Blue Eden #18 「ジョバンニ」







 それで、風のなか光星みつぼしは五体満足で屋上にいる。
 雲ひとつない晴天だがほんとうは汚れているのだそうだ。観測結果に天上天下てんじょう てんげからの干渉がなくなったため、空がデブリだらけであることはいやでも理解せざるを得なかったが、それでもあまり納得はできていない。昼間の青空だと星でさえ目に映らないせいでますます実感は遠ざかる。
 青い巨大なうつろは申し分ない深さを誇り光星を圧倒する。ひとつでも白の切れ端があれば親しみやすいのに、今日の青空はどこかつんと澄ましている。
 こうしてのどかな光を浴びているとまるで今日があの大騒動のあった夜の続きではないかと錯覚してしまうが、そうではない、ということは、頑固な光星でもちゃんとわかっている。



***



 セレの渾身の一撃によるブラックアウトから光星の意識が完全に回復するまで数日を要した。そのあいだに先に目覚めていた社員たちが騒動の後片付けをしてくれていたおかげで、光星が立てるようになった頃には、ブルー・エデンはあるじを失ったことなど傍目にはとてもわからないほどに復旧していた。
 目覚めてすぐ光星の視界に入ってきたのはメンテナンス部のおおわらわだった。打ち所ならぬブラックアウトのしどころの悪かった者がなかなか起きないので、所属する医師の全員があの夜のすぐあとから出ずっぱりになっているのだと、どこからともなく現れたみまるから説明を受ける。
 光星も遅いほうだったのだ、と、ほんの少しよれた白衣に身を包んだみまるは光星にさまざまなことを説明してくれた。建物と社員の意識の復旧に加え、天上天下の意識のサルベージも行われているらしいのだが、そちらはまったく成果が見られない、というおまけつきで。
 あの夜、ブルー・エデンは確かに崩れたのだという。
 騒動がコロニー中にまるごと配信されていたというわけではないのだが、人の夢を集めて立つ、今の世のシンボルが崩壊していくその様は社外からでもばっちり観測できていたわけで、外部との連絡手段が復活するやいなやその件に関する問い合わせが殺到したそうだ。社長がいなくなったこと含め、事実ばかりはごまかすわけにいかず、メンテナンス部を代表に社員全員が説明に苦心しているという。しかし今回の件に関して言えば、常なら暗部を担いがちであるメンテナンス部でさえも天上天下に振り回された被害者と言っていいだろう。騒動のケアは社外だけでなく社内も含めてやるべきだと、そしてまずは会社の機能の完全復活を待つべきではないかと、とりあえずはそういう方向で固まっているらしい。
 それから生身の存在がもう夜半を除いてはいない件について――あんなに派手な怪我をしたために、夜半が生身であることにはほとんどの社員が気づいてしまっているのだが――これ以上の騒ぎを呼ばぬよう、メンテナンス部と医療区は嘘を固塗し続けることに決めたという。
 ふとヘヴンの声が聞こえて首をめぐらせると、声の元はみまるのデスクの上に置かれた小さな端末からなのだった。ヘヴンは懸念していたイメージの偏りにも見舞われず、あの夜を経ても変わらず人々に愛されているという。とはいえ、見るとあの夜を思い出し複雑な思いに襲われるスタッフも多いというので、社内ではひっそりとした扱いらしかった。――天下にとってはヘヴンも道具、タイミングを見ていただけで、ヘヴンを使うことは相当前から決まっていたのだろう、――みまるはそうも語った。
 どういう顔をして相槌を打てばよいか戸惑っている光星を見抜いたのか、それともどことなく気まずいのは同じだったのか、
「そうそう。モルグなんですけど、命じてきた社長が帰ってこないんだから、やめちゃってもいいわけですよねぇ。でもしばらくはみまるのひまつぶしのために続けてもいいかなあ」
 守人はそう呟いた。
 長い長い眠りから覚めた気持ち、そう、まるで何百年も休眠していたような、いや生まれ変わったと言っても過言ではない奇妙な思いで空気を追う光星へ、みまるの背後からひょっこりと顔を覗かせたハイマ医師が元気かと訊ねてくる。天上天下について医師の顔色をさぐる間も光星には与えられなかった。光星が問題ないと答えたとたん、ベッド確保のためだの何だのと急に彼らは光星を追い出そうとし、病み上がりの光星はというと抵抗できるわけもなく騒々しい廊下にすぽんと放り出されてしまう。
 改めて光を吸う。
 やはり、ふあん、というより、なぜだか洗顔後のようにさっぱりしている。
 非常に見分けがつきづらいが、あの夜以前と以後で空気が違う。しかしそれが具体的にどういうものなのか光星には言い表すことができない。――もしかしたら寝ている間に自分が書き換わってしまっていたりして――それでもいいかもしれない、と全身を吹きさらしの野原に投げ出したように思う自分が不思議だ。通路を行き交う同僚たちが協力し合っているその様子、彼らがどこかぎこちない明るさの笑顔でいること。浮き足立つ空気とそのはかなさのこと。信じていたものが、夢が一度でも崩れてしまった事実。
 ――その瓦礫の笑う更地で手を抱き合う陽光と朝の風、
 両手を広げる。
 握る。爪痕のつかない、いつもの手だった。

 そして宇宙部に戻る道中、無事稼働している天使の梯子をのぼった果てで、あの夜に光星をブラックアウトさせてきた張本人と光星は再会する。
 光星を捉えるなり折り目正しい会釈をしてきたセレも、一見すると今までと何も変わりがない。しかしそのつるりとした顔からはバイザーが消えており、爽やかな無表情から繰り出される言葉の数々はあの夜を経なければ生まれなかっただろうものだった。開口一番セレはあの夜の一撃について謝罪してきたのだ。面食らった光星が落ち着くのを待たず、会話の駒は風通しのよいホールの光を縫ってどんどん進む。
「実を申し上げますと、私はここで貴方の目覚める瞬間を待っていたのです。謝罪だけでなく別れを告げるために」
 この会社を去る、とセレはそう続ける。
「去る前に貴方とこうして話すことができて本当に嬉しく思います。――あの夜の件は、あれは役目をまっとうした結果であり、誓って申し上げますが、個人的な怨恨のために攻撃したのでは決してありません。私の思いを占める多くはむしろ、感謝であり――どうしても最後の挨拶を交わしたかったのです」
 光星とてセレに対して恨みを抱いたことは一度としてない、あの夜が真実だとわかっても尚のこと蟠りには一歩遠い。光星とセレは憎み合うにはやや足りない距離にお互い立っているのだ。
 ここから去ってどこへ行くのか。答えは光星の度肝をまた抜くものだった。
「コロニーの外へ。行ってみたいのです、気ままに散歩をするように、この体のエネルギーが切れるまで存分に、荒れ果てた地上をどこまでも。もう二度と内部へ帰ってくるつもりはありません。補給にも寄らないつもりです」
 そしてセレは光星に背を向ける。去り際に、バイザーのないぶん軽く見える銀髪がオーロラのようにきらめいた。
「さようなら。貴方に会えてよかった」

 セレの細い背を見送り、すっかり馴染んだ上層部の執務フロアへ光星が足を踏み入れれば、待っていましたと言わんばかりにれんが近寄ってきた。事後処理の面倒はメンテナンス部以外でも発生しており、しかしここはさすが恋というべきか、彼は無駄なく手腕をふるっていたようだった。
 そこで恋と言葉を交わして光星はようやく社員たちの奇妙に明るい雰囲気の理由を知る。天上天下の所業は、あの場に居合わせた光星以外の他の二人によって、光星が目覚めるよりずっと早くに全員に伝えられていたのだ。
 天上天下の行方だけではない。なぜこの会社が宇宙と海とで分けられて始まったのか、データ化が浸透したその裏に何があったのか、そういった事情の洗いざらいである――あの二人がそうしたことにやや意外さを覚えないでもなかったが、二人には立場というものがあるのだ。だんまりを決め込むわけにもいかないと判断したのだろう。説明はおそらく、余計な感情を挟まない淡々としたものだったはずだ――
 どうとらえたらよいか困惑している、というのが、大半の社員の反応だという。無理もないと光星はそっと心に手を添える。社長の個人的な事情など聞かされてもどうしようもない。まずは戸惑うのが当然だ。なかには同情する者もいるかもしれないが、それこそあの夜の光星のように絶望する者もいるだろう。どうでもいいと感じる者もいるはずだ。
 そしてそのどれになるとしたって、その感情をぶつける相手はもうない。光星の心が手からこぼれおち、それを追うように恋の声が降る。
「ずるいすよねえ、社長ってば、一人で逃げ切っちまうなんて。まあ社長も今のオレみたいな気持ちで三百年生きてきたのかもしれませんけど、何もオレたちにまで味わわせなくても」
 そう言うわりには恋の表情だってさっぱりしているのだった。あの夜にこのお人好しを何が襲ったか、――光星は詳しいことなど知る由もないが――
 やはり問題点が多すぎたため、あの夜の勝負の行方は正式なものとはみなさないことで決定したらしい。人々の移住先は未だに不明である。深海部は解散することなく今後も活動していく。
 これから先落ち着くに従って身の振り方を考え出す社員も現れるかもしれない、もしかしたら、宇宙や海だけでなく、他の生き方を考え出す人々が現れるかもしれない。それでも宇宙部は宇宙に行きたい人間で残るのだろうから目指す先は変わらないが、と恋は説明を簡単にしめくくったのだった。
 そして恋はこれまた恋らしく光星の声なき気がかりを即見抜いたようで、報告は最低限に留めて長い指をちょいと曲げ、光星にある場所へ行くように促した。
 夜半の寝室だ。

 光星の姿を認めた途端に明らかに顔色がよくなった相手にどう声をかけたものか、目と目を合わせたその瞬間になっても光星にはわからなかった。
 光星の気がかりであるところのたった一人の真っ白な上司は、あれだけの傷を作っておいて昏睡することもなく、しんしんと順調に回復し続けていたらしい。おそろしいことにもう傷も塞がって起き上がれるほどまでになっていたが、しかしさすがに大事をとって包帯だらけで点滴までうたれて横にさせられていた。替えの包帯や痛み止めという、記憶の彼方に置き去りにしたはずのものたちを見て、光星はまた言葉から空気を抜かれた気がして俯いた。
 機械の小さな音がする。夜半が持ち込んだらしい太陽系の模型が窓際で回っているのだ。
 言いたいことはたくさんあったはずだった。
 目が覚めてから何度もシミュレーションを重ねた。謝るべきこと、謝りたいこと。ぜったいに謝りたくないことも。中庭に植わっている花のごとき行儀良さで整列していた言葉たちの、それでもまだどれひとつとしても覚悟が決まらず舞台袖に引きこもっている。まごまごしていると、急に自分が大きな置物にでもなった気がして気まずいが、口を開かない限り部屋のしじまはどうやっても動かない。
 やがて何も言わないという選択をとった直後に、相手が残された左手で手招きをしていることに気づいておとなしくそばに寄った。相手の失われた右腕と、自分の右手を繋ぐように寝台に肘をつく。
 夜半は一切の余計なことを言わなかった。薬がきれても泣き言ひとつ、暇が続いても文句ひとつこぼさなかった。今の状況について言い訳さえしないのだった。だから光星も気兼ねなく選んだ。気まずくなるとわかっていて沈黙を選んだ。

 翌日の夕方に見舞客が一人あった。
 いっときは教育係として光星を支えてくれた相手に対しても光星は胸の奥が詰まって何も言えない。まるで光星の葛藤が伝わったかのごとく、夢前ゆめさきも光星になんとも形容しようのない笑みを向けるだけだった。それでもなんとかぽつぽつと、明るい調子で夜半の体調や互いの部の復旧の進捗など言い交わし、そしてほんの一瞬会話が途切れたのち、聞くともなしに彼女はふと視線を足下に落とし語り始める。
 深海部のトップを勤めていたあの人物への処遇はまだ決まっていないという。
 天上天下の影に隠れがちだが、永遠とわも相当のことをした事実には変わりがない。本人もやったことを認めているというので償わせなくてはならないだろうという段階までは来たらしいが、しかし何しろまだ会社の機能が完全には戻っていないせいもあり、もちろん天上天下の件も混ざり合い、それ以上は周囲の意見がそろわず難航しているらしい。かつてその魅力に沈黙し、愛された過去さえ持つ全員が、今はその対象を持て余しているというのだった。
 解雇することになるかもしれない。そうでなくとも近いうちに何かしら区切りをつけて、ここにいるならいるで理由を全員が納得できるように改めて考えなくてはならない、今までと同じように部長職でいられるとは思えないから、そのための会見なども開かなくてはならない。そうしなくてはさしもの本人もとても平気な顔でいられないのではないか、そして、そうなれば必然的に社外にも、天下の所業だけでなく永遠のことをも報じねばならなくなるだろう、とそう夢前は語った。
 ――本当は誰も彼も空元気で動いているだけで、見た目に反して傷はまだまだ癒えていないのだ。痕になるだろう存在をどうしたらよいか持て余すのは疲弊しているからだ。
「何にしてもきみが無事でよかったわ。もちろん、夜半部長もね」
 夢前は――彼女が永遠に並々ならぬ思いを向けているのは光星でさえ察していたが――どういう答えを出したのだろう、今は落ち着いているように見える。
 永遠だけでなくもう一人、深海部は有力なメンバーを失ってしまうことを夢前が知らないとは光星には思えなかった。あの律儀な虹はきっと、後ろ手に腕組みをする彼女にも、平等に挨拶をしていったに違いがない。
 それを告げると夢前は光でも囲うように笑った。髪の落とした影がゆっくりさざ波に姿を変える。
「ありがとう、――いいの。このままで――あたしたちは海のものよ。誰が欠けてもおぼれたりしないわ」

 夢前はそれで去ってしまったが、以降もたくさんの者から見舞いが入った。メンテナンス部からはひっきりなしにバイタルチェックの連絡が来るし、宇宙部にいる恋からも進捗報告が飛んでくる。それだけでなく光星が名前を知らない社員からも何気ない気遣いのメッセージが送られてくるのだった。そして光星は、腕さえ失う生身であるという夜半のこの事実に、連絡を寄越す全員が全員何かしらのショックを受けているらしい、ということにやがて気づく。
 それでも見舞いの報が絶えないのはひとえに夜半の人柄のおかげかもしれないし、連絡をよこしてくる社員たちの性格がいいためかもしれない、その両方かもしれないしはたまたまったく異なる理由によるのかもしれない、
 ひとつひとつに丁寧に対応をしながら光星はずいぶん様々なことを考え続けた。何しろ夜半は生身なので食事も排泄も当然する。今までどうやって隠してきたのか、というよりどうして確信に至らなかったのか自分自身におののきつつも――案外、光星たちの「成人ならデータ化は必ず、それも多くは体を優先して済ませているはずだ」という思い込みがいちばんの目くらましになったのかもしれない――、一人では傾いでしまうその四角い肩を支え、歩く際には杖になり、ベッドまで戻るのに付き添う。代わりに薬を割る。水も匙も運ぶ。ぐっと体を正面から抱えて寝かせ、自分だけ上体を離して、短く切られた夜半の髪が所在なげに枕に散るのを見つめる。――出会ったとき、まだ二人が部長と補佐に立場を分けられる前の夜半はこういう短い髪だった、思えばあのときからろくに息継ぎもせず走り続けてきた気がする、今になって、こんなことになって、やっと光星は――
 それでも止まらぬ秒針のように、目覚めてからもうずっと考えている。夢前が帰ったあとも、夜半が眠っている間も、沈黙の支配する瞬間も、夜半の傍らで光星は黙って考え事を続けている。長い間、ずっと。そんな日々でもやはり世界は回っていて、二人は二人で放って置かれるわけがなく、すぐに誰かしらからの連絡で時間は埋まるのだが、
 ――いくら経っても一言も寄越さない者がいる。



***



 その不義理な人間はあぶなっかしく屋上のふちに腰掛けて口笛なんか吹いている。黒いポンチョに包まれた細い背中を光星は青空の下で今、険のとれた眉の下から眺めていた。
 今日この日まで、この人物はとうとう姿を見せなかった。
 海月というにはわずかにひしゃげていて頼りない。こうしているとあの夜に見たぎらついた姿はいよいよ幻のごとしだ。ぐなぐなと柔らかい背が揺れていて、今にも折れそうだというよりも青に溶けて消えていきそうである。それにしてもひどい口笛だと光星は思う。理由はてんでわからないがわざと調子はずれにしているらしく、中途半端にあっている箇所があるのが逆に聞きづらい。いちばん近くで聞いている、そして宇宙部である光星だからこそ何の曲かわかるが――しかしなぜこの選曲なのだろう。海の曲なら合点もいくのに――はなむけのつもりなのだろうか。
 ロケットの方向を振り向くと、ちょうど打ち合わせが一区切りついたのか光星を向いていた夜半の金の双眸とばっちり視線がぶつかった。四角い長身は白い影を残しながら、担当医や現場スタッフの輪からするりと抜け出してくる。
「もしかしてちょっとうきうきしていますか」
「だめか?」
 迎えて指摘してやれば肩を竦めてくる、急ごしらえの与圧服をまとった相手に少しだけ脱力しつつ、光星は両手で持っていたヘルメットをボールのように抱きすくめた。相手の足をもう引っ張ることができない真面目な自分のことを今だけはどうしてか誇れない。
「そういう話じゃなく。――夜半部長、どうして今日なんですか。あれからまだ二週間しか経っていないじゃないですか。部長が人並み外れた体力と精神力をお持ちなのはよくよくわかりました、もういやってほど思い知りましたとも、でも、だからって――どう考えても無茶です。あなたが今から宇宙に行くなんて」
 それも一人きりで。
 永遠とわと真逆でどうやっても消えそうにない確かさを纏いながら、夜半はまっすぐに光星を見つめてくる。
「平気だ。こうして歩いていても息が切れなくなった。体はどこも痛まない」
「でも」
 わざわざ左手を目の前で握りしめ、開けてくれた相手からつい目をそらす。
 天上天下もいなくなり、勝敗にこだわるのは無意味だと大多数がわかっているなか、それでも勝ちは勝ちとして堂々と宇宙部のスタッフたちの前に腕を広げ横たわっていた。その抱擁はスタッフたちを大いに活気づかせ、そして同時に途方に暮れさせたこともまた本当のことだった。
 むなしい優勝旗をいつのまにか手にしていた宇宙部のスタッフは、更地と瓦礫の上で儀式のようにためらいながら、獲得した最後のパーツを有人ロケットに取り付けた。
 咎める声はどこからも上がらなかった。たぶん、きっと、希望が他には見えなかったせいだ。
 心機一転するために、社長がいなくなっても上を向くために、心の添え木として宇宙部の出した決断がこうだった。
 そして誰が言い出したのでもない。もともと決まっていたのでもない。恋が教えてくれた話を総合するとそうだった。――それなのに――いつの間にか搭乗するのは夜半だと、これもあらかじめの約束のようにすんなりと話が決まっていったという。
「どうして夜半部長が? だってあなたは生身の体です。他のひとよりずっとリスクがあるのに」
 光星のもっともな嘆きに夜半はというとなぜか満足げに笑うのである。ここまで嬉しそうな顔は出会ってこのかた一度も見たことがない、そんな気がして光星が当惑するのもそっちのけで夜半は仰のく。普段着とほとんど変わらない純白の与圧服がその首に沿って動いた。
 厚い胸板が上下して、ぱっ、と夜半の吐息が空に散る。
「俺は自分のために宇宙に行きたい、というのもあるにはあるが、次の世代のために、俺以外の人間が安心して宇宙に行けるように整えたいんだ。言わなかったか? 俺は繋ぎたいんだよ。だから、そのために役に立てるのならこれ以上の仕事はない」
「だからってこれじゃみすみす」
「そんなことはないし、それでもいいんだ。光星」
 何を言っても意味深長に響く音がゆっくりと光星を遮る。鐘が舌を抱くように、ますます光星はヘルメットを掻きいだいた。
「お前の言うのが正しいだろうことは俺にだってわかってる。でも、もう生身は他にいないんだったら尚更――俺の生き方はやはりこの社会では許されないものなんだ。後悔なんかしないがそれでも、本音を言うとずっと居心地は悪かった。何か解決策を見つけなくてはと思っていたよ、特にお前と知り合ってからは――このままじゃいられないことぐらい、俺にだってわかっていたんだ」
 目の前の上司が自分と同じくらい頑固であることをようやく理解しそうで光星はそれがくやしい。何を言っても却って決意を強固にさせてしまいそうだ。
 ふと夜半がまた息を解く。しかめつらを向けている光星の前髪がふわりと浮く。
「なあ光星、データ化した人間が乗ったってやることは同じなんだろう」
「それは、――」
 光星は言葉に詰まる。
 夜半の言う通りだ。このロケットは、地球に帰還することを想定していない、つまりあてどのない恒星間飛行を続ける前提で作られたものである。とは言っても何もこんなに急に、先行きが不明瞭なうちに飛ぶ予定はなかった。人々の移住が宇宙に決定してから先駆けとしてまずこのロケットが出発し、地上に残る人類に安全確認の連絡を送る。そしてそれを受けた地上側が追って母艦で地球を脱し、ロケットを迎えに行き、いずれ両者は宇宙空間もしくはどこかの星にて合流する、そんなシナリオが引かれていたはずだった。
 やることは、まだ人類の移住先が決まったわけではないが長い目で見れば変わらない。ロケットが宇宙空間に到達したあかつきに提供される情報は、宇宙部以外の活動にも大いに役立ってくれるだろう。それについては誰が搭乗者であってもさしたる差はないのだ。とにもかくにも地上側がさっさと迎えに行けばいいことで――貴重すぎるパーツの件もあり、次の船など一切見通しが立っていないのだが。――しかし搭乗者が生身かデータ化体かでは、当たり前だが主に本人の生命活動にかなりの違いが出る。地上に残る人々の答えを、次の船をどのくらい待っていられるかどうかはそこにかかっているのだ。
「でもデータ化した人間が乗ったとしたって、いつまでも無事でいられるってわけじゃないだろう」
「それは、――そう、です。想像エネルギーだって万能じゃないですし、誰にだっていずれ生命活動に限界は、来るでしょう。そもそも有人での恒星間飛行、更に言うとデータ化体初の宇宙探査がこれになるはずだったんですよ、未知のことばかりで何も明言できません。でも予測によれば――迎えが間に合わなかった場合、機体や通信機能が無事でも搭乗者が先に消滅する可能性が高い、とは聞いています」
「やっぱり俺が適任だ。お前たちのうちの誰かを失うよりずっといいはずだ」
 満足げに言ってのける夜半のことをやはり光星は引き留められない。困ったよな、と夜半がふたたび視線を飛ばすのでそれを追いかける――視線の先には何もない。いや青しかない。つかみどころのない青い青い、どこまでも――困った。本当に困った。いちばん光星が困っているのは、相手の選択も自分の情けなさもこのまま受け入れてしまいそうな、そういう光星自身のことだ。証拠に相手の言うことを否定する気など光星にはもう起きない。
 ついこのあいだ、やっとこの存在も熱い命だと思えたのにやはり、相手の居場所はここではないのか。先にかえってしまうのか。
「お前がお前をやめられないように、俺も俺をやめられない。どうしてもこのままで生ききりたい。――俺も相当なわがままだよな、――でもここではゆるされない、だったらこの命が尽きるまで俺は宇宙にいるさ。これがいちばんいいんだ」
 息継ぎなく囁いた、夜半の瞳のきらめきが光星の胸をそっとおさえてくる。
 ――だめだなあ、
 駄々を捏ねるように瞼を下ろしても、言外のやさしさに光星は気づいてしまう。無視もできない。さんざんためらって挙げ句口をついて出るものはやはり、
「夜半部長。僕、僕は、頼りない部下だったでしょう。あなたのこと、何一つ、支えられなかった」
 こんなにも弱々しい、別れを了解した、物わかりのよすぎる保身だらけの優等生の言葉なのだ。
「僕は優秀な人間です。今だってその自負があるんです。これまで僕は一心不乱に真面目に生きてきました。正しいことは何よりよいと、そうあるべき、そうするのが自分含め誰のためにもいちばんいいと信じてきたから。失敗なんかしないと思っていました。……でも、あの夜、限界だった僕は自分をおさえられなかった。他人を思いやる余裕なんて消し飛んでしまった、僕の信じてきたことはあの夜の出来事には通用しなかったんです。僕は社長を引き留められなかった、そして今」
 ――かつて同じ場所で、異星の住人のようと夜半のことを思ったことがなかったか。汚れがない青を背景に堂々と輝く、青と同じくまっさらな月の、軽い風になびくかけらを追いかけていられない。もう追いかけられない。後悔の予感が全身を叩いてくるのに、
「僕はあなたのことも手放してしまう」
 下を向くだけが今の光星の正義だった。くやしい。歯の隙間から光星は吐息と共に呟く。
「くやしいな。――あなたの言うとおりです、夜半部長――僕は僕の生き方を変えられない。変えたくない。こんなにもどかしいのに」
 光星の懺悔のような告白を、夜半は口も挟まず聞いていた。
 前触れなく――光星は心の奥のもう一人の自分が満たされた顔をしていることに気づく。もう何もいらないような気がする。もうすべて叶ってしまった気さえする。――じわじわとせりあがって身を侵す熱が夜半の声とよく似ていて、なんとなく、慕わしい。
 まだまだこれからなのになぜだろう。
 そんな二人を他のスタッフたちはずっと遠巻きに見ながら、粛々と発射の準備だけは整えている。そして、居合わせた永遠はというと――
「言いづらいんだけど、もうそろそろ時間だってさ」
 いつのまにやら光星たちのすぐそばまでやってきており、頬など掻きつつ光星へ声をかけてきたのだった。とうとう無視もできなくなり、光星は仕方なしに相手を振り向いてやる。
「……なんで見送りがあんたなんですかね」
「これから誰か送るってときにそんな顔するもんじゃない。あのな、おれも仕事で来てるんだよ。今はまだ一応おれが深海部の部長なんだから」
 あえて永遠が立ち会うことに意味があるのかもしれないと光星が思い直すその脇で、夜半がいつにも増してゆるやかに永遠へとその身を返した。
「永遠、来てくれて」
「黙れ。ベッドに突っ返すぞ。――こっちの気も知らねえで――おれのことはいいから。声かけて悪かったよ」
「ふつうの挨拶だろう。これくらいは言わせてくれ」
「だめだよ」
 顔中力んで夜半をねめつけたのち、こいつ浮かれきってんな、と永遠がひとりごちるのを光星は拾って自覚なしに口角を上げてしまう。そうか。光星の目はやはりおかしくないのだ。一年付き合ってわかるようになってしまったのだ。
 これからのことを問う夜半に永遠はというとゆらゆらと、止まる直前の独楽のように生返事をしている。そこに光星は――いいのだ、言ってしまおう。今ここで――永遠チーフ、と名を呼んでやる。ずっとずっと憎かった相手の名をなるべくさりげなく口にして、振り向いた永遠に向かって姿勢をただす。
 まったく意外そうにしない永遠はやはり憎たらしかった。
「あんたが今後どうするのか知りませんけど。どう処遇が決まったって、僕はあんたを許せそうにないです。好きになれそうにもないしどう付き合うべきかてんで見当がつかない。これから夜半部長が飛び立ったらあんたとここに残されるのかと思うと正直ぞっとします」
 永遠は顔色ひとつ変えない。そういえば相手の目を見ることが何故か今はなんのためらいもない、光星は遥か昔の前世でも思い返すようにほんの二週間前までの自分を懐かしみながら話し続ける。
 今言ってしまうのだ。夜半は今日去ってしまうのだから。
「でも、気にしません。僕はもうあんたに振り回されない。だって僕がここに残るのは、第一に自分の夢のためだからです。夜半部長の次に続きたくて、この会社をみんなとやりなおしたくて、それで僕は残るんです。僕はきっと今の時代に生まれなくても宇宙を目指す人間になったでしょう、きっとそう、だから夢を忘れていない。だからちゃんと夢を叶えたい。やりたいように生きてやる」
 僕だって自由にやる、とそう締める。
 しかし永遠はというと今の言葉が効いたのやら効いてないのやら、先ほどまでは透きとおった真顔で聞いていたくせに、光星が話し終えた途端に何となく悩ましげに眉を寄せて体ごと傾いだりしているのだ。――本当になんなのだろうこの相手は。――
 とうとうそのときが近いらしい。気温や風向きの観測をしていたスタッフが、そろそろ準備してください、と声を投げてくる。
 ああいよいよと思えば思うほど腕に力が入ってしまう光星に、夜半は見透かしたように視線を投げてきた。
「光星」
 みつぼし、と続けて何度か呼ばれて初めて、光星は自分がどれほど緊張しているのかやっと自覚した。なんとなく夜半の声は含み笑いをしているようだ。
「なあ光星、そのままでいいから聞いてくれ。この会社でお前と挨拶した日、これからよろしく頼むと言っただろう、あのときの気持ちは今でも変わらない。お互いものの考え方が違うとわかってからも、でもやっぱり変わらなかった」
 これでほんとにお別れみたいじゃないか。俯いていた光星の視界にひとつ、白い足が踏み込んできた。
「ほんとうは説明したかった。俺の生き方もこの体のこともわかってもらえなくてよかった。でも真面目に頑張ってるお前に同じように応えたかったんだ。すまなかった」
 お辞儀でもするように背を折る光星の顔の下、今度は白いグローブに包まれた大きな左手が光星を待っている。待っている。待たれているのがわかるので尚、光星は駄々を捏ねてしまう。
 無言でたっぷり意地を張って、ヘルメットを落とさぬよう、そろそろと両手を差し伸べてみた。
 重ねる。左手に左手、甲に右手を。がっしりとした厚い手からは与圧服のグローブ越しでも熱が伝わってくる気がして、それでこんなにデータの体がさわがしい。
 ありがとう、と夜半の声と手が揺れる。
「お前が隣にいてくれたから俺は自分を失わないで済んだんだよ。お前がいたからたどりつけた――お前は誰より真面目で優しい。よくがんばったんだ――光星、お前は俺の大切な右腕だ、どこにいてもずっと変わらない。信じている」
 ――お前に会えてよかった。
 光星は雷にうたれたように立ちすくんだ。
 そう、さよならだとか行ってらっしゃいだとかそういうものすら夜半は越える。これがいちばん聞きたかったことであり、たぶん言いたかったことでもあると光星は天啓を得たように体を起こす。
 錯覚ではなく、夜半のその目の金が境界をなくしとけているのを見て、見慣れない顔をされることにまた限界を超えそうで、張り詰める糸がゆるゆるほどけるのを光星は認めるしかない。

 時間が迫って騒がしくなり始めたスタッフの声に紛れて永遠の飄々とした声がさす。
「あんまり部下を泣かせるんじゃない。かわいい右腕なんだろ、おまえの」
 まさかと焦って目元を拭う光星に「いや比喩だよ比喩」と永遠はこともなげにあっさり返してくる。
「比喩じゃない。光星は俺の大事な右腕だ」
 とんちんかんな答えを言い残し、夜半はとうとうロケットに乗り込んだ。夜半の歩行を避ける形で美しく体を反らした永遠が声を立てて笑っている。
「そうじゃねえ、――まあいいや、もういい――おれはずっと光星に用があったんだよ、ようやく果たせるよ。おい、みっちゃんみっちゃん」
「いい加減その呼び方は」
 つい反応した光星の手からすぽんと音が鳴る。一瞬目を離した隙にヘルメットは永遠の腕の中だ。
「なあ夜半。大事なんだろ? じゃあこんな地上においていくわけないよな」
 果物か太鼓でも叩くようにすとんすとんとヘルメットを鳴らした永遠は、光星が唖然としているうちに夜半をおしのけてロケットに上がり込む。押し出された形になった夜半のきょとんとした顔が光星の鼻先に押しつけられた。一度見合ってやっと光星は正気に戻る。背後が一層騒がしくなる、状況に気づいたスタッフたちが慌てだしたのだ。
「ちょっと! 永遠チーフ、何を」
「精密機器に乗り込むときは化粧厳禁。はい忘れ物」
 何やらごそごそ探っていた永遠のポケットから青いリップが現れ、放物線を描いて夜半まで飛ぶ。振り向きかけていた夜半の左手に危なげなくおさまったその一部始終を見届けるでもなく、永遠はというとおもむろに睫毛を伏せて親指を、自身の薄すぎず厚すぎずの唇へ添えて、
「永遠、」
「あばよ」
 当たり前にずっとそこにあった青を剥がした。永遠の親指は次の瞬間夜半の厚い唇に置かれ、びっと音でもしそうなほど横様に一閃走る。
「じゃあな。にんげんはにんげんらしく這いつくばって上を見てるのがお似合いさ」
 色の元持ち主は――風圧で浮いた黒髪の中心でほころぶ永遠は、台座で光る宝石のようだ。
 ここまで来てはもうロケットは止まらない。離れて、とうろたえながらも注意しつづけるスタッフの大声を遠くに聞きながら、それでも光星は諦めず近寄ろうとするが、一瞬にして生成されたデータのシールドに阻まれてしまう――想像エネルギーがケーブルを伝ってロケットに集中していく。光星の、顔の前に回した腕の隙間から見える永遠は余裕で手を振っており、その裸の唇がまた何か動く、一度だけおどけるように目が見開かれ――そしてすぐに永遠の顔はヘルメットで覆い隠された。乗降口のハッチがスライドし、完全に施錠される音が響き渡る。永遠の手だけがしばらくのあいだ光星たちを小窓から見ていたがそれももう見えなくなる、燃やされた想像エネルギーの生むガスがシールド越しにあふれかえった。
 あの夜と違ってカウントダウンはどこまでも健全で、その証拠に正確だ。
 ケーブルが自動切断されていく。地を揺らし、夢でできたロケットが、夢を燃やして飛び立っていく。うろたえる全員が一歩も動けないのを振り返らず、何かに呼ばれているように球体は空へとのぼってゆく――





 もしこの状況を見た誰かがいたら、大勢で何を迎えるつもりなのか、と聞かれてしまいそうだ。その場にいる全員が空の同じ方向を見ている。揃いも揃って上を仰ぐ、自然と口の開くさまのなんとのんきなことだろう。
「あ、あ、あ、あのオニアクマ、」
 あんなに充満していたガスもすっかり消えてしまった。落ち着くにつれて何が起きたか理解した光星を遅れて怒りが襲い、しかしそれは昂じずにあっさり疲れに変じてしまう。あの相手のやることときたら一事が万事こうなのだ、そうだ、いっときだって油断してはいけないと思っていたはずなのに。最後の最後でしてやられてしまった。
 振り回されないと言ったその舌の根も乾かぬうちの大混乱がむなしい。いや、してやられている暇はない、光星の決意とて負けず劣らず固いのだから。
「夜半部長、大丈夫ですか? 怪我はありませんか」
 返事はなかった。代わりとばかりに耳元をすり抜ける、
 ――大丈夫かな。
 その呟きに夜半を振り向く。
 いたいけなアンテナのように夜半の顔は上空をずっと見ている。また名前を呼んでやるが、金の瞳はたった一瞬だけ光星の目を見ただけですぐに元に戻ったのだった。グローブの指が無造作に引かれた口元の青い線をなぞっている。とらえどころのない青を見つめ続けるその双眸は夢でも漂うようにどこかぼんやり遠い。
 夜半の横顔を、うっすら覆う産毛が輝いている。
「あいつ苦手なんだ、宇宙見るの。――大丈夫かな、」
 スタッフたちが二人に駆け寄る気配がする。切れたケーブルに数々の観測機、示し合わせたわけでもないのに上を見続ける二人の目には、もうどこにも白い点などない。



***



 夢を燃やしてかけあがる点が粒になる。
 ぎらついた波の打ち寄せる、剥き出しの浜辺を歩くセレの青い青い目にいたずらに映りこみ、星からこぼれた船はどんどん地表より遠ざかる。耳などないからどんな言葉にも惑わされないとでも言いたげにときおり強くきらめいて、深い瞳に波一つ残さず――まるで迷子が家へ駆け寄るように――
 白点は青から飛び出し、そして再び青へと吸い込まれていく。