Blue Eden #15 幸せになるために







 発光ではなく蛍光である。だから永遠とわの髪の毛の青い部分はわずかな光源もない暗闇ではむなしく沈黙するだけだ。そう、たとえば今のような状況下では、自慢の触手もただのデータの糸でしかない。
 マリンスノウの積もる音に永遠はひとり耳を澄ませている。錯覚だとはわかっているが、こんなに静かな闇のなかにいると、どんどん底へと沈んでいくような心地がしてくるのだ。上下左右もわからなくなってただただ浮かんでいるようでもある――永遠は実際には経験したことはないが、たとえば吹雪や霧に見舞われて方向感覚がわからなくなることをかつての人々はホワイトアウトと呼んでいたらしい。今がそれなのかもしれない、永遠にとっての遭難だ。――ぽっかりとした空洞が永遠だった。セレが出て行ってどれほど時が経ったのか、まさかすべてに決着がついたわけではないだろう。それならばもっと変化が起きるはずだ。今どうなっている? ハイマ医師はまだ復帰していないだろうか、みまるはかたちだけでも医師の介抱を試みているだろうか。資料室前で別れたきりの夢前ゆめさきや恋はどうしているだろう、天下てんげはどこにいるのだろう。光星みつぼしは夜半と共にいるのか。――セレは――
 こぼれおちたすべて、永遠が落としたのではなかった。見るがいい。もともと永遠の手のなかになど何もなかった。
 暗い。
 データの体なのだからどんなに周囲が暗くても途方に暮れることはないはずだった。しかし今は状況が状況だ、拘束された四肢は未だ回復のきざしを見せない――自由を奪うベルトはデータであっても拘束できる。永遠の今入れられている潜水艦はいつか永遠たちを乗せるために特殊なつくりをしているから――、遠くから呼び声のように聞こえてくる残響音はマリンスノウが積もる音などではなく、この会社が崩壊していくデータの断末魔だ。想像エネルギーでできたさまざまが、永遠たちの見てきた夢でできたこの建物が、今、泡のようにもろくはかなく消えていっている。
 トライアングルを描いて永遠の意識が光ってそして深い海、派手なもの、それから捕食を悟られぬために黒くあることを選んだもの、あまたの命がふくらむように思考を洗う。
 息を吐く。いつもより大げさに。こうすると不思議なことに、本当にマリンスノウの音がするようだった。どんどん明瞭に近づく、いや永遠が積もる、積もる、いつしか永遠のすべてがマリンスノウになって情報の海へ溶けてゆく。まぶたをおろすと光が見える、やたらとまぶしい気がしてくる。
 どうしてか懐かしくて泣きそうになるのだ。
 永遠は結局、何かを為すほどの人間ではなかったのかもしれない。そんな器ではなかったのだ。憎むにも憎まれるにも向いていなかった。そもそもまず生きることに向いていないのかもしれない、いや生きているのに向いている命がこの世にあるのだろうか――誰も向いてはいないのだとも永遠は思う。――こんなにもたくさんの命がいて肩を寄せ合い、相手を通り越してその果てを見ている命たちが集まって、憎み合ったり愛し合ったり感情の交差点で待ち合わせをしては何度だって擦れ違ってばかりいる。
 光は今やいよいよ帯になって永遠の意識に差し込んでいた――たくさんの光線に打ちのめされ、永遠はひたすら陶然としている――永遠は永遠として夢をいだいてしまった。たぶんそれがあやまちなのだ、と、白く踊る光にそう答えを得た。誰かに呼ばれたわけでもないのに生まれてきてしまった、それがそもそもの間違いだったのだ。
 ひとを傷つけることがどんなことなのかわかっていなかった。傷をつけられた記憶があるくせに。ひとをゆるさず憎み続けることの持つ意味もわかっていなかった。わからずにその気持ちを持ったり捨てたり優柔不断だったために自分以外の手もすべて焼けた。
「永遠先輩」
 名を呼ばれ、水から揚がった魚のように目を開ける。
 ハッチの扉が開いている。光源を持った誰かが永遠を呼んでいる、その誰かの声が違わず夢前ゆめさきのもので、永遠はまだ回復していない体で自嘲しかける。こんなことになっておいて見る幻覚がこうとはさすがに図々しいにもほどがないだろうか、しかし光源はというと永遠の反応などおかまいなしに一旦きゅっとその場に丸まり、そうして明かりを持っている人物と堅牢な潜水艦内部とをぼんやり照らし出したのだった。
 見間違いではない。夢前だ。ウェーブのかかった暗い焦げ茶の長い髪、気の強そうな瞳、その双眸がまばたきを一回する。
「こんなところにいたのね、探しましたよ」
 光の帯は隙間から差し込んだ明かりのためだったのだ。
 夢前の声音と台詞があんまりいつもどおりなので永遠は一瞬すべてをまぼろしであるかのように錯覚する。この十年の間、自分の都合で勝手に動き続けた永遠を、夢前が何度だってこうして探しに来たものだった。――しかしまぼろしはすぐに余韻もなく現実へと様変わりする――夢前は永遠の様子を観察すると怪訝そうに口を開く。
「動けないんです? そう、撃たれたの、だからしゃべれないのね。ちょっと待って、拘束までされてるじゃない」
 誰がこんなことを、と夢前がぼやくのを永遠は何も説明できず聞くしかなかった。口が自由に動いていたとしても、セレとのやりとりの顛末を正確に説明できていたかどうかはあやしい。永遠がしゃべらないのが気まずいのかそれとも性格ゆえか、夢前はというと永遠の拘束を調べながら何やら一人で話し続けている。
「セレくんは? あの子が先輩の護衛役でしょう。どうして今ここにいないの――まさか、」
 夢前のシルエットがぱっとひるがえった。波うつ髪が影絵になって跳ねたのを永遠は遥か昔の伝説にでも触れるように奇妙な気分で眺めていた。物音らしい物音のないしずかなフロアに、やがて夢前は答えを見つけて納得したらしい、それからはセレのことを問う言葉は彼女からは出てこなくなる。
 夢前の姿を追うことはできるが首を振ることしゃべることはまだままならないそんな永遠の様子を不思議な面持ちでじっと見下ろしていた夢前は、やがてまぶたと肩を落として深く嘆息した。
「そう、わかったわ。今解いてあげます。待ってて」
 交わっていた視線はそれぞれ別のものを捉え出す。夢前は永遠の足下にしゃがみこんでシートベルトを丹念に調べているようだった。
 束の間しじまが場を支配する。
 恋人同士だったときにどういう言葉をかわしたか永遠とて忘れたわけではなかった。永遠は記憶はいじっていないが、意地で全員分覚えている。少なくとも永遠はそのつもりでいる。百人以上の社員たち、ひとりひとりがどう永遠を愛したのか、永遠に向かってどんな顔で笑ったり泣いたりしたのか、そういうことを覚えている。怒りっぽい者もいた。永遠と恋人同士になったとたんにぐずぐず甘えてくる者もいた。データ化に不満を持つ者もいたし、会社のやりかたに不安を感じている者もいた。家族の悩み。子どもの頃のこと。これからのこと。何もさらけだそうとしない者。そういう逐一すべてを永遠は忘れていない。
 夢前とのやりとりも無論覚えている。しかし夢前とのことだけを特別覚えているというわけではない。きっと夢前もそれを承知でいる。こうして二人きりになるといやでも連想してしまうが、そのことについては夢前は触れない。もちろん永遠も言わなかった。
 しかしどうして彼女は永遠を探しに来たのだろう――青い火が灯るように永遠の心で何かが明滅する。呼吸に合わせてゆっくりとふくらみしぼみを繰り返すそれを――どうして。永遠がここで拘束されていることなど知る由もなかったはずだ。廊下を歩いていてポンチョの残骸でも発見したのだろうか、しかしそれで永遠を探そうとなるものだろうか。とにかく、ここに来られたのは偶然だとしても、口ぶりから察するに彼女が永遠を探していたことには間違いがないはずなのだ。
 なぜだろう。もう探されるに値しない存在だろうに。現に他のスタッフは誰も探しに来ない、セレももういない。どうしてだ。
 永遠の思いを夢前の声がさっくりと切る。
「先輩、あなた、一体なんのためにこんなことをしたの。やっぱり海に行くためなのかしら。それでどうして深海部の仲間まで騙す真似をしたのかな。何がしたかったの? 先輩の夢って結局なんなの。もしかして天下社長や夜半部長と関係あるのかしら、」
 ちがうの、そんなことが聞きたいんじゃないの、
 おもむろに白い顔が上がった。夢前の頬は薄絹のように闇の中で透きとおっている。
「ほんとに嫌だったことはね、先輩に騙されてたことじゃないんです。そんなのもうどうでもいいわ。先輩がどうしてあんなことしたのかももうどうだっていい。どんな説明されたってあたしはゆるすつもりにならない。だからそうじゃないの、そうじゃない」
 そこで夢前は数回息を吸い、吐き、そしてほんのわずか黙り込んだ。酸素を求める魚のような彼女から目を離さない永遠の前、最後の正直とばかりにまばたきを繰り返して息が吸われ、
「どうしてあたしを騙したままでいてくれなかったの」
 あんまりだ。夢前の細い眉が寄っている。いつも不機嫌そうだったその眉尻は下がり、そして気の強い瞳と口元はわずかにほころんで溶け出していた。あんまりだと永遠は思いながら肘をついて起き上がり、その顔を見つめている。夢前も永遠を見つめている。深い茶色の瞳のつやめきがこんなに小さな明かりでもわかる。照れたように時折笑いながら、しかし笑いきることはできずに不器用に呼吸を漏らして彼女は首を横に振った。
 どこかがけいれんしている。幼い迷い子の息づかいが聞こえる。
「あなたが弱い人だなんて最初からあたしにはお見通しだったわよ。だから嫌いだったの。だから好きになったの! でもだめよ。一度嘘をつくって決めたんならつきとおしてよ。どうして途中で素顔なんか見せる真似するの、どうして夢から覚まさせたりするの。卑怯だわ。ちゃんと傷つけて。夢を見させて。恨ませてよ――好きでいさせて――最後まで、あたしたちの息の根が止まるまで」
 あなたの夢が叶うまで。
 拘束は外れそろそろテーザーガンの効果も切れてきた頃だろうにまだ立ち上がれず潜水艦に腰掛けている永遠の前、夢前はすっくと立ち上がり、そして脇に置いていた黒い物体を永遠へと押しつける。ぐいぐい音がするような強引さに永遠も思わずそれを触ってしまい、そしてそれが何なのか気づく。いつも自分が持ち歩いていたものと同型のテーザーガンだ。
「これ、近くの収納スペースで見つけたものです。他の人に渡ってもことだと思ったから回収してきたんですけど、慣れない武器だしあたしにはやっぱり必要ありません、先輩にあげる」
 そしてそれを受け取ったら、
「ここから出ていって。あなたに海にかえる資格はないわ」
 夢前の持ってきた明かりは今や潜水艦の内部を不確かに照らし出すだけだ。それでも永遠には夢前の今の顔がなぜかはっきりわかるのだった。仕事中交際中問わずこれまでは一度も見たことのなかったはずのその顔が、なぜか今、手に取るようにわかる。何度も見たことがある錯覚さえ伴って眼裏にまで現れる。
 その眼裏の夢前にさえ永遠は何も言えない。
「ぜったいに夢を叶えてね。あたしたちをこんなに踏みにじっておいて負けたりしたら承知しないんだから。あなたの罰はあなたの夢を叶えることよ」
 美しく落ちる声だった。いつもの夢前の声だった。いつもいつも永遠のことを追いかけてくる、どこにいても見つけて連れ戻しにくる声が、今はもうそのことを言わない。
 やわらかくひしゃげた夢前の息が永遠を包んで削る。
「先に行って。あたしももう、先輩のこと追わない」
 さよなら。
 永遠ははじかれたように立ち上がった。目の前で夢前が俯いている――そのペールブルーの肩が――目を見開いて数歩下がる。しっかり抱き込んでいたテーザーガンがハーネスの金具にぶつかって音を立てる。
 何を悠長に探っているのか。見てはいけない。これ以上言わせてはならない。夢前はきっと持っているすべてを永遠にまっすぐぶつけてくれた。どうして探しに来たかなんてあまりにも愚問だった。これ以上の会話などもう夢前と永遠の間には発生しえないのだ。

 踵を返して永遠は走り出した。





 背が伸びるのはうれしかった。
 子どもの頃の話だ。今まで届かなかったところに手が届くようになる、歩幅もどんどん広くなる、どこへでも歩いて行ける自分の成長ぶりが楽しかった。もっともっと幼い頃はただもどかしく悔しかった、自分一人では何もできないことがひたすらやるせなかった。だから成長してそれらの不満がどんどん解消されていくのは大歓迎だった。しかし受け入れられない部分が喜びを押しつぶす――大人になりたいのではない。存在にふさわしい体がほしい。子をなすことに興味などない。そんなことができる体になりたいと一度だって永遠が望んだだろうか。毛が無造作に生えるのも、肌が古くなっていくのも、体の一部が突き出たりやたらやわらかくなるのも何も望んでいない。誰にも頼んでいない。成長することにそれらが必ず付随するのなら永遠はどうしたらよかったのか――
 子をなせるようになると海月だって死んでいく。不老不死であるはずの彼らが生きているというただその事実に負けていく、それがむしょうに腹立たしかった。
 子どものうちは鏡を見るたび怪我をするたびに思い知らされたものだった。鏡の中の永遠は言う――どんなに海にかえりたがってもおまえはにんげんだ。性に感覚に滅びに支配されることが幸福なのだ。群れ、食うために殺し、つがい、肉の熱さによろこび、子を産み育て、老いさらばえて病み、そして苦しみのうちに死ね、そうあれ、そうあることを享受せよ、そうあることしかできないのだ、なぜならおまえはにんげんなのだから――そう囁いてもう一人の永遠は永遠の頭を掴んで地面に押しつける。歯を剥き出しにして永遠は唸る。頭を抑えてくるもう一人はびくともしない、見上げることもできないその相手のほんとうの目つきを永遠はなぜか知っているようで、しかしそんなはずはなくすべては永遠の想像でしかない。白くて厚い大きな手のひら、落ちるものを受け止める腕、地平にゆっくり沈む金色の瞳。青く透きとおる永遠の対極に立っているただしいやわらかい、
 永遠はときどき自分のことを、童話や伝説に出てくる権力者や魔の者のようだと思うことがある。水銀、まじない、尾を噛む蛇、煙、血、かかえきれない金や宝石、薬、青い薔薇。尽きぬ命に執着する、愚かで醜いとされるすべて。
 自分のことを命だと思うとその屈辱に心の奥が砕けるのだ。いやでいやでうとましくて無力感で胸がいっぱいになる、やりきれない、このやりきれないという思いが生まれることさえもやりきれない。百歩ゆずっていずれ死を迎えることはしかたがないのだとしても、変わっていくことを、死にゆく瞬間をただ漫然と待つくらいなら自分で命を断ったほうがましだとすら永遠は思うのだ。自由になりたい。とびこえてゆきたい、なにもかもどこまでもどこへでも。考えすぎだと頭を振って苦しみを乗り越えようとするたびに現実が永遠の努力を打ち貫き、おかしなところでまじめになる永遠自身こそが永遠の逃げることをゆるさない。
 こんな責め苦をなぜ周りは受け入れられるのか永遠にはまったくわからなかったのだ。だから――もともとの体になんてなんの未練もない。あんなものかりそめの宿でしかない。――夜半のことをゆるせないのはそれでだ。望んでもいないものをそのまま受け止め、それでよしとしているあの平然とした生き方、そしてとどめが永遠にぶつけられた言葉たち。
 ゆっくりと右回りに階段を上っていく。こんなことになって、上に行くましな手段はもうここしか残されていない。最下階から上がっているのだからどこかで誰かにすれちがいそうなものだが一向にヘヴン以外の者とは出会わない。どのフロアも無人だ。
 いや、厳密に言えば永遠は大勢とすれちがっている。しかし彼らは今や永遠を認識しない、意識のない状態で無残に転がっているだけのデータのなれの果てだった。争いあったためか単にエネルギー切れを起こしたのか、原型を留めないほどに崩れている部下たちの倒れている廊下、そして唯一の道である階段を永遠は這うように進んでいく。
 ――どうしてこんなにたくさんの命がこの世にあるのだろう。こんなに地上がぼろぼろになっているというのに命はなぜ、人間はなぜ生まれてきてしまうのだろう。生まれたところでさっさと死ぬ結末しか待っていないのだから、誰も好き好んでこの世に生まれたいなどと望んではいないはずなのだ、――
 データ化は永遠にとっては救世主だった。ずっと人間などやめてしまいたかった。命であることを受け入れたとしても、肉体はいらなかった。だから天上天下に誘われたあのときいとも簡単に肉体を捨てた、しかし、しかしあれから十年経ち、信じていたあらゆるものの崩壊への序曲が最高潮を迎える今、永遠はおのれが間違っていた可能性に足をかけてしまっている。
 肉体こそ自由になったが、結局データ化は永遠に心の安寧などもたらしてはくれなかった。生まれた場所を間違えたという確信、そのなかで生きる地獄の日々が終わると思っていた永遠を待っていたのは更なる苦痛だった。永遠の生き方の問題だろうか。心をデータ化すればこれもなくなるのか。そうだろうか、果たして本当にそういう問題だろうか。
 隣にいる忠実な部下は心の支えだった。いつかすべてをデータに換えたとき、己がどうなってしまうのかわからないから、何もかもデータに換えたセレを見ては気持ちが安らいだ。すばらしいサンプルがすぐ脇にいる、きっとセレのようになれば永遠だってほんとうの幸せを手に入れられるはずだった、きっと、やっと――ほんとうに? ――しかし今はまだ永遠でいなくてはいけない。苦しみを捨てるために喜びや幸せを、心を捨てるために夢や執着を差し出すことがどうしても永遠にはできなかったのだ。
 生きていることそのもの、存在があることそのもの、永遠が永遠であることそのものが永遠を苦しめてやまない。しかし「永遠」でなくては永遠は生きられない。自分をやめてしまうわけにはいかない、少なくとも今はまだ。いだくすべての目的を叶えるまでは永遠は自分自身でいなくてはならない。
 もしかすると永遠はずっと幸せになりたかったのかもしれない、

 ただの階段でこんな有様なのだ。十年この会社に居座ってすっかり馴染んだ景色はそろそろ跡形もなくなっている頃だろう。暇になると向かった中庭も、何度も使った天使の梯子も――振り子は今でも時を刻んでいるのだろうか、――たちの悪い道しるべのように林檎が転がっている。光の少ないこのあたりでは単なる染みにも落とし穴にも見える。それをたどることもせず、永遠は一段一段死体でも踏みしめるかのごとくゆっくりと、海を背にして天上へ向かう。
 ふりつもるマリンスノウの中に存在が溶けていく。永遠はひとつずつ塵になり最下階にふりつもる。上へ上へ。底へ底へ。
 ヘヴンたちが笑っているのは、永遠が歩き出したことで社内に動きが起きたとでも判断したせいだろうか。いずれのヘヴンたちもやたらと嬉しそうだ。そのあたりに倒れている社員たちよりよほど人間めいて見える。人混みの中にぽつんと放り出された気分に陥って、そしてその中に永遠は永遠自身を見つけ、不意に立ち止まる。
 踊り場の壁一面が鏡になっていた。
 相対するもう一人の永遠はやたらと真面目な顔をしている。その周りをヘヴンたちが蝶か蝿のように笑ったり眉を顰めたりしながらうろうろと取り囲んでいる、どれひとつ同じではないのに彼らが同一の存在であると永遠にはよくわかる。よくわかるとも、物心ついたときから無邪気に彼らを愛してきたのだから。そして彼らの目に浮かぶ数字を見つめる――永遠は、――
 もう子どもの頃の自分の顔など思い出せない。もしかすると永遠はずっと幸せになりたかったのかもしれない、実際は体がどうだのそんなことはどうでもよかったのかもしれない、あの忌々しい医師が言っていたように海さえも、そしてあのどうしてもゆるせないたった一人のことさえも本当はどうでもいいのかもしれない。難解で面倒な自分自身に生まれただけでこんなことになった。ほらもう自分でいることが何もかも不幸をつれてくる、こんなにも回り道をして永遠はこの場所にやってきた。
 永遠が永遠の足をずっと引っ張った。幸せになりたい自分のせいでいつまでたっても幸せになれない。
 ゆっくりと手を鏡に伸ばす、
 向こうの永遠は縋るようにみじめな顔だった。今更そんなしおらしい顔をして誰に助けを求める気なのか。なんだその凪いだ眉は。この期に及んでそんな顔を、まるで未だに自分にあらゆる権利や余地があるような、
 ヘヴンを引き連れまるで保護者にも見える、そういう自分を他人事として眺めていると、なんだか「永遠」という存在が今でも大勢に人気であるかのようだった。誰にでも慕われていた自分自身、今ははずれかけたハーネスとテーザーガンといつもの心許ないタイトなパンツのみの永遠という細いいのち。
 自慢の真っ青なリップも気づけばもう剥がれそうだ。
 永遠は向こうにいる自分の頭にそっと指を這わせる。花畑でも撫でてやるように一度てのひらを広げ、
「しゃらくせえ」
 その手を拳にして振り下ろす。
 波が走る。視界一面に亀裂が飛び、映っていたもう一人の永遠の頭はあっさり潰れた。
 ほろほろ周囲が崩壊を始めてそして、永遠は目の前の壁がデータでできた鏡だったことを確信する。廊下の情報が剥がれてエラーを起こしたためにまるで鏡面に見えていたのだ。何度も何度も永遠は拳を打ち付ける。ノックするように激しく、そして打って変わって泥でも引きずるようにゆっくりと。鏡が鳴る、花が散るようにヘヴンたちがさあっと引いていなくなる、永遠一人がそこに留まって、指をぐっと内側へ折り込んでまた振りかぶり、抉るようにしつこくしつこく鏡を殴る。噴き出して塵になるデータを浴びている。完膚なきまでもう一度。もう一度。悲鳴がやむように、確実に。もう一度、
 ――ゆるすものか。自分自身を含めたすべてを一生、いやえいえんにゆるさない。絶対にだ。
 拳をふるうたび背から永遠の意識が棘になって飛び出していく。永遠自身も目にしえないデータがほとばしる。全身がいったん液状になり、融解し、流れ、体表を包む繭になって渦を描きながら回り出し、かさのように永遠を覆い込む。マリンスノウとして積もった永遠は今ここに戻ってきた。粉になって塵になってそうしてまた「永遠」になった。――意識がぱちぱちまぼろしの音を立てながらはじけてあたりに浮遊する――胸から生まれた津波をのどの奥で呑み込む。心のうねりがそのまま命の蠢きになる。はち切れ、放射状に散り、何もかもの境目がなくなって、それでもふたたび永遠という存在に収斂し、その場に確かなものとして留まるいのち、
 データの破片だと思っていたものが自分の爪であることに気づき永遠は指を開いた。返して甲を見、そこからつられて今まで叩いていた箇所を見やる。――亀裂に映る永遠が黒く青く輝いている――髪が触手のようだ。海月のかさのようなものの上に淡く光暈ができている。無数にきらめく鏡の亀裂に映った自分に駆け寄った。感傷を呼び起こす面影などもうどこにもないことを確認し、四方へ尖る睫毛の光に爪を立て、
 ポケットのなかのリップを出して唇へ当てる、もはやどこが唇なのか判然としないが勘だ。十年も遊びで化粧をしてきたわけではない。じっくりと引いていく、筆も指も必要ない。これは永遠の足跡だ――ここに青さえあればいい。
 キャップをしてしっかりとポケットにしまう。わめいて脈打った自分を突き飛ばし、勢い永遠は体のデータと今にも一体化しそうな銃を抱え直して階段を上がり始めた。そのうちそれがどんどん早足になって、一段ずつ踏みしめたのが数段抜かしになっていき、聞こえなくなって久しいはずの鼓動のはやさで永遠はとうとう飛ぶように駆け出す。
 風の音でもマリンスノウの積もる音でもない。聴覚を裂くのは永遠のいのちがデータとして満ちてはひらめく音だ。
 ――たとえばこの先いつまでたっても永遠が不幸なままだとして、それが永遠自身のせいだとしてしかしそれがなんだというのだろう。幸せであること不幸であることのそれの何がそんなに重要なのか。永遠のこれから為すことに関して永遠の気分がそんなに大事なことだろうか。
 いずれかの廊下に出た瞬間右から人が出たのを碌に確認もせず撃った。足を止めることすらしなかった。自分自身のあふれかえるエネルギーを銃の電源に回しながら弾を充填し、何事もなかったかのように進む。手応えからして求める相手のいずれでもなかったことは確かだ、それさえわかればいい。
 ――確かに永遠はしくじった。今回の企みが天下の後ろ盾を失って崩壊したことに限らない、それ以前に何もかもを誤っていた。それはその通りだ。
 しかしそのことの何がそんなにおおごとなのだろう。
 何も関係がないのではないか。
 抱える思いや夢が愉快なものでないとしてそれがなんだというのだ。幸せとは決して言えない間違いだらけの生き方でそれの何が問題なのだろう。
 ああ美しきデータの雪たちよ、
 永遠はゆるされない、ずっと苦しいだろう、しかしそれはただの事実だ。それでも永遠という時が止まらない。たったひとつの明白な永遠性、冴え冴え走りながら永遠は生きている。
 生きているのだ。
 やにわに記憶が明滅し永遠はあたりを見渡した。記憶は懐かしい声になり、「わたしはあなたのような人間を待っていた」という天下の言葉に変化する――会いに行くしかないだろう。永遠をこの舞台へ誘い出した彼女と決着をつけねばならない――そしてもう一人、会わなくてはならない者がいる。疾走する。忘れたくても忘れられない、愛も憎も含めた己のなかのすべてをその身に集める純白のいのちのもとへ、海を置き去りに罪を引き連れ永遠はひたすら進んでいく。