴方、わたくしに何を見てるのか知りませんけど、ご存知わたくしは神父や神どころか信徒でさえないんですが。 好きにしたんでしょう、ならそれがいちばんです。 満足ですか? なんか急激にすべてが嫌になってきました。そろそろ帰してください、もう巻き込まないでください。 さようなら、神父様。もし再び相まみえることがあるのならそのときまでどうぞ息災で。祈る神などいませんから、貴方に向かって言いましょう、精々お元気でとただそれだけを。貴方さえよければあの人にもよろしくお伝えください。 そうだ。貴方、わたくしによく似てるんだ。 そうですね、すっかり春になったらまた来てあげてもいいですよ。裏手の花畑、きれいに咲くといいですね。 |