Blue Eden #12 不落の星







 何もかもが電脳の世界に保存されると信じられた時代にありながら、それでも人々は紙を手放さなかった。結局のところデータなどはアクセスする手段がなくなってしまえばおしまいだが、紙や木、布、石に刻まれたものは何世紀経っても保存状態さえよければ残っている、原始的であればあるほど単純で受け取る側を選ばない、という事実は変えられない。人間がもともとデータとして発生する完全な電子のいきものであったのならば紙どころかほとんどのものが実際には必要がないはずだろうが、しかし人間はどうしても生身でこの世に生まれる。肉が必要なのだ。実際に手にとって眼でものをみる、この重要性を無視することは誰にもできない。
 もちろんのこと紙は紙で貴重だがその貴重さに見合う情報はしっかりと紙に記される。データを体で受け取れない子どもたちのために紙は有効活用され、他にはデータ化が発達した社会だからこその抜け道の連絡方法として使われたりもしている。メンテナンス部の重要書類が紙で回覧されるのはこのためだ。まるで古代の人間が村の掟を口伝で残したように今の人々は紙を使う。
 日常的には使わない情報を求め資料室に向かったはずの夢前ゆめさきが今見ているものは、やっと手に入れることのできた紙束の資料ではなく、廊下で会話をしている永遠とわ光星みつぼしだった。
 いつものように深海部の執務室で変わりばえのしない夢を見てそれを機械に吸わせていたのだが、休憩中にふと宇宙部の進捗が気になった。資料室にはメンテナンス部の公的な資料だけではなく、深海部や宇宙部の年間報告書なども並んで公開されている。求めるものを得て資料室を出たところで馴染んだふたつの声が飛び交っているのを聞きとがめて夢前は足をとめたのだ。
 会話というよりは言い争いに近い。入り口の影からそっと窺うと、永遠の黒いポンチョが揺れているのが見えた。言い合いのもう一人が光星であることは声色からわかってはいたが、夢前はそれをわざわざ目視で確認する。心底いやそうな顔で光星が永遠を振り払おうとしているのが離れた場所からでもわかる。
「しつこいですね。そろそろ僕に言い寄ったって無駄だって諦めたらどうですか」
「おまえこそ折れたらどうだ。あんまり邪険にするなよ、おれだって傷ついてるんだから」
「まさか深海部の永遠チーフともあろうお人が泣き落としでも? 言っておきますが、あなたが傷つこうが僕は痛くもかゆくもありませんよ。そこをどいてください」
「まだ話は終わってない。――あのさ、別におまえをどうこうしようってんじゃないんだ、――おれはおまえと仲良くしたいだけ」
「よく言ったもんですね、こんなにしつこい癖に。……だったら僕のことは放っといてください。面倒見がいいんだかなんだか知りませんけどうちにはれんさんだっているんです、あなたなんか出る幕はない。もう宇宙部には金輪際関わらないでくださいよ」
 たぶん、それぞれ何か別の用事があってここに来て、それでちょうど鉢合わせてしまったのだろう。永遠のほうはせっかく見つけた光星を逃がさないようにしているし、光星はというとあからさまに逃げようとしている。二人に余裕が見えない。これが計画的な邂逅ではなかったことは火を見るよりも明らかだ。
 あまり永遠がしつこいようならばさすがに光星を助けなければいけないだろうか――想像の中の夢前はいかにも物わかりのいい顔で割り込む。台詞ならたとえばこうだ、ごめんなさい光星くん、あたしの先輩が迷惑かけちゃって――光星から永遠をかばうのではなく、そう、永遠から光星を奪ってしまえばいいのかもしれない、そんなことに思い至り、そして夢前は後ろめたさで壁に背中をつける。それではあまりに光星がかわいそうだ。彼はおもちゃではないというのに。
 誰のものなのか、溜め息が鼓膜をこする。
「教えてくんない? おまえ、どうしてそんなにおれのことがきらいなの」
「理由を言えば引き下がってくれるんですね」
「今日はな」
 また沈黙だ。
 聞き耳を立てている夢前もついつい息をひそめてしまう。言葉を選んでいるのか、それとも、今になって改めて永遠を拒絶する理由を考え直しているのか。光星が口を開いては話し出すのをやめるのが目に浮かぶような沈黙だった。
「理由っていうか。とにかくいやなんです。あなたと一緒にいたくないんです」
 光星の声がひらひら舞いながらざっくりと拒絶を表すのを夢前は感じる。永遠はすぐには返事をしなかった。
 それにしてもすっかり逃げ出す機会を失ってしまった。夢前が自分の来た方向を見ると、そちらはいつものように人通りが多いようだ。まだ午前中、周囲は周囲で普段の日常を営んでいる。れんの姿が見える。黒いロングコートもさることながら、彼の古めかしい平安貴族のような黒髪はよく目立つ。雑用でも言いつけられたのか彼も資料室に用事があるらしくこちらに向かってくるが、それにしてもタイミングのよくないことだ。永遠と光星の言い合いはまだ続いている。
「……人一人嫌うんなら理由くらいはっきりさせておけよ。理由の曖昧な嫌悪ほど屈辱的なもんはないぞ」
「屈辱的で結構、理由がないからこそ強烈で純然たる拒絶であるつもりです。さあ今日は見逃してくれるんじゃないんですか? 僕は言いましたからね」
 恋は足音を殺して夢前の目の前で立ち止まり、肩を竦めている。どう返せばよいかわからず、帯のように濃い黒髪が彼の腰回りを覆っているのを、夢前は所在なく見つめる。
 刺々しい光星の物言いを浴びて永遠もさすがに怯むかと思われたがそんなことはなかった。その口調が急に優しくなる。
「夜半のお守りは大変だろ? おまえがさぞ苦労してるだろうと思っておれは」
「夜半部長のことは関係ないでしょう!」
 耳元で光が弾け、夢前はたじろいだ。
 つい影から身を乗り出してしまう。なんだか無関係の自分まで光星に嫌われたようで落ち着かない。横にいた恋も書類を丸めた格好のまま硬直しているようだ。そんなに永遠から夜半の話題を出されたことがいやだったのか、夢前の視界の隅に映る光星は拳を握りしめて肩をいからせているが、しかし、それなら叫ぶ前のほんの一瞬の間は一体なんだったのだろう。光星の返答の前に狼狽のような間があることを、夢前は確かに感じたのだ。
 光星は形のいい手のひらを目一杯広げ、何の意味があるのか左右に振る。永遠のことを視界から消そうとしているのかもしれない。そういえば光星は威勢がいいわりに永遠のことを見つめていない、永遠はというと光星から目を逸らしていないようだ。
「あなたね、さすがの僕だって堪忍袋の緒が切れます。いつまで夜半部長の関係者のつもりなんですか、未練たらしいな」
「光星、」
「あなたなんかに目をつけられて僕は不幸です! まだしつこいようなら天下てんげ社長に言いつけますからね。さよなら!」
 明るい紺のスーツがにべもなく背中を見せて去っていく。永遠をどかせていつもの道から帰るのは諦め、奥の階段から戻るつもりなのだろう。
 それ以上誰も言葉を発さなかった。
 永遠がどんな表情で光星の遠ざかる背を見ているのか、それは夢前のいるところからは窺い知れない。頭を動かしていないから今でもきっとまっすぐ光星のことを向いているのだ、ということぐらいしか夢前にはわからない。永遠の細い肩が風に煽られたように揺れている。光星を追いたいのか、その枝のような腕がするすると伸び、
 そして夢前は目眩のようなものを覚える。
 目眩と同時に壁いっぱいに天上天下の姿が映る――彼女は幻覚ではない。頭の中に彼女の声が朗らかに響く。皆さん、ご機嫌麗しゅう。よく労働に励んでいますか? 突然ですが、今日は皆さんに五つほど、大切なご連絡があります――
 夢前はたった今見えているまぼろしに気を取られて天下の話に集中できない。
 何度も何度も再生されるコマーシャル、レトロな音楽やドラマを思わせる、一点にぎゅっと吸い込まれるレンズの中のように遠く伸びる廊下で、誰かの手が誰かの背に伸びる。そう、これはいつもの白昼夢だ。
 いや違う。伸びている手が夢前のものではない。手を伸ばしているのが永遠で、伸ばされて追われているのは夢前だ。
 永遠が夢前を追っている。
 逆ではない。いつもだったら逆の白昼夢を繰り返し見てしまうのに、なぜだろう。永遠の視界を奪ったように記憶がスパークする。心の中で答えが響く、「だって先輩はもうあたしのものだから」、なぜ? なぜもなにもない。
 今までどうして忘れていたのだろう。夢前と永遠はもう結ばれていたのだ。
「あの」
 場の空気を破ったのは恋の呼びかけだった。頭、心、体中ではぜた記憶と感覚に圧され、夢前はいつのまにか廊下の壁にぴったりと両手をつけていた。体はデータ化しているはずなのに、生身の頃にショックを受けたときと反応がそっくりで夢前は暗澹たる思いになる。どこも頑丈になどなってはいないではないか。
「恋」
「永遠さん。すんませんね、うちのスタッフが迷惑かけちゃって」
 二人は顔を見合わせ、そして揃って壁を見るような仕草をした。壁一面に天上天下の笑顔が広がっている。ときおりノイズのかかったように明滅し、不自然に大きくなったり小さくなったりを繰り返し、天上天下は話し続けている。何に干渉されているのか、通信環境が安定していないらしい。わざとらしく永遠が首を振ったところを見るに永遠はもう天下のこういった行動にうんざりしているようだ。
 ――皆さん、話をよく聞いてくださいね。大切な連絡なのですから。さて、ではまずひとつめ。私は長く生きすぎました。そろそろ社長の座を降りようかと思っています。後任についてはまだ決めていませんが、優秀な人間はいくらでもいますので、どうにでもなるでしょう――
 天上天下がおかしなことを言っているのは夢前にもわかるが正直それどころではない。恋はというと濃い眉を寄せて首を傾げているが、永遠は天上天下のことは今はもう気にしないと決めてしまったようだった。
「いい。天下のことはいいから。大事な連絡だったらどうせまたデータで送られるはずだし。それより、こんなとこで言い合いしてて悪かったな。夢前、そこにいるんだろ。大丈夫か」
「とわせんぱい」
 大丈夫じゃないです、天下社長のことじゃなく、ついさっき、あたしはおかしくなってしまった、とさらけ出して縋ってしまえたならどんなにいいだろう。永遠にこれを言ってしまってはいけない気がする。しかし言いたい。助けてほしい。どうしてこんなに不安定なのか自分でもよくわからない。なぜ。なぜ? まだおかしな見落としをしている気がするのに気づけない。これ以上何を忘れているというのか。
 なんだろう、この違和感は。
 夢前と、永遠は、すでにむすばれていた、――いつの間に? ――どうしてそれを夢前は微塵も思い出すことがなかったのだろう。過去のことではないのだ。今、今この瞬間も、ふたりは恋人同士としてあるはずなのだ。なぜなら別れたはずがないからだ。夢前は今、永遠と恋人同士であると、自分の体が言っているのを聞いている。
 それならばなぜ忘れていたのか。
「恋、おまえ、用事が済んだら夢前のこと送ってやってくれないか」
「了解。でも肝心の夢前さんは永遠さんのほうがいいって言いそうですよ。同じ部署なんだし一緒に帰ったらどうです」
「おれはこれから天下に用事があるから」
「社長ねえ。なんなんすかね、これ」
「真面目に聞かなくていいって。こいつが一人で変なことしでかすのは今に始まったことじゃないだろ」
 まあ、そうかもしれませんけど、と恋はこつこつ額を叩いている。天上天下はそんな恋をすぐそばで見守るように微笑みながら囁くように唆すようにまだ話し続けている。
 ――ふたつめ。あの大人気アイドル、『世直しヘヴンちゃん』の主人公ヘヴンと我が社のタイアップがとうとう決定しました。ヘヴンには今から大切な役目を任せるので、各位、浮かれすぎないように――
「ちぇっ、雑だなあ天下のやつ。まあいいや、恋、夢前を」
「はいはい、わかってます」
 肝心の夢前本人を置き去りにして永遠と恋の会話は続いた。気まずさが解消されたのか、恋は夢前の横にある資料室の扉を開けかけ、そこで永遠を振り返る。
「そうだそうだ。永遠さん、今夜のデート、忘れないでくださいよ」
 廊下の明かりが束の間暗くなった。
 答える永遠の声がわずかに遠い。
「おまえ何言ってる?」
「何って、今夜の約束です。オレたちせっかく恋人同士になったんだから。夢前さんには悪いけどさ、諦めてもらわないとね」
 恋は答えながらなぜか夢前を見つめてくる。挑発されているのか、それともふざけているのか、もしかすると恋の体か頭がおかしくなってしまったのか、見極めきれずに夢前はただ恋の目元を見つめる。
 何が起きている?
 壁に映る天下の半眼が不規則に歪んで伸びて、すぐに戻る。
 ――みっつめ。おめでとう、最後のパーツが完成しました。これで探査機をそれぞれのフロンティアに飛ばせますね。しかし残念ですがやはり量産は不可能なようです。夢を叶えられるのは、宇宙部か深海部か、どちらかひとつだけということになりますね――
 一方で恋はというと、濃い眉が疑いを映す瞳を強調するように戸惑っている。なんとも奇妙なことに彼のほうが夢前よりも揺れている――それなのに口元はごく朗らかに動こうとしている。その部分だけ普段の恋と変わらない――これはもしかして恋自身も自分で何を言っているのかわからないのか。夢前は急に笑い出しそうになる。そんなことがあるのか?
 夢前の思ったことが伝わったように恋は急に取り乱し始める。
「え? いやちょっと待ってください、オレは何を言ってるんだ。すんません、お叱りならあとで受けます、ちょっとメンテ部に行ってきます、なんかオレおかしいですね」
「恋くん」
 静観していれば事態は小さく済んだかもしれないことをわかっていて夢前は口を出す。
「待ってちょうだい、恋くん。心配ないわよ。あなたのそれ」
「夢前さん?」
 ――そして最後の連絡です。宇宙部と深海部、どちらが夢を叶えるにふさわしいか、今から争っていただきます。ヘヴンはその観客、つまり見張り役となります。私が場をととのえなければあなたがたはずっと膠着状態でしょうから、終わるまでこの会社からは出しません。中立の人間たちに助けを求めることも禁じます。あなたがたやこの会社を形作るエネルギーの供給も切っていきます、それがカウントダウンです――
「恋くん、それ、あたしの記憶よ。あなたのことじゃない。きっとあたしの記憶が流出しちゃったのよ、恋くんに」
 夢前は口角を下げ、大真面目にそう言い放っていた。恋が黒々とした眉をほんの少し持ち上げる。永遠の喉奥から呼吸音が聞こえたが、一度動き始めた夢前の口は止まらない。
「だって永遠先輩と恋人同士なのはあたしよ。あなたであるはずがないわ、恋くん、だってあたし、ついこのあいだ永遠先輩と真夜中にデートしたもの。えっ? でもちょっと待って、いつそんなこと。あたしはずっと片思いで、ついさっきまで、いえ、とにかくあたしと先輩はもう真剣に交際を始めてるの。あなたのそれは何かの間違い。ねえそうでしょう先輩」
 ――相手の部の人数を減らしなさい。それぞれの部の部長を狙いなさい。どちらかの人数がゼロになったとき、もしくはトップの存在が降参するかブラックアウトした場合、それをこの競争の終了の合図とします。いいですね――
「恋くんのその記憶はまやかしよ。それはあたしの記憶。これは何かのバグだわ」
 天上天下が笑顔で手を振る。入れ替わるように現れたたくさんの顔、顔、顔、統一性のないヘヴンたちに見守られ、
「夢前さん、」
「ゆめさき」
「永遠チーフ!」
 叫びながら割って入ってきたのは深海部の末端スタッフだ。この取り込んでいるところによくも、取って食う勢いで夢前は彼を振り返る。壁や天井に映るヘヴンたちも一斉に彼を見た。相手は一瞬うろたえたが、そばに立っていた永遠を見ると何かに励まされたように身を乗り出し、やがてとんでもないことを話し始める。
「二人とも永遠チーフを困らせるな。あのな、この人は私と交際しているんだから」
「はあ?」
 すっとんきょうな声を上げたのは夢前と恋だけではない。割り込んできたスタッフと先ほどまで行動を共にしていたであろう、他のスタッフまで叫びながらこちらに駆け寄ってきたのだ。夢前は愕然として彼女のネームプレートを見る。宇宙部上層スタッフだ。いくら永遠とは言っても他部署の人間とはもうそこまで深く関わらないはずなのに。彼女は随分慌てている。
「失礼します、どうしても聞き捨てならなくて。――永遠チーフとお付き合いさせていただいているのはわたしです。あなたたち、おかしなことを言ってこの人を困らせるのはやめて」
「それはこっちの台詞だ。永遠チーフ! あなたが交際しているのはこの自分ですよね」
「思い込みも大概になさい、永遠チーフが困っているでしょう」
「そっちこそなんなんだ急に」
 割り込んだ二人が押し合いへし合いしているところにまた他人だ。その人間も永遠は自分と交際していると言い張る。そしてまた他人がくる。その人間も永遠と恋仲であることを主張しはじめる、その繰り返しだ。壁からヘヴンがそんな騒ぎを見つめている。意思があるのかないのか読めない透明な顔で、老いた姿の、または髪の長い、もしくは幼いこどもの、はたまた鼻の大きな、さまざまなヘヴンが夢前たちを観察している。
 何が起きている?
 あたりが騒がしいのに今更気づき、夢前は硬直していた四肢に鞭うつ思いで体を動かして恐る恐るあたりを見回した。ヘヴンだけではなく人がずいぶん集まっていたらしい。資料室に用がある者ばかりではないだろう。各々用事を終え、階段やエレベーターで移動しようとしていた者や、通り過ぎようとしていた社員たちが皆、足を止めてこちらを見ているのだ。なぜか全員が全員、永遠と深い関係であるのは自分だとでもいいたげな目つきで、牽制しあうように。
 永遠チーフは私の。僕の。いいや俺と約束が。だって昨日も。ゆうべだって。私・僕・俺と追いかけっこを。廊下で。自室まで。執務室まで。あの服の下を。思い出話を。永遠チーフは私・僕・俺のために体を変えてくれる。こちらの好きなように合わせてくれる。あの、やりたい放題で好き勝手生きている永遠チーフが、私・僕・俺のために。データを融かし合おうと言ってくれた。広がって散る青い髪。昨日も見たのに。触ったのに。永遠チーフは海への思いを聞かせてくれた。海の底がどんなに平和に満ちているか教えてくれた。一緒に海に行こうと約束を。嘘だ。嘘をついているのは誰だ。自分じゃない。所詮妄想。憧れすぎだ。嫉妬だ。海にかえりたい。メンテナンスに失敗したんじゃないのか。データのバグに決まってる。頭がおかしい。仕事中にこんな騒ぎ。海。嘘つきめ。嘘? こんなにかえりたいのに。あんなに愛し合ったのに。一体、誰が真実を持っている?
「永遠チーフ、はっきり言ってください。誰が間違っていて誰が正しいのか。誰があなたの恋人なのか。あなた約束してくれましたよね、わたしが一番だって。一緒に海にかえろうって」
「説明してください。こんなのおかしいですよ、ここに集まってくるみんながみんな、永遠チーフと交際しているって言うなんて」
「誰が嘘をついてるんですか。一体何が起きてるんですか?」
 永遠チーフ。永遠チーフ。永遠チーフ。永遠チーフ。
 嘔吐きが夢前の喉から這い出る。なんて恐ろしい波紋だろう。ここは静かな海の底ではないのだ。
 永遠は黙っている。何も説明も言い訳もしない。まったく言い返さない。うっすらと青く飾られた唇がほんのわずか開き、黒い闇に小さな舌が浮かび、そしてすぐに閉じた。それだけだった。
 なぜ――なぜだ。夢前はたたらを踏んでわずか後退する――目の前の愛する人はどうして何も言わないのだろう。永遠は、永遠という人間は、人を食ったような笑みを浮かべて何事もうまくあしらうのが常態だろう。夢前が初対面で腹を立てた態度、どうしようもなく惹かれると認めてしまったあの、生意気で、不完全で、どこか作ったような、いたずら好きな不良少年のような、そんなブルー・エデンのアイドルが今、どこにもいない。黒いポンチョから覗く拳を握る、木偶のように突っ立っている、夢前たちの中心には一人の迷子のようなくすんだ無表情の永遠がいるだけだ。
 たった一言、正しいのは夢前だと言ってしまえば済むというのに。
「どうして」
 永遠は夢前を見ようとしたのか強ばった顔面を少し揺らしたが、それだけだった。隣にずっと立っている恋が、持っていた書類のはしを指先で数えている。一枚、二枚、三枚、貴重な紙とインクで綴られた宇宙部についての報告書。それがふっと吐息で揺れる。
「その様子じゃ、誰か一人の記憶が流出したってわけじゃなさそうだ」
 責める様子ではなかった。もう彼はすっかり落ち着いたようだ。夢前には窺い知れないところで何か思案しているのか、恋は永遠ではなく書類の端をぼんやり見つめている。
「永遠さん。詳しいことはわかりませんが、――あなたはオレたちに何かよくないことをしたんでしょうね。それで――今、あなた、幸せなんすかねえ。あなたに騙されてたときのオレたち、幸せそうでしたか」
 たくさんのヘヴンが永遠を食い入るように見つめる。前髪の影に光っていた永遠の瞳が、音もなくゆっくりと、大きくなった。
 恋の言葉に勢いづいたのは周囲だ。永遠を囲んでいた社員たちが恋や夢前を押しのけ、またも永遠に詰め寄る。ずっと黙っている永遠に痺れを切らした彼らの詰問がじりじりと集まって繭のように永遠を包む。
「永遠チーフ。何か言ってください」
「どうして急にこんなことが。とつぜんですよ、私、さっきまで永遠チーフのことは何も。いえ、上司と部下以上の関係なんて私たちは――でも私たちずっとお付き合いをしてましたよね、だって一緒に――どうしてこんな記憶が。私は記憶をいじっていないから誰にも干渉されるわけないのにどうして今」
「僕は忘れるはずがないのに! 記憶をデータ化したんだから。でもそれならどうしてさっきまで」
「社長は何をしているんだ? さっきのあれは何なんです? この混乱に気づいていないわけがないだろうに」
「あの、カウントダウンってつまりどういうことですか。永遠チーフはそれについて説明を受けてるんですか」
「永遠チーフ。ぼくには恋人がいるんです、工業区勤めの――でもぼくは永遠チーフと恋人同士で――」
「海にかえりたい。最近ずっとこう――さっき永遠チーフとのことを思い出してからこの気持ちが強くなって――永遠チーフが何かしたんでしょう? わたしを元に戻して! わたしは宇宙部なんです、これじゃ困るんです!」
「海に、海に行きたい、早く海の底へかえりたい、永遠チーフ、永遠チーフ、」
「永遠チーフ、天下社長に今すぐ連絡を取ってください、こんな騒ぎになってるんですよ。競争とか言ってる場合じゃないです。社長からも説明していただかないと困ります」
「永遠チーフ」
「永遠チーフ!」
 誰もが永遠に手を伸ばしてしがみつこうとする、廊下に咲いた人間の花の中心で永遠はあとずさりこそしなかったが誰のことも受け止めない。何か呼びかけようとして言えず、夢前も永遠へと誘われるようにふらふら手を伸ばし、そしてはっと指先を握り込んだ。自分の波打つ髪と恋のまっすぐな髪が揺れている。風? ――正面に向き直る。永遠の視線が空中を見ている。夢前よりもずっと背後、――頭上だ。
「夢前さん!」
 恋の焦った声と共に一瞬何もかもわからなくなった。爆発音がする――これは発砲音だ。それも二回分同時――恋が夢前の肩を抱いて資料室へ飛び込んだのだと気づいたときにはもう、夢前は跳ねるように立ち上がって廊下へとって返していた。そしてすぐ足の踏み場を見失って立ちすくむ。
 永遠を囲んでいた社員たちが全員、倒れている。
 誰も彼も皆ブラックアウトしているらしい。廊下の果てまで首をめぐらせると、遠巻きに見物していた者たちが急いで逃げていくところだった。首を巡らせてもあたりには累々と社員の体が転がるだけだ。もう夢前と恋たち以外に動く者がいない。つい先ほどまでの騒がしさが嘘のような静かな光景だ。
 夢前は同僚たちの腕や足の隙間に立ち、永遠へ近づこうとして、そして結局気圧される。
「セレくん」
 天上の青は永遠の後ろにぴったり立っていた。永遠はポンチョで全身を包むように丸まっており、そのピンヒールのすぐ横に、テーザーガンの使用済みの青いカートリッジがことん、ことん、と転がり、なすすべなく夢前はそれを見やる。汚れのないセレの靴、長い膝下を包むソックス、子ども服のような半端な丈のズボン、折り目正しいシャツ、襟元、そして。
 二挺の銃を構えたまま夢前へ目だけで礼をするセレは、いつもと同じ真面目な無表情だ。
「お疲れ様です。それ以上近づかないでください。今の言葉を無視した場合、私は貴女がたを撃ちます」
 バイザー越しに明確な警告を受け、やはり夢前は足を動かせなかった。団子のように固まっていた社員たちが倒れてしまった今、この状況では自分の衣服に編まれた防護チップを信じる気にはなれない。ここでセレと撃ち合いをして勝てるはずもなかった。セレの右手に握られた、銃の先端にある小さな青い扉がこちらを捉えている。もう一挺はためらいなく恋を捉えている。それを飛び越えた向こうにぴくりとも笑わないセレの白い童顔がある。
 観客はたくさんのヘヴンたちだ。複数のヘヴンはせわしなく眼球を動かしてこのやりとりを窺っているようだった。
「セレ。いい」
 低く小さい声が響く。永遠だ。永遠の声を生まれて初めて聞いた気がして夢前は呆然とする――なんだか長い長い時間が経ってしまったようなおかしな気分だ。この数分で一体何が起きたのか――セレは青い瞳を夢前と恋から逸らさない。
「永遠チーフ、お待たせしてしまい大変申し訳ございませんでした。ご無事なようでなによりです。ところで天下社長のアナウンスは聞かれましたか」
「わかってる。頼んだ」
「よろしいので?」
「二度は言わない」
 二人のやりとりが顔も見合わせず済んだことに気づけず、夢前が事態を把握したときには既にセレは永遠を抱え上げているところだった。
「待って!」
 セレは止まらなかった。踵を返して去っていく。永遠の髪と真っ黒な服をなびかせ、階段のある方向へ向かってあっという間にセレたちの姿が小さくなる。
「永遠先輩! セレくん!」
 腕を引っ張られる。恋の声がする。恋が夢前を呼んでいる。邪魔をしないでくれ、と思うが、恋の制止がなくとも倒れた社員たちに阻まれ夢前はこれ以上前には歩けない。データでできているとはいえど何のオプションも加えていない体はセレほど跳躍はできない。夢前の体は夢前の思いに応えてはくれない。気ばかり急いて何もできない。こんなことばかりだ。何も変わらない。
 この手が何かを掴んだことなどあったのか。思い出してしまった記憶は「ある」と言っている。今、抱えられていなくなった存在が記憶の中で笑っている。夢前の甦った記憶の中には確かに永遠の気を許した笑みがある。言い表しようもないほどに無邪気で無防備な、夢前の腕の中の海。
 今、夢前の手は空気を掴んでいる。指先がけいれんして腿を掻く。見つめる先にはもう求める相手はいない。夢前と恋、気を失っている社員、一言も発しないヘヴンたちをすりつぶすように、ただひたすら無音がおりてくる。