Blue Eden マグネシウムリボン 02




閲覧の際は以下の点にご注意ください。
▼ほのめかす程度の性愛描写




3.
 祖父・栄は父と同じく横に大柄で、父よりも深い目をしており、物静かで、よく陽気に微笑む男だった。腰を痛めてからほとんど隠居生活をしているという祖父の家の敷地内には彼が好みで作ったラボまであり、灰間はいまはさっそくそこへ飛びついたのだが、そんな孫を祖父は笑いながら制して車へ押し込んだ。
 学校自体は都会にある。が、灰間を乗せた祖父の車は郊外へ向かっていた。住宅地というには建物もまばら、外灯もほとんどなく、草原の広がるのどかな場所に、ぽつんと大きな家があった。少し離れた遠くに農場が見える。チョコレートフレークのような畑に季節の花が咲き乱れている。
「いい場所だろう。大きなリビング、キッチン、二階にはそれぞれの寝室。ベッドもちゃんとある。トイレとシャワールームはふたつずつ。掃除や料理のための家電もちゃんとある。庭付き、休日にはマシュマロも焼けるぞ。まるで映画のセットみたいだな。電話は一台だがパソコンは二台、大きいテレビもあるから相談して使いなさい」
 ときどき様子を見に来るから、と言って会話もそこそこに祖父は去ってしまう。家主の老夫婦と祖父は友人関係にあり、老夫婦はあとから挨拶に来るらしい。灰間はしばらく、ひまわりがたくさん揺れている農場のほうを見つめ、それから家に入った。入ってすぐ吹き抜けのリビングで、まだソファとテレビくらいしかないそこを灰間は夢見心地で見つめていた。
 ハウスシェアをする仲間は灰間を合わせて計四人。大人はおらず、いずれも灰間と同い年かひとつ上の少年少女だった。
 最初こそぎこちなかったが、日々を重ねればお互いに慣れてきてだんだん楽しくなってくる。他人の生き方にいちいち目くじらを立てるような者はいなかったし、家事は分担して皆でやればいいリフレッシュにもなった。自室で没頭していることはばらばらだが、一緒に朝食をとってバスに乗り、学校まで行く。それぞれ興味のあることを教え合ったり、ニュースを見ながら意見交換をしたり、休日にはキャンプをしたり、歌劇や音楽鑑賞に町まで出た。
 シェアメイトは爽快な風のようだった。
 セイ、と親しげに呼んでもらえることが、灰間は嬉しかった。経済学が好きというひとつ年上のサム、アニメや漫画から社会を見直したいというリンファ、X線に興味があるというノラ。サムは細かな計算は得意なわりに行動が雑で、スリッパや靴をよく脱ぎ散らかしている。お気に入りのロックバンドの歌を口ずさむのが癖だが、最近はもっぱらテレビゲームのほうが好きだ。架空の世界の通貨の仕組みが興味深いという。その彼の行動をじっと見ているのがリンファ、彼女は人間の動きや文化というものが面白くてたまらないらしい。視線は冷たいが何が起きてもびくともしないので、全員が頼りにしている。ノラは興味があるものはあっても専門にしたいというほどではないらしく、毎日のように違う分野の本をひいてはソファで大の字になっている。彼女は基本的にしたたかだが、少しだけ押しに弱く、優柔不断で、だからこそ心優しかった。サムの作る焦げたスクランブルエッグも、リンファの作る魚の煮物も、ノラが教えてくれるスコーンも、灰間は大好きだった。日本で両親から教わったハンバーグや、レタスの味噌汁、夜食のおにぎりを振る舞えば、仲間たちも目を輝かせてそれを食べてくれるのだった。
 学校も楽しい。幼児期にあんなに肩肘張って生きていたのが嘘のようだ。自分の疑問や意見は大事にしていい、堂々としていいのだとわかって灰間はすっかり落ち着いていた。学校ではシェアメイトとはあまり話さない。家と同じメンバーで固まっていてはもったいないからだった。皆自立心があって、よくわからないグループで対立することもないし、教師たちも子どもによくチャンスをくれる。おかげでめぼしい資格はおおかた取れたし、論文で発表したいと思うテーマも決まってきた。
 できることが増えれば、祖父が喜んでラボを貸してくれた。もちろん祖父の監視付ではあったが、昔よりはよほど自由だ。祖父は父親よりも更に大きな書斎を持っていて、そこはまるで図書館のような離れなのだった。本の読み過ぎでコンタクトレンズの世話になっていたが、そんなことは気にならなかった。灰間の人生はこれ以上ないほどに好調だった。



 ただ、十歳も過ぎると、もう自分の性質というものがよくわかってきて、灰間は次第に焦り始める。
 クラスメイトは家の仲間たちよりも更に多様だ。存在しないはずの飛行機のつくりを延々と図に起こしている者、楽譜なしで一日中ピアノを弾いている者。彼らはまっさらな大地から新しいものを生み出していた。それから、灰間と同じように科学の世界が好きで、新発見をする者たち。テレビや新聞でも、灰間と同い年くらいの子どもが何かを発見、発明したというニュースをよく見かけるようになった。
 灰間のやっていることはもう既に発見されたものの確認だ。無論とても大事なことだが、オリジナリティなどかけらもない。
 幼児期に好きだった「らくがき」も自分で考え出した内容ではない。論文で読んだものを暗記してしまったので書き出していただけだ。発表したい研究テーマもきっかけは他人の論文だった。灰間はそこから着想を得て、もっと発展させられないか、応用できないか、安定させるにはどうするかを出そうとしている。もしかすると、こんな自分には才能がないのではないか、と、灰間はどんどん疑いだしていた。
 別に才能がないならないでいい。やりたいことをやれるだけの才能があればいい、それ以上のものはいらない。ちやほやされることが目的ではないし、優劣もどうでもいい。両親や祖父とは違って出世がどうとか社会貢献がというのにも興味が持てない。ただ自分のやりたいことができるならそれで十分だ。しかし、灰間は、自分に欠けているものにひどく惹かれた。問題なのは自分自身の厳しい目だった。両親から送られてくるファンタジー小説や詩集を、灰間は空き時間に読むようにしていたが、あれを書いた者たちは一体どういう人生を送ってきたのだろう。存在しない動物たちやありえない魔法、それはとても自由で、楽しいことのように思えた。喉から手が出るほど味わってみたい感覚だが灰間にはそれがどうしてもできない。幻想物語など書けるわけがないし、紙には虫や植物のスケッチばかりしてしまうし、作曲も作詞もできない。書く化学反応式は変わりばえがない。
 何か新しいものを生み出したい。ありえないものを見つけたい。この宇宙が、星が、どう動いているのか誰より先に全部知りたい。どんどん増えていく知らないことを、いつか何もかも知り尽くしたい。そしてすべての終わりまで見届けたい。
 持ち前の探究心を味方につけて膨れ上がった欲に牙を剥かれ、灰間は途方に暮れた。まさかこんな悩みが生まれようとは予想もしていなかった。
 友人たちには打ち明けることが憚られる。全員が真面目に聞いてくれるだろうことは想像に難くないのだが、彼らは灰間のライバルでもあるので、どうにもうまく言い出せない。彼らも同じようなことに悩むことはあるのだろうか。淡泊な彼らならば嫉妬心すらも呑み込んでいそうで、それを考えると灰間は気恥ずかしかった。
 農場にいる少女は、灰間の悩みを聞いてほんの少し眉をひそめただけだった。彼女は時折本を借りに来てくれるが、体が弱く、学校にも満足に行けていない。農場の手伝いもそんなにできていないという。
「科学、楽しい?」
 彼女の問いに灰間は即答できなかった。なんとなく、幼児期にらくがきをしていて声をかけられたときのことを思い出す。
「よくわからなくなってきました。正しいことじゃないのかもしれない。そもそも何かに手を加えてそれを観察したいだなんてことがおかしいのかも。傲慢ってやつです」
 そういえば昔、観察をしていて、それの正当性を教師に問われたことがあった。今の灰間は庭の草木を無断で引っこ抜いたりはしないし、むやみに虫を殺生することもないが、それでもやっていることに変わりはない。有機化学とは、科学とは、学問とはなんなのだろう。
「セイは不思議なことを考えるね。あたしは生きていられたらそれでいい。才能も夢も要らない。やりたいことがやれなくても、受け入れる。穏やかで平和な毎日がこうやって続いていけばいい。生きていくことが大事なんだから」
 ふたつ年上の彼女にそう言い切られ、灰間はしばらく無言でいた。彼女の言うことはもっともだった。生きていくことが大事、その通りだ。わかってはいる。へたに心なんかあるから拗れてしまうのだ。それなのに、どうして灰間は彼女のようには思えないのだろう。どうして自分が生まれてしまったのか、何故心があるのか、生きるということが何なのかすらもわからなくなりそうだった。



 悩み事を抱えたまま実験をしていたのがいけなかった。事故は気の緩んだ片付けの最中に起きた。祖父がトイレに立ったほんの一瞬、左半身に違和感を感じたときには時既に遅く、すぐに頭の中が熱だけで占められる。痛みを通り越して針か焼き鏝を当てられたようになっている体をかかえて灰間は備え付けのシャワールームに転がり込んだ。
 慣らしもせずに水をかぶる。やかましいのは水音ではなく自分の呻きと罵声で、あの悪癖は治っていないのだと、こんな状況になって思い知らされ、みじめさの中で灰間は気を失った。
 灰間の意識が落ちた先にあったものは、真っ暗な痛みと熱だった。暗闇に撥ねるマグネシウムリボンの燃焼、次の日にノラと行くはずだったダンス教室、書いても書いても終わらない化学反応式、シャワーの水栓を捻るあのときの瞬間と自分の発する罵りだった。
 久しぶりに目を開けたとき、灰間の目にまっさきに入ったのは、自分の手を握って祈っている祖父の姿だった。
 祖父は必死になって灰間に謝罪してくる。どう償えばいいのかわからない、と涙ながらに自責する祖父に、
「私の不注意ですからいいんです。もう気にしないでください。それよりあのあとどうなりましたか、観察途中のシャーレがあったでしょう」
 灰間は嗄れた声でそう言った。
 灰間の気にしていたことは祖父がラボを貸してくれなくなることだった。痛い目にあってもまったく怯まない灰間を見て、祖父はしばし絶句していた。祖父はどうやら、灰間がもう研究をやめると言い出すことを恐れていたらしい――灰間は純粋な祖父がいじらしい。そうなれるならば、そもそもこんなことにはならないのだ。
 傷自体はそこまで広範囲ではなく、左肩から胸に派手なケロイドを残したが、完治した。火傷の痕の疼きと共に灰間の得たものといえば、どうあっても自分は有機化学から離れられないのだ、という気づきだった。それは昂揚というより諦観に近いもので、たくさん旅をしていざ帰るというときになって、やっと自分の靴のブランドを知るような気の抜けた感覚だった。ずっと近くにあった答えをようやく拾い上げ、灰間はそれをしげしげ見つめる。結局自分のやりたいことというのは新しい発見かどうかなどという問題は二の次なのだ。なんらかの要因で化学式や薬品から離れても、それでもせめて「科学」の世界にはずっと触れていたい、それが正直な気持ちだった。
 退院した灰間を待っていたのは、退屈さを持て余したシェアメイトたちだった。控えめな退院祝いのパーティーで、片付け中に手元が狂うなんて何か悩んでいたのでは、と鋭い指摘をもらい、黙っていられなくなった灰間は素直に経緯を白状した。
「どうしても憧れてしまうんです、特別な人間に。独創性に富む新しいことなんか私にはできない。追いつかない。学んでも学んでもわからないことだらけです。自分のやっていることが正しいのかもわからない。そうこうするうち時間も私を置いていってしまう」
 論文も入院のせいで書きかけのまま止まっている。科学の世界から離れられない、そういう性分なのだというのはやっと自覚したが、どんな顔をして書き始めたらよいのか戸惑いが残っていた。気遣いを忘れないが容赦もしない、聡い友人たちに感謝しながら灰間は、どうにでもなれという気持ちで壁紙の花模様を見つめる。――誰も気にしていないが、またサムのスリッパが部屋の隅に飛んでいる。――あと一息、誰かが自分の背中を押してくれたらいいのに、と無責任なことを灰間は考える。
「学問ってなんだろうねえ」
 たっぷりした沈黙のあとで、疲れたようにノラが呟いた。灰間にはそれだけで彼女が自分と同じように悩んだことがあるのだとすぐにわかった。ノラはというと、灰間とは目を合わせず、ヘーゼルの瞳を憂鬱さに染めて頬杖をついている。彼女のためいきで机の上の紙が一瞬ふわりと浮いた。
「オリジナリティある新発見かあ。まじりけなく新しい発見なんてこの世にあるのかなあ。そんなもの存在できると思う?」
「世の中のものごとが先で私たちは常に後手なのだし、おそらくは無理でしょう」
 ノラの独り言のような問いに答えたのはリンファだった。
「発見というのは、もともとあったけれどよくわからなかったことを大勢にわかるように示すことだから。存在しないものは存在しないのだから見つけようがない。私たちは生きている人間なのだから、何をするにも限界がある。人間は個人の意識の外へ出ることはできないのだし、未来のものは見つけられない。なんだって既にこの世にあるものを見つけ直して改めて形にしているだけだよ。セイの追いかけようとしているものは幻想」
 彼女は小さな体で大きな本を抱えていたのだが、やがてそれをソファに置いてキッチンへ歩いていく。買い集めたキルティングのクッションが本の重みで変形している――そうか、自分の追っていたもの、これを幻想というのか。ありえないもの。芸術家やファンタジー作家の得意なもの。――まあしかし、リンファの言うことは正しい。偉人たちの発見や発明というのは元々この世にあったものの解明なのだ。
「セラヴィ、セラヴィ、メメントモリ」
 サムはというとさっきからずっと歌っている。ひとつのソファをまるまる占領して仰向けに寝転がる彼を、向かいのソファからノラが冷めた目で見つめていた。灰間が彼を見やると、彼は美しいブロンドの髪の合間から挑むように見つめ返してくる。
「バンドの新曲だよ。セラヴィ、セラヴィ、メメントモリ。これが人生、いつか死ぬのを忘れるな」
 サムはそこでソファの上に立ち上がり、隣にいた灰間の肩を掴んで揺さぶってくる。人数分の飲み物をもってきたらしいリンファが視界の隅で戸惑っているのに気づきながら、灰間は声も出せず揺られていた。
「セイ。時間に置いていかれるのもわからないものばかりなのも当たり前さ、生きてるんだから。人生は有限だし人間には限界があるんだ。僕たちはあっというまに年を取って死ぬ。悩むことも大事だけど、幕は下りるのを待っちゃくれない。死神と交渉なんかできない。やり直しなんてきかないんだ。――なあ、本当にやりたいことを見失うなよ。君の夢を叶えて君を幸せにするのは神様でも他人でもなく、君なんだ、どんなに他人に憧れたって嫉妬したって他人になれるはずがない、君は君のまま生きて死ぬしかない――好きなものを好きでいるのにためらっちゃだめだ」
 彼の瞳は真剣だった。うっすらとそばかすの浮いた白い頬が紅潮するのを見て、灰間は頷いた。
 そうだった。自分たちは生きているちっぽけな人間なのだった。この世に人として生まれたのだから灰間だっていつか死ぬ。それはこの間の事故だったかもしれないし、明日のことかもしれない。そうこうしている間に世界はどんどん広がって、また隠されたものが増えていくが、それは時間がしっかり動いている頼もしい証拠である。生きているせいで起こる不自由もあるが、それのおかげで自由もできる。余すことなく謳歌しなくては、人として生まれたのにもったいない。
 入院中に見つけたものを信じていいのかもしれない。化学、いや、科学から離れられない自分のことを、もっと安心して選び取って突き進む。具体的には書きかけの論文をしっかり完成させて学会へ持っていき、誌面にも載せられるように磨き上げる。まずはそこまでやってみなければ。
 人生の予言書を脳内でひっくり返し始めた灰間を、他の三人は面白そうに眺めていた。灰間はそれには気づかない。息をついたリンファがホットチョコを渡してくれるのを受け取り、そこでやっと灰間は三人に礼を言う。同じようにリンファからカップを受け取ったノラが笑った。
「悩みの内容や悩み方をおそろいにはできないけど、悩んでるっていう事実はきっとみんな同じだよ。いつか死ぬのも、寿命が短いのも、おそろい。だって命だから」
「そう、僕たちはみんな、宇宙船地球号に乗った仲間なんだしな」
 だからあなたは孤独じゃない。
 湯気の向こうでそれぞれの道を歩いてる彼らを、ひととき交わった彼らのくれたチョコレートの香りを、灰間は脳裏に焼き付けるように瞼を下ろしたのだった。



 後日、灰間は祖父を訪ねた。祖父は灰間の決断にはもう驚いてはいないようで、何かを呑み込んで受け入れたような不思議な表情で出迎えてくれた。
「気持ちはわかるとも。しかし、サミュエルたちの言ったとおりだ、焦ってもしかたがない。誰にだって自分が人間であるという事実は変えられないし、人生を早回しすることなんてできないからね」
 灰間から話を聞いた祖父はそう呟いた。
 自分で選んだものかどうかが肝心なんだ、と祖父は言った。立派な革張りの肘掛け椅子に埋まるようにして座った祖父の前で、灰間は黙って祖父のざらざらとしわがれた声を聞いている。座りなさいともうひとつの椅子を示され、腰掛ける前に灰間はキッチンでホットチョコを作って持ってきた。
 二人分の茶色の渦が、柔らかな祖父の書斎に溶け込んでいく。祖父は知識の象徴のような白髪を少しだけ掻き分け、再び息を吸い込んだ。
「セイ。おまえ、化学研究の未来を見たいと言ったね。そしてそれは人間である限り叶えられないとも言ったね。――本当にそうだろうか。バトンタッチだと考えることはできないか」
「バトンタッチ?」
「わたしはこんなに老いている。あまり健康でもないから、あと二十年もすればお迎えが来るだろう。わたしにはやりかけの研究がある。それを未完成のままおいて死んでいく、しかし、それが希望なんだ」
 祖父の言いたいことが何となく予想できていたが、それが灰間には憂鬱だった。積極的に話を促すこともできず、灰間は黙って祖父のゆっくりと深い声に耳を傾けていた。
「わたしの死後にわたしのやりたかったことが未完成で残る、それをわたしは確かめることはできないが、そのことそのものが、未来の存在する証拠だと思わないかね。――わたしは大学教授だったから、教え子たちがたくさんいる。それにセイ、おまえもいる。おまえたち若者にわたしの個人的な夢を押し付けるわけにはいかないが、しかし、おまえたちが生きているということが希望なんだ。――この世から命がなくならない限り、わたしは生き続ける。そして、おまえも生きていけるんだ」
「――栄さん。私は年下に懐かれないんです。――バトンタッチなんて考えられませんよ。私は私のやりたいことを一人で叶えなくてはならない。孤独じゃないとはいっても自分のことは自分でやらないと。誰も叶えてくれないんだから」
「まあ聞きなさい、焦ってもしかたないと言ったろう。いいかい、おまえと関わった者はみな、おまえの子どもたちなんだよ」
 ――誰にも何も与えたくないと思ったとしても、この世界に生まれてしまったのだから、そんなことはできない。一人になることも孤独でいることも難しい。
「なぜならわたしたちは生きている人間なのだから」
 祖父の言葉は、いつか父親から聞いた言葉とよく似ていた。先日の友人たちもこんなことを言っていた。結局はそこに集約するのかと灰間は、何かに負けてしまったような打ちのめされた思いで背もたれに寄りかかる。負けてしまったというのに不快さはなく、それがむずがゆかった。
「おまえだけの正解を見つけなさい。その悩みがおまえの魅力に早く変わるように、わたしは祈っているよ。――セイ、そのカップはもう冷めただろう。それはわたしが飲もう。おまえはこちらにしなさい」
 いつのまにか祖父は一度椅子から離れて新しいホットチョコをついでいてくれたのだった。美しい蔦の描かれたカップを受け取り、灰間はふと顔をあげる。ブランデーの香りだ。
 祖父は灰間と目が合うとウインクをしてきた。おおらかで茶目っ気のある祖父の優しさをくっきりと感じて、灰間はくすぐったく微笑む。
 不自由を受け入れてみよう、と灰間はひっそりと思った。今あること、できないことを認め、できることややりたいことを選択する。それが自由と自信につながり、きっと理想への近道になる。
 ブランデーの香りは体の芯をゆっくりと抱いてくるのだった。成人したら祖父のもとへ戻って、ここ米国で研究を進めるのがいいかもしれない。もし叶ったら、祖父と一緒に酒を呑もう、そう思った。





4.
 命、という大きな流れの中に生きていることを、灰間は成長するにつれひしひしと感じるようになっていた。
 宇宙船地球号の仲間だとサムが励ましてくれたことが折りにつけて思い出される。バトンタッチだと言っていた祖父の声も共に再生される。なるほど幼稚園のときのお遊戯会は、やはり予想していたようなものだったわけだ。人間は個人では何もできないが、大勢で集まると強くなる。大勢で生きて、命を繋げて何かを為して、それが何につながるのか、どんな意味があるのか、正しいのかというのは永遠にわからないかもしれないが、わからないからこそ続けて、未来、いつかそれを確認する。限界があるからこそ無限を信じて挑戦していけるのだ。途方もない旅を続ける仲間の一員であることが、灰間は悲しいようで誇らしかった。
 友人たちと祖父のくれた言葉を胸に、灰間は日本の中学校へ進学した。既に高卒資格は取っており、米国を拠点にしたいのなら帰国する必要はなかったのだが、生まれた場所の様子をしっかり確認しておきたかったのだ。
 あまり肌に合っていない中学校は退屈だったが、自分と同じくらいの年頃の子どもがどんな教育に触れているのかはわかった。灰間の好きな、子どものとっつきやすい燃焼実験、こういうことをもっと増やしてみると授業もよくなるかもしれない。日本の理科教育の長所や改善点をまとめるかたわら、ずっと続けてきた論文を完成させて学会での発表に備えた。
 十四歳の夏、生まれて初めて立つ側に回る学会はさすがに緊張するものだった。米国でいい友人と祖父に囲まれていた灰間は、自分の発表にどんな穴があるか考えることで頭がいっぱいで、自分自身の弱点のことをすっかり忘れていた。
 灰間の弱点、それは口頭での思考のアウトプットだ。
 米国にいた長い時間が灰間を日本語そのものから遠ざけていたのも大きかった。発表自体は原稿があることもあり、つつがなく進行したのだが、質疑応答でわかりづらいと言われ、揚げ足をとられ、混乱して焦った灰間はそこで大失態をおかした。――いくら癖でも大勢の前でするものではない。しかもこんなかしこまった場所で起きてしまっては取り繕いようがない。しまった、と思い、真っ青になって慌てて引き下がったが、すべては後の祭りだった。
 いくら記憶力がいいとはいえ、この会のことはあまり思い出せない。せっかくの初出席なのに台無しにしてしまった。汗でぐっしょり重くなった服を抱えて廊下にうずくまっていた、あの記憶が開会前のことなのか閉会後のことなのか、それももう曖昧である。
 エレメンタリースクールでスピーチをするときは何もなかった。だから友人たちも何も気づかなかったのだろう、指摘されることは一度もなかった。すっかり治ったものだと思い込んでいた。指を切ったとき、ものをなくしたとき、不意に口をついて悪態のようなものが出ることはあったが、それくらいならば正常の範囲だろうと楽観視していたのだ。
 次の日にはどこから聞きつけたのか友人たちから連絡が入った。そのとき灰間は、早々に別居を始めて自由を謳歌していた母親の家を訪ねていた。母親は学会での失態をみじんも問い詰めず、またいつものハンバーグを広げて焼いてくれた。
 誰も口調のことで灰間を見限らなかった。父親のフォローも最低限のもので、その対応はとてもありがたい一方、いっそう灰間を追い詰めた。――悩みごとにも三つ子の魂があるのかはわからないが、どうやらこの自分の苦しみとは長い付き合いになる予感がする。――こればかりは自分で戦って克服するしかない。何事も順調とはいかないようだった。





5.
 私立高校に入学する頃には学会の常連になっていた。研究そのものはやはり楽しい。たとえ楽しくなかったとしても、やめる気はさらさら起きない。しかし一度のつまづきは灰間の足取りをわずかに重くしており、その頃の灰間はすっかり時間を持て余すようになってしまった。何だかんだで学校には行っていたが、大人しく授業を聞いていられずに遅刻や欠席が増えていた。
 一応、退屈で死にそうになる前に教師に救難信号は出した。だが由緒正しく融通のきかない学校は灰間を図書室から締め出し、化学実験室からも追い出した。まさか家に帰るわけにはいかない。母親のところにも行けない。かといって金があるわけでもない。居場所を求めた灰間が避難したのは屋上だった。柵がないために危険で、出入り禁止と札がかかっていたが、行く場所がないのだから灰間は必死である。塔屋に付けるように雨風をしのぐ簡易的な屋根を設置し、その中に本や薬品などをつめこむ。精密機械は持ってこられないが、気を紛らわすためにこうするしかない。
 放課後を待つ間にどうにかなってしまいそうで、最悪の事態が起こる前に高校を辞めて米国の研究所に入れてもらおうと何度も思ったが、この状態で友人や祖父に合わせる顔などない。これは自分で選んだ道なのだ。それに日本で会っておきたい研究者もいる。そのためにはどうしても、今ここで高校と大学を卒業する必要があった。
 幼少期に描いた人生の予言書は原型も留めず狂いっぱなしである。自分自身のことを冷静に見ているつもりになっても、全然そんなことはないのだった。灰間はまごうことなくちっぽけなただの人間だった。
 父親は父親で多忙なため、学会では誰と行動するわけでもなく、一人で参加していた。そこで必要だが退屈なものがまた増える。学会後の交流パーティーだ。
 かつて友人たちと赴いたダンスパーティーはどれも楽しかったが、ここで開かれるものは顔色を伺っておべっかを使う、愛想笑い飛び交うパーティーである。気が進まない。未成年だから酔うこともできない。しかし、いやだと言っては角が立ってしまう。くだらないと思っていても子どものうちは周りの言うことを聞くしかない。
 時間は有限だというのに何をしているのだろう。
 ほとほとくたびれはてた灰間は学会だけ出席し、パーティーは途中で抜け出して会場ホテルの部屋に帰るようになっていた。そんな灰間を侮らずに扱ってくれたのは、灰間と同じように出席を無理強いさせられていた女性たちだった。
 彼女たちは頭がよく、独立した意思を持っていた。透き通った笑顔の彼女たちに灰間は何故か気に入られた。
 ホテルの部屋にあるお茶を入れる。そぐわないので二人で笑う。自己紹介はしない。どうせパーティー会場で無理矢理挨拶させられるだろう。広い窓から雨を眺める。雨粒の速度に合わせ、忙しくて洗濯ができていないとか、洗い物で指を怪我したとか、そういう話をする。次の約束はない。束縛もない。してほしいこと、したいことだけをお互いして、部屋から出れば他人に戻る。
 今の自分の姿を、両親も祖父も、友人たちも知ることがないのだろう。彼らにも誰にも見せない顔があり、聞かせない声があるのだ。そう考えると灰間の視界はぼうっと靄に包まれる。手が下りてくる。その手にいつかの覚めない眠りを思う。
 そんな日を繰り返すうち、いつの間にか灰間は十七歳になっていた。





6.
 灰間はレストルームの鏡に映る自分の髪を撫でる。右側だけくしゃくしゃで、左側はまっすぐ伸びる奇妙奇天烈な髪。度重なる消毒で荒れた指がそれを整える。家でセットしてきたが、さきほど掻き上げてしまったため、いつもの頭に戻っていた。染めるチャンスはなかなかない。生まれつき茶色なのは目と同じで母方の曾祖母譲りである。これがまた日本では目立つのだ。
 まばたきを数回繰り返す。絵に描いたように大きな紫がかった瞳に自分が映っている。
 その日は誰ともいい会話ができず、抜け出すのもうまくいかずで疲れ切っていた。レストルームから出ても会場に戻らずに廊下の壁にもたれかかる。
 もうこのまま帰ってしまおうか、と思い始めた頃、女性用レストルームのほうから濃紺のカクテルドレスを着た少女が現れた。灰間よりは褪せて薄い、麦穂色のロングヘアをしている。相手もとても疲れているのか、背を丸めて顔を覆っていた。綺麗に巻かれたいい髪だな、と灰間は思ったが、じろじろ見るのも悪いし何しろ疲れているので目を閉じてうつむいていた。
 ざり、と壁のすれる音がした。どうやら少女が隣に立って、壁に身を預けているらしい。
「どうぞ」
 無視できなくなった灰間は顔を上げ、ペットボトルのミネラルウォーターを少女に差し出した。会場で配られたものではなく、一度抜けてコンビニで買ってきて、レストルームの外の棚に預けておいたものだ。
 クリスタルのように輝くペットボトルの光を感じたのか、相手はぱっと顔を上げてきた。その勢いの割りに相手は無表情で、砂漠のような瞳に灰間は一瞬面食らう。
「水?」
 声もやや低くて乾燥している。
「水です。そこのコンビニの。最近のペットボトルの水はおいしいんですよ、未開封なので気兼ねせず飲んで下さい、差し上げます」
「では遠慮なく」
 蓋からきちきちとプラスチックの引きちぎられる音がした。相手はよほど喉が渇いていたらしく、ためらいなく中身を飲んでいく。随分いい飲みっぷりだった。
「ありがとう、生き返った。――今日は会場にあんまり美味しい飲み物がなくて困ってたの。未成年だからお酒は飲めないし」
「ですねえ」
 灰間は相槌を打ち、クロスさせていた脚をゆっくりと組み替えた。角を曲がって数メートル先、ドアを開け放しているホールから喧噪が漂ってくる。上品な騒がしさだが、こうしていると自分とは無関係な遠い世界のようだった。――やはり今日はもう帰ろうか。
「しりとりしない?」
 隣の少女が呟いた。
 また唐突な、との思いがよぎったが、灰間の唇から出たのは「いいですよ」という力ない快諾だった。あなたから言ってよ、と相手が促してきたので、それを受けて灰間は口を開き、
「よ。夜目」
「めだか」
「カーリング」
「ぐ、ぐ、グミ」
「ミンククジラ」
「ラム酒」
「シューベルト」
「トスカーナ」
「ナトリウム」
「ムー大陸」
「クリオネ」
「合歓木」
「キリマンジャロ」
「ロックバンド」
「ドア」
「あなた女遊びが激しいってほんとう?」
 のってきたところでとんでもないことを尋ねられ吹き出す。せっかくテニスのラリーのように美しく続いていたのに、言葉とともに集中力も切れてしまった。
 ホテルのスタッフが二人のことを訝しそうに見ていたが、灰間はそれに構う余裕がない。
「急に何なんですか!」
「いけない、こんな時間。わたしもう戻らなきゃ。ごめんなさい、相手してくれてありがとう」
「こら。お待ちなさい」
 手を伸ばした灰間の前に飲みかけの水が突き出される。くるくるとそれを揺らし、相手は相変わらずの無表情で灰間にこう言う。
「いい時間つぶしになったわ。またね」
 灰間の手は空振りした。紙一重で避けた相手はというと、低いヒールの靴音を響かせてホールのほうへ立ち去る。闇夜のような濃紺のドレスの裾がなびいている。相手のその後ろ姿を、灰間はしばらくの間情けない格好で見送っていた。



 翌日は登校日だった。
 昨日はあのあと、まさか会場で相手を捕まえるわけにいかず、結局何もないまま別れてしまった。――確かに相手の言うことは間違っていないだろう。言い訳は通用しないことを灰間は知っている。しかし何だったのか、ああしてわざわざ咎められるほど悪いことはしていないはずなのだが。――いや、こうして授業からも逃げているのだし、灰間は立派な不良なのかもしれない。
 今日も今日とて屋上で悠々自適にしている灰間だったが、今日はいつもと違ってギャラリーがいた。扉を開けたときから気づいていたが、灰間はずっと触れないようにしていた。いつものように新品のマスクをつけ、作業服の前襟を詰め、髪をまとめる。消毒をした手に手袋をしてからガラス管を繋げて固定させ、粉の試薬をてきぱきと並べ、ビーカーに少しずつ液体を混ぜていく。
「屋上って眺めだけはいいけど、ロケーションは最悪ね。化学実験には向かないと思う」
 口をきいたギャラリーに、そんなの知ってます、と返し、決まり悪さで灰間は口を噤んだ。相手は昨日と同じ無愛想で、小さな目は砂漠のような色である。その目を見ているとどうにも落ち着かなくなる。どこまで行ってもなんの命もない、荒廃した星のような――相手以外の何かと目が合いそうなのだ。――灰間は首をぶんと一回振って手元に集中した。
「見学してもいいですけど、危ないから近寄らないでくださいね」
 声だけ放り投げると相手は素直に頷いたようだった。風が強いことを灰間はふと気にする。
「灰間生」
 突然フルネームで呼ばれ、灰間は一瞬背を伸ばす。相手は抑揚のない声でまだ話し続ける。
「今日は昨日のお礼と続きを言いに来たの。最近のミネラルウォーターってほんとにおいしいのね。昨日はつきあってくれてありがとう」
「お役に立てたのなら嬉しいですよ、天上天下てんじょう てんげさん。私のほうこそ助かりました。ああいうパーティーには飽き飽きしていたので」
 相手は――天下はさほど驚いていないようだった。予想できるリアクションだったので灰間もそれ以上何も言わなかった。
 長い巻き髪を耳にかけ、灰間の心に手を添えるように玲瓏な視線を送ってくる、この酔狂な少女は天上家の一人娘だ。天上家は有名な投資家、そして経営者である。数多の有名企業のスポンサーになっていることで知られている、華々しく目立っているわけではないが本当にどこにでも現れる不思議な一族だ。灰間の父親などよりも余程手広く要領よくやっているらしい。
 その家の一人娘である天下はさながら生まれながらの支配者である。彼女自身に才能があるのかはまだわからないが、そうあるように周囲に育て上げられていることは確かなサラブレッドだ。そして今、彼女の目を見るに、どうやら本人もそれを疑っていないらしかった。
 一応は彼女自身も科学者で、その存在は灰間も知っていた。確か彼女の専門分野は遺伝子工学だったはずである。天上家は、灰間家と同じ、科学者の一族でもあるのだ。何の戯れなのか、同じ高校にいることもずっと気づいていたが、特に用事がないし擦れ違うこともなかったため、これまでは挨拶もせずにいた。
「ねえ、灰間くんって呼んだほうがいいかしら。いい? ちょっと訊きたいことがあるのだけど」
「私のことは下の名前で呼び捨ててください。そっちのほうがなじみがあるんです」
「じゃあお言葉に甘えて。せい、」
 天下はそこで言葉を切った。小作りな真顔を傾けてまばたきをし、そしてまた話し始める。何かの朗読劇のようだ。
「わたしのことも下の名前で呼んで。こんなに面白い名前なのに、みんな萎縮しちゃって呼んでくれなくて」
 面白い名前だという自負があるらしい。奇妙な脱力が灰間を襲いかけ、慌てて灰間は気を引き締めてアルコールランプの火を消した。相手の目が本気だ。
「わたしさびしいの。だって誰もそばに来てくれないんだもの。今まであんまり気にしないようにしてたけど、やっぱり、つまらないじゃない――何をしても誰もわたしを怒らない――だから昨日は嬉しかった。わたしは優秀で感情の激しい人が好きだから、あなたみたいな人といたい」
「お褒めにあずかり光栄です。で、なんなんですか、話の続きって。礼ならさっきの会話で受け取りましたよ」
「生。あなた、将来の夢ってなに?」
 ゆめ。これまた唐突な問いだったが、灰間の心は落ち着いている。相手の会話のリズムにもだんだん慣れてきた。
「マグネシウムリボンの燃焼」
「え?」
「そうあれたらいいなってだけです。――無難なところで自分のラボを持つ、とかですかね。挑戦したいことがあるんですよ。まあ私の寿命と夢とどっちが先に終焉を迎えるかわかりませんが。――私のことはもういいでしょう。天下、貴女はどうなんですか」
 何故かそこで天下は黙った。聞こえなかったのかと思い、灰間はマスクを片手でずらして名前を呼ぶ。天下はどうも、聞き返されるとは思っていなかったらしいが、他人に訊いておいて自分がだんまりなのはずるいだろう。灰間がもう再三尋ねれば天下はそこでやっと動き出す。グレーのブレザーに包まれた肢体がゆらゆらと揺れている。
「わからない。わたしの夢?」
「そうですよ。大事でしょう、夢。原動力です」
「困ったな、考えたこともなかった。初めて訊かれた気がするわ。目標ならいっぱいある。でも――、夢は、ないかもしれない」
「ない? それはいい、これから見つけられるんですからね。一生使って探すといいです。大丈夫、絶対見つかりますとも。一度きりの短い人生、楽しいことだらけですよ」
 するするよどみなくしゃべる灰間の手元で粉が飛びそうになる。貴重な試薬を無駄にするわけにはいかないので、灰間は細心の注意を払って匙でそれをつついた。風のせいか何のせいなのか思うような結果が出ない。紙に落としてはかりに載せ、それをノートにがりがり書き留める。結果のグラフは屋内に戻ってからでいい。色や形も残しておこう、これが明日の糧となるのだ。
「生」
「なんですか。見ての通りこっちは忙しいんですが」
 目をすがめる。どうにも試験管に傷がついているらしい。そろそろ替え時か。灰間は手の甲で器用に眉間をもみほぐした。コンタクトレンズの目が乾き始めている。少し休憩でもしようか、とあたりを見渡した瞬間、風上にいる天下の声が飛んでくる。
「あなた、中学生のときに学会初出席だったみたいね」
「はあ。それが何でしょうか」
「あのときの質疑応答の映像記録がうちにあるんだけど」
「え」
 溶液の入った試験管が指から滑り落ちた。
 咄嗟に顔を覆って上体を捻る。派手な爆発音が屋上を震わせ、ついで煙がその場を包み込む。しまった。試験管が粉薬の真上に落ちたのだ。発生しうる化合物を頭の中で考え、灰間は思いっきり咳き込んでは情けない悲鳴を上げる。吸っても被っても死にはしないはずだが、天下は――煙で見通しの悪い視界を必死で探す――そういえば風上にいる。ああよかった、生きている。無事だ。
 無事で結構なのだが、涼しい顔で見下ろされるのもなかなか堪えるものがある。日に焼けて風雨に曝された床に這いつくばって清浄な空気を吸い込み、灰間はまだくすぐったい喉を鳴らして必死で今まで自分のいた場所を確認する。
「貴重な試薬が。高かったんですよ、あれ――あっ、あんなところにも、ひいふうみい、――えっほ、えほっ、うっ」
 また噎せているところに天下が近づいてくるのが見えた。彼女の表情筋はあるのかないのか、存在の有無からして灰間は疑ってしまう。それほどに彼女は平たい表情をしてこちらをまっすぐ見据えている。どうしてあんなに平坦な眉でいるのか、だんだん奇妙になりながら灰間は触り心地の悪い床を叩く。散々だ。やはり屋上でこんな繊細なことなどするのではなかった。
「こら、近寄んないで! 危ないですよ! まったく、貴女が変なこと言うからですよ、私の映像持ってるって、そりゃどういう――ってえ刺さった――学会の記録っていってもなんで映像なんですか。編集して質疑応答は消しておいてください、――ちくしょう取れねえ――だから近寄るんじゃない。聞いてます? この落とし前はんう」
 影が重なる。
 動きを止めた灰間の手から強風が紙をもぎとっていった。せっかく結果を書いていたのに。本当に散々だ。
「生」
 自由になった灰間の唇に天下の冷えた息がかかった。
「最悪なときのあなたを、あなたが消してしまいたいほどのあなたを、わたしが持っている、それは救いにならない?」
 綿のように軽い相手の髪の毛が、風に運ばれて灰間の耳をくすぐってくる。
「それは」
 今後の私と貴女次第でしょうね、
 天下の砂漠に自分が立っているのを見つけ、灰間はそれに向かってそう呟いた。抜けるような初夏の青空に煙が滲んでいく。
「じゃあ昨日の続きを言わせてちょうだい。あなたの女性関係のことなんだけど、――彼女たちとしていたことぜんぶ、これからはわたし一人だけにしてね。約束よ」
 そう言い残して天下は屋上を出て行った。
 コンタクトレンズがずれたかもしれない。早く直したい、ぼんやりと灰間はそう思う。されたこと自体は慣れているが、こういう相手は今までいなかった。天下は気まぐれなドラムやぎこちない時計の針のようで、それでも態度だけは悪びれない。
 それから灰間は教師たちに見つかって思い切り絞られた。父親はただただ渋い顔をして灰間を出迎え、それで灰間は肩身の狭い思いで彼と対峙する。爆発跡の残った屋上に出入り禁止になったことは痛かったが、授業以外でも化学室の使用許可が下りたことだけは不幸中の幸いと言えた。