Blue Eden #14 イミテイション・メシア 前編







 テーザーガンを抱え直してモルグから走り出た永遠とわは、いくらかも進まないうちにそこで急停止する。清潔なシャツが広がるセレの胴体に飛び込みかけたのだ。メンテナンス部付近で永遠から見張りを命じられていたセレは、気配を殺してモルグにまでついてきて周囲をずっと警戒していたらしい。モルグはもともとみまるや天下てんげの許可した者しか入れないことにはなっているが、永遠たちがみまるに連れられて移動したとき、そして会話の最中に余計な邪魔がなかったのはセレの見張りのおかげのようだった。――少し離れたところに数名、転がっている。ハイマ医師のようにブラックアウトを起こした者だけではないだろう、セレが大人しくさせた者もいるはずだ。
満天光星まんてんみつぼしが猛スピードで階段のほうへ走って行きましたが、捕らえるべきでしたか」
 いつも通り落ち着いたセレの声に永遠は首を横に振る。そう、光星は――もう立ち上がらないのかと永遠は思いかけていた――彼はしばらく放心していたのだが急に立ち上がり、永遠やみまるには目もくれずにモルグを飛び出していったのだ。みまるは出てこなかった。もう何もする気がないのかもしれなかった。光星は、きっと夜半のもとへ行くのだろう。確かにここで彼を捕まえておけば何かと有利に働いたかもしれないが(光星が自由に動けなくなれば夜半はそのぶん無防備になるわけだ)、ここはあえて動きの大きい光星を夜半のそばまで戻したほうが彼らの動向を探りやすくなり、こちらにとって利があるかもしれない。――そこまで考えて永遠は真顔で立ち止まる。まったくの無表情になった頬が、針のように細い指先のうごめきを、くすぐったさをともなって感じている――いったい自分は何をする気なのだろう。急いだようにモルグを出たのは、これは光星の慌てた動きにつられたのが大きい。何か思いついたのかと光星を問い詰めようと思ったのもあるにはあるが、留まって悠長に油を売っている場合ではないと思い出したのだ。とにかくセレと合流すべきと判断してそれで走り出た――ではこれからは? 夜半の動向を、と永遠は先ほど思ったはずである。――何のために。夜半を捕まえるために? それは夜半を捕らえて深海部に勝利をもたらすためか。海に行くためには最後のパーツが必要だ。それには今回の競争で勝たなくてはならない。天下が言っていたルールに従って相手の部のトップを降参させる必要がある、永遠はそうしなくてはならない、そう思っている。もちろん――しかしそうではないかもしれない。
 そうではないかもしれないのだ。永遠の視線は右ななめ下から左ななめ下へ振り子のように空を切った。――何を確かなものとして信じたらいいだろう。永遠は何よりも自分のやりたいことだけを見つめていたはずなのに――ここに来てとつぜんわからなくなった。まだデータ崩壊はそこまで広がっていないはずが、足下がすべて崖のように脆く崩れ去ったようだ。
「その様子ではメンテナンス部の協力は得られなかったと見てよろしいですね」
 セレの呼びかけでぶっつりと切断されて現実へ戻った思考が、それでもまだしぶとくのたうって元のように繋がり始めるのを、永遠はなにか化け物でも見るようにぼうっと感じていた。なすすべもなかった。それでも小さな頭は、うん、とセレに向かって今度は上下に動く。
「ハイマもみまるも別におれの味方にはならないみたいだけど、いいや、もう、――あいつらも天下に見放されてる。わかっちゃいたけど天下は誰も信用してない――おれの知らなかったことを教えてもらったからそれで十分だよ」
「お二人はなんと? 私の位置からは会話の詳細まで把握できませんでした」
「ハイマは生身の人間はもうここに一人も残ってないってそう言ってた。春先の事故あったろ、あれでコロニー内部の空気が汚れて、強制的にみんなデータに変換したんだと。子どもたちも、生身以外をデータ化にしてた一般人も、みんなだ。空気清浄終了の目処も立ってないみたいで新生児も許可できないそうだ。それでそのことをメンテ部総出で隠蔽しているんだとさ、パニックにならないようにって。もちろん天下は知ってるらしい」
「そうだったのですか。把握いたしました」
 永遠の言うことを素直に記憶していく優秀な部下に「本当は夜半が生身としての生き残りだ、まだ生身はいる」と永遠は流れで言いかけ、そういえばセレも夜半が生身であるとは知らないことに思い至って口を閉じる。永遠も誰にも明かしていなかったのだった。ただでさえ天下が不審な動きを見せていた。混乱を不用意に増やすような真似は避けたかった。うまく使えば夜半を脅す材料にもなる。かなりプライベートなことを脅しの材料にするのは抵抗がないでもないが、今更である。永遠だけが持つ情報というのもいくらあってもいい、そう思っていた。
 今だって言うかどうか一瞬迷って口を噤んだのもこれも間違っても夜半を庇っているのではなく、言っても無意味だと永遠は判断したためだ。おそらく、夜半が生身であるか否かはセレにはほとんど関係がない。どちらにしてもセレに敵うものはいない。それをセレ自身がよくわかっているし、永遠もわかっている。……そう、セレに敵うものはいないのだ。――セレは迷わない。特別やりたいわがままもないために悩むこともない。セレは――セレはこんなに無駄がない。体も心も記憶もすべてデータにした存在、すべてを捨てたいのち。
 ではこの、永遠の胸に湧く迷いはいったいなんのためだろう。永遠の持つ欲望ゆえのものなのか?
「了解いたしました。メンテナンス部の皆さんが最後まで中立を貫いて傍観するつもりでいるのでしたら無理に協力させてもあまり役には立たないでしょう、このまま放置でよいかと思われます――それで永遠チーフ、私たちの今後の動きなのですが――永遠チーフ? いかがされましたか」
 気遣うように問われて気づく。永遠はいつのまにか立ち止まっていたのだった。まだモルグから少し離れただけの場所だ。階段に行くにしても、エレベーターの様子を見に行くにしても中途半端な廊下のさなかである。進行方向の果ての壁にヘヴンがちらちらと走っているのが見える――あたりに記されている数字はきっと、それぞれの部の人数のカウントダウンなのだろう――どこに行けばいいかわからないにしても、どこかには行かなくてはならない。目的地がここではないことだけははっきりしているというのに、永遠は立ち止まった。
 そのとき、もうむりだ、と自分の声が言ったのを、永遠は嘘だろうと思いながら聞いた。バイザーの奥のセレの瞳孔が一瞬小さくなって広がる、それが絵の具のにじみのようで、どこか心細い子どもに見えるセレの顔がもっと幼くなる。
 まるで不出来な映画のようだ。
 不出来。飄然としていてわがままで、それでいて嘘でも周囲に慕われてきた深海部のトップである「永遠」が、他ならぬ自分自身のことを不出来と感じている。不出来からいちばん遠い存在であるかのようだった、そのはずだった永遠が。その永遠の唇が本人の意に反してまた勝手に動く。
「ずっと自覚しないようにしてきたんだけど。無理だ。だめだ」
「無理? 無理とはいったい――永遠チーフ、どうされましたか。まさかとは思いますが、メンテナンス部のお二人から何か攻撃でも受けたのですか――ご気分が優れませんか。それとも不具合が?」
「違う。違うんだ、セレ」
 これが映画だとして誰が観ているのだろう。たくさんのヘヴンたちだろうか。それとも天上天下だろうか。この会社に従うしかない、データとなってしまった一般人たちだろうか。どこか遠くに永遠の視界のみなもとが飛び去って永遠を見下ろしている。はるか昔、もしくは遠い未来のできごとであるかのように今を無機質な半眼で眺めている。その監視のなかであえぐように永遠は息を吸う。
「夜半のことをぐちゃぐちゃにしたい、あいつから大切なものを取り上げて、引き離して、あいつを、傷つけたい」
 釘でもうつようにゆっくりと一言一言を切る。声は床には吸収されずに散乱し、光と同化することもなく永遠の重りになる。
 ますます動けずに永遠は、見た目どころか感覚まで棒のようになった両の足で立ち尽くす。廊下には風がない。永遠の髪も、黒いポンチョもそよとも動かない。
「いつも上ばっかり見てるあいつの視線を奪いたいんだ、おれを恨んで苦しんでほしい。他のことなんか考えられないくらいに。宇宙に行きたいなんて気持ちが霞むくらいに」
「お言葉ですがチーフ、貴方は既にたくさんの人間に注目されています。これ以上何を求めるのですか。視線を奪うとはいったい」
「あいつじゃなきゃ意味がないんだよ、おれを踏みつけたのはあいつなんだから。あいつの生き方がおれを殺すんだ、あいつがただ生きているだけでおれは息ができなくなる、あいつのことしか考えられなくなって、だから」
「傷つきたくなければ離れていればよいのです。邪魔なのでしたら見て見ぬふりでも構わないはずです。今までも永遠チーフは夜半部長を気にされてはいたようでしたが、これまでは無視をされてきましたね。私が夜半部長の処分を進言した際も貴方は受け入れることはありませんでした。それは夜半部長の存在を、夜半部長に対する感情ごと貴方が無視したからではないのですか。それで衝突は避けられてきたように思えます。これからもその対応を続ければ問題はないかと思われます」
 ひたすら平板なセレの声に永遠の意識はほんのわずかなときその場に戻った。セレはたぶん、本音で話している。セレはいつだってそうだ。これは嫌味でもなんでもない。セレは本気で永遠に夜半を無視し続けろと言っている。セレはそれが可能だと思っているのだ。確かに永遠はずっと無視しようと努力していたが、しかし、
「もう無理だ。離れて生きるには狭すぎるよここは。狭すぎる。――同じ時代に同じ場所に生まれてさ、でも他の何かが少し違うだけで寄り添うことはこんなに難しくなるんだ。へんなの」
 自嘲げに笑えばぱらぱらと髪が肌を叩くのだった。
 セレは手を伸ばしても届かない近さで永遠を振り返るように立っている。そんな姿勢でも、そのすっくりと伸びた両足には均等に体重がかかっているようだった。まっすぐという表現がこれほどまでに似合う存在もなかなかいない、と、永遠はセレを前にするといつも思う。その歪みのない存在に対して今の永遠はあまりにも曲線だった。自分の髪の中からもがくようにセレを見つめ返す。大きく透きとおった目は青く、青く、一切の感情の浮かばない、しかし相対する相手に決してネガティブな印象を抱かせないその表面に景色が貼り付いている。
「はやくかえりたいよ。海にさ。おれははやくかえりたいんだよ、そのはずなのになあ、おれはずっとそのことだけ考えて生きてきたはずなのにどうしてこうなったんだ。どうしてこんなところにいるんだろう、ここは海から遠いな」
 誰かを、
 誰かをただ傷つけるだけなら話は簡単だ。
 ただ生きればそれでいい。必ず誰かを傷つける。――それこそ夜半が永遠にわざとではなくそうしたように――なんの準備も要らない。ただし特定の誰かを、特定の方法で傷つけたい、特定の状態にもっていくように傷つけたいと思うのならば、それ相応のものが必要になってくる。漫然と被害者面で生きていてはだめなのだ。
 突如として体を支配する、傷つけようと思って特定の他者を害することについての異常さを、永遠はしばし愕然として凝視する。とつぜん隣にぼっと現れたように思えるがしかし、もしかするとずっと、ほんとうにずっと、この感情は永遠の隣にいたのかもしれない。本来ならば気づく必要などなかった感情であるはずだった。一生関係のないままにすごすことだってできたはずだった。
「どうしておれたち、ここで再会したりしたんだろう」
 夜半がいると永遠はだめになる。あの月の光に照射されてから永遠のすべてが狂ってしまった。永遠の求める何もかもすべてが今は遠い。
「もう気持ちが治まらないんだ、おれはあいつから受けた屈辱をあいつにも感じてほしいと思ってる。今更和解なんかする気になれないしもちろん愛されたいわけでもない、ただあのときのおれと同じように傷ついた目でおれを見てほしい」
「すみません、永遠チーフ」
 セレの体がしっかりと永遠を向いた。口調にも表情にももちろん乱れは見られないが、セレはセレなりに何かを考えている。
「遮るようで心苦しいのですが、今一度、確認させてください。私のやるべきことを。私たちの目指す場所、為すことを。単刀直入にお尋ねします。貴方は何がしたいのですか? 私はいったい貴方のために何をすべきですか」
 どう答えるべきか窮して永遠はしばし沈黙する。セレはというと、言葉が足りないと感じたのか、黙った永遠を責めるでもなくひたすら淡々と会話の駒を進めようとしてくる。
「私たちは海に行くことを最重要事項として目的に据えてきました。ただそれだけを私たちの夢としていたはずでした。そのためならば手段を問わなかった。今までのすべてはそのためです。味方であるはずの深海部のメンバーさえも信用せずに欺いてきたのもそのためでしょう」
 セレの持ったテーザーガンが小さく鳴った。セレのすべらかな手の甲と手首が動き、銃の調子を確かめたのだ。
「いずれこのように、いつか突然に、宇宙部と決着をつけなくてはならない事態に陥ったとしても、それがたとえ社長の気まぐれだったとしても、まず貴方は中立のメンテナンス部を落とすと、そのような手筈になっておりました。貴方を責める人々の輪から私が貴方を助けたとき、罪が明るみになっても尚貴方は今までの意志を曲げようとはしていなかった。私にはそう見えました。直後の短いやりとりからも変更は汲み取れませんでした。私はそう判断し、だから当初の予定通りに貴方をメンテナンス部までお連れしたのです。相違ありませんね? 今はそうではないのですか」
 狂いもなく揃ったセレの睫毛は静止している。とてもではないが、今の永遠にはセレを正面から見定めることができない。
「貴方のことがわからなくなりました。私にはやはり、今の貴方がとても不自由に見えます」
 慎重に考えながら、永遠は口を開いていく。
「天下がこんなばかをいつかやるんじゃないかってことはわかってたさ、理由こそ知らないけどあいつは勝手なんだから。おれだって信用してたわけじゃねえ。イレギュラーはふたつ、こんな風に一気に全員に気づかれるとは思ってなかった。――もうひとつは夜半の存在だ。おれはもう自分の中のあいつへの復讐心を無視できない――全員にばれたことだけだったらなんとかなかったと思う、おまえの言うとおり、おれは当初の予定通りにただ深海部の勝利だけを最優先に動くつもりだった。ほんのさっきまでそういう気持ちだったよ。でも、でもおれは……」
 そこで永遠はふと顔を上げた。つうっと髪が弧をえがき、永遠の視界を縦に切っていく。それを見送る。永遠は何も考えずに声を喉から逃がしてしまう。
「おれはもしかして間違っていたのか?」
 セレは左手の銃を腰に戻していたが、永遠の逃がした声が耳に届いた瞬間に動きを止めてどこかに視線を流した。まばたきをしてから永遠を見つめ、数歩近づく。
「永遠チーフ、急にどうされたのですか。先ほどからご様子が」
「おれ、だってずっと海に行くためにぜんぶ、」
「永遠チーフ?」
「まさかここに夜半が入ってくるなんて思ってなかったんだ。――夢前たちにもあんなに一度に全員にばれるとは思わなかった、あんなふうにして全員に囲まれるなんて――そうだ。初めからこんなことすべきじゃなかったんだ」
「永遠チーフ、」
「おれは、でもじゃあどうしてたらよかったんだ? だってずっと」
「永遠チーフ」
 やっと黙り込んだ永遠に、なぜかセレのほうが動揺したように永遠の名を呼んだ。
 あのセレが何かを言いよどんでいる。滅多に見られないセレの姿に永遠は、セレをそうさせているのは自分であり、つまり今の自分はよほどおかしいのだろう、と他人事のように痺れた思考の隅でぼんやり思った。セレは表情こそ変わっていないが、永遠の顔から奥まで覗き込むように前傾姿勢になっている。その薄く整った唇を何回か開閉させ、そしてとうとう話し出す。いつも通りの澄んだ声だ。
「貴方は、――貴方は間違っています。もちろん――当然でしょう。最初から貴方は間違っていたのです。貴方自身がそれを何より承知の上だったのではないのですか。わかっていて、他者からの偽の賞賛も憧憬も憎悪も、嘘さえも何もかも連れて海へ沈んでいくつもりだったのではないのですか。だからこその――私こそ――私こそ何か間違っているでしょうか?」
「いや、おまえは間違ってないよ。いつだって正しい、おまえは、……ずっとおれのやってたことをそばで見てきただけなんだ。間違っているわけがない」
「永遠チーフ。話が見えません。貴方の仰っていることは先ほどから迷走しているように思われます。貴方は混乱しています。お言葉ですが今がどのようなときであるのかお忘れですか。もう一度問います、貴方の目的は? 私は何も貴方を責めているのではないのです。貴方の手足として、右腕として正確でありたいだけです。指示をください。私は今何を最優先に行動すればよいのでしょう。貴方が今いちばんに優先させたいこととはいったいなんですか」
 うみに、
 音のない泡沫を唇から出してそして永遠はすぐ振り切るように頭をがむしゃらに振る。顔面を引き剥がす勢いで額のあたりを両手で覆って爪を立てる。もし永遠が生身であったならとめどなく汗が肌を伝っていただろうし、もしかしたらうまく立っていられず転んでいたかもしれない。
「いや――どうしたらいいのかよくわからない、おれは――おれは夜半をどうにかしたい、」
「ですからどうにかとは。そこが不明瞭では私も動けません。もっと具体的に」
「それは……わからない。でもどうにかしないと……どうにかして大事なものを奪いたいんだ、あの視線を……いや、その前に天下にも会わないと」
「それはこの競争に勝つ、という意味ですか? 皆さんに気づかれた件はどう処理されますか」
「それは、天下に会って、もう一度、」
「もう一度細工をさせるということですね。それでは、ひとまず天下社長に会うことを優先させるということでよろしいですね? そして皆さんの記憶にもう一度細工を施し、それから夜半部長の動きを封じ、天下社長の提示したルールのとおりそれをもって深海部の勝利とし、貴方は海へ。これで夜半部長への復讐も果たされると思いますが」
 口を挟まずに聞いていた永遠だったが、そこではっとしてセレを制する。セレには夜半の心理がわかっていない。今回の競争に永遠が勝ったとしても、有人の小型ロケットや探査機に使う重要な部品がたとえどちらかひとつしか作れないのだとしても、夜半は諦めないだろう。深海部の勝利は夜半にはなんのショックももたらさないはずだ。
「だめだ。あいつはそもそも自分が宇宙に行くことには固執してないはずなんだ。あいつにとってはなんの痛手にもならない」
 しがみつかれるような形で発言を止められていたセレは至極当然といったふうに返してくる。
「ではどのように」
 堂々巡りだった。
 話の不毛さに永遠も気づき、つい言葉を途切れさせてセレから離れる。しじまがじんわりと二人に絡まり、永遠はそれを全身で感じている。今がどういうときなのかつい先ほど目の前の右腕に問われたばかりだというのに、――だめだ。頭がうまく動かない――セレはというと右手だけに持った銃の先についたカートリッジの部分を確かめているようだった。形のいい頭が傾いている。ふだんならぱっちりとこちらに向けられている青の視線が永遠にふと流れ、
「わかりました」
 何がと問う間もなかった。
 黒と青が永遠の視界に散った。身につけていたポンチョを蹴りで引き裂かれたのだ、それで髪も数本吹き飛んだと気づいた永遠は反射で後ろに退いたがもちろん遅い。セレの足の仕込みナイフが照明を受けて輝く。その光と世界が幾重にもぶれる――違う逆だ、ぶれているのは永遠のすべてだ。――わかった頃には腹から全身に衝撃が走り永遠は自分の位置を見失っていた。一度視界が完全にまっくらになる。がつん、とやたら大きな音を立ててテーザーガンが床に落ち、その音が耳元で鳴ったように錯覚し、それが錯覚ではないということに銃の真横に倒れ伏した永遠が気づいたのは音からコンマ数秒経ってからのことだった。
 撃たれたのだ。
 セレの銃からワイヤーが伸びチップが舞っている。自由がきかないので確認できないが、きっとカートリッジは永遠の腹に刺さっているのだろう。永遠の防護チップは今や布きれとなって落ちたポンチョに編み込まれている。裂かれてしまえば永遠は貧弱だ。
 おかしなことにすべてが夢のようにのんきに見えるのだった。
 鮮やかな動きだった、と言うことができるほどの余裕さえこちらには与えられなかった。セレの動きのどれひとつとして永遠にははっきりと視認できなかったのだ。されるがままだった。それもそうだ、セレに敵うわけがない、データ化していようがいまいが関係なく誰だってセレに敵わないことは永遠がよくよく知っている。つい先ほどもこんなことを思ったばかりだった。何しろずっと隣にいたのだ。セレは自身のメンテナンスも武器の確認も怠らない。一旦やることが決まれば遂行までどこまでもまっすぐに動く。そんなセレのことを誰より信じ、その力を頼りにしていたのは他ならぬ永遠である。セレだけが永遠の裏切らない右腕だったのだから――今この瞬間までは。
 セレの見慣れた靴先が横様に現れた。
「共に海に行くと決めた十年前のあの初対面のとき、貴方は私に『味方でなくていい』と仰いましたね」
 永遠は眼球も動かせずに呼吸だけを繰り返している。なんのまねだと問うこともできない。痛覚も今やない。視覚と聴覚は残っているが、やはりそれらを残してあとはすべて遮断されてしまったようだった。自分自身の点検を素早く終えて意識を上方に集中させる。
 足音は既に止まっていた。気配がする。真上にセレの顔がある。
「乱暴を失礼いたしました、永遠チーフ。――カートリッジの電力を私のエネルギーに回しましたので、そのぶん威力が加減されたはずです。視界は無事でしょう。私の声も聞こえていますね。ややすれば他の機能も回復します――もう一度確認を。つまり総合いたしますと、永遠チーフは天下社長と夜半部長にお会いしたいということで間違いありませんね。海へと移ることも諦めてはいない、ただ、いずれも具体的にはどのように解決すべきかわからないと」
 一歩、永遠の一瞬の狼狽を完膚なきまでに叩き潰すように耳元にセレの足が落ちた。転がっていた永遠の銃をセレが踏んで破壊したのだ。不自由な永遠の視界のなか、飛び散ったカートリッジをセレのすらりと長い指がつまみあげる。そのあとにカートリッジの中身がばらばら祝福のように降ってくる。永遠の体のなか、いつまでもいつまでも銃のこなごなになる悲鳴が残響している。
「ご安心を。私が貴方の代わりに貴方のやりたいことを叶えます。まずは天下社長と夜半部長を捜し出し、お二人を捕らえて貴方のもとまで連れて参りましょう。天下社長にはすべてを説明させ、今ひとたび貴方に協力させましょう。そして夜半部長には貴方の手で引導を。私はそのために、私のできることをするまでです」
 そこでセレは何かに気を取られたように息を抜く。永遠にはセレの声がなぜかすうと頭へ溶けていく優しいものに聞こえていた。――何かに似ている。この状況は初めてのもののはずなのに、永遠に異様な懐かしさと既視感を与えてくる。いったい――
「今でも私は貴方の味方であるつもりでありますが、貴方にとってはこれは裏切りに入るのでしょうか。許してくれとは言いません。乱暴の件は謝りましたが、これからすることについては謝罪いたしません。これが終わったら私はここを去ります。それでどうか不問にしていただけませんか」
 待て。――セレは何を言っている?
 ここを去る。セレが? 理解が追いつかない。先ほどから永遠は完全に置いてけぼりを食らっている。だめだ。永遠ではセレにとても追いつけない、
 なぜ。なぜ。なぜ隣にいるのにこんなにも何もかもが遠いのか。永遠が海のものだからか――海に行くのは二の次になっていたくせに――隣にいるのが海のものたちばかりなのになぜだ。
 迷いなく過ちなく、それだけのことが永遠にはなぜできなかったのか。何が悪かったのか永遠にはわからない。残された感覚のなかを疑問符どころか爆発した感情が飛び交ってちっとも落ち着く時間をくれない。
「これまで説明してきたとおり、私は存在の隅から隅までデータでできております。個と呼べるほどのものは持ちあわせてはいないのです。おそらく手術をする前の私は貴方のように身勝手でわがままだったのでしょう。なにぶん捨てた過去のことですのですべては憶測に過ぎませんが」
 永遠の疑問も混乱も顧みることなくセレは勝手に会話を進めた。永遠は相変わらず上を見ることも寝返りをうつこともできずにセレの声を聞くしかない。
「その捨ててきた身勝手を今ここでやろうと思います。これは私のわがままです。おそらくは私を思って『味方でなくていい』と仰ってくれた貴方に、ずっと誰よりもわがままだった貴方に、この身勝手でお応えしたいと思います」
 清冽な声が無慈悲に永遠にふりそそいだ。
「ただでさえ今の社内は貴方にとって危険でしょう、貴方の味方はもういないのですから。それに加えて今の貴方は混乱しすぎています。この状態で歩き回ってはいけません」
 ――死だ。
 すっかり回転の遅くなった永遠の頭が唐突に単語をはじき出した。――今の状況にデジャビュが発生しているその理由。死だ、これは永遠が遠ざけていたあれに感覚がよく似通っている。もう諦めていい、もうやらなくていい、もうここでおしまいだ、とこちらの事情などお構いなしに告げてくる、愚かで乱暴で、勝手でどこまでも慈悲深い――
「今の貴方ではおそらく、何も為せない」
 セレはあたりを確認すると、永遠を抱き上げて俊敏にエレベーターへと走った。永遠はしばらく横抱きにされていたので視界一面がセレの顎で埋まっていたが、そのうち左肩に抱え上げられた。ときおり喧噪が聞こえ、それからヘヴンのものと思しき視線も感じ、そのたびにセレは立ち止まったが、結局エレベーターまで誰とも擦れ違うことにはならなかった。エレベーターも電源をやられたらしく、もう動いてはいないようだ。
 扉をこじ開けたセレはしばらく何か確認しているようだった。おそらく籠がどこにあるかを見たのだろう。前触れもなく髪が浮かぶのを永遠は感じる。クローズアップされる視界に、エレベーターの籠の昇降路を飛び降りている、と気づく。自分自身が意思をもっておこなったことでないと今何が自分の身に起きているのかなかなか気づけないのだ。何か感想を持つ暇も与えられずに落下はあっけなく終わり、永遠を抱え上げたままでセレは器用に底に両足をついた。重力を感じさせない着地だった。セレはすかさず蹴りを食らわせて扉をこじ開け、最下階の廊下に出る。
 暗い。
 床をすべっては闇へ消えるセレの足と体を、肩から揺さぶられながら見下ろして、真っ先に永遠の思ったことはそれだった。昇降路を落ちているときから空気が違うことは感じていた、今日は暗さの種類が違う。どんどんどんどん色がなくなっていくのだ。明かりがほとんど落ちているらしい。水深三〇〇メートル、もっと深い海溝などとは比べものにならないが、それでもこことて十分に深海であるということを思い出す。
 セレの足は迷いなく進み、いつかの日のために管理されている特別な有人潜水艦――深海の探査機へとやがてたどり着く。あとは最後の部品を取り付けるだけで海に行ける、あの例の重要な探査機だ。また前触れもなく腕へと抱え直されたかと思えば、セレはするりと永遠を探査機の内部に滑らせて下ろした。
 音が一切しない。チェックのために近づいたことはあるがそのときは賑やかな現場の人間たちに囲まれているときだった。今は何の気配もない。あるのは命のかよわない潜水艦の壁や床だけだ。
 ここでお待ちを、とセレは永遠の耳元で囁いた。ベルトで四肢を固定されたのがわかる。もちろん永遠は抵抗などできない。わずかにでさえ動くことも無理だ。見つめ返すのが精一杯の永遠を置き去りに、ゆっくりとセレのあどけないほどの顔が後退して永遠の視界にようやくぶりにすべて収まる。
 ハッチに手をかけたセレの上体がわずかな光を得て影絵のように浮かび上がっている。形のよい唇が闇をもってはっきり動くのを永遠は見る。
「海に勝利を。貴方を必ず海へ。貴方が私に約束したように、私も貴方に約束いたします」
 そしてハッチが閉められた。最後に見えたのは、こちらを見下ろすセレの顔にかかったバイザーの、遠く遠くの非常灯を反射したまるで三日月のような輝きだった。