Blue Eden #16 いのち




閲覧の際は以下の点にご注意ください。
▼流血、暴力的な表現
▼かるい嘔吐




 現実はいつだって光星みつぼしを裏切りすぎる。特にこの会社に入ってからというものの、もうずっとそうだが、とうの光星はというと、光星自身うんざりするほどに己を裏切らない現実をまだ探している。
 ただでさえ天上天下てんじょう てんげの唐突なアナウンスに疲弊を感じていたところに、永遠とわ、ハイマ医師、みまる、たたみかけるように諸々の思惑と所業が露呈し、光星は見事に振り回されっぱなしだ。誰も彼もが勝手なことを打ち明けてはろくなことをしない。どんなに光星が憤っても、こんなに周囲のスタッフたちが翻弄されて倒れ伏してしまってもまだ誰も光星を助けない。この会社そのものやスタッフたちのデータ崩壊など目ではないほどに、光星は自分の心がずたずたのぼろきれになっていくのを今はっきりと感じている。うつくしくいつだって一等輝いていた、これだけ大切にして必死でいれば大丈夫だという光星の神話がこんなに肝心なときになってさっぱり機能しないのだ。
 誰がどこで何をかけちがえたのか。
 振り返ってもやりなおすポイントなどもうどこにも見えない。何が本当のことなのかも光星にはわからない、朽ちた木々のように文字通り崩れていく足場を光星は呆然と見送るしかない。
 これ以上のショックは避けなくてはならない、ほとんど本能のように光星はそう判断し夜半のいる上階まで逃げ込んだ。一階に社長室があることはもちろん知っていたが目もくれなかった。自分たちの領域、つまり宇宙部のテリトリーである上階に入ってしまえば安全だと思い込んだのだ。実際はまったくそんなことはなく、今この瞬間も景色は泡のように消滅していっている。同僚たちも復帰できるのかどうかあやしいほどに原型をなくしオブジェと化して沈黙するだけである。光星と夜半がまだ無事で歩けていることが嘘のような惨状だ。
 夜半。振り返るといるもの。
 すがるように階段を上へ移動するしかない光星のうしろには遅れ気味の夜半がついていて、それでいっそう光星はどうすればいいのか途方に暮れそうになる――なぜか階を増すごとに夜半の足取りが重くなる。いちいち立ち止まる、そのロスが光星には耐えられない。――いいや、余計なことは考えずにとにかく安全なところに移動しなくては。夜半だけは守り抜かなくてはならない、この先のフロアに深海部の誰かが待ち伏せしているとは考えにくいが、万が一のことがあって彼が討ち取られでもしたら一巻の終わりだ。夜半が光星の最後の砦であり、唯一残る信頼の先なのだ。
「夜半部長!」
 踊り場にさしかかったところで夜半が膝をついているのに気づき慌てて取って返した。宇宙部の執務フロアにいた夜半をここまでつれてきたはいいが、ほんとうにこの先、どうしたらいいのだろう。――夜半と身を隠すうちに、あわよくば深海部が永遠の件で仲間割れでもして勝手に負けてくれればよかったのだが、それも今となっては望み薄のようである――崩壊を縫うように駆け抜けてゆくヘヴンたちの掲げる数字はどちらも一桁だ。終了のゴングが鳴り響かないところを見るに、相手側の生き残りには間違いなく永遠が含まれている。なんともしぶといあの仇敵のことだ、無事であるなら必ず光星たちのもとにたどりつくに決まっている。もたもたしている場合ではない。
「夜半部長、しっかりしてください。僕たちがここで倒れてどうするんですか。リタイヤでもするつもりですか」
 夜半なら状況を見てやりかねないと口に出したあとに思い至ってぞっとするが、さいわいにも夜半はそこには触れなかった。胸をなで下ろすも一瞬、光星は暗く青ざめた額を床に向けて歯噛みする。
 どうして誰も助けてくれないのだろう、
 右足だけ踊り場に落ちている、その宙ぶらりんの気味の悪さをしばらくじっと見つめてしまう。光星は誰かを裏切ったことも蔑ろにしたこともない。あったとしても相応の理由のあることしかしていないと光星には言い切れる。理不尽なことをしていないのだから当然、理不尽な扱いをされていいわけがないのにこの憂き目である。
 助けてくれ。この先に誰かいるというのなら何もかもシンプルにしてほしい、もう終わりにしてほしい、
「モルグを出る前に」
 張り詰めていく思考とは裏腹に、光星の唇を割って静かな言葉が流れ出た。
「僕が永遠チーフのことをどうにかして降参させていればよかった。そうしていたらもう片が付いていただろうに、僕が、僕があのとき」
「光星」
 柔らかく遮られ、つい声を失って光星は背を伸ばす。しばらく呼吸を肩でしていた夜半がその白いおもてを上げた。すう、というその動作が線になって空中に残るようだった。夜半は、なんとほほえんでいる、光星は今を忘れていっときその場違いな笑みを見つめてしまう。
「光星。お前は身を守ることを優先したからこっちに走ってきてくれたんじゃないのか。社長の命令より真実を、争いより宇宙を求めているんだろう」
「それは」
 そうですが、言葉尻をしおれさせて光星は首を垂れる。嘘ではない。嘘はひとつもついていないがしかし、どうしてか自信満々に首肯することもできなかった。
 夜半は淡々と言葉を繋げていく。
「今回のこれがおかしいことは俺にもわかる。従うことなんてない。せめてもっと納得のいく説明がなければいけないだろう。俺も今何が起きているのか知りたい、本当のことを知りたい。俺たちはみんないつかは話し合わなくてはいけなかったんだ、ぶつかりあう運命だったんだろう。それが今なんだ」
 言葉が終わるか終わらないかのあたりで夜半の背中と肩がまた丸まり激しく上下する。階段の手すりに夜半の大きな手が食い込むように伸びていた。それをやたらと冷えた思いで見やり、そういえば何階上がってきただろうと光星はそんなことを考える。ここはどこだろう。階数表示はずいぶん前からヘヴンたちに乗っ取られてしまい、らちがあかない。そろそろ宇宙部の現場に近いのか。
「光星、本当のことを知るためには、俺たちだけでも無事でいないといけない。――社長の言うがまま争い合ってはだめなんだ、ルールと戦おうとしているのだから――奇跡的にも俺たちはここまで誰とも傷つけ合わずに済んでいる。きっとお前のおかげだと思う。俺はお前のやりかたを尊重するよ。このまま行こう」
 夜半の声はどの星の光よりも清廉だ。
 今のところ一度も出番のない光星のテーザーガンがまるで具合の悪い臓器のようだった。
「――当たり前ですよ。――この先に社長はいないかもしれませんが、でも、僕たちが無事でいればいいわけですもんね、誰もいなくてもむしろ好都合です。終わりまで潜んでいればいいんだ」
 さあ、
 と言って促したところで急に服のすそを掴まれ、光星はバランスを崩した。引っ張ってきた手の主はもちろん夜半だ。四角く大きいくせにやたらと柔らかく温かい、つい先ほどまで手すりにかかっていた、夜半の右手。
「待ってくれ。光星、お前に言いたいことがあるんだ」
 ――それにしてもどうして夜半はこんなに息を切らすのだろう。なんとも痛々しい上司の姿を前に光星は首をもたげる自分の疑心を見ながら、更に遠くでその自分を見ながら、その自分のことも見ながら、足踏みがとまらないとまらないとまらないが実際の光星はじっと佇んで夜半を見下ろしている、ああいけないこんなに悠長ではいけない、もうすぐにでも永遠が来るに決まっている、あの悪魔のような敵はぜったいにここを嗅ぎつける、夜半が何か話したそうにしている。彼のケープが翼のように上下した。何かの芽が伸びる予感がする。聞かなくてはならないが聞きたくないので聞かないという選択肢はどうだろう、しかし光星の耳に蓋はなく、夜半の口は止まらない。
「光星。お前さっきもう生身はいないと言っただろう、メンテナンス部の医師がそう言っていたと。でも俺はそうじゃないことを知っている。なぜなら俺が」
 二人のあいだを黒い線が駆け抜ける。
 声を奪われた夜半の髪がふわりと風に起きるのを見送って光星はたじたじ後退した。黒い線は壁にめりこむように一旦ぶつかって、
「轢くとこだった! 生きてたかよ」
 跳弾のように二人の隙間に落ちるとそう吐き捨てた。
 弾が永遠の形になる。ポンチョこそないが、いつもどおりのしなやかな肢体に黒い髪の永遠だ。
「永遠チーフ! よ、よくも、何しに上がってきたんですか!」
「元気でうらやましいなおい、じゃれてる暇はねえってのによ」
 思うさま噛みついてやろうと牙を剥いた光星を夜半の腕が制した。ここで危害を加えられでもしたら一大事なのは光星ではなく夜半であるのに、夜半はこういうところで光星の心配をあっさり越えるので光星にはもどかしくてならないのだが、夜半はというと何の恐れもないようだ。いっさいの物怖じを見せずに横顔が永遠に問いかける。
「永遠。お前、ここに来るまで誰かに会ったか」
「誰かには会ったけど天下には会ってない。なるほど、おまえらも天下を探してるのか。会ってないんだな?」
 ぎこちなく広げていた手をそのままに、光星は永遠の言を聞きとがめ、背後の夜半と目配せをした。奇妙極まりないではないか。
 こんなに差し迫った状況なのにまだ天下の影が見えない。仕掛け人がここまで隠れているのはどうしてだろう。天下は審判、つまり競争を見守って、勝利した側にトロフィーたる最後のパーツを渡す役目があるはずで、それなのに見張り役をヘヴンたちに投げたきりとはずいぶん杜撰なことだ。
 問うたわりに光星たちの返事を期待していなかったらしく、永遠は肩で銃を支え階下を指し示す。つっと弧が浮かんだ。
「社長室も覗いてきたけど、もぬけだったぜ。おれは最下から上がってきてるからどこかで会うと思ったのに。なんなのあいつ」
「この先しかないだろう。どうして社長が宇宙部の現場にいるのかは俺にはわからないが」
 しごくもっともな夜半の答えになぜか永遠は黙りこんだ。
 しげしげ夜半の顔を観察するようにその瞳が動く。光星の見ている前で永遠と夜半の視線が何回かぶつかる。そのたびに光星はなんとなくひやひやしてしまう。夜半は、そう、少なくとも光星の知る限りでは永遠のぶしつけな目つきを避けない希有な人間だ。
 ややして何か腑に落ちたのか、それにしては不満そうに口をゆがめて永遠はチェックをやめ、深く嘆息した。
「――夜半、おまえ、――、わかったよ」
 何がわかったのか。結局置いてけぼりを食らってしまった光星としては腹が立ってしかたがないのだが、永遠はというともうすっかり気が済んだらしく、すたすた歩き去って一人で先に上へ進もうとしている。
 なんとなく、本当になんとなくだが、纏う空気が今までと何か違う気がして光星は目をしばたたく。光星に媚びることをやめたからだろうか。それだけではないような――どこまでも凪いだ海面、それでいて荒れ狂う波が見える――まさかモルグを出て生まれ変わったというわけではないだろうに、これではまるで別人だ。
 また光星のまぶたの裏で世界が動いている。うんざりする。
「さっさと行こう。天下のやつ、一発殴って白状させねえと気が済まねえ」
「……そんな権利がご自分にあると思っているんですか? あなたなんかもうクビでしょう。この競争だって無効ですよ」
 ふっと永遠の顔が光星を向き、頬を張られたわけでもないのに光星はそこで何故か一瞬おののく。一拍おいて永遠の目元に影ができる。
「そう吠えるなよ。安心しろ。まだ夜半には手は出さないさ。なあ夜半、ここでてめえを降参させても天下が喜ぶだけだろうなあ、だったらあいつが先、おまえらはおあずけ」
「話を逸らさないでください!」
 混乱し果てた光星には何も見えないがそれでもわかることもあるのだ、なけなしの勇気を振り絞る。屈してはならない。
「あなたの言うことなんか真に受けるだけ無駄なんだ。ぜんぶ詭弁だ、どうせ何か企んでるに決まってる! 一緒に社長のもとへ行くですって? 正気ですか? 冗談はよしてください。夜半部長だってそうでしょう、部長、永遠チーフがどんな悪いことをしてきたかあなただって聞いたでしょう? 騒ぎは全部聞こえてきてたじゃないですか! こんな悪党と一緒にいるわけにはいきませんよ」
「たしかに永遠のしたことが本当なら永遠は責任を取る必要があるだろう。でもそれは今じゃない。今、永遠のしたことで揉めている時間はない」
 同意を求めた先の相手はというとやたらと冷静だった。それが心底頼もしい反面、地団駄を踏みたくなるほど気味が悪い。永遠はというと随分余裕があるらしく、光星をおいて銃の調子など確かめている。
「ちったあ話がわかるみたいでうれしいよ。光星、おまえのボスはこう言ってるぜ、あとはおまえが腹くくるだけだ。勘違いすんなよ。おれだって仲良しこよし守ってもらおうなんざ思ってない。でもおまえらには無事でいてもらわないと困るんだよ、天下との話が終わるまでは。わかったな? 行くぞ」
「待ってください」
 光星と夜半の間を抜けた鋭い足音が止まる。
「だとしてもです。夜半部長が今は揉めるなと言っても僕は納得できない。何度だって言います。永遠チーフ、あなたは最低な人だ。勝手な理由で人の心をもてあそんで、みんなに何をしたのか本当にわかってるんですか。たくさんの人が傷ついたんですよ、あなたのせいで台無しなんだ、何もかも。みんなみんなあなたのことを慕っていたのにあなたはそれをいとも簡単に踏みにじったんです。そんなの」
 ざらざらデータの雨が聞こえる、光星は崩れかけた足場を見る。視線を横に動かす。どこまで行っても床、階段、床、それはもちろんそうだ。光星は顔を上げていないのだから。
 それでも永遠に何も言わないという選択肢は光星にはない。自分自身の言葉にそそのかされるように光星の手はそろそろと胸元に伸びていく。スーツの奥にある重ったるいもののグリップを握りしめ、
「許せない。信じられるわけがない。やっぱり今のうちに僕があなたを」
「どうするって?」
 意を決して顔を上げたところで銃口と目が合った。
 ――当たり前だ。永遠と光星ならこうなるに決まっている。――結果が見えていても光星にはゆゆしきことなのだ。永遠のことを同じ人間だなどとはもう、もう到底思えない。だから抗うしかないというのに現実はどうしてこうも容赦ないのか、どこまで光星を蹂躙すれば満足するのだろう。
 そして現実は憎きライバル部トップの姿をとって光星にこう囁くのだ。
「なあ光星、――そりゃおまえの言うとおりおれは悪いやつだ。騒ぎが終われば何かしらの罪にも問われるだろうさ。言い逃れする気はもうねえよ――でもおまえには直接何もしてないよな、それなのにどうしておまえにそこまで責められなきゃならないのかがよくわからねえな。頼むから正義のためだなんて抜かしてくれるなよ。だってさあ、おまえさあ、おれのこといやがるの、たんにおれをきらいだからだろ。それだけなんだろ? 自分でそう言ってたよな、天下のアナウンスの前に。何か取り違えて怒ってないか?」
 漆黒の瞳が永遠の首の向きに合わせてばちばち光を放つ。おそろしいカットを耐え抜いたダイヤモンドが奥の奥で唸っているようだ、まるで音まで響いてくるように錯覚しそうだった。光星はその輝きを必死で視線で掴んで返してやる、溺れる者が藁に縋るように自分を傷つける針にしがみつくしかない、そうしなければいけない、ここで立ち続けなければいけない。どうしても相手を受け入れるわけにはいかない。異質なものを認めてしまったら今の光星が変質する。これ以上何かが崩壊するのはぜったいに避けなくては。
「それでも僕はあなたを許せない。いいや、許さない! きらいだからだのそんなレベルじゃないんです。あなたはだめなんだ。あなたの、あなたが、あなたが生きている、それがもうだめなんだ! あなたは間違ってる」
「へえじゃあやっぱり正義のためか。結構。そんならハイマは? みまるは? 天下は? おれ以外のやつらのことはみんなどうでもいいのか? 笑わせるな。おまえの正義はその程度かよ」
 まさかたまたまおれが前にいるからおれに全部ぶつけてるなんて言わないよなあ、
 簡単に押し黙る光星の前で永遠は銃をゆらす。その歌ってあやしつけるような仕草と、打って変わって一片の微笑みもない声音に光星は半泣きになる。
 なんだこの差は。
 どうしてだ、どうして。あんな悪事をなしておいてなお堂々としていられるこの相手がわからない、許されるはずがないのになぜ目の前に立っていられるのか。こんなにも憎い相手が光星よりも強く輝くそのわけが光星にはまるで理解ができない。
「おまえには無理だよ、光星」
 そうとどめを告げてくる、永遠が顔の角度を変える。銃口の脇から覗いた凶暴なまなざしに光星は射貫かれて釘付けになる。鮮やかで圧の強い、しかしどこかやわらかさすら窺える凄絶な気迫が永遠から放出されている、おぞましさとは正反対のものをうっかり感じてしまいそうなほどの完璧な青と黒に光星はとうとう酔いまで感じ始める始末だ。
「おまえには無理だ。運がいいんだかなんだか知らねえけどここに来るまで構えてすらいない、おまえにおれは倒せない。おとなしくしてろ」
 言い捨てられる。手のひらからじんわり震えが広がる。二人の足取りが次第に似た音になることがわからない。いやだ。置いていくんじゃない、絶対に許さない、
「永遠チーフ!」
 口だけが勝手に動いた。気配からして上司二人が止まってくれたことだけが救いであり光明だった。どうにかして永遠を足止めするしかない。そのあいだに時間切れにでもなればいい、永遠にだけは、この相手にだけは勝利を渡すわけにはいかない。
「三度目! 話聞いてたか? ここ不安定だからはやく抜けちゃいたいんだけど」
「この恥知らず! 裏切り者のくせに! 先導しないでください! あなたに導かれるなんて絶対にぜったいに受け入れるわけには」
「光星」
 相手の声の調子が変わった。
「うるさい! 夜半部長もいいかげん目を覚ましてください、そんな相手と一緒にいてはだめです! はやく」
「光星!」
 どうして夜半まで切羽詰まった声を出すのかと思った途端光星は自分の位置を取り落とす。轟音の中で突き飛ばされたのだと気づいて、次に目を開けたときには景色が様変わりしていた。
 上のほうで永遠が転倒している。このあたりが不安定だと言っていたのは脅しでもなんでもなかったらしく、見渡せば周辺には物理的なものとデータが混ざった瓦礫が散乱していた。踊り場に積み上がった瓦礫の山は先ほどまで光星が立っていた場所だ。そこから白いケープの裾が覗いており、光星はそれを視線でたどる。
 軽く気を失っているのか夜半は動こうとしない。仰向けに倒れるその右の上腕が瓦礫に挟まれている。
「夜半部長!」
 考えるより先に助け起こそうと手を伸ばし、光星はそこで奇妙な感覚に襲われふと後退した。冷たさと熱さが同時にやってきたような、手がぬるついたような、
 ――なんだ?
 見慣れた自分の手のひらを返す。傷一つない手にべったりと赤い液体が広がっている。もちろん光星のものではない。
「は、」
 倒れている相手を見る。鉄くさい。清水でも湧くように夜半を起点にして穴が広がっていく、いや違う、これは穴じゃない、
 ――血だ。
 少し離れたところに夜半のテーザーガンが落ちている。遠目に見ても明らかに壊れているとわかるそれを見ながら光星は手を突き出してしばし呆けていた。
「折れてる」
 いつの間にか夜半のそばに膝をついていた永遠が溜め息まじりにそう告げてくる。まるで独り言のようだった。
 光星はというと、今ここにいることをやっと思い出したように頭を持ち上げて仰のき、
 ――折れている? 永遠は今そう言ったか。確かにそう言ったのか。折れる、そんなもの骨がなければ起きないことだ。生身の体でなくてはありえない大怪我だ。
 このデータ化社会、しかもブルー・エデンの社員、宇宙部の部長ともあろう者にそんなことが。何かの冗談だろう。
「おい夜半、聞こえてるか。おまえの腕だけど、これ骨が砕けてるなあ。抜けそうにないよ。興ざめだけどおまえのこと置いてくしかないな、これじゃあ」
「な、何言ってるんですか。ふざけないでください。置いていけるわけないでしょう」
「じゃあどうするんだよ」
「メンテ部に行きましょう、なんなら僕が誰か呼んできます。そんなに狼狽えることないんですよ、そうでしょう、だって、ねえ」
 膝と呼吸がどんどん震え、光星はあえぐように笑った。どうして笑ったのかよくわからないが笑った。
「部長、体をデータ化してなかったんですね、そんなことこの際いいんですよ、体だけですもんね。だったらそんなに手遅れではないはずです。だから。そんなに騒ぐことないんですよ。まさかしぬわけないんだから。どこかしらデータ化してさえいれば、」
 何故か永遠も夜半も口を噤んだままだ。めずらしく永遠がずっと目をそらしているのが逆に気にくわないのだがもちろんそんな思いが永遠に伝わるわけもなく、光星は無視された。仕方なしに夜半を向く。仰向けに倒れている夜半を見据える。なぜ起きないんだろう、にぶいひとだなあ、あ、怪我をしているのか。怪我。なかなか受け入れられない。生身だった頃の感覚など光星にとってはとっくの昔のことだ。
「やはんぶちょう」
 再び笑ったあとにその声を追いかけるように爪を頬に立てた。
 誰も何も言わない。誰も何も言わない。誰も光星を助けない。
 見つめる先にある体の胸元がかすかに上下している。
「光星、」
 すまない、と夜半がかぼそく、切れ切れに謝罪したのを、光星はちょうど聞いていなかった。首を横に振るのに忙しかったのだ。
 ――そういえばずっとおかしいとは思っていた。最初にメンテナンス部へ挨拶に行ったときにハイマ医師から夜半の担当医のことをわざわざ念押しされたこと、夜半が子どもが食べるような栄養バランスのいい食事を選んでいたこと、どんな連絡もアナログな方法で受け取ること、長い長いエレベーターで上がったのちに暗い顔をしていたこと、
 とどめはあの、現場に訪問した際の謎の問いかけだ。寒気がするのでいちいち思い出したりしなかった。しかしそれくらいには強烈だった。「自分の意思でデータ化をしないと決めた人間がいたらどうする」という、あの突拍子もない問いかけ。あれは夜半の兄に限った話ではなかった。夜半自身のことも含まれていた。もう、そう捉えるしかない。他に考えようがない、そうでなければ二人が黙り込んでいる説明がつかない。
 うそでしょう。と光星が言ってもそれは空気に溶けるだけだ。
 はしゃいだように口角が上がっているのを自覚して光星は二人に詰め寄る。
「今からでも遅くないです! ぜんぶをデータ化してしまえば助かる!」
 焦れたのか永遠がようやく光星を向いた。
「いいかげん現実見ろ、ふざけてんのはてめえだ! メンテ部行くくらいなら先に天下を叩いたほうがまだ望みがあるぜ。おれならそうするね。あとはもうこいつの生命力に賭けるだけだ、ここに置いていくしか」
「永遠」
 射し込んだ呼びかけに永遠と光星は口を塞がれたように静まった。二人そろって振り向けば、そこにあったものは鈍く光を反射している凶器の取っ手である。光星は目を疑って何度か永遠と夜半の手を見比べるが、事態は何も変わらない。
 夜半の左手が差し出すものは、夜半には似つかわしくない、抜き身のサバイバルナイフだった。これは――光星の脳裏に数ヶ月前のできごとが去来する――いつだったか工業区の業者が来たときに光星が夜半に持たせたものだ。持つようにと連絡が来て、二人で見に行って、受け取ったはいいが自分で持つことはどうしてもはばかられて夜半に預けていた、あの。
 耳の痛くなるしじまの裾がのびゆく。
 どのくらい時間が経ったのか気の遠くなるほどの沈黙のあと、永遠の細い手が夜半の手に伸びた。心のなかに滑り込む手つき。よく見えていないのか、力が入らないのか、今にもナイフごと床に落ちそうな夜半の手から永遠の手へ、無骨な刃物が渡る。それを合図にしたように夜半の手がとうとう床へ落ち、
「これでおれの夢が本当に叶うなら何度だってやってやるのに」
 同時に永遠が低く低く吐き捨てた。光星が聞き返す間もなく銃を下ろした永遠は夜半のすぐそばへ座り込み、跨ぐようにして数回腰の位置を直してから手際よく夜半のケープと髪を裂いていく、そして細く裂かれたケープは夜半の肩のすぐ下にきつく巻き付けられる。どういう精神力なのか夜半は呻き声ひとつ発さない。その口の中にケープの切れ端が詰め込まれる。離れる寸前に永遠の指がほんのわずかとどまって夜半の静かな口元を名残惜しむようになぞり、そしてものも言わず元の位置に戻っていった。
 ざっと背後に髪を払って永遠は夜半を見下ろす。
「目を開けるならおれだけ見てろよ。よそ見してると余計痛みが増すぜ」
 あれよという間に繰り広げられる、光星は目の前の展開についていけない。ついていけるわけがない。とつぜん光星がいないかのように振る舞う永遠をどうしてくれよう、
「え? ちょっと、ちょっと待ってください永遠チーフ、な」
 遅かった。
 一度あたりをつけたナイフが月のように振りかぶられてすぐに落ちる。反射で光星は両耳に手をやって、ああだめだ。
 熱が閃いた。
 ぎりぎりと刃の押し込められていく気配の奥にちぎれる音が紛れている。いったい何の? 何、何ってそんなことは決まっているだろう、さっき目にした夜半の腕と永遠の振りかぶったナイフがすべてだ。
 永遠のナイフを扱うその動作がまるで慰撫するようで、いよいよ光星は錯覚してしまいそうだった。今起きていることがただの悪夢でまぼろしなのだと何度でも気を失いたくなる。都合のいい想像の手招き、しかしそこへ閉じこもることを現実が許さない。現実が、この現実が、何の権利があって光星をさいなむのか。
 うらめしい。どこにも行けない。
 視界の隅でつくりもののように転がっていた夜半の手の指先が数回ひきつった。宵の口の月のように、常にうっすらと発光していた夜半が今、完全に沈黙している。
「お」
 音が漏れた。夜半の喉からではない。光星だ。
 気づいてからぎょっとして喉の奥に右手の指を詰め込んだ。落ちた音を掻き集めるように光星はもう片方の手の指先を床につける、音などどこにもない。見えない。そんなことなどあたりまえだがそれがひどく不安だった。どこに落としたろうかどこに落ちただろうか、
 ずう、っと体をうねらせ摺り足であとじさる。何かに叩きつけられたかと思えば壁だった。伝って背が床に当たる。意識なら上へ落ちて左へと回転し下に伸び、そこからもう戻ってこない。押し寄せるのは捨ててきたはずの生身の頃の感覚だ。
 戻れない。
 もうどこにも戻れないのに。
「ああ、」
 吐くものなどない。光星の体のすべてはデータでできている。吐いたとしてもエネルギー補給のために摂取する少量の食事だけで、胃液も細胞も光星を構成するような情報は何も出てこないはずだった、ほんのわずか情報がこぼれたとしてもささやかすぎて視認できないはずだ。そしてもちろんその通りだった、しかし光星は今、全身のデータの表裏がこむら返りでも起こしたかのように痛くてたまらない。さっきから何かが全身からとめどなくとめどなく流れ出て行く――そういえばどこからが光星だろう。食べてしまえばそれももはや光星の一部ではないか? どうしてこんなに不確かなのか――データ変換手術という蜃気楼、なぜこんなかげろうにすがってしまうのか、
 なぜも何もそれが必要だからだ。光星にとってはこれが揺るぎない地面だからだ。
 その地面に夜半から噴き出した赤い川が流れている、
 何度も空を蹴飛ばして下がろうとする。ちかちか明滅している意識、今にもすり切れそうだ。狂喜のようなうわずった声が聞こえる、せわしなく走る、それはやはり夜半の喉からではなく光星から出ているようで、光星は身を縮めてわずかでも逃れたい、何から? 何からだろう。何からだろう。さっきから何もかもわからない。赤い脈うつ川、くろぐろ闇夜に染まっていく光星の月。いつのまにか見渡せばあたりが一段明度を落としている。
 ――どうして誰も助けてくれない?
 光星が何をしたというのだろう。なぜこんなに追い詰められなければならないのだろう、光星はただひたむきに、生真面目に、素直に、正直に勤勉に生きてきただけだ。この会社でわがまま放題で遊んでいた連中とは違う。かれらのようなことはひとつもしていない、ただのひとつも、今まで生まれてきてから一度だって光星が誰かを踏んだだろうか。わらっただろうか。大事な真実を隠したり取り上げたり嘘をついたり裏切ったりしただろうか。
 飽きず問を繰り返して光星の思考回路が焼き切れるかと思われる頃、ようやく永遠の動きが変わる。裂いた白いケープを夜半に巻き直している様子だった。その喉から胎児のような布の塊がずるりと引き出され、噎せている夜半の体を永遠が抱え起こしている。永遠には赤が全然似合わない、と光星はどこかとぼけたことを思う。
 光星には傷のある部位などとても確認できそうになかったが、そうなると必然的に目に入ってくるのは夜半の顔だった。白い睫毛は帳のように伏せられ、冷静で精悍な相貌は一気に老けこみぐしゃぐしゃだ。
「おい光星」
 光星の喉からひしゃげた風が出たが永遠は容赦がなかった。背負っている大きな熱ごと、掴みかからんばかりに迫ってくる。
「ちかよらないで、ちかよらないでください、この鬼、悪魔、ばけもの! ばけものめ!」
「騒ぐな!」
 永遠が吠え猛る。その一回で光星のなけなしの強気はあとかたもなく吹き飛ばされた。怒鳴ったかと思えば一転して静かな声で永遠は光星に噛んで含めるように教え諭してくる、顔が近い。割れたダイヤのような瞳が光星の奥底を無遠慮に明るくする。
「おまえの上司だろうが。てめえの大事なもんはてめえで背負え! ここからはおれの役じゃあない」
「か、勝手な、何を勝手なことを、どう、ど、どうして、どうしてこんな、こんなことがゆるされると」
 ぐ、と光星の右肩に、永遠から夜半が託される。夜半はもう濡れた布団のようにされるがままだ。反射的に振り払おうとする光星の体を永遠が強く押さえ込み、
「そいつを寝かすなよ。寝たらもう戻ってこないと思え」
 一瞥ののち遠のく永遠の髪から赤い雨がしたたりそれに光星がいちいち反応する前にさっさと永遠は光星の前を横切る。
 もうだめだ。光星の右脇に何かが伝ってくる。縛って止血してもしきれなかったものが、衣服にしみこんでいたものが移ってきているのだ。笑い続ける光星の膝の裏にそれが溜まる。その冷ややかさと布の向こうの熱にくらくら目眩がする。
「こ、この、ひとでなし、よくも、よくもこんなことを、頭がおかしい、この外道、あなたの、あなたのせいで」
「みつぼし」
 小さな明かりがぽうっと灯るように左隣から声が湧く。わかっていて光星はそれを無視し、しそびれて顔をゆがめた。幼子でもあやすような清浄な声が今は何故か無性に腹立たしいのだ。こんなにも激しく息をしているくせに声だけは心でも映し出したかのように涼やかでおとなしい。いつもいつもいつも夜半はそうだ。
 止めないでほしかった。
「永遠をせめないでくれ。たのんだのは俺だ」
「やめてください、」
 そろそろと夜半の肩に右腕を回せばなんとも言えない追い詰められた気分に陥るものだから、まるで祈るように光星はうわごとを繰り返す。何度も手のひらを開閉させて、ゆっくりと腰を支えてやる。祈りとは無力なものだと知っていて光星はしぶとく唱える。何も見えない。
「夜半部長、やっぱり今からでもメンテ部に行きましょう、そうでないなら僕が走って誰か呼んできます、このままじゃしん、し、死んじゃいます、こんなの狂ってる」
「しなない」
 しゃっくりでもするように懇願した光星へ返ってきたのはやはり変わりのないほの明かりで、今の光星にはそれが絶望そのものだった。しかし熱源には伝わらない。夜半は不規則な息ざしに折り込むようにそっと光星へ語りかけてくる。
「今はまだ死なない。死んだとしても、いいんだ、何もおかしいことはないんだ、だから。――いい。何も変わってない――光星。先へ行こう」
 ――空を見たい。
 それを呟いたきり、しゃべりすぎたらしく夜半はふっつり黙り込んだ。光星は隣でうなだれる顔面を凝視する。その尖った鼻先からしたたり落ちる脂汗、振り向けば肌に貼り付く白い髪を――
 永遠が振り返らずにのぼっていくのが憎らしかった。気が済んだか。これがやりたいことだったか。睨めつけるだけでは無論、永遠には通じない。地に点々と赤が散る。その跡を、後をついていかなくてはならない。おかしい。おかしい、すべてがおかしい、どうして、どうして自分がこの重いものを振り払わずに背負っているのか、非常識極まりない横暴な人間たちの言うことを素直に聞く真似をしているのか、どうして、
 一歩、光星の足が進んだ。
 捨ててきたものが熱いということを光星は今更思い知っている。後頭部を金槌で殴られたように今、ほとばしるすべてが、落ちていくものが、光星のなかに何かを刻んでいる、すぐ隣から上がる吐息が切れないように祈ってしまう、この灯火がほんとうは星であることを光星はずっと信じていて、やはりこの期に及んでもどこかでは期待しているのだ、
 報われることを。光星の信じているぶん応えてくれるもののあることを。
 なまぐさい、やわらかい、よくすべる、湿り気のある、熱い、そして急速に冷えていく、暗い、まばゆい、
 それが酸素を取り込む呼気と吐息であること、かつては光星の体にもめぐっていた塩辛い水であること、だからこその熱であること。海を含む星であること。死に近づいていくのは生そのもの、
 何度も隣の呼吸を確認しながら光星は進んでいく。永遠の残した夜半の血痕を光星の足がゆっくりと踏み、ひとつ、またひとつと隠しては床ににじませ、置き去りにして、そうして通り過ぎたあとにまた赤い点と線とを残しながら進んでいく。階段に響くものはもう吐息のみだ。足音など聞こえない。
 引きずられるようにして夜半はおとなしく進んでいる。ほとんど足に力が入らないらしいが、それでも光星が根気強く夜半の足を階段にかけていくのを、夜半もわかっているらしくひとつひとつ踏みしめている。一人で進むよりずいぶん遅い。もう密着している部分から溶けてひとつになっている気さえ光星にはする。
 ――熱とは無縁そうだった存在が今こんなにも熱い。異形のものとすら疑った相手なのにどこまでも夜半は人間なのだ、――そう思い知る。――そういえば最初に会ったときに握手などした気もする。それに感想を持った気もする。夜半の腕を、あの手を、光星は知っているのだ。そう、最初から温かかった――
 いつのまにかあのめまぐるしいギャラリーたちがいなくなっていることにも誰も触れなかった。
 DNAには少し足りないいびつな形の階段を、練るように、上を上を目指してのぼる。何もかも無駄なのではないかと光星は疑う。この苦痛がえいえんのものであることにおびえる。この先に天上天下などいないのかもしれない。いないとして、黙って身を潜める段階はとうに過ぎてしまった、永遠が来てしまったのだから。しかし今の光星たちに永遠を降伏させることができるかと言ったらそれは不可能だろう。――なんだやはり無駄じゃないか! 何もかも! ――それなのに光星は進んでしまうのだ。
 もう何階すぎたかわからない。
 あと少しでも揺らせば夜半の命に関わる、と思ったところで永遠の背が見えてくる。真横から荒い吐息を浴びながら、光星は一度手すりに体を押しつけ、そして体勢を立て直した。疲労困憊だ。天からおりる細い糸にしがみつくように永遠へ近づいた。ここにも誰の気配もない――しかし、――永遠の向こうに幅の広い扉がある。光星の視界が一気に晴れ渡る。
 もう最上階なのだ。この先は現場だ。
 光星は倒れ込むようにグレーの扉にすがりついた。表情のない冷気が二人分の体を受け止める。この奥に、この奥にいるかもしれない。否きっといる。この事態を終わらせてくれる誰かがいる。答えがある。光星は助かる。
「社長、天下社長! 開けて! 開けてください! お願いです!」
 まるで救難信号だ。
 何度も拳をぶつけて叫ぶ光星のうしろで永遠がじりじりと絞られる弓矢のように銃を構えて数歩下がっていく。開いた、と気づいて光星がなだれ込みそうになった瞬間、永遠は突風を起こし二人の横を飛んだ。
「天下! 今までの礼だ、観念して受け取れ!」