Blue Eden マグネシウムリボン 04




閲覧の際は以下の点にご注意ください。
▼流血、自傷行為、暴力的な表現
▼薬物乱用 




9.
 茫然自失の灰間はいまは新幹線の切符を払い戻し、家には一度も帰らずに衝動的に船に乗った。どこかに消えてしまいたかった。気づかれてしまえば自由がなくなる。どこにも逃げられないことは覚悟していても、自由でなくなる前にせめて、祖父や友人たちの顔を見ておきたかった。彼らならばあるいはこの状況を打破する何かを考えてくれるかもしれない。一縷の望みをかけて灰間は船室に籠もり続ける。何日過ぎてもひげも爪も伸びないことには無視をした。
 船はよく揺れた。
 見知った港に着くはずだった。しかし、長い眠りからふと目覚めたときには雰囲気ががらりと変わっていた。――いつの間に船を乗り換えたのだろうか。いや、こんこんと眠っていたのだからそんなことはできない。船室の内装も乗ったときと変わっていない。――乗組員と目があう。見かける客たちは日本から一緒に出発した者たちではないようだった。日本でも米国でも会ったことのないような人々だ。灰間の脳の鐘がうるさく鳴っている。
 一ヶ月ほどかかっただろうか。
 船はやがて小さな港に着いた。小さいが、鳥のよく飛ぶ、魚も捕れる、賑わいのある豊かな港のようだった。下ろされた灰間は落ち着きなくあたりを見回す。街のほうに時計塔が見える――知らない場所だ。
 内容は聞き取れるのに人々の使う言語がわからない。国の見当も付けられない。灰間は何度も耳を叩き、コンタクトレンズのない目を細めて景色を確かめた。何もかもなじみがなかった。おかしい。どこだ、ここは。
 街の方向を見たまま、ぼうっと立ち尽くす灰間を、人々が押し流していく。ずっとうろうろしていては怪しまれてしまう。灰間は人の目を懼れ、建物の影に隠れるように街を歩いた。円形の広場の中央に建っている時計塔、そこは活気に溢れ、周辺は建設途中の家々でいっぱいだった。空想の街、と道行く人が言うのを聞き留め、灰間はそれを頭で繰り返した。空想。誰の空想なのだろう。この街は一体なんなのだろう。
 路地に板を打ち付けて作ったようなドアを見つけ、灰間はいちかばちかそこへ滑り込む。中は埃で真っ暗だった。
 船旅の最中、眠る前、過失で何度も怪我をした。よく揺れる船の中、注意力が散漫になっていたのだ。膝にも脛にも打撲ができた。ぶつけたせいで肩を切ったりもした。その怪我はあっという間に治った。気のせいだと何度も口に出して言った。若いのだから怪我が早く治るのは当然だ、と、何度も自分に言い聞かせて、無駄に動くのはやめて眠ってしまおうと思った。必死で見て見ぬふりをして、ここまでやってきて、しかし、もう無視はできなかった。体には切り傷も打撲もない。痕すらない。そもそもこの一ヶ月、何も食べていなかった。水すら飲んでいなかった。
 灰間は屋敷から飛び出した。
 帰ろう、帰ってしまおう、何でもいい、帰った先で何があろうともういいからとにかく帰らなくてはおかしくなりそうだ。とにかく何かひとつでも見知ったものに戻さなければ。元に戻らなければ。飛び乗った船は街の港に戻った。もう一度行き先を確かめて乗った。船でふっと意識を途切れさせたその次の瞬間、何故か街に戻る船の中にいた。もう一度乗る。一度顔を動かした途端、船はまた街の港に戻っていく。携帯電話を確認するが、どこからか水かごみが入ったそれは沈黙しているばかりだった。また港にとって返し、今度は違う船に乗る。まばたきをしたその刹那、船は街の港に入っていく。もう一度乗る。しつこく行き先を確かめて乗る。船は街の港に戻っていく。
 桟橋の上で膝をつく。波が砕ける。
 帰れない。





10.
 灰間は先程見つけた屋敷に戻り、玄関付近にうずくまって屋敷の持ち主をしばらく待った。かなり長い間埃にまみれていたのだが屋敷の扉を叩く者はいなかった。何日待ったか忘れてしまいそうになったので、スーツケースに入れていた筆記具をひっぱりだして記録を始める。
 誰も来なかった。一ヶ月が経ち、二ヶ月が経ち、三ヶ月が経とうとしていた。
 ここは一体どんな人間が何のために残していったのだろう。様子を見るに、骨董品好きの蒐集家かもしれなかったし、科学者かもしれなかった。アンティーク調なのにやたらと実験設備が整っているのが気になった。電子機器を見つけて、暗記していた電話番号をいくつか押してみる。肌身離さず持ち歩いていた自分の端末はもう故障している。しかし期待は裏切られた。屋敷の受話器が吐いたものは長い沈黙だった。
 しかし何度見ても造りがおかしい。四次元空間のようだ。路地の隙間を無理やり家にしたような外観だったが、内部は異様に広い。左側にあるドアは真っ暗な寝室に繋がっている。そちらには星の軌道を模したオブジェが転がっていた。右側にはキッチン、バスルーム、トイレ、地下室への階段。地下は土や岩の剥き出しになった広い部屋が続いており、そこにはワインセラーや冷蔵のための機械があった。階段を上がって戻ってきて、そこでバスルーム反対側にもうひとつ、行ける部屋があることに気づく。おそるおそる戸を開けるとそこは巨大な洗濯槽になっていた。一部屋が丸々洗濯槽になっている。外側にあるスイッチを押すと撹拌が始まる――また押すと余韻を残して止まる。注水も排水もできる。――灰間は唖然として撹拌翼を見下ろした。なんだ、これは。一体何のための施設なのか。屋敷に入ってすぐ暖炉と大きなベッドがある。天井からはオーナメントやランプが鈴なりになってぶら下がっている。脇に積み上げられて石筍のようになった埃だらけの本、乾燥させた植物の入った瓶。奥を探して進む。進行方向は真っ暗だった。天井にステンドグラスになった鉱物の窓があり、そこから虹のような光が降り注ぐ。その光のあたるところだけ別世界である。ソファがある。机も椅子もある。やたらと装飾の美しいラジオもある。昆虫標本や絵画、動物の角や骨格標本、それから粉や液体の入った薬品棚。広い黒板。廊下のどまんなかに布を被ったものがあり、引いてみるとシーシャが出てきた。走って外に出て、路地を回り込んで家を反対側から見てみても、そこにあるのは普通の家々なのだった。それなのに屋敷の中に戻ると外観にはそぐわない風景が広がる。上から差し込む日の光が沈み、また昇り、沈み、それを数回繰り返しても屋敷には果てがなかった。何度確かめても奥にはたどり着けない。先が見えなかった。どこまでも続く暗闇がぽっかりと灰間の前にあるだけだ。
 金切り声を上げて身を翻し、骨董品の山に頭から突っ込んだ。
 限りがない。果てがない。終わりがやってこない。何日間も屋敷の探索をしていても腹が減らない。眠くならない。汚い場所へ突っ込んでいっても体に異常が起きない。灰間はけいれんを起こす体をむりやり動かし、屋敷にある机にしがみついて、実験の準備を整えた。自分の血と細胞を見るためだ。
 自分の体から採取した細胞は奇妙な動きを繰り返していた。壊死も自発死も起きない。傷つければ傷はついた。しかしたちまち「元の状態に戻る」。増えるわけでもなく、ただ、存在し続けている。変化がない。
 夢ならばどんなにいいだろう。
 そうだ。これは夢なのだ。夢ならば、夢の中で一回寝てしまえばおかしいと思って脳も起きるはずだ。灰間は眠くもないのにむりやり目を閉じて、意識を失うようにして眠り、そうして気分を切り替えてまた細胞を観察し直す。途中で何度も腕をかきむしる。何度も何度も口の中を噛み、次第にひきつけを起こしたように片足を踏む。プレートの上の細胞は無事だった。何をしようがちっとも変わらないのだった。
 机に両腕を叩きつけ、返す刀で反対側の薬品棚をかき回す。ラベルの確認などしていられなかった。投げつけるようにして顕微鏡に薬をぶちまける。もうもうと粉が舞い上がり、足下に液体が広がった。荒い息でそれらを吸い込んだ灰間はしばらく咳をしていたが、治まるのを待たずにまた顕微鏡を覗き込む。プレートの上の細胞は無事だ。
 机の上をなぎ払った。
 天井からの光が煙を照らす。無残な姿になった顕微鏡がやたらのどかに映った。
 肩で息をしていた灰間は体中が痛いことに気がついた。かなり痛い。こんなに暴れたのだからそれはそうだろう。――腕から血がしたたっている。それを見た灰間は口からもれる笑いを抑えられなかった。ここまで怪我をしたのだから大丈夫だ。こんなに怪我ができるということはきっと大丈夫なのだ。まだ正常だ。まだ生きている。普通の人間なのだ。
 ふと意識が浮上する。いつの間にか意識を失っていたらしい。三日も経っていないようだ――腕はなんともなかった。嘘だったかのように綺麗で、痛みは消えていた。ただ、埃にまみれたせいで足が真っ白になっている。――ああ、嘘だったのか、すべて悪い冗談だったのか。注射器を薬瓶の中につっこみ、液体を吸い上げ、そして何度も腕に刺した。人体実験の手間がはぶける、と思って、自分の体に何でもやってみた。片っ端から口に含んでみたりもした。戻る前に矢継ぎ早に体を痛めつければあるいは、と思ったが、苦しさと痛みが続くだけだった。
 息が吸えない。頭が痛い。視界がぐんにゃり曲がってうまく歩けない。熱をもった体に鞭を打って立ち上がり、しかしどこにも行けず、よたよたと壁にもたれかかり、荒い息を肩でついて、そして何度も壁に頭を打ち付ける。狂ったように。狂ったように。狂ったように。狂えない。狂いきることができない。――悲鳴のような笑い声が骨董品を揺らして屋敷を駆け巡る。肩が棚にぶつかった。運の悪いことに、その棚は屋敷で見つけた中で一番のおんぼろだった。灰間のいるところへ倒れてきたその巨体を、うっかり両腕で支えてしまった灰間は一転黙り込んで棚を見上げる。ガラス戸が灰間を見つめ返してくる。このままでは下敷きになってしまう。そんなことになったらおおごとだ。相当痛いだろう。いや、痛みを感じる前に死んでしまう。
 死んでしまう。
 灰間は、おそるおそる、手を外した。最後に聞こえたものは何かがつぶれる音だった。
 意識は数日後に戻った。体の上にガラス戸の砕けた棚が倒れており、あまりの息苦しさでどうにかなってしまいそうだった。棚の下から這い出て、そしてわずかな血痕を見つける。灰間はそれを確かめ、自分の目を抉った。
 脳があるからいけない。壊し続ければ認識もできないはずだ。すべる手のひらでナイフを握りしめ、うつぶせになって自重で口の中から上顎へ刃を突き刺す。まだ意識は飛ばなかった。激痛にのたうち回ってバスルームのほうへ逃げる。バスルームへ行こうとしたのは、こんなにさわぎを起こして痛みで叫んで外に聞かれてはいけないからだ。街にいるのはきっと普通の、そう、普通のいきものたちだろう。生きて生きて死んでいく、善良で立派でありふれた命だろう。関わってはいけないのだ。灰間はもう、彼らの仲間に戻れない。
 ノブが回らなかった。――はやくしないとしんでしまう。はやく、はやく、はやく、ああどうか神様、――何度も壁に赤い手形を残し、もうすぐ焼き切れそうな意識で灰間は反対側へ倒れ込む。手にスイッチが触れる。撹拌翼が空を切り、風をぶつけてくる音が聞こえる。灰間はそちらへ何も見えない顔を上げた。音が聞こえる。かたい翼が回転する音が聞こえる。音が迫る。
 足を踏み出す。



 靴が転がっている。
 そのそばにネームプレートが落ちていた。――あれは、――あれは学会のときにつけてくるようにとのお達しのあったものだ。プラスチックのバッジ――傷だらけだ。金属の部分はひしゃげて使い物にならない。――これを見ているのは誰だろう? この意識は一体誰のものだ?
 灰間生なら先ほど粉々に消し飛んだはずだ。
 起き上がろうとする。そこですべってしたたかに腰を打ち付けた。上半身だけを腕で支え、目の前を見て、そして声を失う。
 扉の開いたままの洗濯槽は惨憺たる有様だった。一度気づいてしまえば再びそこへ飛び込む勇気は出なかった。灰間はそこで気づく。まだ生きている自分の意識に気がつく。声を上げる。それはほとんど嬌声だった。絹を裂くような悲鳴だった。全身が小刻みに振動する。体と頭がからっぽになることを祈ってずっと叫んだ。声はいつしか嗄れ、健康そのものの喉からは情けなく息が漏れるだけになった。その息がどんどん啜り泣きに変わる。最後には涙も声も出さず、灰間は血の海に体を丸めてうずくまって震えていた。
 もうたくさんだった。



 もう二度と目覚めなくてもいいのに意識はまた戻ってくる。目が覚めるたび、思い出したときにずっと記録を続けていた。持ってきたノートでは足りずに屋敷にあった帳面にまで書いていたが、目が覚めない朝がなかった。何度も何度もそんな日が続いた。
 足下に鼠か何かいるようだった。うっすらと舞い上がった埃で、世界は楽園のように光り輝き、あたたかくにじんでいた。閉じることを忘れた目が乾いている。
 ――命いじり。状態の固定。灰間の体は、命は、投薬されたあの日の朝に何度でも戻っていく。二十歳を迎えたばかりの健康な体のままだ。そこから進まず、それ以上前に戻ることもない。
 もっとよく資料を読んでおくのだった。こんなことになるのならいっそ、あの誘いにのって内情を探ればよかった。味方のふりをして告発してしまえばよかった。友人たちや祖父にもっと早くに相談するべきだった。
 ひとりぼっちだ。
 あんなに強く命の流れを感じていたのに、もうそこから遠い。たくさんの命が姿を変え、バトンタッチをして生きる、あの流れから追い出されてしまった。お前は異質だ、と、誰かにずっと指をさされているようで落ち着かない。
 そんなに悪い人間だったろうか。こんな地獄の責め苦を味わわされる、それほどまでに悪いことをいつしただろう。地獄のほうがもう少し慈悲深いかもしれない。こんな生殺しがあるものか。
 元に戻す方法を何度も考えようとした。皮肉にもいくらでも時間はあるのだ。とことん探せばいい。その灰間の努力を、灰間の命は裏切り続けた。一度変容した遺伝子はどうやっても元に戻らない。「命いじりを施された命」であることが灰間の普通、自然な状態になってしまった。命いじりは状態の固定である。「命いじりを施された命」に固定されてしまったら、そこへ戻っていくしかない。
 これであればどんな研究の終わりも見届けられるだろう。知らないことを知り尽くすことができるだろう。何年も掛けて新しい発明だってできるのだ。年齢が足りないからといってどこかから追い出されることもない。どこに行っても特別扱いだ。子どもの頃に駄々を捏ねていた、あの悩みのほとんどがこんなかたちで叶えられたことを認めたくなかった。
 こんなものがほしかったのではなかった。
 ――私の命を返してくれ。私の死を返してくれ。
 心の中の灰間はずっと開かないドアを叩いている。
 今まで誰の死も願ったことはなかった。しかし今、他でもない自分自身の死を心底から願っていた。限りある人生だからあんなにたくさんのものを得たのだ。死というルールがあって初めて灰間の人生は楽しいものとして存在できたのだった。
 何もかも台無しだ。
 灰間は目を閉じる。自分を騙し、つかの間眠り、今を忘れる。果ての見えない闇の中に小さな光がまたたいている。それを追いかけて走る。走る。届かない。突如現れたドアを叩く。ドアは開かない。小さな白い光を見失わぬよう、灰間はずっとそれを目で追った。





12.
 街に来てから三百年に届こうかという年月が経過していた。気まぐれに付けていた観察日記の量でわかる。最近のものは読み取れないほど乱雑な数字だけになっている――意識をずっととばしていられたら一番いいのだがそういうわけにもいかない。体と同じように心も健康なのだった。狂いきることはどうしてもできない。屋敷に一人きりでいるのにも耐えられなくなった頃、生きている他の誰かと関わるわけにもいかず、幽鬼のように街の暗がりを灰間はさまよった。
 暑いのか寒いのかもわからない日々だった。天気も気温も気にするだけの価値がなくなり、灰間は暦と時間を忘れた。だから何を求めていたのかもわからない。夜だったことだけはわかる。闇に彫られた炎のように眩しい方向へ、灰間はふらふらと引き寄せられるように進んでいた。通行人の気配を感じたが、灰間に注目する者は誰もいなかった。――板に手が触れる。忘れ物をした子どものように灰間は立ちすくむ。
 そこはどうやらサーカスのようだった。埃がついて固まっている前髪の隙間から炎の正体が見える。舞台に立つ者たちと、それに群がる客たちだ。
 灰間はしばらく存在しない影のように突っ立っていた。
 頭を動かしてうつむく。足下に踊る影と光は本当に炎のようだった。ぼろ靴のつま先に黒い土がかかっている――そこからノイズのように世界に溶け込むことを夢想する。――すぐ脇を誰かが走り抜けていってその想像は立ち消えた。
 観客席を走っているのは派手な翼の女たちだった。姉妹なのだろうか。よく似た顔立ちをしている。ころころとよく笑い、菓子を腕いっぱいに抱えて舞台へ戻ろうとする彼女たちを見送り、今度は自分が先ほど入ってきた方向を向く。立て付けの悪い、板を合わせた壁にチラシが挟まっている。人の出入りで起きた風に煽られるそれの立てる音が、離れた場所にいる灰間には聞こえるはずもないのにずっとばたばたと騒がしい気がして、なんとも言い表せない凪いだ気持ちで灰間はそれを見ていた。
 わっと背後から歓声が上がる。
 そちらを見上げた瞬間、上手から下手へふたつの宝石が移動した。宝石は瞳だった。猫そっくりの耳と尾のある者が着飾ってブランコから下がっていた。反対側にいた女性が彼を受け取め、彼はなまめかしくもすがすがしい視線を寄越してくるりと体を起こす。尾羽に輝く粉を葺いた二人組が飛び回るたびに視界がちかちか瞬いた。キャストがお気に入りなのか、それとも演目自体が好きなのか、拳を突き上げて興奮している客が遠くにいる。舞台近くには椅子が並んでいる――その近くで柱に寄りかかって立っている男性客がいる。彼は今にも眠りそうなのだった。反対側へ顔を向ける。飲み物と軽食を抱えた売り子が二人、小さな風を起こして頭上を飛んでいった。小柄な彼女たちにも小ぶりな翼があった――そのふもとにも一人、翼の生えた少女を見つける。
 まだほんの子どもに見えた。白い額が闇から浮き出たようだった。どこを見ているのか判然としない、一種の夢心地ともとれる無表情で、紙切れをめくっては薄汚れた服の懐にしまいこむ。あれは紙幣か。少女は灰間には気づかず、翼をふるわすこともなく、その後しばらく舞台の方向をじっと見据えていた。思うところがあるのかそれとも何も考えていないのか、結ばれた唇をその小さな指がそっとなぞる。後ろで結い上げられた黒髪がわずかに揺れた。また歓声が上がった。灰間はまだ、舞台ではなく少女を見ていた。不意に少女の視線が揺れて灰間を捉える。彼女の黒い瞳の下部で炎がちろちろと手を振っている。
 ――生きている。
 急に耳を塞がれるほどの熱気を感じた。いつぞやの火傷がもう一度甦ったようだった。騒ぐ客の声がすぐ耳元に聞こえて慌てて首を振る。舞台では先ほどの者たちによるパフォーマンスが最高潮を迎えており、キャストたちの笑顔が弾丸のように飛び回り、そして胸に突き刺さる。――彼らは夢の世界の住人だった。ありえないものだと思ってずっと憧れてきたものだ――息を塊で吐いてみぞおちのあたりを抱えても隣の客は目を覚まさない。寝息が聞こえる。入り口で受付が金勘定をするのが聞こえる。熱の移った硬貨。口が開いた。ふちは赤くよく動き、ざらざらとものをこぼしながら息を吹く。たたらを踏み、体を片手で抱きすくめ、灰間はもう片方の手で顔の右半分を覆う。つっと左へ動かす。鼻が邪魔だ、どこかでそう感じた。気まぐれに撫でられた頬はやたらさらさらしていて唇がじんとしている。客が飛び跳ねる。光に埋もれるキャストたちが手を振っている。建物ごとサーカスは唸った。灰間の体が揺れた。
 ――心臓だ。ここにあるのは生まれてきていつか死んでいく命だ。
 拍動に押し出されるようにして灰間は会場から転がり出た。誰にも咎められることはなかった。人混みを抜け、夜中の街を屋敷へと小走りで抜ける。一寸先は藍色だった。道はやけに長く、そしてよく冷えて固く感じた。靴の立てるこつこつという音が何かの象徴のようで、灰間の歩調は何度もぶれた。速めるも遅くするも自分次第だということから逃げ出したくてしかたがない。どんどん急き込む――不規則に緩む。どこをどう帰ってきたのか、途中でものがよく見えなくなって目を拭った。指が濡れる。汚れのせいでタールのように黒く水が流れる。
 気がついたときには何故か屋敷ではなく、屋敷にあともう少しというところの路地に座り込んでいた。頭上に星が見える。人が出歩く時刻ではないらしく、影は建物と自分のものしかなかった。
 引き潮になった灰間の意識にぽっかりと浮かんだものは、私は今生きている、という、当然のことなのにずっと実感を失っていた事実だった。
 あの中にいてはいけない気がした。しかし、その気持ちは、この街に流れ着いてから慢性的に抱いていた無味のものではなく、もっと指で抉られたような生々しさがあった。――自分のことが恥ずかしかったのだ。確かに我が身に起きてしまったことはもう一生覆せない。元に戻る手立てはないし、違和感は正直なところまだある。この苦しみに慣れることは永遠にないのだろう。克服などできるはずがない。それでも――もう、積極的に死を探すつもりにはなれない。つい昨日、いや今朝まで繰り返していた自暴自棄な生活には戻れない。花火よりももっと刹那的にいなくなる人々の輝きを目の当たりにし、灰間は様々なことを思い返していた。
 ぱっと花が咲く。舞台の上で笑顔が駆ける。祖父と共に飲んだホットチョコの香りがする。また咲いた。友人たちと行ったキャンプの火。調子はずれな歌声。細い手が伸びてくる。自分よりもいくぶん薄く褪せた色の茶髪が白に散る。扉の音がして、今度は金の粉が空から降ってくる。暗がりの少女の瞳がこちらを見つめている。頭の中の明滅。燃えているのはマグネシウムリボン。
 ――私はまだ生きている。たぶん、まだ、人間だ。生きよう。生きるほかあるまい。いつまでこうしていればいいかはわからない、でも、今さっき生まれたつもりになって、せめて、もともとの寿命ぶんは生きてみよう。
 その日は結局、静かな屋敷に帰る気になれず、路地で夜を明かした。眠れない灰間の耳の奥には潮騒のようにサーカスの歓声が響いていた。





13.
 いきなり普通の人らしく、とはいかず、「もう一度生まれた気になって生きる」というのは中々骨が折れた。必要がないので意識しないと寝食を忘れてしまうし、時計や暦に関してはほとんど感覚を取り戻せず、目が覚めては外の景色を確認する日々が続いた。
 屋敷のバスタブに湯を張って、風呂ができあがるのを待ちながら掃除するあいだ、灰間は夢から覚めたような気分でいた。何事もなかったかのように風呂など入ろうとしていることがおかしくて、笑いそうになるたびにまた自暴自棄へと戻ってしまいそうな自分を苦労して引っ張る。
 食事や睡眠でリズムをとるのも必要だが、身なりを整えることも重要である。このあたりの住人として少しは違和感のない姿になりたかった。向こうから着てきた服や、スーツケースに入っていた服はもう、時間に耐えきれずに劣化していた。諦めてスーツケースごと封印する。屋敷にあったものを組み合わせて身に纏い、髪を染めてみたところ、すっかりファンタジーの住人になってしまったが、それが灰間の心を少しだけ力づけた。届かないと思っていたものにわずかでも触れられた気がした。
 一度だけサーカスを訪ねに戻ってみたのだが、彼らは影も形も残さず消えていた。まるで夢中夢のようだ。サーカスなのだから、恐らく旅の集団だったのだろう。あのとき金も払わず入ってしまったことを、灰間は悔いていた。何という名前だったのかもわからない。いつか見かけることがあったら声援を送りたい、というより、彼らが無事で生きている姿がまた見たい。――客席の暗がりに立っていた少女はどうしているだろうか。
 目を離した隙に起こることを考えると、灰間は今も泥の中を泳いでいる気分になる。
 街に生きる者たちは灰間とは無関係だ。屋敷に籠もっていても伝わってくる彼らの生き様、街の文化は興味深かったのだが、波風を立てないようにと灰間は静かに生きた。朝の市場で食糧を買い付けたり、落とし物を役所に届けたり、時には迷子を港へ送ったこともあったが、あとはひっそりしていた。
 そのまま穏やかな人生が過ぎると思っていたがそうはいかなかった。あのまばゆい夜から十五年ほど経ったある朝、騒音で目を覚ました灰間は、家の前の広場で盛大に倒れている単車を見つけてしまったのだ。
 灰間の気にしたことは被害ではなかった。単車の、――よく見ると単車ではない。自転車と単車をまぜたような、単車になり損なったようなものだ。不格好で、角張った巨大な蟻のような形をしている。細かいところを見るに恐ろしいことに手作りらしい――つぎはぎになっているボディに堂々と書かれていた「日本製」の文字だった。
 灰間のよく知っている字と言葉だ。
 謝りながら近づいてきた単車の主は、まだほんの子どもだった。押して歩いていて重さに耐えきれず転んだらしい。ひょろっと長い手足に、バイク乗りには相応しくないたっぷりした布、爆発でも起こしたような深い藍の髪。荒削りの大地のにおいを漂わせる青年は聡かった。
「お前、それ読めるんだ。もしかして俺と同郷?」
 その問いかけについ反応してしまった灰間に、青年はララと名乗り、灰間が日本の状況を知っている前提で話を進めてきた。
 ――黙って聞いたところをつなぎ合わせ、灰間は血が冷えていくのを感じていた。
 あの地の人間たちはコロニーを形成し、その内部に引きこもり、近いうちに地上を捨ててどこかへ移住する算段を立てているのだという。コロニー内ではデータ変換手術というものが当たり前のものとなり、皆、心と体と記憶のうちいずれかを必ずデータにして存在している。不老不死ではないが、不老不死に近い者として人類は新しいスタートを切ったらしい。
 広まったのは命いじりではなかったのだ。おそらく灰間が行方をくらましたせいであちらはお蔵入りしたのだろう。
 ララの話によると、「日本製」の隣にあった「Blue Eden」というのは社名だった。データ化推進や移住計画の中心を担う、約三百年の歴史のあるグループだという。外部にはそれ以上の情報はあまり入ってこないらしいが、ララは内部に嫌悪感を抱いているらしかった。彼らのやることなど到底受け入れられない、データ化も移住もいやだ、内部とは今後も一生無関係でいたい、ララはそう言い、この街で暮らす灰間のことを似た思想を持つ同世代の仲間だとみなしたようだった。
 ララはメカニックらしい好奇心旺盛さと普通の子どもらしいふてぶてしさを併せ持つ青年だった。コロニー外部の人間は、内部から投棄されるガラクタを組み合わせて小屋にしたり生活用品に作り替えて暮らしているという。わずかな穀物と、ねずみやとかげなどの食糧を数名で分け合い、ときには近くの他の集落を訪ねて、支え合って生きている。季節をひとつ越すのも命がけだと言うのだが、そんな中でもものを作ったり修理したりするのが生きがいだとララは得意げに語った。
「死ぬ場所も生きる場所も自分で決めたいんだ。だから俺は内部の言いなりにはならない。自分の足でどこかへ行ってやる」
 長い手足を土埃と黒い油にまみれさせて意気込むララを、邪険に追い出すことはどうしてもできなかった。灰間は寝るところと最低限の食事を約束し、ララはその代わりとして情報提供を提案してきた。
 お互い干渉しないようにしよう、と先に言ったのはララのほうだった。
 ――俺のことは放っといていいから。あんまり構うなよ。
 ララの言い方は、思春期の子どもが親をつっぱねるそれとまったく同じだった。当然のようにそんな無邪気な振る舞いができることに目眩がしそうだったが、灰間は、好都合だと判断して彼の申し出を呑んだ。関わりすぎなければ愛着も湧かない。
 ララに対する灰間の態度はずっと曖昧である。向こうがどう思っているか知らないが灰間はそれを自覚している。無事に生きてほしいと思う。それはまじりけない本当の願いだ。しかし、早く出て行ってほしい、という気持ちもあるし、こんなことを願わなくとも近いうち二度とここには戻らないだろうという確信めいた気持ちもある。ララがこの街を出て行かなかったとしても結末なら決まっている。
 ララが訪ねてきてもこの屋敷の扉を開けなければいい話かもしれない。そうすれば、少なくとも彼のまぶしさで目が潰れそうになることは避けられる。別れの瞬間に立ち会わずに済む。だが、ララのような子どもが生まれてしまうのは自分の責任もあるのかもしれない、という思いが灰間にララを忘れさせない。彼は灰間の捨てた大地からやってくる。もう戻れない大地から飛び出してくる。そして、わだかまりがないからそこへ帰っていく。食べ物も風呂もない、あるのはガラクタばかりの大地へ戻っていく。母親が待っているんだと、仕方なく帰るというふりをしてわざわざ不機嫌そうに言う。
 罪悪感に似たものが灰間の心に澱のように溜まる。灰間は自分がどういう人間なのかという懺悔をすることもできず、ララはもちろん灰間のことなど何も知らないままで、二人はつかず離れずの奇妙な関係でいる。




14.
 それでもまだとりあえず、灰間は生きている。
 この街で祭でもあれば、ララが訪ねてくるだろう。生きるためによく食べる彼のために食糧を買っておかねばならない。消化によくて、それでも食べた気がするような、味の濃いものを。そういえばチョコレートが切らしてあった。あれは放っておくと砂糖をそのまま舐めてしまう。だから灰間がおやつを買っておくか作るかしなければいけない。ララはホットチョコがお気に入りだ。初めて与えたとき、こんな高級なものは飲んだことがない、と言って、飲みながら眠ってしまった。震える手でそのカップが落ちないように取り上げながら、灰間は置いてきたもののことを考える。帰れない港と海の向こう、もう二度と見ることの叶わない風景を思い出す。
 ララはここ二三年でどんどん成長していた。背も伸び、使う言葉もよく増え、機械修理の腕も上がった。彼の作るバイクもどんどん洗練されてきている。彼には時間が流れている。時折訝しげにするが、それでもまだ、ララは灰間を「同世代の仲間」と見做してくれている。灰間にはもう、時間などわからない。ララを見るたび心のどこかが少しずつ、少しずつ、削り取られていくような気分に陥る。
 しかし、――と、灰間はマグネシウムリボンを燃やしながらこうも考える――ララが大人になることを誰に止められるだろう。時間が止まっているものなど灰間だけでいいのだ。ララはきっと灰間の真実に気づくより先に夢を叶えるだろう。彼はどこにでも行ける。
 ララは思い出したようにときどき内部の人間への恨み節を語った。灰間のほうはというと、赦してもいないが恨んでもいないのだった。あの朝の天下てんげはいつかの灰間だ。灰間はもう、それに気づいている。そうならないように必死で自分をごまかし、あやし、今日も軽口を叩く。
 燃え続けるマグネシウムリボンに興味はない。強い光を見届けて、燃えかすを片付けるのが灰間の役目だ。網膜と脳裏に焼き付いた光をどうにかするのも灰間の仕事だ。
 忘れもしないあの第二の生誕の夜からかなり経つ。こんな日々を送っておいて、自分の人生の予言書などもう書けるはずもないのだが、もし、灰間もララのようにまだ自分の未来を選び取れるというのなら、あの夜に会った者たちに再会したかった。暗がりにぽつんと立っていた小鳥の少女に礼を言いたかった。
 ちりちりと惜しむように、焦れるように燃える心を抱いて灰間は今日も目を覚ます。もう来なければいいと何度も願った朝の中へ戻ってくる。彼はまだ、生きている。自分のことをまだ人間なのかどうか、ここは夢の中でないのかときおり、振り返るように疑いながらも街で生きている。










青の楽園「マグネシウムリボン」
190806~0823






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こちらは @humptyhumtpy さん主催のTwitter企画 #空想の街 の公式設定を使用しています。いつもお世話になっております。また、制作にあたり、 #オトトイ食堂 作者のはなまめさん(@gp_c_)にご協力をいただきました。このたびは本当にありがとうございました。