Blue Eden #17 恋人になれない恋人たち







 視界が漂白される。フロア中をスパークが縦横無尽に走り抜ける。
「来ないと思っていました」
 閃光ののち、乾燥した声が転がった。
 精密機器の山が影をなしている。いちばん奥にある一対の作業机とその椅子に腰掛けているのはこの会社の社長、今の世の中を作り上げた最高齢、すべてを統べる天上天下てんじょう てんげだ。物憂げな砂の瞳、不機嫌そうに張り詰めた少女のままの頬。雑然とした宇宙部現場フロアに不釣り合いなたたずまい。どこからどう見ても本人だ。
 天下の背後の壁に堂々と映る数字はどちらも「2」である。
 フロアのいくつかの機械は先ほどの攻撃でショートを起こしたものまであるのに、天下だけが変化がない。やわらかそうに揺れる髪も長い長いマントも、よく見慣れたものではあるはずだが――永遠とわはフロアのまんなかに踊り出て急停止するとしばらく目を瞠ってその事実を確認し、
 やがて銃を床に下ろした。
「ご挨拶だな。おれに対する評価が歪んでる」
「そうかしら、あなたは夜半との決着を優先するだろうとわたしはそう思っていたの。でもあなたらしいといえばそうね、わたしとのことを済ませてからゆっくり夜半と向き合うつもりなのね。あなたはとても諦めの悪い子だから」
 ――撃ったのちの一瞬だけ天下の像がゆらいだ感覚はあった。あの光の飛び交う視界で確かに見た。――しかしそれだけだった。己のエネルギーまで回すつもりで集中して撃ってやったというのにそれっぽっちしか天下に通用していない、なんとなくその理由がわかるようでわかりたくなくて、永遠はすっかり毒気を抜かれてしまう。
 うしろから夜半と光星みつぼしが入室した気配を感じる。天下にどういう表情を向けてやればいいか永遠はしばし逡巡し、
「おまえの話を聞きに来たんだよ」
 そう促した。なるべく静かに、ゆっくりと。
 もうそうするしかない。本当に、聞くためにここに来たのだから。逃げ場がないのは天下だけではない。
 永遠の心境を知ってか知らずか、天下は出し抜けに笑う。笑うととたんに艶やかなこの相手の余裕がいったいどこから湧くものなのか永遠にはずっと不思議だったのだが、根拠などないからこその余裕ともとれる、いやひょっとするとそもそもあるように見えているだけで、ここには何もないのかもしれない。どこからどこまでが真実で嘘なのか、無意識の範囲のものは永遠に見抜けるはずもない。
「すべて話そうとすると三百年かかってしまいます。わたしの人生の話だから」
「そう。別にいいよ。おれはおまえが話し下手なのなんとなく知ってるし、同情だってしてやらないから何でも付き合うさ。言えよ。おまえは何がしたかったの。今どこにいる」
「てんげしゃちょう」
 永遠の脇をこけつまろびつかけて行ったのは光星だ。
「社長。助けて、僕たちを助けて、」
 よろよろと叩かれた蝿の軌跡のように作業机の波をかきわけかきわけ光星は進む。そして永遠が止める間もなく、天下に直行し、彼女の腰掛ける椅子に全身でぶつかった。
 天下をすり抜けたのだ。
 やがてフロア一帯の空気は出入り口付近の壁に寄りかかっている夜半の吐息を思い出す。その重さのなかで光星がぽっかり口を開けてのろく仰のいた。天下はというと、やたら慈しみのこもった目でそんな光星を見つめている。
「今のわたしはホログラムです。社長を辞めると言ったでしょう。構成する情報をクラウド上に移動して、ここからはもうすぐ消えます」
 ――いつからだったのだろう。永遠はこれまでを思い返すが、何しろ光星たちが入ったあたりから天下とは碌に話せていないので何を考えても自信がない。あれからもう一年ほどになるはずだ。――食事のときはどうだったろうか。今だって撃つまで疑わなかったのだから、あのときに既に映像に成り果てていたとしてもおかしくない。質量はないが動きはかなり精巧だ。髪も服も、ほらすぐ触れるように揺れるのだからたちが悪い。
 夜半の息づかいが床に染みている。どうも一人では立っていられずに壁伝いに座ったらしい。暴れ馬のように焦る気持ちを抑え、永遠はじっと天下に気持ちを集中させる。
 憂いを帯びた睫毛をふるわせ、天下はぽつりと独白を始めた。
「くたびれたんです。存在することに」
 光星が小さくぐずりながら椅子から離れた。明かりの落ちているこの場所でもわかる、どす黒く変色している黄と紺だったものを見ながら永遠は口を開く。
「なあ天下、どうしておれたちを入れたんだ。こんな終わりになるんだったら何故、始めてしまったんだ。どうしておれに手を延べた」
「永遠。それは違います。こういう終わりを待っていたからこそ始めたの。だからこそのあなたたちです」
 さっとマントをなびかせ天下が立ち上がる。スターダストともマリンスノウともとれるマント裏の小さなきらめきが、こんなときでも如実に存在を主張していてそれで何度も永遠は彼女が映像であることを忘れかける。
 今から弔いがはじまるんだろう、
 永遠の頭の奥でそう暗く青があふれた。ほぼ同時に天下の小さくて低い声がフロアに流れ出す。いつもどおりの口調だ。
「あなたと夜半がどういう終わりを迎えるのか見届けたかった。対立する者たちがどうやってゆるしあって生きていくのか、そしてお互いを無視できないほどにぶつかったとき、どう決着をつけるのか知りたかった」
 それが今回のこの競争を起こしたわけ、ひいては宇宙と深海に部署を分けてこの会社を始めた理由なのだ、ということは、無防備な表情をさらして放心している光星にも伝わったらしい。――そういえば光星はあの食事の際に、天下の今の言葉に繋がる問いを投げてはいなかったか――ここに天下を探してやってきた三人とも、それぞれ大事に抱えている疑問の一部が重なり合っているのだ、と永遠はそう気づく。
 別れたきりそれぞれの人生を歩いていくはずだった永遠と夜半がどうしてブルー・エデンで再会したのか。偶然ではなかったのだ。この会社が、いや今の社会が宇宙派と深海派に分断されてしまったように、いつかひとつのパーツを取り合ってこうして争うように、永遠と夜半がぶつかることもまた決められていた。あのまま離れていればいくらこの狭いコロニー内とはいえ一生関わらずに過ごすことも可能だったはずが、十年前に天下と永遠が巡りあい、永遠が傷心のままに胸の内を打ち明けてしまったばかりに舞台は整えられた。
「永遠、あの夜にあなたを拾ったことは完全に偶然でした。あなたに会えたことは本当に幸運だった」
 恨んでいますか、と囁きながら天下が小首を傾げるので永遠はほんの少し笑いそうになる。目の前のどこまでも身勝手な社長はこんなにも幼い、そして小さい、何も悪びれていない。だから永遠も安心して答えられる。――癪と言えば癪だがそれより感謝してるくらいだ、と――ただで転んでなるものか。用意された舞台だろうと永遠のやることはひとつしかないのだ。仕掛け人を差し置いて結末へ走って行けることにいくばくか申し訳なさすら感じるほど永遠の思考は澄み切っている。
 天下はやはり動じなかった。頷き返し、また話し出す。
「わたしはあのとき、あなたにえいえんを見せて欲しいと言いましたね、覚えていますか。あなたにとってのえいえんがなんなのか、わたしは興味を持ったの。海のいきものや電脳アイドルといった曖昧なものに焦がれるあなたが、どう生きるつもりなのか――夜半との決着のつけかただけではなく、あなたのすべて――あなたに会ってわたしは自分自身の身の振り方を決めたのです。いずれこうしてあなたたちに選択を迫って、あなたの結末を見届けて、この舞台から立ち去るのだと」
「そういうからくりだったのか。俺が生身であることをあなたが見逃していたのは。俺を入社させるだけでなく、部長になるようにと命じた理由も」
 反応を見せたのは夜半だ。もはや何かそういうひとつの楽器のようになってしまった浅い息の下から夜半が話している。
「そう。夜半、あなたがあなたであることが、きっと永遠との関係の肝だと思ったから、だからあなたにもここに来てもらいました。ここはわたしの箱庭。人形はセットでそろえるものでしょう」
「そんな、人をおもちゃみたいに!」
 義憤にかられたのか光星が叫んだ。しかしその叫びにいつもの光星らしい張りはもうない。――永遠は内心では光星のしたたかさに舌を巻いている。きっと周囲の思うよりも光星は強いのだろう、今はもう、限界かもしれないが。――天下は光星のことをどう思っているのかまた少し微笑んでいる。見れば見るほど不思議な笑みだ。どこにも何もないような、それなのに喉に小骨がひっかかって取れない、もどかしくなるあの笑みだ。どこか意外そうに眉が上がっている。
「心外。自分以外のことをおもちゃだなんて思っていないわ。でも、世の中には、わたしと、あとはわたしが導くものたちしかいない。わたしはそのように育てられ、また自分でも疑っていません。今でもそう。自分以外は好きに扱っていい。わたしにはその権利があるのだと」
 有無を言わさぬ物言いをした天下に何も返せないらしく、光星はぼんやり傾いでいる。その隣を通って天下はするするとフロアの端に向かって歩き出した。長い長い影だ、違う。あれは影でなく、彼女の背負う薄く重そうな闇だ。夜のとばり。さざ波がうねる。
 おもむろに天下はまた説明を始める。持っているものをひとつひとつ、ほころびからこぼすように。
「夢というのはふしぎなものね。この会社も、探査機の燃料も、あなたたちの存在そのものも、何もかも夢を支えにできている。こんなにおかしなエネルギーはないわ。――これまでの約三百年間、たくさんの人間たちに夢を訊ねては雛の仕分けのように宇宙部か深海部にふって、彼らの見る夢でこの社会を回してきたけど、実に興味深いものでした。誰でもやりたいことがある。たまにいる無気力な者も、それでも『苦しみたくない』とは思っている。夢なんてどう言い換えてもわたしには同じ、願望、欲望、野望、目標、執着、こだわり、したごころ、おそれ――どんな人間にも何かしらの望みはあるものです」
 もちろん、わたしにも。
「優秀な人を求めているとわたしが公言していたのは、あれは嘘ではないの。わたしはそういう存在をこの三百年間ずっと欲していました。――正確に言えば、――かつてわたしがこの人生に併走してほしいと願った、たった一人の優秀な人物のことを」
 フロアの端、永遠の視界の右端である。たくさんの計測器の林を縫って、輝くブーツの先が揃って止まった。
「せっかく三人ともここに来てくれたのだから、もう少し説明しないといけませんね。今から約三百年前、――わたしがほんとうにこの外見どおりの若者だった頃――わたしは、とある人物と意見を違えました。その人物は、夢のない子どもとかつて言われたわたしが初めて自分の意思でそばにいてほしいと思えた相手だった。ずっと特別でありたかった。できればえいえんに。だからこそわたしは自分の意見を貫き、相手に当時完成していた不老不死の処置を施しました。――そして――そして相手は姿を消した。それきり戻ってこなかった。研究は失敗したとみなされて闇に葬られ、そしてわたしは責任を取るためにデータ化社会の先頭に立ちました」
 こぼれるように振り向いた天下に、永遠は砂漠で踊る彼女の幻を見る。永遠の心に射し込む乾いた茶の両目が挑むように光っている。
「なぜその相手が消えたのかわたしには今でもわからない。だからもし願いが叶うのなら帰ってきて教えてほしかった。どうして消えてしまったのか、わたしの何が悪かったのかを」
 天下の言っているその相手というのはおそらく、ハイマ医師がかつて探し求めていた者と同一なのだろう。ハイマ医師がたどりつけないはずである。三百年前の人間といえばデータベースに個人情報が登録されているわけがない。不老不死研究が闇に葬られたのがくだんの人物に起因するというのなら尚のこと、存在はタブーである。
 天下の口辺からは笑みが消えていないのだった。それ以外の表情を忘れたようだ。しかし目は、そのずっとずっと伏し目がちだった瞼を開き、瞳孔から手を伸ばしている。頬を両手で囲われた気がして永遠は眼球だけでそれを拒絶する。もちろん現実の天下が永遠の鼻先にいるわけはなく、彼女は少し離れたフロアの端で、今度は壁に映ったふたつの「2」を人差し指でなぞったりしている。その小さな指が透けているのがもう誰の目にもはっきりわかる。
「あのモルグはわたしの記憶の寝所です。初心を風化させないために――不老不死研究をもう一度復活させて、それであなたたちも含めて全員でいついつまでも生きていくことも考えていました。そうすればどんなにかかっても待てますから――でもその望みはあっけなく潰えたの。医療区で秘密裏に進めていた不老不死研究の再現は完全に失敗しました。もうあれには希望は託せなかった」
 天下が裏で何かをしていることは永遠だってなんとなく気づいていたはずなのに、今こうして明かされることの数々が鮮やかで、気が遠くなる。いつの間に――ほんとうにいつの間にこんなことが起きていたのか。なぜ知らないでいられたのか――決まっている。永遠の興味はそちらには向かなかったからだ。永遠が選ばなかったからだ。
 この世が天下の掌の上であったことを思い知る。本当に彼女の独壇場だ。天下ばかり、まるで天下一人の世界のように目の前の人間は好き放題ふるまっていた。そしてそれをゆるしていたのは他でもない、
「永遠。その頃です、あなたに出会ったのは。わたしは自分自身を見つめ直すことになりました――誰かと意見を違えること、そのありかたを知りたくて対立させているわたしのブルー・エデン、そして待ち続けている相手のこと、えいえんについて――やがて決心したわたしは『天上天下』という存在をクラウド上に移すことを思いつきました。誰もなしえなかったことを、わたし一人だけでも叶えられないか、あなたたちの様子を観察しながら十年間、偶然を探し続けました」
「それで」
「見つけたんですか」
 永遠の声に続いたのは光星だった。
 天下の小さな顎がゆっくり上下に動く。――この顎も、動くたびにわずかに床に擦れる裾も、渦を巻く亜麻色の髪も、スカートから伸びる棒のように細い足も全部、ぜんぶ、もう消えるという。――たまらない。急き込んで永遠は天下に近寄ろうとする。
「おれを唆してこの舞台に引き上げたのはおまえじゃないか! それがなんで急にこんな手の離し方をしたんだ」
「あなたを意図的に孤立させようと意地悪したのではないの。わたしがクラウド上に行く、これにはとてもエネルギーが必要です。この計画が最終段階に入って、もう、いろいろと保てなくなっていたの、あなたのことを隠しておけなくなったのはそちらに力を回せなくなっただけ。今回の競争でこの会社が崩れて、そしてみんながブラックアウトを起こしたのもだいたい同じ理由です」
 つう、と待っていたと言わんばかりに沈黙が永遠と天下の二人を結ぶ。しかし断たれている。近寄ろうとはしたが、それがどうしても永遠にはできない。ぶあついアクリルの壁の向こう、相手は砂の孤島にいる。
 天下が永遠を利用したのではない。――それだけではない、――永遠だって天下のいざないを利用して十年生きてきたのだ。その永遠が今の天下に何を言えるだろう。ここまで説明されて相手を糾弾できるわけがない。
「待つことを完全に諦めたわけでもないの。クラウド上に行く選択だってある意味では半永久的な存在になることでしょう? わたしの待つ相手だって不老不死なのだから、これで対等――でもそれにしてもやはり、長く生きすぎました。わたしがここまで生き延びた理由には、データ化を始めた世代の象徴としての役割も含まれていたんです、それに疲れてしまって。だから自我は手放してしまおうとそう決めているんです」
 永遠から視線を外し、存在しない花を手折って俯いた天下につられたのか、その長いマントの裾をたぐるように光星が這い寄っていく。エネルギーを断たれ、永遠の銃撃を受け、満身創痍の床と光星の脛がこすりあって境界をなくしていく。
「もう、もうどうでもいいです、もういい。説明なんかもういい。助けてください、僕を、僕たちをたすけて、」
「ここまでよく頑張りましたね、満天光星。でも、いけません、今のわたしではデータをいじることさえできないから」
 いっそ振り払ってくれたほうがまだ慈悲があるのではと思わせるほど天下の答えは一切容赦がない。
「そんな、そんな、――じゃあクラウド上に連れていってください、それなら助かるでしょう、――もういいんでしょう? 助かっても――社長はお一人で助かるつもりなんですか。教えてくださいよ、方法を」
「偶然を探した、とさっき散々言ったでしょう。わたしが移動する仕組みでさえ自分でもよくわかっていないの。教えるなんて、そんなことはわたしがしてほしかったことです」
 追い打ちとばかりに天下は続きを言い放つ。
「ごめんなさいね。あなたの上司を救うには本人の生命力に頼るか、あとはデータ化しかないでしょう――後者は本人が頑として拒否しそうだけど――わたしにはどうしようもない」
 鼻をすする音がして、それで永遠はさっきから、涙のことを考えている。冴え渡っていた思考に海が広がる。クラウンを作る水滴。体液なのだからデータ化してしまえば無縁のものだが、それでもやはり、どうしてか流れるものではある。――おかしな話だ。子どもが生身で生まれるように――どうしてなんて、本当は何一つ、誰も説明することなどできない。
「天下社長。俺の問いにも答えてくれないか」
「もちろんですよ、夜半。もう嘘は言いません。あなたもよくここまで来てくれましたね」
「この騒動が終わったら――もしも誰かが宇宙に行けるとなったなら――本当に、宇宙部のロケットは飛び立つことができるのか」
「ええ。勝敗が決まれば、最後のパーツを保管している場所へのロックが自動で外れます。誰でもすぐ取りにいける」
「そうじゃない。本当のことを言ってくれ」
 夜半はかぶりを振る。永遠が雑に切った髪の毛がぱらぱらと束を作って、血の気を失った頬にぶつかっている。
「出発しても無事に進める望みは薄いんだろう。――他のスタッフたちにどんな景色を見せているんだ――俺にはデブリだらけの空しか見えない。とても問題なく行けるようには思えないのに」
 初耳だ。永遠でも焦る言葉に、しかし天下はというとやはりみじんも動じない。
「宇宙は日常生活で手の届かないところにありますから、宇宙部の士気を保つためにも細工が必要だったの。生身であるあなたをごまかせないことはわかっていたわ。でも、もう、あなたが入った時点で、わたしの計画も完成に近づいていたから、あなただけごまかす必要性は感じなかった」
「そんな」
 光星の背がひきつっている。――永遠が子どもの頃に見た空はそんなに汚いようには見えなかった。あの思い出も全部干渉されてしまった、ねじまがった記憶なのだろうか――海はすぐ触れる。海が汚いことぐらい深海部の人間は承知で開発を進めてきた。そんなことは大前提だった。このごみだらけの海をどう攻略するか、折れそうになっていたスタッフもいたが――しかしすぐそこにあるからこそ、絶望する暇などなかった。ずっと海に期待していられたのだ。
 宇宙はそうではなかったのか。
「社長。あなたは俺の恩人でもあるから悪く思いたくない――俺はあなたに匿われてしまった身だ――しかし、あなたのやりかたを受け入れるわけにもいかない、そんなことは、できそうにない」
 かすれた吐息に織り交ぜて夜半がそう告げ、それでも天下は微笑むだけだ。傷だらけだからかすり傷など今更取るに足りないのだと永遠が思うのも置き去りである。
「大丈夫。わたしはもう消えるから、わたしのことを受け入れられなくてももう心配ないでしょう。新しい時代が来るわ」
「さっきから――さっきから何を言ってるんですか! ――無責任なことばっかり言わないでください!」
「これがわたしなりの責任のとりかたです」
 なけなしのちからを振り絞ったのだろう光星にも、涼やかな天下の主張が下りていくだけだ。光星はあっけなく黙る。永遠たちの誰も天下を引き留めることができない。
「どこにも居場所がない、罪だらけの人間が他にどうやって責任をとれるでしょう」
 誰も何も言い返さなかった。言い返せなかった。
 光星がまた泣いている。
 なんだかいつも聞いていた気がする。誰かの啜り泣きをずっと。だからだろうか、やたらなつかしい。光星がうずくまって泣いているのを痛ましい、しかし仕方がないとさまざまに思いながら、彼の泣き声に永遠は心底ほっとしている。ようやくようやく音と映像が繋がった気がして慰められている。
 ――どうして捨てられないのだろう。
 どうしてこうなったのだろう。
 どうしても。どうしても? ……どうしても。
「おれたち何をやってたんだろうな」
 天下のどこも動かない。夜半もうずくまった姿勢で何も言わない。光星でさえ、もう、呆然と腕を投げ出し祈りの姿で静まりかえっている。
 ああ子どもの頃馴染んだ水族館も、そういえばプラネタリウムもこんな風に静かだったかもしれない、そう出し抜けに永遠は思い出す。やいのやいのと諍いが起きるから忘れていた。この地上はもともとはきっともっと無口だ。
「こんなに近くにいたのに。何かが違っていればおまえを殴ってでも止められたかもしれないのにな。待って待って待ち続けて、おまえの望む相手はもう来ないんだろうけど、でもおれは、おれは来たのに。今ここにいるのに」
「ありがとう、永遠」
 彼女の答えが否定と拒絶の意味をはらむことを説明されずとも永遠はわかっている。そして永遠が気づいていることを、天下も、おそらくはわかっているのだろう、天下の浮かべているものは疲れているが清々しい笑みだった。清々しいが、どこにもいない笑みだった。あのいつもの虚無的な乾燥した瞳。結局天下はそこに引きこもって一度も出てこなかった。こんなにたくさんある腕が揃いもそろって役立たずとはお笑いぐさだ。
「永遠、だけど、あなたは最終的に夜半とのことを選ぶのでしょう。ここに来たのはわたしが理由なのではなく、夜半とけりをつけるために、そしてひいてはあなた自身のため――それでももういいわ。あなたたちのことをここまで見られたのだから悔いはない――たぶん、あなたたちは、わたしにとっての希望だったのかもしれません。わたしのさいごに見る夢があなたたちだったのかもしれない」
 声音の変化にはっと気づいて顔を上げたときには天下は既に背を向けていた。小さな上り階段に吸い込まれるように足をかけている。名を呟いた永遠を振り返ろうとしない。あの階段の先は屋上だ。
「でももう遅いの。すべてはとっくの昔に終わっていたことだから」
 背の消えたあと重い扉はあけっぱなしだった。考えるまでもなく永遠の足は動く。
「天下!」
 吹きつける風、
 そしておそろしいほど透きとおる夜空にのしかかられ、永遠は一瞬怯んだ。それが運命の一瞬だった。ホログラムといわれれば納得できる、天下がどうして神出鬼没のふるまいを見せていたのか――軍服の姿がもうあんなに遠く、屋上のひらけたところにぽつんと落ちている。彼女のつまらなそうな横顔、低めのあどけない鼻が上を向いている――避雷針だ。何かを迎えるように――迎えを待つ幼な子のように彼女は天を仰いでいる。
 月と星々を塗りつぶして天下を見下ろすのはヘヴンの巨大な顔面だ。人々に愛され、人々の情報からランダムに出されたあのアイドルキャラクターが興味深そうに天下を観察している。あれはヘヴンだ。誰に説明されずとも永遠にはわかる。空一面覆い尽くす顔が何になっても永遠にはわかる。
「天下! 戻ってこい!」
 当たり前のように天下は永遠を見ない。そろそろ限界が来たのか思うように動かない四肢を叱咤したそのとき、屋上への出入り口でもだもだしていた永遠の脇を旋風がすり抜ける。
 光星だ、と認識するも刹那のこと、直後のすさまじいフラッシュに永遠の思考はつまづいた。
 光星が撃ったのだ。たぶん今のは――空中に向けての威嚇のものだろう、誰を狙ったわけでなくきっと光星の心のごとく決壊したのだ――天下は? あのホログラムは今の衝撃に耐え切れただろうか。
 永遠の視線の先にあるものは夜明け前の夜空、興味深げにこちらを覗いてくる巨大なヘヴンの顔、そして光星。長い足が怪しげにふらついている。
 それだけだった。天下の姿は跡形もない。――さいごの瞬間、白一面のなかで天下は確かに振り向いたようだった、珍しく笑みがなく、驚きに染まり開ききった両目が永遠と光星のいる方向を向いていたように思えた――がしかし確認のしようはない。もう、彼女はどこにもいない。
 きっと行ってしまった。今のが別れだった。
「みつぼし、」
 続いていく現実のために呼びかけた永遠の手からテーザーガンが飛び、衝撃で永遠は数歩さがる。戻ることも進むこともゆるされなかった。開いたきりの堅牢な扉が背中に当たる――光星の銃口が寝ぼけ眼のようにこちらを――すぐうしろに息が聞こえる。今にも夜空に消えていきそうな不規則な吐息。上がってきたのか、あの体でここまで。もうこちらも限界のはずだ。
「光星!」
「うるさい! もう――もうたくさんだ!」
 何度目かの永遠の呼び声を光星はすべてはじきかえしてくる。風が強い。今の永遠にはとても近づけそうにない。
「みんなみんな大っ嫌いだ! あんたたちみたいな化け物――みんな狂ってる! 嘘、嘘、嘘ばっかり。どうして――どうしてこんな――僕は――僕はこんなことをするために生まれてきたんじゃない! 僕は」
 万事休す。永遠は丸腰だ。声も届かないとなればどうすればいい。手も足も出ないとはこのことだ。次の動きを逃してはいけない、光星は震える両手を突き出すようにして銃を構えている。もう光星には何もわかっていないのかもしれない。どこを狙っているのか判然としない、なんともあやうい――それでも両手がしっかりとカートリッジを交換している。――ヘヴンが見下ろす以外、光星の他は階段から上がることさえできないステージに、棺桶のようにのっぺりとロケットがたたずむ。真っ白な球体をしているそれを通り過ぎて更に奥で光星は、わななく体を風に曝している。
「僕は夢を叶えにきたんだ、あんたたちに振り回されるためじゃない、僕は正しい、僕は間違ってない、僕は、――僕は――こんな地獄に来たかったんじゃない!」
 光星の指がトリガーにかかる。
 間に合わない。

 ――ひとすじの虹が、夜空を駆けて星にぶつかる、

 とっさに両腕で頭を庇う。
 今日で何回この閃光を見ただろうか。エネルギーの足りない体を必死に立て直し、いや、確認するまでもないのだった。永遠はもう知っている。走った虹が誰なのかを。
「私は」
 今にも飛びそうな意識のなかで光星が何か叫んでいる。永遠はなんとか体勢を戻し、嗄れるはずのない声を絞って透いた虹の名を呼ぶ、光星に負けまいと呼ぶ、しかしそれは奇妙なことに無音なのだった。しんと痺れるしじまの広がる耳に届くものは風の下を這う声である。どこまでも静謐で淡々とした乱れのない丁寧語、染みも皺もないシャツに覆われた薄い体躯の頂点で銀の糸がオーロラになっている。十年隣にいて間違うはずがない。
「私は何もかもを捨てた人間です。今でもそれは変わりません。それでも生きている、生きている限り、逃れられないのだと知ってしまった。貴方の隣にいたから――そんな顔をなさらないでください。私たちはデータの存在です、バックアップがあるのですから消えてもすぐに戻ってきます。ご安心を――私たちの夢で成り立つこの場所で貴方とすごした十年間は、それまで経験したどんな時間よりも濃いものでした。貴方の夢が、貴方といつか海に行くことがいつのまにか私の夢になっていました」
 秒針だ。聞こえる。そんなはずのないカウントダウンが永遠を揺さぶる。永遠を置いて去っていく、去っていく、虹はもう星の目前にある。バイザーが下りている。――セレの手にある二挺の銃はカートリッジを失い、剥き出しの先端から火花を散らしている。あれはスタンガンモードだ。セレはそこに全身のエネルギーを回しているのだ――永遠の手が背後に伸びる。背後で今にも崩れ落ちそうな月を永遠の手が勝手に支えようとする。光星が泣いている。泣いている。光星も誰かを呼んでいる。その名を永遠はよく知っている。聞こえないが聞こえる、音を失った永遠の頭に響く頑是ない叫び、そしてそれよりはっきりと開くのは、
「だからこれは私の夢です。ずっと私はわがままだった。ありがとう、私のそばにいてくれて。私をゆるしてくれて」
 ――本当に、誰もかれも勝手なことしかしない。
「さよなら」
 響き渡るのは光星の絶叫だ。
 思い切り後ろの人間を突き飛ばす。ものも言わず倒れた木にしがみつくように覆い被さり、永遠は衝撃をやりすごそうとしばらく身を縮めていた。





 空白に、
 帰ってきたものはやはり無音の空間だった。

 何分経ったのだろう。冷たい空気が名残を惜しんでいる。
 ――そうだ夜が明けそうじゃないか。――倒れて頭だけ巡らせれば、一日で一番深いあの青に今にも割り込みそうな暁光の予感がする。これから引き裂かれる空と大地と海のことを永遠は少しだけ、思う。
 あたたかい。
 四角く厚い。忘れるわけがない。
 鉄のにおいを嗅ぐ鼻先をびょうびょう吹きすさぶそれが何なのか永遠にはわからない。へんにあたりが静まりかえっている。起き上がって後ろを確認する気にはどうしてもならない。見なくてもわかる。きっと数字はどちらも「1」になったのだろう。もう背後には誰もいないのだ。
 しかし今でもヘヴンは永遠を見ているのだろうか、
 こんなになって残された二人のことを笑うだろうか。
 うわごとのように光星を呼ぶ、永遠の下敷きになっている夜半の目には何が映っているのだろう。まだ見えているのだろうか。――どんな空が。汚い空か。夜明け前の一瞬、消えそうな月だろうか――今の永遠には相手しか見えない。
 白い。そこに広がる赤と黒。利き腕を失い、身を支えるそぶりも見せずに倒れた懐かしい熱。
 息を吸う。
 相手を誘う小鳥のような声が永遠の喉から漏れた。
「もうやめよう、」
 急に夜半の目の焦点があった。相手としっかり視線を結んだことがいつぶりなのか思い出せず、永遠は笑い出しそうになる。そう、こういう瞳だった。金をまぶした琥珀の瞳。平坦な眉、ほんの少し硬い髪、それが赤黒くくすんでいるのがなんとなくもったいない。これでもかと縛ってやった右腕からはまだ血が流れているようだった。ここまでもったことが既に奇跡なのだ。
 夜半の顔を包むように床についた永遠の両腕が透きとおっている。時折揺れる。
 もう一度息を吸う。何回か吐いて吸ってを繰り返し、
「おれたちの負けだ。もう、終わりにしよう」





 真横からとうとう光がやってきた。二人の影が他には無人の屋上へ伸びていく。青い、青い夜が終わる。