Blue Eden #13 地獄より愛を込めて 蜘蛛のように細い ほとんどの社員がどこかへ身を隠しているのか、メンテナンス部のある地下二階は閑散としていた。このあたりにはヘヴンも出ないらしい。永遠は資料室のある上二階からここまで、大フロアを通らずに階段を使っておりてきたのだが、他の階に比べこのあたりだけ妙に静かであることが気になった。メンテナンス部の入り口で一度立ち止まり、内部を窺い、気配を殺してすべりこむ。整然と並べられた作業机と椅子、そして沈黙が海原のごとく室内に広がっている――メンテナンス部は元来中立の立場を貫く機関であるし、永遠はメンテナンス部の人間にだけは手を出していない。ここの連中が永遠を見てとつぜん攻撃をしかけてくることはないはずだ。しかし中立だからこそ、ここの連中は誰に対しても警戒を怠らないともいえる――万一に備えて永遠の銃はすでに抜かれている。ショットガンの形をした、ワイヤレスタイプのテーザーガンだ。 資料室の前で繰り広げられた先ほどの一幕について、永遠は場を離れても言及しなかった。いつかは何らかの形で自分のやっていることが周囲に気づかれる日もくるかもしれないとは思っていたが、まさか 案外日和った思考をしていたらしかった己に気づいてしまい、永遠は身勝手にも今それに傷ついている。 そして永遠が語らない以上は問うつもりもないのか、永遠を助け出したセレも何も言わないのだった。セレらしいといえばセレらしいと思い、それで永遠も墓穴を掘るような真似をせずに済んだ。内心では胸をなで下ろしてもいる。かつて永遠はセレに対して「自分の味方でいなくていい」と告げたこともあるが、それでもやはりこんな状況下ではセレがいてくれなければ永遠は困るのだ。セレは天下と違って永遠の命令を受ける側である。強い我を持たない。だから永遠に逆らうこともない。永遠にさして興味を示さないからこそ永遠を裏切ることもない。 そんなセレには今、見張りを命じてある。 しかしこの部屋がこんなにもひっそりと静まりかえっていたことなどいまだかつてあっただろうか。広い部屋の中心部、隣接する個室や休憩室に向かうまでの途中に人影をみとめ、永遠はもとからそうしていたように音もなく銃口をそちらへ突きつけてぴたりと歩みを止める。何度か目をしばたたかせる。データ化した目をもってしてもよく見えないのは照明の調子がおかしいせいだ。天井からの光が明滅を不規則に繰り返しているのは、これは社内を循環するエネルギーとその供給が不安定になっているからか? 天下のおかしな演説のあたりから妙に動きづらい。おそらく天下が原因だ。ひょっとすると永遠自身がもうすでに干渉されているのかもしれない。 永遠のいる周辺は安定しているのかずっと明るいままである。明滅の合間にうっすら、他の階からの喧噪が遠く漂ってくる――永遠は思考を目の前の影から浮かせかけ、――いや今はここに集中しなくてはならない。残された一人はさしずめ生け贄か。明かりが気まぐれに真ん中の人影を一瞬照らしだす。抜けるように爽やかな紺色のスーツに方々に散る黄色の髪、 不服そうに両手を挙げている相手に永遠が眉を顰めたのは数秒のことで、 「離してやれ。離したら撃たないって約束してやる、でもこのまま離さないつもりなら今撃つぞ」 すぐに声を光星の背後に放った。そこから背の低い白衣の男がひょっこりと顔を出す。 「残念、なんでわかったんでしょう」 「思ってもねえこと言うな。こんな誰もいないところに光星がたった一人で立ってたら怪しむに決まってんだろ、こいつは関係ないんだから」 「関係ない、ねえ」 好き好んでこの場所に立ち寄るような者などいない。光星も例外ではないのだろう、医師から解放され、さっさと脇に避ける光星のうんざりした様子を見ていてもそのことはよくわかる。先ほど永遠と別れたあとで何か用事があって仕方なくここに寄って、そのうち天下の先ほどのあれが始まり、出るタイミングをすっかり失い、一人でうろたえているうちにこの医師のお遊びに巻き込まれたのだ。かわいそうに。永遠が言えたことではないのかもしれないが、光星はどうもいつもタイミングが悪いように見える。ツキがないのかもしれない。 ぎっ、と鳴き声を上げる哀れな椅子に座った医師は光星にもう興味を失っているようだった。光星はというと永遠に一瞥をくれただけで何も言わない。嫌われたものだ、と自分の所業を棚上げして永遠が遠い目をしていると、すかさず医師が言葉の槍を飛ばしてくる。 「関係ないっていったら貴方もでしょう、永遠チーフ。何しにこんなメンテ部くんだりまで来たんですか。誰よりここを毛嫌いしているのは貴方だと思っていましたよ」 「心配すんな、用がなきゃこんなとこ来ねえよ」 「じゃあさっさとその用向きを言えばいいのに。ほらほら、どうしたんです、言えないんですか。まさか助けてほしい、協力しろなんてことではありませんよね? 言えない? ――もしかして光星君に遠慮している、とか――なるほど。後ろめたいんですね」 図星だった。 永遠はつい、うっかり黙ってしまった。その一瞬を逃すハイマ医師ではない。 「ははあ、ずっとみんなを騙してきた貴方でも、なんとまあ一丁前にそんな気持ちがあるんですねえ。それなのにちゃっかりわたくしたちのことは利用するつもりだなんて、ああなんて清々しいほど身勝手で無責任なんでしょう!」 上での騒ぎはここにも届いてきていたらしい。――あの様子を見てこっち側に来た誰かがもたらしていったのだろうか――いや、 「後ろめたいのはおまえのほうなんじゃないの? おれが何してるのか今の今まで気づかなかったなんて言わないよな。そのおまえにおれを責める資格はねえよ」 「おかしなことを言いますね。貴方の動きに気づいていたとしてそれをわたくしが止める義務なんてないですし、止めたところでメリットもありませんからね、貴方を今責めようが笑おうがわたくしの自由ですよ、自由。謳歌させてください」 「いいから答えろ。天下と繋がってたのかって訊いてるんだこっちは」 医師はというとほんの数秒固まった。どうやら白けているらしい、ということに永遠が気づいたあたりで医師の腰掛ける椅子がくるりと一回転する。――たぶんあれはデータではない、工業区あたりからもらってきた椅子なのだろう、さっきからぎいぎいとやかましい――中途半端に伸びている髪に空気を吸わせ、元の位置に戻ってきた医師はおもむろに仰のき、「ばかなんですか?」とそうのたまった。 「おっとわかっています。わかっていますとも。もしも貴方の悪行を見逃せと天上天下からわたくしが言われていたのだとしたら、わたくしは天上天下の企みの片棒を担いでいる可能性が高くなる。――さっきのアナウンスについて、今の状況、その理由、天上天下の居場所――何もかもわかっているはずだとそう仰りたいんですよね」 そこで大きな溜め息を挟み、医師は指と指を重ねて絞るようにして撫で出す。手のひらで指の腹に触れるようなたっぷりとした沈黙ののちに、やがて金臭い声がちりちり説明を始めた。 「あのねえ。貴方、このわたくしが天上天下から何か企みを打ち明けられるほど信頼されていると本気でお思いなんですか。貴方の目は節穴なんですかね。見てきたでしょう、これまでわたくしがまったく相手にされていなかったのを。それでどうしてあの人のことを何か知っていると思ったんですか? 直接引き抜かれてきた貴方のほうが親しいかもしれませんよ」 永遠とて医師と天上天下が仲がいいなどとは思っていない。しかしここで黙ってはいそうですかと引き下がるわけにもいかない。長く生きているくせに交友関係の狭いあの社長と少しでも関わりのある数少ない人間、それがこの、目の前でふてぶてしくふんぞり返るハイマ医師なのだ。永遠としては埃は今ここでぜんぶ叩いて出しておきたい。 「そうかもしれないけど。あのさ、もっかい聞くけどなんでおれのこと黙ってた? 知ってたには知ってたんだろ、おれのこと。黙ってたの、おまえらしくなくて気味悪いよ」 「言ってくれますねえ、面白そうだからですよ。それから天上天下のほうからわたくしどもに負荷がかけられていたみたいでしてね、貴方のことに気づいても何もできないようにさせられていたんです、あれをやられると頭にぼんやり霧がかかったようになって何に気づいたんだか忘れてしまうんですよ」 「それが今になって急になくなった……?」 会話をいっとき中断させたのは、机に紛れてこちらの様子を窺っていたらしき光星の声だった。――永遠の件だというのに光星の顔はやたら悲愴だ。それが一瞬気がかりになったが――永遠はすぐ医師へと意識を戻す。この男に隙を与えればそこから話をややこしくされるに決まっているからだ。 「それ以上は何も知らないのか? あいつのことあんなに追っかけてたくせに?」 「追いかけられる立場の人間っていうのはみんな残酷なんでしょうかね」 ふう、とたっぷり余韻をもって医師が指先に息を吹きかけ、そして永遠を見上げて苦笑した。この医師の仰々しいのはすべてポーズ、見せかけである。意味などない。そのように動くことが大切なのだ。 ちなみに永遠は医師の笑みが何よりも嫌いである。明らかに相手を見下す笑みだからだ。今もそうだ。下からこちらを見上げているくせに心では見下している。それが表情に、態度に、声ににじみ出ている。揺れている黄緑色の毛先さえ周囲をばかにしている。この人間からはもう毒を抜くことができない。人間のもつ毒は海のものと違って気味が悪すぎて、永遠にとってはゆるしがたい。 どす黒く染まった声が軽やかに部屋へ広がる。 「我々は切り捨てられたんです。永遠チーフ、貴方だってそう。光星君もです。ここにいる誰も何が起きているのかわかっていない。他の社員たちもみんな右往左往しているだけ。メンテ部のメンバーもみんな逃げ出しました――人類のまっとうな生命活動に今や必要不可欠な技術を司どる我々でさえこのざまです。――知るわけないでしょう、あの人のことなんて。トカゲのほうが切った尻尾をもう少し可愛がるんじゃないんですかね、なんと言っても自分の体の一部ですしね。我々は尻尾ですらなかったということでしょう」 「もういいか? おまえの天下へのねじまがった気持ちを聞きに来たんじゃないんだよこちとら。理由は知らないとしても今何が起きてるかぐらいわかるだろ」 「貴方ってわたくしによく似てますよね」 「はあ?」 脈絡なく話を混ぜ返され、ふいを突かれた永遠は仰天する。おもむろになんだというのだろう。次第に治まる驚きの裏側からゆっくりといらだちが這い出てくる。しかしそれをぶつけようと医師を見れば、医師はまだ笑っているのだった。拍子抜けしてしまう。 「いいですか? 貴方の悪事ですが、天上天下が率先して流出させたのではないですね。あの人はたぶん隠していたことを隠さなくなっただけです。――それにしては天上天下自身のことがぜんぜん流れてきませんが、おそらくそっちは貴方のこととは別に管理しているんでしょう――」 言われてみればそうだった。永遠が社員たちの意識や記憶に干渉できたのは、そもそも天下が社員たちの個人情報を永遠に横流ししていたからである。しかしその肝心の天下の所業は誰にも知れ渡っていないようなのだった。おそらく永遠は――そう、医師の言うとおり――どこかで天下に切り捨てられたのだ。 永遠が頭を回転させている間も医師はまだ話し続けている。 「貴方たちに会って確信しましたが、メンテナンス部が管理していた情報も流れていないみたいですし、貴方に関する悪事だけすぽんとロックを外して誰でも気づけるようにしたってところでしょうね。いえ、『知っていた』というもともとの状態にみんなを戻したといえばいいのかな。これくらいしかわかりませんよ」 まあ、でも、かわいそうになってきたから教えてあげてもいいかもしれませんね、天上天下のことじゃないですが。ご褒美に。 「もう生身、いないんですよ。全員データ化してしまってね」 聞き流すところだった。過ぎ去った言葉の意味を戻って掴まえて永遠はしげしげと眺め、下げていた銃を意味もなく数回上げかけ、 「えっ?」 小さく、しかし鋭く叫んだのは光星である。医師に何か言う前に永遠は光星に押されてしまう。光星はというと永遠の様子などまったく意に介していないようで、今まで黙っていたのはなんだったのか、見ているこちらがおかしくなるほど慌てふためいている。 「先生、生身がもういないって、そんなはずないでしょう。子どもたちはどうしたんですか? 体以外をデータ化していた人たちは? まだ残っていたでしょう、そういう人たち。どうしたんですか」 「みんな強制的にデータ化しちゃいましたよ」 「み、みんなって……。そうだ、他の支部の人たちは? 海外支部があるでしょう、定期的に支援物資をやりとりしてるっていう」 「それがねえ、わからないんです。本当はろくに連絡とれなくなってるんですよ。支援物資の潜水艦も半分くらいはうちの自作自演なんです。他の支部もきっと大変なんでしょうね」 「そんな……」 「――ちょっと待て。強制的にってどういうことだ」 うろたえる光星から疑問を引き継ぐように、永遠は医師に一歩詰め寄る。らしいといえばらしいが医師は平然としている。その小さい手が永遠と光星の眉間をひらひら舞う。 誰もかれも知らないところで勝手に動きすぎではないか。定期的に開かれていた食事会とはいったいなんだったのだろう、その名の通りただ食事をするだけの会だったのか? ばかばかしい、このデータ化至高の社会にいてわざわざ顔まで見せ合っていたくせに大事な話のひとつもしていなかったのか。あんなに目の前にいたのに永遠はひとつも気づけなかった。なんということだ。 「おれも知らなかったぞそんなの。メンテ部の判断か? それとも医療区か」 「ほとんどメンテ部の独断でしたね、最終的にはメンテ部と医療区が協力してやりました。なんせまっさきに危機に瀕したのは医療区でしたし、悠長に相談している暇なんてありませんでしたから。天上天下には事後報告です」 「えっ、社長も知ってたんですかあ」 光星が情けない声をあげて、そばにある机にへなへなとしがみついた。それを医師の底意地の悪そうな視線が追う。 「先ほどからどうしたんです? 光星君、貴方、データ化に感謝してるタイプじゃないんですか。みんながみんなデータ化してしまうの、貴方はむしろ歓迎なのでは? 貴方には我々より憎いものがあるはずでしょう。我々と比較すれば永遠チーフのほうが余程貴方の憎む『悪』ではないんでしょうかね」 「そりゃ、そ、それはそうですけど。そうじゃないです。――永遠チーフなんかもともと信頼してませんからどうでもいいですよ。最初からうさんくさい人だと思ってたんです――それよりほんとにいなくなっちゃったんですか? 生身の人間、ほんとのほんとに? ただの一人も?」 「ええ。ただの一人も残さず」 医師は言葉を結んで光星を見下ろす。それがよほど楽しいのか、機嫌が良さそうだ。 「なんで黙っていたんですか……」 蚊の鳴くような光星の言葉に応えたのは陽気な医師の声だった。 「パニックになったら大変だからです、――ほら、光星君が入社したあたりに起きた医療区の爆発事故、あれのせいで――外の空気が内部に入ってきてしまってね。生身の人間たちは汚い空気に免疫がないでしょう、放っておいたらみんな病気になって死んでしまうじゃないですか。でももう空気は入ってきてしまっているんです。事故現場を塞いだって手遅れです。放っておいたら生身はばたばた死ぬのが目に見えていたんです。データ化ばかり研究してきた現代の医療がそんな未曾有の大惨事にうまく立ち回れると思います? できませんよ。だから大騒ぎになる前に誰も死なないように、そして見かけだけでも何事もなかったようにしなくてはならなかったんです」 納得しかける永遠を先ほどから小さな違和感が引き留めている。永遠を置き去りにして時間はゆっくりとうねり始める。 「同意は? さすがに本人たちは気づいてるんですよね。あとから説明したんですよね」 「大騒ぎになっちゃ困るんですってば、いちいち同意なんてとってられません。本人たちには『もともと全員が体をデータ化していた』という認識を遠隔で流して、そして貴方たちには『事故なんて気にするほどではなかった、汚い空気も入ってきていない』という感覚を流す、定期健診のときなんかにね。それが証拠に今説明されるまで事故のことなんか忘れていたでしょう? メンテ部がそこの間抜けの悪事に気づけなかったのと同じことなんですよ」 とうとう光星は額を抑えてしまった。彼の中の何かが今にも壊れようとしているらしい。見ていられなくなった永遠は彼の体を自分の後ろに庇ってやった。かさから伸びる口腕のような永遠の髪がちらちらと影を作る。これでは何にもならないのはわかっているが、せめて医師の目から少しでも隠してやろうと思ったのだ。 しかし、――しかし永遠はさっきからずっと違うことが気になっている。――この様子ではハイマ医師はもちろん、光星も知らないのだろう。知っていたらこうはならないはずだ。 生身の人間がいない? そんなはずはない。 「ちなみに言うとコロニー内部の洗浄なんですが、終了の目処が立たないんですよ。だから当面の間は新生児の許可もおろせません。この状態がいつまで続くんだか、もしかするとこの日本支部コロニーはこれからゆっくりゆっくり滅んでいくかもしれませんね。お笑いぐさです」 そんなわけがない。永遠は知っている。それから永遠の他には天上天下も。 たった一人、生身の人間が残っている。――頑固で残酷な白い月の者、異星からの来訪者のような人間が――光星がここにいるのならばあれの隣には今誰もいないのかもしれない。こんな状況になって身を守るものがないまま、あれは今どこにいるのだろう。 銃を持ったままおろしていた右腕に一度だけ力を巡らせて永遠は息を抜いた。 「もういい。あとはおれが自分でどうにかする」 まだ何かしゃべり続けている医師を永遠は一応遮ったが、医師はというとそれで大人しく引き下がるわけもなかった。 「へーえ、さすが面倒見のいい永遠チーフですね、聞きたいことを聞き終わったら礼もなしに放置ですか。他の社員たちのこともこうやってずっと踏みにじってきたわけですね」 いい加減うるさくなってきた。この医師にいちいちこうやって揚げ足を取られるまでもなく永遠は自分のやったことを自覚しているのに――たぶん――、目配せをしてもやはり医師は止まらない。 「永遠チーフ、貴方さあ」 おもむろに医師は白衣の胸ポケットからペンを数本取り出し、そのうちの白と黒とを永遠の前に掲げた。 「夜半部長と昔お付き合いしてたんでしょう。何かこじれたんですよね? そうでなかったら今でも仲がいいはずなんだからトラブルがあったに決まってます。そうでしょう」 「……夜半のことは今は関係ないだろ」 まさか夜半が生身であると勘付かれただろうか、医師の目を探ったが、いつもの見下す目つきを無駄に浴びただけだった。まったく骨が折れる、そう永遠は内心で肩を落とすが、言わせたいだけ言わせておけばいいのかもしれないとふと思う。一応ここまで付き合わせたのだから、少しくらい聞いてやるのもいいのかもしれない。それくらいしなければ相手はきっと満足しない。 永遠の胸中など露知らず、医師の指はぐっとペンを握り込む。二本のペン先がいやな音を立てて飛び出してくる。 「見る限りでは夜半部長は貴方のことをぜんぜん気にしていませんね。天上天下が貴方たちについて口を滑らせたときのこと覚えてます? 貴方なんか人生の汚点みたいな顔して固まってたじゃないですか、でもあっちは気まずいとすらも思ってないんでしょうね。もうわたくし進展がなくてつまんないから貴方たちのことを追うの辞めてたんですよ、それくらい夜半部長は貴方を相手にしていない。おやっ、誰かに似ていませんか?」 ペン先は二本とも永遠を向いている。永遠は銃を持つ両手の神経を尖らせながらもペン先を注視している。有利なのは永遠だ。有能とは言えメンテナンス部の医師ごときに何ができるだろう。いつでも黙らせられる。 気に入らないと判断したらすぐ。すぐにこの引き金を。 「そんな顔しないでつきあってくださいよ、情報を求めてここに来たのは貴方なんですから。――わたくし、今の姿も口調も何も気に入っていないんです。何もかも天上天下に対するいやがらせのために変えてきたって言うのに、肝心の向こうはこっちを振り返らないから」 いつでも黙らせられる。一撃食らわせれば。 まばたきひとつせずに表情を消して見つめ続けるなか、医師はというと白と黒以外のペンを持っていたもう片手を優雅に広げた。 「昔話をしましょう。知りたいことがあったんです、ただ知りたかっただけですが、わたくしにとってはそれが何より重要だった――わたくしの親戚か先祖か、そのうちの一人がデータ化やその他の重要な件に関わっていたかもしれない、しかし彼に関して一切の情報が公の場から消されているということに気づいて。ちょうど三百年前のことです。彼がどこへ消えたのか、何があったのか、知りたくて知りたくてたまらなかった。でもどこにも情報が残っていないんです。――このわたくしに知ることのできないことがあるなんてどうしても信じられなかった。知りたくなったら調べれば答えは得られるものだったのに、わたくしはそこで生まれて初めて躓きました。――それでもそのときは諦めなかった。真実を知っているのは、三百年前から生きている天上天下しかいないだろうと近づいて――このときになってもまだ、知りたがればそれ相応の何かは返ってくるものだと思っていました。でも、結局、なかったんです、あの人に限っては、何も。――医者としてのスキルも知識も頑張れば頑張ったぶん身についたのに。天上天下からは何も返ってこなかった。一度もこちらを見ないんです。貼り付いていやがらせし続けて優に百年は経過しましたが、知りたいことは何一つ得られていません」 白と黒の二本のペンはそのまま。それ以外のペンが、医師の左手から菓子のようにぱらぱらと落ちていった。 「振り向かせたい、というのは、復讐ですよね」 一転して静かな声でそう言い放ち、何かが欠けた満面の笑みをいっそう深めた医師から、永遠も光星も目を離さない。 「わたくし、天上天下の目の前で死んでやろうと思ってるんです。あの女、一人だけ三百年も生きて何様のつもりなのか、他の人間たちのことはわたくしたちに処分させて。お二人とも二百歳の壁って知ってますか? 光星君あたりは信じたくないものですかね? この場の誰も二百年超えて生きることはできないわけですよ」 かっ、ち、かっ、ち、と、不格好な秒針のように音を立て、ゆっくりとペン先が行き来する。 「本当はあの人を看取ってやろうかと思っていたんですがね、どうもそんなことは許してもらえそうにないですから。悔しいですがこの世はもうあの人の独壇場です。我々はデータの存在ですので、一番の権利を持つあの人には抵抗もできません。とんだ楽園もあったものですね!」 ひい、と永遠の隣から小さな悲鳴があがった。光星だ。しかし今ばかりは永遠も光星のことを構ってやれない。医師はというと、光星のことはまったく眼中にない様子だった。 「だからあの人の目の前で死ぬ。振り返らない人間の、だったらせめて足手まといになってやろうと思うんです。相手の望みを、快適で順調な日々を少しでも邪魔する。そのときにきっと振り返ってもらえます。本当に知りたかったことはもうわからないままだとしても、しかしその一瞬だけはあれもこちらを見ざるをえない。視線を奪えるんです。わたくしはそのときが来たらあれにわたくしを看取らせてやるのだとそう決めているんです」 ぱっと空気を塗り替えるように医師がペンを永遠から逸らした。しかし息をつくのも束の間、医師の持ったペンは今度は永遠の胸元を叩いてくる。ポンチョの下につけているハーネスがペンのせいで少しだけ鳴った。 「貴方がわたくしと似ているという件ですがね。わたくしがどうして貴方のことを黙っていたかは既に説明したとおりです。で、永遠チーフ、貴方はどうしてあんなことしたんですか? ――自分に懐いている社員たちに残らず声をかけ、特別だと油断させ、弱みを握り、海に行きたい気持ちを植え付け、あげくには自分との日々を消し去る――影で工作してそれで結局何を果たしたかったんです?」 虚を突かれ、永遠はほんの一瞬だけ息を止めた。何度か逡巡し、 「――引き抜かれてきたときに天下から言われたんだよ、移住先は多数決で決めるって。だからどうしてもこっちの味方を増やさなきゃならなかった」 永遠の答えに驚いて飛び上がったのは光星だった。 「だからって! 何言ってるのか自分でわかってるんですか!」 光星の肩に小さな手が乗る。医師が光星を制したのだ。 「まあまあ光星君、落ち着きなさい。よく聞いていなさいよ――ねえ永遠チーフ、今答えたことは本当ですか? 海に行きたい、深海部を有利にしたい、それだけ? もっと他の目的があったんじゃないんですか、海よりも気がかりなことが。たとえば――わたくしみたいに誰かに復讐したいがため、とかね」 「――、」 光星がぎょっとして永遠と医師の顔を交互に見比べる。 「どういう意味ですか? 何の話ですか急に。ま、まさか」 「図星なんですかねえ。また黙ったりして。まあ、わたくしは薄々そうなんじゃないかと思ってましたけどね。でも夢前嬢やセレ嬢が聞いたらなんて言うでしょう? 騙されてたどころじゃないですよ、海のため海のため言って他人を好きにいじっておいて本人は海なんかどうでもよかったわけです、見なさいよこの喜劇を!」 とうとう医師は手のものを投げ出して永遠につかみかかってくる。黒い布で覆われた両の二の腕を握りしめ、そしてもみ合う三人の周りに最後のペンが二本、音をたてて散らばった。 生身であれば唾でも飛んできたかもしれない。人工的に輝く紫の瞳、傷も皺もないどこまでもなめらかな皮膚まではっきり永遠に見えるほど医師は永遠に顔を近づける。相手には永遠のことがどう見えているのか。こんなに近くで騒がれなくても永遠にはしっかり聞こえているのだ。医師にたった今さっき言われたことが永遠の頭の中で反響している。うるさい。いや、うるさいのはいったいどちらだろう、――そんなはずはない。ずっと、永遠はずっと、―― 医師のつり上がった目の中の眼球に黒髪で黒服の人間が映り込んでいる。ところどころに光っている青い線。物言わぬ唇。他人のような自分自身のの表情から永遠は視線を外すことができない。 わっと空気が鳴った。医師の姿を借りたかのように、質量をもってすべてが永遠にのしかかってくる。 「認めなさいよ永遠チーフ、貴方は海なんか言うほど愛していませんよ! そうですね愛だったらよかったですねえ、そんな崇高なものでわたくしたちは動いていないでしょう、ねえ? なんとか言い返してきなさいこの裏切り者が! そんなに認めたくないのならわたくしが言って差し上げましょうか! ――いいですか? 全身耳にしてよく聞きなさい、心の奥の奥に刻み込むがいい――貴方の大事なのは海なんかじゃない。貴方がいちばん気にしているのは、」 そのときだった。 医師の体がつんのめり一瞬跳ねて前へと倒れる。そのつもりもなく受け止めてしまった永遠の腕の中で医師の頭部がぶれ、崩れ、それが一体何なのか判別できないモザイク模様になる。 医師はぴくりとも体を動かさない。――エネルギーが回っていない。自身を構成する何かが正常に動かなくなってしまったのだ。――さきほどまであんなに鮮明に見えていたあの顔を永遠は認識できない。それは永遠の隣にいた光星も同じのようだ。 「先生! な、何が起きたんですか? もしかして永遠チーフ」 「おれが何かする暇あったかよ! 落ち着け」 「あっ、せんせ、ブラックアウトさせられちゃったんですねぇ」 間延びした声が永遠と光星を黙らせた。雷にでも打たれたのかというほどの静けさのもと、二人は瞬時に反応して現れた人影を見る。銃を構える隙もなかった。 赤茶の短い頭髪、うすい氷のような丸い眼鏡、足を隠す長いスカート。 「みまるさん……」 名を呼ばれた相手はくるっと人差し指で空中に円を描いた。大丈夫だと言いたいらしい。 「せんせのことならほっておいてもへーきですよう、たぶん。ふむふむ、止められてますね。ブラックアウトさせられたっていうか、この付近が不安定になってるってだけですけど――さっきの社長の放送、おふたりとも聞いてましたよね。社長、うちの会社をめぐっているエネルギーを止めてしまったみたい。その影響が社内のあちこちでランダムに出てるみたいで。これからもっともっと影響出るかも――わかりやすいリミットっていうか、そういうのがあるとみなさんがんばるだろうって思ってるのかも。もしかしたらなにかするのにエネルギーが必要で、そっちに回しているのかもしれないけど」 ここにいるみまるたちも次の瞬間消えてしまうかも、とみまるは笑った。ずいぶん楽しそうだ。今の状況には不似合いなほどである。みまるにも倒れた医師が見えているはずなのにどうしたことだろう。 「他人事ですから。みまるには楽しむことしかできません。こんな世界でみまるなんかになにか変えられるわけないでしょ。だから、みまる、どうでもいいんです。社長の考えも、永遠さんのやってたよくないことも、光星さんのこれからも、せんせのことも、宇宙も海も。みまるたちは中立ですもん、もともと誰の味方でもない。誰かメンテナンスを必要とする人がいるならちからになりますし、仕事はちゃんとしますけど」 考えはうっすらと伝わったらしく、問うてもいないのにみまるからそんな風に答えられた。 「ど、どうでもいいってそんな無責任な話ないでしょう」 「無責任かぁ、そうかも。でもね、光星さん、そういう気持ちだって感じなくなれば何もかも解決するんですよう。つらいとかつまんないとか怖いとか不満とか、ぜんぶなかったことにしちゃえばいい。感じなければそれで済む。データ化で心を安定させるのもそういうものでしょ? 今の社会、そうするのがいちばんなんですよう」 黙ってしまった光星を前に、みまるはスカートを揺らして幼い子どもに言い聞かせるように笑った。 「せんせ、さっき言ってたでしょ、社長に復讐してやるって。せんせの復讐、叶わないってみまるは知ってるんです。だってせんせに何かあったとき看取って処分する役はみまるだから。そうやって世代交代していくように、天下社長に言われているんです。社長は誰のことも看取らないし、誰にも看取られずにこれからも存在し続けるんだと思う」 つい永遠は医師のほうを振り向く。 光星とみまるは永遠のほうにはやってこない。永遠は不規則に像を結んだり崩れたりを繰り返す、医師のその体を抱えて、そばのデスクに寄りかからせてやり、その顔、のあるらしき位置を見た。他人を見下しているあの目も口もどこにも確認できない、エネルギーの回っていない崩壊したデータ……そうか、あんなに息巻いていたというのに、この人間の最後の復讐は叶わないと決まっているのか。本人はそれを知らずにいるのか。 「だめですよう、報われないことを念頭において生きなきゃ。ね」 みまるは小首をかしげて微笑む。 「だあれも社長には逆らえない。みまるたちはみんなぜんぜん自由じゃない、人類は何もかも手に入れて順調みたいに言ってるけど、そんなことない、ぜんぶ思い込み、ぜんぶ張りぼて。でもこれでいいの。みまるは。どうにもできないもん。できるわけないし、できなくていい。こっちから手放しておけば、何も叶わなくたって、叶わないことを自分のせいにしておける。ね? それでいいんです」 「み、みまるさん、そんな、そんなわけ……どうしてそんなこと……僕は……僕は……」 しばらく口内でもごもご訴えていた光星だったが、 「そうだ! ――みまるさんはモルグの管理人じゃないですか!」 急に閃いたらしくそう叫んでみまるの手を引っ張った。 みまるはされるがままに揺さぶられている。 「すっかり忘れてました、モルグの存在を――ほら、初対面のときにも説明してくれたあのモルグですよ、シュレディンガーのモルグ、噂にもなってるあれ。みまるさんはあれの管理人でしょう、――何かないんですか?」 「なにかってなんですかぁ」 「だから、今こういうときにこそ役に立ったりするんじゃないかってことです。何がしまってあるんですか。何のための部屋なんですか? もしかしたら何か現状を打破できるものがあるのでは」 「いえ、ほんとに、ほんとのほんとになにもないんですよう、特に光星さんの期待するようなものは、きっとぜんぜん」 「嘘! だったらそんなにしてひた隠しにすることないでしょう。今連れていってくださいよ! こういうときのためにあるんじゃないんですか? 助けてください、みまるさん。貴女の役目です!」 「――しかたないなぁ、――いいですよ。そこまで言うなら見せてあげよっかな。でもみまる、がっかりされるのいやなので。見てもみまるを責めないって約束してね」 そして移動した先のモルグにて、ぱちん、と照明がついた音のあと、それが合図だったかのように光星は膝を折った。 のっぺりとした明かりは非常用のエネルギーで動いているのか、社内のエネルギー供給が不安定になっていてもまったく問題がないようだ。照らされた狭い室内にはカーペットが敷かれ、そのうえに真四角のローテーブルが配置されている。居間らしい。すぐそこに木のベッド。白いシーツに紺色の布団がかけてある。黄ばんで読めなくなっている紙の束に埋もれるようにして机があり、その隣には本棚がいくつか並んでいる。本棚の中にはぼろぼろの紙の本が詰めてあるようだ。年季が入っていると一目でわかる。永遠は一冊一冊、背表紙の文字を読もうと観察する――有機化学についての本ばかりだ。――狭い居間の奥に短い廊下が続いている。小さな冷蔵庫も稼働しているようだ。もっと奥には玄関が見える。靴箱に靴がしまわれている。そちらのほうにも本や紙束が重ねてあり、今にもなだれが起きそうな紙の山の隙間に古い靴が並べられているのが見える。 「――これは」 「部屋……? た、ただの部屋……」 座ったままであたりを振り仰ぎ、光星はそう言った。自分の言ったことにダメージを受けたらしくそこで唇をわななかせて黙り込んでしまう。 「そう、部屋。ただの部屋です」 永遠はローテーブルに置かれている黒い金属のプレートを、空いた左手でそっと触った。これは動いていない。あまり見たことがないものだ。いや、肉や野菜を焼くときに使うフライパンを伸ばしたようにも見える。赤い台座につまみとコードがついている。使ったあとなのか、プレートの表面には焦げが付着しているようだ。 光星を置いて永遠はキッチンへと歩を進め、おもむろに冷蔵庫を開けた。薄いオレンジ色がぼんやりと自己主張を始める。透明なボトルがたくさん並んでいる――そのうちの一本を手に取る。水だ。 「そっち、玄関。そのドアはワープゲートになっていて社長だけしか通れないんです。だからきっとさわんないほうがいいですよう」 「なんでこんな部屋がこんなところに」 「三百年前からある、どこかの集合住宅の一室らしいっていうけど、ほんとのとこはわかりません。もともとここに作ったものじゃなくって、島にあったやつを社長が買い取って、そっくりそのままここに移動させたものなんだそうです。だからここにあるものはみんな、データじゃなくって、実際の家具と家電。理由はわかりません。誰も聞いてないし、聞かないし、答えてもらえないので」 「――みまる」 呼べば相手は頷いてくれる。話をする気はあるらしい。光星のほうも確認してみるが、そちらは無反応だった。視線を永遠に合わせてくれない。すっかり放心しているらしい。 「みまる。おまえ、ここで何しろって言われてたんだ」 「だから、管理ですよう。社長がたまにいろいろ使うから、そのあとの掃除。ほかには家電の修理とか、食材の補充とか」 あっ、他の人入れないでって言われてたから、みまるもあとでとんでもないおとがめをもらうかも、とみまるは急に慌てるそぶりを見せた。本気で焦っているようにはとても見えない動きだった。 「まあいっかぁ、こんな騒ぎになってるんだし、このモルグについてもなにか変更があるかも。永遠さんたちが入ったのは掃除の手伝いってことにしとくので」 みまるがうんうん頷いているのを尻目に永遠は玄関を見る。あのドアは天下専用のワープゲートだという。ここは天下にとっていったい何なのだろう。自室は他にあるだろうに、なぜこんなものを。 妥当なところで昔住んでいた部屋だろうか。しかしそれもあまり腑に落ちない。昔住んでいた部屋だとしてもなぜわざわざ保存し、管理させているのか。これ見よがしに担当までつけて、モルグという呼び名も黙認して……ここがモルグ? だからいったい何のモルグだというのだろう。思い出の部屋をモルグと呼んでとっておくような、そんな感傷を天下が持ち合わせているのか? どうもしっくりこない。もし感傷なのだとしたら――もし感傷なのだとしたら、――永遠は考えて、はっと気づいて視線を落とした。水の入ったボトルを持った左手に力が入っていたようだ。 力をゆるめると形が戻って少し音が鳴る。 「本当に、ただの部屋なんだな」 「そうです。噂の中ではいろいろと期待されてたみたいだけど、実際はこれだけなんです。過去に戻ってやり直せるような、なにもかもうまくいくような便利なものはありません」 永遠の言葉にみまるはそう答えを流して小さく手を組んだ。光星は座り込んで肩を落としたまま動かない。 「みまるたちにはなにもできないんです。だから、なにもしないほうがいい。なにも期待しないでひまつぶしだけしていればいい。目の前のことだけ一生懸命やれば、そのうちぜんぶ終わる。それでいいの」 みまるの呟きが薄汚れた壁にしみこんで種になり、そして一斉に咲き乱れた。その香りの檻の中で永遠も光星も口を噤んでいる。 |