Blue Eden マグネシウムリボン 03







7.
 二人の性格上いつもべったり一緒というわけではなかったが、それから灰間はいま天下てんげと行動を共にするようになった。灰間は気にくわないパーティーは断るようになり、そうすると人間関係も自然と落ち着いてきた。
 丁寧語を話す理由を天下に問われた灰間は、自分の悪癖を彼女に説明した。知られているのなら隠してもしかたがない。天下は納得したらしく、灰間の父親の言ったことに感心の態度を示す。
「わたしも見習おうかな。ほら、わたしはいずれ人の上に立つから、そのときは丁寧でいないとね。今から癖をつけておかないと」
 のんきなものだ。他人事だからそんなことが言える。灰間は苦々しげに口をうごめかし、天下を睨めつけた。天下は突然そっぽを向いてうんともすんとも返してこなかった。しかし――天下の話し方には灰間とはまた別種の不安定さがある気がする。彼女の態度の、行動の唐突さをそのまま表しているように、つっかえつっかえ歩いているような不自然さがあるのだ。灰間と同じように話し方に気をつけるのはいいことなのかもしれない。
 そういえば弱みを握って灰間に近づいてきたのは天下である。それくらいするのだから一緒に対策を練ってくれ、と灰間が詰め寄ると、ほとんど背丈の変わらない天下はそこでわずかに口角を上げた。そして一拍おいて考え込み、ぴんと人差し指を立ててこう言う。
「押し殺してはいけないものかも。発散すればいいんじゃないかしら」
「なるほど、いい意見です。一理あります。でもどうやるんですか? カラオケでストレス発散とか? まさか他人と喧嘩するわけにいかないでしょう」
「わたしがいるじゃない」
 放課後のコンビニで、天下はそう答える。そろそろ相手のこういった物言いにも慣れてきていた。目眩がしそうになりながら灰間は棚からミネラルウォーターのペットボトルを取って、そしてためいきをついた。
「感情の激しい人が好きって言ったでしょう。これから一喜一憂、罵倒もすべてわたしに向けたらどうかしら」
「それはそれは」
 レジ前で灰間は天下を振り返った。横にある値引きされたチョコレート菓子を、天下は指先でもてあそんでいる。短く切りそろえられた爪が箱をかるくなぜる――早く選んで取ればいい。それは天下だけのものではないのだ。
「天下。貴女、そこまで言うのなら私の感情を引き出す覚悟と自信があるんでしょうね」
「もちろん。あなたがわたし以外に乱されることなんてこれからさき必要ないもの。わたしはあなたの一番の悩みでいたい。わたしのことで一生困って悩んでちょうだい」
 いつぞやのように天下は息を吐いて涼しげに言うのだった。持ち上げられた菓子箱が灰間の鼻先までやってきて、そこで灰間はそれをひったくるように受け取った。レジの店員が迷惑そうにしているのが伝わってきていたたまれない。楽しそうにしている天下に見事にやりこめられてしまい、早速何か乱暴に吐き捨ててしまいそうだったが、灰間はぐっと抑える。
 しかしそのコンビニでずっと気まずい思いを続けるということはなかった。コンビニは高校の近くにあったので、二人はそのうちそこには行かなくなったのだ。しびれを切らして飛び出すように高校を卒業し、二人はそれぞれの大学へ進学する。
 灰間は家を出てアパートを借りた。一人暮らしも大事な経験である。お嬢様で箱入りの天下はそこまで自由というわけにいかなかったが、少し暇ができるとアパートの灰間の自室に入り浸っていた。
 ふたりとも、専攻するものがものなので非常に多忙だったのだが、たまの暇は逃さず休んだ。ほとんど会話はなくともそれでも高校入学当時よりはずっと息のしやすくなった毎日を、灰間はのびのび満喫していた。休日が重なった日にはホットプレートを出してきて、狭いテーブルに置いて、一緒にハンバーグを焼いた。天下はとんでもなく小食だったのだが灰間の作るものなら喜んで食べる。小気味いい。灰間はハンバーグのレシピを書いて彼女に渡してやった。冷蔵庫にはいつもミネラルウォーターのボトルが並ぶ。切れないように二人で協力して買い足す。留守にしている間にそれが増減を見せると、天下の存在が感じられて面映ゆい。
 なんとなく、毎日達成感があった。
 そんなある夏のことだ。
 炎天下、某企業に赴いて研究の説明を聞きに出かけたときのことだった。外とは打って変わって冷房の効いた廊下で数名の男たちに話しかけられ、灰間は足を止めた。
 彼らはこの企業の人間ではなかった。ここで行われている研究とは違う、とある研究が大詰めになっているので、是非若い力を分けてもらいたいとのことだった。次の世代に引き継ぎたい、我々の研究の結実と新しいスタートを華々しく飾る研究者がほしい、有機化学のプロがほしいのだ、そう頼まれては灰間もむげには断れない。話だけでもと別室についていったが、詳細の書かれた紙を読んで灰間はついてきたことを後悔した。
 それはいわゆる不老不死の研究だった。関係者たちに「命いじり」と呼ばれているその技術は、遺伝子操作、ゲノム編集の技術を、生きている人間に行うものである。遺伝子操作の性質を持つ薬剤を精製し、それを人間の首から静脈へ注射するのである。薬が全身に運ばれると、対象はその体質を変化させ、その時点で生命の状態が固定される。そこからは対象に老化現象は起こらず、どんな傷も致命傷にはならず、病気になることもない。知能や感情も摩耗することなく、対象は理論上、健康な状態でこの宇宙の終わりまで生き続ける。
 男たちは感情の探れない不可思議な顔でよくしゃべった。彼らのことをどこかで見たことがあるか思い出そうとしたが、彼らは説明と勧誘を専門にしている者たちらしく、どうも学会などでは会った記憶がない。彼らはこの技術を将来的に全世界に広めるのだとのたまった。――人体はもろい。命は不自由だ。厄介な怪我や病気をすればあっという間に死ぬし、どんどん老いていく。最近は精神病の問題もよく取り沙汰されている。社会を平和に維持するのは困難だ。せっかく「優れた人間」が現れても寿命が早ければ意味がないし、精神的に不安定だったら自殺してしまうかもしれない。それはこの星の損失である。不老不死は人類の悲願である。これは意味のある研究なのだ――
 男が話し終え、しじまが広がる。灰間は息すらつかず、たっぷり数分沈黙していた。無機質な蛍光灯の光がしらじらしく紙を染め抜いている。
 冷房が強い。
 こんな技術が本当に普及するのだろうか。にわかには信じられないが、本人たちが言うにはうさんくさいものではなく、もう何十年も研究の行われてきたもので、本当に完成間近なのだという。まあ、不老不死の研究といえば大昔から人間の興味の尽きないものではある。そもそも科学は錬金術に端を発しているのだし、そこまで見当違いでもない。確かに歴史だけは山のようだろう。昨今では遺伝子組み換えの食品が巷を騒がせているし、人間へ応用することについての議論はたびたび行われている。灰間とて何も知らずにいたわけではなかったが、しかし、しかし、あまりにも突拍子がないではないか。
 書類を読み進めると実に様々な研究者、スポンサーが名を連ねている――見知った名を見つけ、そこで灰間の手が強ばる。急に現実味が増してきた――どんな研究にも意味はある。関わる人間たちにそれぞれ理由もあろう、灰間がどんなに快く思わなくても、一方的にやめさせたり、けなすようではいけない。それはよく承知している。しかし、資料を読み終えた灰間は自分の雰囲気があからさまに暗くなっているだろうことをわかっていても止められなかった。
 もうひとつ資料があったが、灰間はそれを途中から飛ばし飛ばしで読み、そしてついに読み切らずに投げ出してしまった。ネットワークの進歩から得たデータ社会がどうのこうの、人間の心と体と記憶がうんぬんとあったがもういい。どうせ先のものと似たようなものだろう。
 興味はない。そのはずだ。ファンタジーの世界のようだとうっすら思ったが、面白がって放置するなどもってのほかである。ましてや無責任に実現させてはいけない。ファンタジーはファンタジーだからいいのだ。倫理問題が、だとか立派な理由もあるにはあるが、理屈をこねるまでもなく単純にいやだった。灰間はもう、人類の一員である自覚がある。誇りと責任がある。いつか死ぬ覚悟もある。友人たちのおかげで掴むことのできた希望だった。不自由だから自由が楽しい。必ず死ぬからこそ、あがくのが愉快なのだ。断る理由はそれだけで十分だった。
 自分の思いは自分で否定することなく、素直に、強く示しておくのがいい。――数歩間違えれば誘惑にのってふらふら落ちてしまいそうなものだったら尚更――自分の中にある甘ったれた願望に気づいているからこそ、灰間は誘いを拒絶し、研究に反対する意思を突きつけた。
 男たちは聞き分けよく引き下がり、灰間をそのまま帰した。
 その後しつこく勧誘されるようなことは起きなかったが、代わりに、誰かがあとをつけてくる気配をたびたび感じるようになった。こちらが変な気を起こさないか不安らしい。堂々とすればいいものを、それで不老不死を普及させると豪語するとはちゃんちゃらおかしかった。
 何もかも笑い飛ばそうとして、そしてそれができず、灰間は肩を落としてふらふら研究室を出る。今日も最後になってしまった。ノブの奥で鍵が回る音が、がらんとした朝の廊下にあわれに響く。
 切れかけの蛍光灯が朝なのに点いている。
 なんだか自分の人生が、質量を持って急に迫ってきたようだった。
 ここまで走ってきてさすがにくたびれたのかもしれない。そういえば今はバカンスの季節だ。米国の祖父からはいつでも遊びに来いと言われている。祖父は今年、美しいビーチを借りたらしい――アパートの自室に戻り、現金とパスポートと少しの着替えを鞄につめこんだ灰間は、その足で飛行機に飛び乗った。
 隣の席に腰掛ける天下は灰間に何も言わなかった。灰間も彼女に何も説明をしなかった。天下が差し出してくるミネラルウォーターを飲み、耳にイヤホンを突っ込んで、機内では眠りこける。フライトの間ずっと、天下は書き物をしていたようだった。
 大丈夫だろう。ずっと走ってきた。ここまで何回も沈みかけたが、そのつど色んな人に助けられたし、自分も諦めなかった。幼稚園の頃も、事故を起こしたときも、学会で失敗したときも。だからたぶん、今回の落ち込みもすぐに平気になるはずだ。
 境界を飛ばして抜けていく砂浜には、誰もいない。
 ――科学の世界に身を置いていて本当によかった。知りすぎて世界がつまらなくなることなどないと灰間は思う。こんなにも景色が綺麗で、その原因を突き止められる日は来ないのだ。それは甘美な敗北だった。勝てないとわかっている荒波に何度もぶつかる、それが切なくて嬉しい。――
 知りたいと思うことは愛だった。灰間にとって、科学とは愛なのだった。
 ビーチチェアを木陰にふたつ並べて寝そべる。灰間の隣には天下がいる。彼女の動く影が、チェアの下の貝殻を隠す。出会った頃よりもだいぶ伸びてきた甘そうな髪が潮風に揺れる。天下がどうしてついてきているのか、出し抜けに灰間は気になりだし、眠りの泥へ落ちていこうとする思考を必死でたぐり寄せる。
 約束もしていないのに。
 天下はいつもの仏頂面だった。動かない眉、小さな瞳。頬はまったく上がらない。生きていて本当に楽しいのか、灰間はときどき彼女のことが心配になる。
 天下がひどくマイペースで気まぐれに映るのは、彼女がルールを嫌っているからではない。彼女自身がルールだからだ。そうなってしまうと、彼女には公私の境というものがなくなる。彼女は確かに、多くの人を統べて所有する者なのかもしれないが、彼女自身は世界の所有物なのだ。
 ある種の怠惰にも見える天下の振る舞いというのは、いつか彼女が人を統べる者となることを静かな事実として捉えているだけのものに見えた。そこに余分なものは微塵もなく――たとえば傲慢さとか、周囲への蔑みといったものだが――天下の憂い顔はどこか、案内人に置いて行かれた旅人や、帰る港をなくした船を思わせた。目の奥に広がっている砂場は彼女の心の様子をそのまま表しているのかもしれなかった。砂は砂でも、今ふたりで転がっているこの砂浜のようであればいいのに、と灰間は思う。
 そこに灰間は寝転がっているのだろうか。
 水を吸う砂。
 灰間は右手を動かして、そっと隣の椅子へと伸ばす。
 手は柔らかくて温かい肌に触れた。その肌の持ち主は、いやがりもせず、避けもせず、灰間の手の好きにさせているのだった。
 ――貴女、
 灰間はぽつりと呟く。急に鼻先がつうと痛くなるのを感じる。天下はまだ口を結んでいる。物憂げな瞳がこちらを眠そうに見ている。
 ――どうして私のそばにいるんですか。なんで私に触られているんです。
 しばらく天下はゆっくりと胸を上下させ、灰間のことを見つめていた。そして息をまぜて天下は返事を寄越す。
 ――さあ。あなたのことが好きだからじゃないかしら。
 突然、どこかで誰かが立ち上がった気がして、灰間はぱっと目を見張った。
 どこかで誰かが手を振っている。どこかにまたたく沖がある。花弁が落ちる。足下の砂がみるみるうちに固まっていく。誰かが手を振っている。手を振っている。天下の呼吸の音が聞こえる。
 隣から手が伸びてきた。白い腕だ、と灰間は思った。白い腕の先にある、灰間と同じようにアルコール消毒で荒れた手のひらの、その先端の小粒の爪のついた指先が、灰間の前髪を梳いて、そしてゆっくりと離れていった。
 追う。手で手を抱きしめる。
 風の弱い日だった。時の止まったような空の下、灰間は天下の寝息と潮騒を遠くに聞き、寄せては返す波のように何度も何度も意識を浮かせながら、ゆっくりと眠りに落ちていった。





8.
 どんなに落ち込んでも、くたびれても、灰間はまた生活の中へ戻っていく。
 その日も学会のために遠出をしていた。二十歳の誕生日を越したばかりだったので、滞在中にホテルのレストランでちょっとしたお祝いの予定を立てていた。別の用事があった天下とは現地で落ち合うことにして、灰間も発表を終わらせた。この次は雑誌掲載の対策だ。本格的に活動を始めてから五年ほど経過しているのだからもう手慣れたものである。
 夜の九時。
 一張羅に身を包んだ灰間は、レストランで天下と食事の席に着いた。せっかくだからと言う天下に灰間は応じ、アイスワインを頼む。デザート扱いのワインの入ったグラスを軽く傾ける。
「改めて乾杯しましょう。二十歳、おめでとう」
「ありがとうございます」
 よく香る、甘いワインを飲みながら、灰間は酒好きな祖父のことを思い出していた。照明を反射するグラスとワインは夜景よりももっと胸に焼き付き、灰間をほんの少し感傷的にさせた。次に祖父に会ったら、ようやく一緒に酒が飲める。祖父は成長を喜んでくれるだろう。研究についてのアドバイスもたくさんくれるはずだ。そういえば最近、忙しさにかまけて連絡を取っていなかった。友人たちも待っているはずである。
 どうしたの、と天下に含み笑いをしながら訊かれ、灰間も笑う。
「祖父が酒好きで。呑むとよく踊っていたんですよ。そういえば、私にダンス教室に通えと言い出したのも祖父でしたね」
「いいお祖父様なのね。そういえばあなたも陽気ね、もしかしたらお酒に強いんじゃないの」
「ええ、たぶん。祖父に似たのかもしれません。踊り始めたら貴女が面倒見てくださいね」
「食事が終わってからね」
 すげなく言い切られ、灰間は肩を竦めてワインの続きを呑んだ。カナダから来たというアイスワインは透明度が高く、鮮やかで、目にも楽しい。感心して見とれていた灰間は天下の言葉を聞き逃す。
「そういえば、『命いじり』の薬が完成したの」
 灰間の喉からもれたのは、えっ、という裏返った声だった。遅刻したような驚きに天下は頓着せずにくりくりと目を動かしている。
「言ってなかったかしら。うちの家、あの研究のスポンサーだから。知ってるでしょう? 命いじり」
「知ってます。いえそうじゃなくて、あのですね、ちょっと待ってください」
 天上家がスポンサーであることは当然既知である。あの資料に載っていた。ただ、あそこにあった代表者名は天下の父親のものだった。灰間はてっきり、娘の天下は違う意見を持っていると思い込んでいたのだ。
 そういえばここは衝立に囲まれた窓際のテーブルだ。相手の突飛な言動にはここ三年ほどですっかり慣れていたつもりだったが、どうやらその認識を改めなくてはならないようだった。灰間は声のボリュームを絞って囁く。こうすると薬焼けした喉であるということが隠せなくなるので気が進まないのだが、それよりも内容のほうが気になる。
「じゃあ貴女だってご存知でしょうけど、私は断ったんですよ。無関係です。何を当たり前のように私に報告してるんですか」
「無関係な人なんていないでしょう。これから全人類の当たり前になるもの」
 反応に窮して灰間はしどろもどろになった。相変わらず、天下は手加減を覚えてくれない。彼女の頭にはそういうものが元々備わっていないらしい。だがここで灰間が黙っているのは不義理というものだった。相手のことに見て見ぬふりばかりしていたら一緒にいる意味がないのだ。出会ったとき、彼女は確かにストッパーを求めていたのだから。
「完成したものはどこにあるんですか。もしかしてもう量産を?」
「いいえ、ひとつめが私の手元に。完成品の投与の栄えある第一号を私が決めていいんだって」
「そうですか。くれぐれも軽々しく使わないようにね」
 呆れる気も失せる。
 本当にそんな世の中になってしまうのだろうか。そうだ、価格の問題がある。流通ルートの確保もだ。この技術と薬について周知されるようになり、第一号が決まったとしても、実際普及させるには問題点がまだ山積みのはずなのだ。どう手を回しているか知らないが、一朝一夕では広まらないだろう。
 なんとか自分を納得させて落ち着こうとしている灰間に、天下の脳天気な声がかかる。
「なぜそんなに刺々しいの?」
「なぜって、反対してるんですよ。そういうの、好きじゃないんです」
「そう。でも、もう完成したのだし」
 天下はそう言っただけだった。灰間の意見を否定するものではなかったし、声音におかしな色は見えなかったが、議論の断絶は感じた。
 違うものを信じていることは構わない。むしろ大歓迎だ。しかし、あまりにも相容れずに関係に支障が生じる場合はそうとはいかない。こんなに近くで一緒に生きようとしているのだから、逆方向を向きすぎてぶつかるようでは困る。どう返そうか、それからも灰間はずっと考えていた。もうすぐワインの一杯目が終わってしまうというときに灰間はようやく接ぎ穂を見つける。
「それで、貴女は夢って見つかったんですか」
 出たものはそれだった。会話の続きとして威力は足りないかもしれなかったが、こんなときだからこそふと妙に気になったのだ。
「夢?」
「ええ。出会った頃に話したでしょう。どうですか。この三年ほどで何かめぼしいものは見つかりましたか」
 グラスの細い足を持って、ワイン越しに天下を見やる。灰間の言葉に天下は視線を落とした。ややしてから、そうね、と吐息のような返事が届く。
「わたしがどんな大人になるのか、それはもう、わたしが生まれる前からほとんど決まっていたの。だからわたしは有名になりたいとか、そういう願望は持っていなくて。歴史に名を残すなんて、天上家に生まれたのならもうわかりきったことだから」
 夢かどうかわからないけど、と天下は前置きをし、話の続きを舌に載せる。
「わたしはあなたの特別でありたい。ふたり一緒にずっと変わらない仲でいたい。世界にとっての特別になるより、たった一人にとっての特別になるほうが難しいわ。だから、わたしはあなたの特別な人でありたい、今はそう思う」
 天下はそう結び、静かに話していた口を閉じて、あとは何かを反芻するように悠々とワインを味わっていた。彼女の言ったことは、灰間があまり想像していなかった答えだった。
 灰間はうろたえた。気恥ずかしさと気まずさを同時に覚える。なんといえばいいのかよくわからない。ひとりの人間の叶えたいものに関わるとは思っていなかった。――しかし素直に喜べないのは先ほどの意見の相違のせいだ。なんとなく腑に落ちないものがまだあって、それがわだかまりになっている。
 それでも二人は、ホテルの同じ部屋に戻った。
 翌日は新幹線に乗って帰る予定だった。しかし帰ったら帰ったで大学でやることがあるし、今回発表した研究の論文も、何度も推敲を重ねなくてはならない。本当に時間が足りなかった。
 天下がネックレスを外してピルケースにしまっている。その華奢な後ろ姿を見ながら灰間はゆっくりと部屋の照明を絞り、ベッドサイドのライトを点けて枕に顔をうずめる。こんな行き違いがあってもなんとかなるだろうと灰間は信じていた。何かにつまづいても何度だって立ち上がってきたのだから、きっとどうにかなる。



 音のない朝だった。灰間は身を起こし、カーテンのほうを見る。――青いカーテンは光を含んでぼうっとその色を放っていた。ホテルの部屋が窓から青く染まっている。
 隣にいつもの姿がない。
 向かいにあるリビングへの扉は閉まっている。灰間はベッドからそっと下り、ベッドルームに隣接しているバスルームへと向かった。そこにも誰もいない。下着もつけていない体は軽かった。鏡を見る。見慣れた自分の体がそこにあった。二十歳になっても冗談のように大きな薄紫の目、右だけ癖のついた左右非対称のセミロングヘアと、ピアスホールが対称に開いた両耳。ひげが目立たない体質なのも相まって本当に少女のようである。入れ墨のようにケロイドの広がる左肩をそっとなぞり、そして指を止める。
 首をそらしたときに白いものが目に入った。
 医療用の止血保護パッドだ。息を詰めてそれを剥がした。場所は外頸静脈。剥がしきる。宙に浮いた保護パッドが背景の壁紙と同化した。剥がれた下の肌には、ぽつん、と、赤く小さな痕があった。
 このホテルは音もないが、匂いもない。
 のろのろと手をおろし、ゆうべ棚に置きっぱなしにしていたシャツを被り、灰間はバスルームから出た。ベッドルームへ戻ろうとして、振り向いたところで足が止まった。
 天下がベッドサイドに立っていた。
 その手にあるものが空になった注射器であることを灰間は見逃さなかった。生まれたままの姿を恥じらいもせず、天下はこちらを振り返る。部屋はまだ青く、ここだけ別世界のようだった。
「とくべつってこういう意味ですか」
 かすれた高い声は灰間のものだった。
「言ったでしょう。軽々しく気まぐれを起こすなって」
 天下は否定も肯定もしない。
 何か答えればいいものを、天下はずっとずっと黙っている。うろたえる様子も見せない。言葉を忘れてしまったのだろうか。たまにたどたどしいさまを見せるあれは、あれはポーズなどではなく、やはり彼女の本当の姿なのかもしれなかった。そういえばどこかで今によく似たことがあったような気がして灰間は記憶を掘り起こす。ホテル。鏡、白い壁。そうか、出会ったときの。
 今の灰間は水など持っていない。
 息を吸う。何か言ってやろうとして、しかし、灰間は何も言えなかった。ひきつったように呼気を吐く。言葉をなくしてしまったのはこちらなのかもしれない。うまく息も吸えない。出会った頃ぺらぺらとしりとりなどしていたのが夢物語のようだ。
 ほつれた天下の髪をより分けるように見つめ、そして、灰間は視線を床に投げる。狂いひとつない豪奢な織物がそこにあったが、今は何の興味も感慨もない。灰間は廊下に立てかけていたスーツケースと着替えを引き寄せる。
 部屋のドアが閉まった。息を整えてから、灰間は廊下を歩き始める。天下が灰間を追いかけてくることはなかった。