Blue Eden #-01 待ち合わせは海の底







 せんぱい。
 とわせんぱい。見つけた。先輩、目を離すとすぐどこかに行っちゃうんだから、こうしてちゃんと捕まえていないとね。もう、暴れないでくださいよ。くすぐったい。え? なんで笑っているのかって? そりゃ笑います、先輩がこうしてあたしの腕の中に大人しく収まるなんて、実際には叶うはずがないんだってずっと思っていたから。



 一階のほうはまだ人がいっぱいいたわよ。こんな格好なんだし、とてもじゃないけど見つかるわけにいかないわね。もうすぐ年度が変わるから、色々と立て込んでるのかしら。そういえばこの、新年度っていう制度、これはいつ頃からできたものなんだっけ。いつまで使わなきゃいけないのかしら。便利だからいいんですけど、古い因習を結局捨てられないのって、なんだか、進化の途中で動物たちが余計なものをくっつけたまま生きてる、みたいなかんじですね。適応するために付け足すのは簡単でも、あってもなくてもいいようなものをなくすことはとても難しいって、あたしはそう習ったわ。もしかして生きていくってそんなことばかりなのかも。
 無駄がないいきものになりたいけど、なかなかそうはなれない。
 そうだ先輩、来年度って誰が入社してくるのか知ってます? もう決まってるんですっけ――知ってても言わない? そうですよね、ごめんなさい。社長以外の上の人って知ってるのかなって気になったの。――入社枠って今どうなってるんだったかしら。なんだか、後輩が増えるの、いえ、さすがにもう慣れましたよ、慣れたけど、でもやっぱりこわいわ。緊張? いいえこわいの。
 だって新入社員の中に先輩の知り合いがいたらどうしよう。ううん、それよりもっといやなのは、ぜんぜん知らない人に先輩の興味を奪われることだわ。
 やだ、笑わないでくださいよ。先輩から見るとこんな悩みくだらなくて大げさなんでしょうね、でもあたしは本気なんです。あたしの想いが通じるのに何年も何年もかかったっていうのに、これを何の苦労もなくやすやすとやってしまう人がいたら、あたしやりきれない。あたしはあたしが苦労してやってることを簡単にやってのけてしまう人がいや。だってそんなの、お前なんかいらないって言われてるみたいだから。



 先輩、逃げないで。そばにいてよ。
 もう、そんなにふざけて、誰かに見られたらどうするんです? 就寝中の子が気配に気づいて部屋から出てきたりしたら、あたしたち言い逃れできませんよ。えっ、「知られてもいい」ですって。恥ずかしいけど先輩がそうおっしゃるなら、別にいいか。あたし考えすぎなのかな。でもなるべく階段だけを使いましょうね。こっちならふつうのスタッフはあんまり来たがらない。
 それにしてもどこまで行くつもりなの? おいかけっこなら負けないわ。ぜったい捕まえるんだから。
 うちの会社、廊下ばっかり長いから、あたし目が回りそう。えっ、あたしの体? もちろんデータです。データだけど目が回りそうになるんです。先輩もそういうことないかしら。幻肢、みたいな、そう、あたしたち、ないものを知覚しているのかも。あたしたちなんてどこにもいないのかもね。あるって錯覚しているだけなのかもね。人間はとっくに滅びていて、地球はぼんやりしたものになっていて、心とか感情とか魂とかそういうものはやっぱり錯覚で。生きている感覚もぜんぶ勘違い。あたしたちは錯覚同士、まぼろしみたいなものなのに、一丁前に愛し合ったり憎み合ったり、夢だの仕事だの必死になってる。なんてね。
 へんなの。
 そうそう、先輩はどこをデータ化したんです? あたしのことだけ聞くなんて平等じゃないわよ。恋人同士になったらまっさきにこういう会話がしたかったの。プライベートなことを聞き合うのは特権でしょう。へえ、先輩も体だけなんだ。意外だな。でも、あたし先輩のこと、体も含めて好きです。データ化での外見の変更って、人間のかたちから逸脱させないようにとか、データベースに登録されている過去の人間に寄せないようにとかルールはあるけど、ある程度は自由なのに、でも結局みんな生身のときの姿に縛られてて、なんだかつまんないんですよね。みんな人間以外に憧れてたことはないのか、って肩を掴んで揺さぶりたくなっちゃう。絵本とかマンガとか図鑑とか、幼い頃に読んでて夢にみたものでしょう? それこそ先輩の大好きなヘヴンちゃんとかいい例だわ。いえ、あたしにこんなこと言う権利なんかないってわかってます、あたしだって生身のときと外見ほとんど一緒、好きでそうしてる。だからその反動なのかしら、先輩みたいに、人間なんだけど人間じゃないみたいな姿をしている人、あたし好きよ。
 先輩は何にでもなれるんだもんね。もちろんルールを破ることはできないでしょうけど、許される範囲だったら、背を伸ばしたり縮めたり、髪も、顔のパーツの大きさも好きにできる。あたし、先輩が大きくても小さくても、太ってても細くても、なんでも好きです。あたしより肩幅のしっかりした先輩、あたしより華奢で潰れそうな先輩、目の大きい先輩、鼻の低い先輩、ぜんぶかっこよくてかわいいと思う。どんなあなたでもあなたが決めたのだったらきっときれいよ。あたしがあなたを愛するのに見かけの美なんてあんまり関係ないわ。
 そう、先輩が魅力的に見えるのって、あなたが自分でそういう体でいるって選んで決めて生きているからじゃないかしら。見せかけの華やかさだけが先輩の魅力ってわけじゃないと思う。外見の派手さ地味さなんて自由に変更できるんだもの、そんなものに美を見いだしても無意味よ。その無意味なことが好きな人もいるにはいるでしょうけど……、そう、みんな思い切りがないから。だから先輩みたいな生き方に恋い焦がれてしまう。あなたの姿はあなたの生き方そのもの。
 誰もいないところで追いかけっこしてると時間も忘れそうですね。背徳的。海が好きなあたしたちって野蛮なのかも。
 ねえ先輩、先輩にとって海ってなんですか。
 先輩は海月がお好きなんですよね。ええ、かわいらしいと思います。やっぱり、彼らの魅力って、やわらかく浮かんで流されるところというか、見ていて気が抜けるところですよね。つらいことなさそう。優雅できれいで悠々としていて。心とかあるのかしら? 人間以外の生物のデータ化に関しては全然進んでいませんし、海月のこともよくわからないわ。生きているのに疲れた人間たちからすると幸福そのものですよね。心がない状態って夢のよう。きれいなものって、自分のきれいさに気づいていないものよ。そういうところが余計、羨ましく思われるのかもね。
 海のものって孤独なかんじしませんか。いえ、確かに群れてたり派手な外見のもいますけど、なんだろう、海の底は静かだからかな。底はすごくすごく寒いし。ええ、水が冷たいんじゃなく、寒い。
 あたし、確かに気が強いほうだけど、決して社交的ってわけではないし、子どもの頃から静かなほうが好きなんです。人に向かってひどいことをうっかりと言ってしまったあとなんか自己嫌悪で死にたくなる。いっそ海に沈んでしまおうってあたしはすぐそんなことを考えてしまうの。あたしにはさびしくて暗くて寒い海の底がおにあい。
 海の底に沈んでいるのはものを言わない貝だわ。誰にも何も告げずにひっそりと真珠をつくって、死んだあとにそれがわかる。見せるためにつくられたわけでもないものがあんなに美しいのもふしぎな話。
 海の底で暮らせたらいいのに。鯨の歌を聴いて彼らのそばにいって一緒に泳いで、逃げ回る貝と競争なんかしたりして、さびしくなったら魚の群れにまざって、疲れたら海月みたいに浮かべばいいし、流されたっていい。食べられたっていい。ああなんだかせつなくなってきちゃった。どうして今すぐそうできないの? なぜ人間なんかに生まれてきてしまったの。人魚姫は足がほしいと言ったけど、あたしは足なんかいらなかった。好きでこんな体にしたと言ったけど、お金さえあれば、そして法律さえなかったら、あたしは人間なんかやめたかった。なんなら海底の石とか砂でもよかった。誰もいない場所で好きなひとと黙って一緒にいられたらそれだけでしあわせなんだわ。ずっと闇の中でいい。どうして海にかえれないの? にんげんに生まれたというだけで、あたしはどうして海にかえれないの。
 ごめんなさい、心配しないで。大丈夫です。あたしのこれ、子どもの頃からずっとこうだから。でも、ねえ、先輩もきっと同じなんでしょう? 地上の息苦しさが信じられないんでしょう。こんなはずじゃなかったって、ここに生まれるつもりなんかなかったって、そう、絶望して生きてきたんでしょう。
 人間も結局は命だから。命って、海からきたものだから。海で生まれたものじゃなくても、海から離れては生きていけない。中途半端ですね。完全に分かれることも戻っていくこともできないなんて、さびしい。



 現場、こんな夜中でもシフトの入ってるひとはいるんですものね。だって現場だものね。いけない、ねえ本当に見られたらどうしよう。人に会うの怖いし、会社なんか飛び出していっそ環境保護区の海のほうまで行っちゃいませんか。ふたりで波打ち際、砂浜を歩いて夜明けまで。ううん、むりかあ。ですよね。 明日も仕事あるしね。
 先輩、今度はかくれんぼ? 角の向こうにいるのはわかってるんですからね。しゃがんでもだめです。髪が見えてるってば。もしかして隠れる気ありません? からかわないでよ。ちょっと待って、今そっちに行きますから。先輩、どこにもいかないで。
 こうやってうろうろしてると、なんだか世界にふたりっきりになったみたいで楽しいな。滅亡前夜ってかんじ。
 あたしたち、危機感があるようでないですよね。データ化ってすごいけど、安心しきってていいのかしら。滅びる前にちゃんと海に行けるのかしら。海の底って、恐竜が絶滅したときにそんなに影響を受けなかったとかいう研究があったわね、たしか。もちろん被害はゼロじゃなかったみたいだけど、――だって日光が遮られたりしたみたいだし、地球上の水は循環しているわけで――でも海の底はやっぱり静かだったって。その研究をもとに移住先の候補に海底が加わったって聞いてます。真実ならあたしたち深海部の未来も明るいのに、こういうスケールの大きいことって一発勝負だから。不安ですよね。
 もし、海底も宇宙もどっちも正解じゃなかったら? あたしたち、どっちを選んでも滅びるさだめなのかもしれません。どっちも似たようなものにも感じるし。データ化しても不老不死ってわけじゃないんだし、いつか終わりは来るんだわ。人類が滅びるのは罰で、つまり悪行の限りを尽くしたからだって言う人もいるけど、あたしはそうだとは思いません、でもそうね、そういうふうに思ってしまうのも無理はないわね。個が消えていくのも不思議だけど、種が絶えるというのは輪をかけておかしいように感じられるから。なにか超自然的なものによる罰だと思ったほうがずっと簡単なんだわ。

 地球が死ねというのなら、あたしたちは死ぬべきなのかしら。生きたいと思うのは悪あがき? 何をしても意味なんてないのなら、どうせみんな死んでしまうというなら、せめて大人しくしていたほうが痛みは少なくて済むの?

 すみません。へんなこと言っちゃいけませんよね。きっとどうにかなるんだから。いえ、先輩のことを疑ってるんじゃないんです。先輩はきっと、あたしたちのことをうまく誘導してくれるし、宇宙派の人のことも説得してくれるだろうし、あたしたちは宇宙ではなくて深海への移住権を手に入れる、そう信じてます。あなたとふたりで海に沈むことだけがあたしの譲れない夢なんです。
 でもあたし、ときどき思う、やっぱりこれは死に場所選びだって。ううん、違うの。いやな気持ちじゃないの。死ぬのはいやだけど、でもそれって「よくわからないまま惨たらしく苦しむ、ないがしろにされて忘れられる」のがいやなんじゃないかしら。死ぬこと自体はみんな、きっとそれほどいやじゃないのよ。忘却が救いであることと一緒。だから死に場所に海を選べるのなら、それはとても幸せなことだと思う。
 もしかしてあたしって死にたがりなのかしら。もともと明るい性格じゃないって自覚はあるんだけど。でも海の底に行きたいって、人間なんかやめて海で生きていきたいっていう気持ちが、ああ、でも、これが、これが死にたいってこと? あたしはあたしを殺したいの?
 こんなことを考えてるのはあたしだけ?



 青い線。浮いてる。光ってる。
 なんだ、先輩の髪かあ。びっくりしたわ。暗いと目立ちますね。いや、ほら、ふだん職場ではあたしだってまじめに夢を見てますから、先輩のことじろじろ見たりしてませんから、こんなことわかりませんよ。この青って蛍光? 発光してるの? 髪にこんなオプションつけられるんですか。知らなかった。ますます海月じみてる。
 そういえばこの階なんでこんなに暗いんだっけ、ああ、とっくに消灯時間過ぎたからか。こんな時間に先輩と一緒にいるなんてまだ慣れない。ふふ、先輩の髪、いいわね。シルエットがふわふわのぼさぼさで、青いところがイルミネーション。先輩は黒い服だし目も黒いし、こうしてると髪の青いところばかり光ってきれい。それに照らされて先輩の手足もぼんやり浮いて見える、先輩って上着脱ぐと本当に印象変わりますね。背中と胸のそれってハーネス? ふうん、先輩の体、ぐるっと締め付けてあるんだ。腰のそれがテーザーガンね。禁欲的というか、逆に扇情的というか。さわっていい? だめ?
 シアン、コバルト、サファイア、マリン、ネオンカラーの青。青は海の色、天国の色。
 唇は光らないのね。「光ったら笑い事」? そうかしら。暗闇で唇が目立つなんていよいよ海のものってかんじで素敵だと思うけど。いやらしくてかわいいじゃない。あのリップは蛍光じゃないんだ。そう。どこで買ったの? あたしも買おうかな。ね、先輩、踊って。そこで回ってよ。そしてあたしを振り返って。わらってる? わらってるの? そう、あたし、わらってる。せんぱい。せんぱい。
 深海部に先輩が来てくれてよかった。
 藪から棒に何かって、ええ、おかしいですよね、あたしおかしいの。会話なんかもともと上手じゃないんですってば。今だって先輩への感情に急かされるがままにただ言葉を重ねてるだけ。気持ちに押し出されるみたいにして声が出てしまう。
 こんなに情けないあたしを愛してくれてありがとう。
 先輩は、先輩が来る前のこの会社の様子、知らないもんね。ちょうど生まれてくる前の世界を知ることができないみたい。
 ここにはリーダーになりたい人がいなかったんです。たぶん宇宙部もそうなんでしょう、あっちは未だに部長がいないんだから。あたしたち深海部のスタッフはみんな海が好きで、一緒に働くのに何の問題もなくて、ちゃんと仲間だったけど、でも誰もトップには立ちたがらなかった。
 ここは変な会社。社長がいて、部署はちゃんと分かれてるのに、その部署のトップがいない。トップに立つ人って、能力があるとか、そういうことが必要なんじゃないんだわ。やる気と覚悟があれば、他の技術なんかあんまりいらないんじゃないかってあたしはそう思う。トップに立つって、矢面に立ってみんなの苦労とか、文句とか、ぜんぶ引き受けるってことだもの、それを自分からやってくれるのなら他に仕事なんかやらなくてもいいくらいよ。
 あたしは、あたしも。あたしもそういうの、苦手だから。
 向かう先が幸福な未来だったとしても、自分の望むことだとしても、誰も先頭にはなりたくない。そうでしょう。スケープゴート? そうかもしれない。でも先輩はそれを自分からやる気になったんでしょう。どういう経緯でここに勤めることになったのかはまだ問わないでおくけど、でも、覚悟があるっていいことだわ。大丈夫よ。先輩はひとりぼっちじゃないから。



 あたしは最初、先輩のことがあんまり好きじゃなかった。
 今だから笑い話にして打ち明けられるけど、ごめんね。気づいてた? そうよね。先輩だものね。そういうところがいやだったんです。さっきも言ったでしょう、あたしの苦労してやっていることやできないことを簡単にやってのけてしまうひとがいやなんだって。
 先輩が来てからもう十年経つのね。あなたは最初から不敵に笑っていて、だからあたしは、突然引き抜かれてきたくせにこの人おかしな態度だと思ったわ。あなたからは、見知らぬ場所や人に対する不安とか、恐怖とか、遠慮が感じられなかった。それどころかあなたときたら、物怖じしなくて、初対面なのにやたらと面倒見がよくて、甘え上手で、昔からここにいたみたいに要領もよくて、ときどき真剣な目をする。決して優等生の善人というイメージではないんだけど――ごめんなさいね――でも実際、先輩だってそんな人間を目指しているわけじゃないんでしょう? そういうのが伝わってくるの。あなたは自分がどう振る舞うといいのか、それによって周りの反応がどう変わるのか、よくわかってる。
 あなたは何をすればあたしたちに愛されるか知っていたのよ。どうしてだか愛されることを確信していた。そんな人間見たら、憎らしくもなるわ。
 でも、だから、もういいんです。ある日ふと気づいたんです。あたしは意地を張ってるだけだった。人間って自分と正反対のものに反発しながら惹かれたりするものでしょう? 先輩は他人の心に入り込むのが得意で、あまりにそれがたくみだから、本当にくやしい、こにくらしい、だから認めたくなかった。だってそうでしょう。そうよ。ふつうはそのはずよ。先輩はそういう人に会ったことがないんだわ。他人に振り回されたことがないからこの気持ちがわからないのよ。自分が振り回す側なんだものね。だからそんな顔してあたしの話を聞いていられる。先輩を見てるとなんでこんな人間がいるんだろうっていやになる、でも、だから、だからどうしても好きなの。もどかしいわ。でも愛されているんだからもういい。あたしは今報われてる最中だから。
 言いすぎたわね。ごめんね。
 あの、あのね、でも、先輩がどういう人間でもあたしどうでもいいんです。あたしの知らない一面とか言えない過去があっても別に構わない。許してるとか、そうじゃなくて、ええ、大事なのは素直なことじゃないの。いいひとかどうかなんてどうでもいいの。あたしたちがおかしいままでいられるかどうかが肝心。今のままあたしを夢中にさせていてね。この夢から目覚めさせてはいや。
 知らなければ傷つきも許しもない。正直さなんて邪魔でしかないわ。そう、見なかったらなかったものと同じ。



 あたしは夢だけ見る。あなたの隣で、夢を。



 あたしがそのドアを開けるとぱっと視界が明るくなるの。逃げていった魚たちを目で追うと、そこにまたドアがある。草が揺れてる。波は風よりも優しくあたしをなでてくれる。底に隠れていた魚がくちから砂をこぼしてまた消える。なにも聞こえない。そこは宮殿のかたちをした家で、みんなそこに住んでいるの。住人たちはあたしのことをよく知っていて、でも会ってはくれない。会ってはくれないけど、あたしのことを好いてくれていて、あたしがそこに帰るのを待っている。あたしはそれをよく知っている。あたしも住人のひとりなの。
 そのときのあたしはあたしじゃない。あたしだけど、あたしじゃない。呼ばれた気がして上を見ると鯨が通っていくの。汽笛にしては明るいような、つやがあるような音がして、それは鯨の歌。同じ時間に歌ってくれるの。そう約束しているから。お日様はどこにもない、どっちが上かも本当はよくわかってない。でも首を動かすの。見えなくても愛があるのはわかってる。
 あたし、あたしもう一度まばたきしてドアを開けるわ。廊下は左右に広がっていてね、正面にはいきなり中庭。左側にわずかに広い。誰もいないけどみんないる。誰もあたしのことをわざわざ見ないけど、みんなあたしを愛している。それをあたしは知っている。乳を探す猫のように鼻を動かして、手を壁にそっとつける。空気よりも心地よい抵抗を手のひらに感じる。だってそこは水の中だから。壁はざらざらしてる。あたしは色のない廊下を歩いていくの。そうしているといつのまにか手も足もなくなって、腹も、さっきまで水流になびいていたこの髪も消える。まばたきもしなくていい。太もものあたりが膨らんで、あたしはすうっと溶けて、ずっとそこにいるけど、そこから自由に動けるし、動かなくてもどこにでもいる。あたしはその家のどこで何が起きているか手に取るようにわかる。すべてのドラマを起こしているのはあたし。見ているのもあたし。今庭で揺れたのもあたし。沈んでいくマリンスノウもあたし。みんなでいるけどひとりきり。
 そして就業時間がやってきて、あたしはまた目を覚まして、世界を呪わなきゃいけない。好きなものがいっぱいあるこの地上、でも忌々しいわ。戻ってきたくなんかなかった。いえ、あっちが故郷。さっきまでのあたしがよくわからない。遠くへ行っちゃう。あたしってなに? 今ここにいるあたしがほんとう? それじゃさっきまでのあたしはなんだったの。ただの妄想? あんなに生々しいのに。嘘だなんて誰にも言わせないわ。でもあっちがほんとうだったら、今ここにいるのがにせもので、そしたら先輩とのこととか両親のこととか、学校でつらかったことも職場での頑張りも夢。そんなわけない、じゃあさっきのが夢よ。人間はあれを集めてコロニー内の物体を造ったり、探査機の燃料にしたりする。海に行くとき、あたしはあれを燃やして行くんだわ。あたしのためにあたしの夢は燃やされる。
 先輩、あの場所にあなたもいたらいいのに。あたしが溶けていく先にあなたがいたらいい。あなたがあたしだったらいいのに。夢を見ているときの気持ち、先輩を想う気持ちと似てる。



 先輩、どこ?
 ああ、もう執務室に着いちゃったのか。もうこんな時間ですね。デートもそろそろおしまい。つまんないの。楽しい時間ってほんとあっけないわね。
 暗いんだからちゃんとそばにいて。髪だけ光らせてたってだめ。そっちに着いたら水槽の照明点けましょうね。暗い海には青が似合う。赤は、暗いとぜんぜんわからない。ああもう、歩くのめんどくさい。足いらない。浮いてあなたのそばにいきたい。先輩、顔を見せて。よく見せてよ。体がなかったらあなたの顔を見ることなんてできなかったわね。人間の体なんかいらないって思ってるのに。どうやったら自由になれるのかしら。
 そういえば、先輩ってデータ化したのは体だけなんですよね。うん、まあ、さっきした話の続きですよ。あたし、いずれはもっとデータ化したいと思ってます。記憶でもいじろうかな。いやなことは全部忘れよう。先輩はどう思う?
 データ化ってたしかに夢の技術だと思うけど不安定ですよね。最低一つは国が補助するっていっても、結局は金持ちが得っていうか。豊かであることって、あえて不便なものを選択できる余裕があるかどうかってことだと思う。あたしみたいな人間は余裕がないんですよね。あんまりお金持ちじゃない。両親はあたしを好きにさせてくれたしなんだってチャンスをくれたけど、それにも限界はありますから。
 ええ、家族とは仲いいですよ。そうそう。今でもたまに連絡してます。あたしは父と顔が似てるんです。そう、あたしに名前をくれた父。うちは「夢前ゆめさき」って呼ばれるとあたしも父も返事をします。あたしと父はいろいろと似ているところがあって、おもしろいからデータ化のときにそのまま残しちゃった。体つきもねえ、これは母。あたしは外側から見ていかにも古い人間でしょう。変ですよね? あたし、なんだかんだ言いましたけど、昔のものを残したりするのも好きなんです。古い考えだ、って学校じゃ散々ばかにされましたけどね。ああ、でもこれが豊かってことなのかしら、捨ててもよかったものを選べてる。
 ふふ。ほんと、人間の姿なんかやめて魚にでも水にでもなりたいのに。矛盾してる。
 先輩は? ご両親と仲いい?
 そう。急に訊いちゃってごめんなさい。でも、ありがとう、教えてくれて。先輩のこと知れるの嬉しい。



 えいえんかあ。
 えいえんって、なんなんでしょうね。ふしぎな概念ね。時間があるから。そう、あたしたちは時間に縛られている存在だから、そうじゃないものに憧れてしまう。時間って変化のことだもの。いえ、あたしは哲学とかそういうのは得意ではないんですけど、考えることくらいあるもの。
 変化しないもの。時間にとらわれずに続いていくもの。
 でも今はデータ化があるから。えいえんって作れるものかもしれない、あたしはそう思っていた時期があるくらいです。今の時代、データにしてさえいればなんでもコントロールできるもの。ずっと元気でいたい、ずっと忘れたくない、ずっと好きでいたい、そういうの、人為的に作れるし、そうあるようにある程度は調整できる。
 昔、精神とか魂とかそんなものは結局存在しなくて、心や記憶は体に依存したものだってずっと言われてきたらしいけど、それを否定することができたのがデータ化。心はちゃんとあって肉体に振り回されたりしない独立した存在で、記憶だって海馬だけに宿るだけではないもので、そのように見つけて操れるようになったあたしたち人間。でも、目に見えるようになったからって、それが本当だってどうやって信じたらいいんでしょう。

 たとえばね。こうやって先輩と暗闇の中で水槽の上、落ちてしまいたくて手をのばして、手が繋がってしまったら、それを奇跡だと思いませんか。
 あたしがあなたを突然抱きしめたら、先輩、こわいでしょう? あたしはこわい。先輩が抱きしめ返してくれる保証なんかどこにもないんだわ。先輩はいやがって拒絶するかもしれない。ううん、腕の中にいるのがほんとうに先輩なのか、先輩の心やその動きの仕組みがあたしと同じものなのか、そういうことからしてわからない。それでこんなにこわいのよ。
 でもこんなにこわくてひとりぼっちな中で、先輩があたしを抱きしめ返してくれたとしたら? のばした手をしっかり握ってくれたとしたら、そしたら、安心してしまう。あたしは孤独じゃないのだって勘違いしてしまう。
 愛とか奇跡とかって、そういうものじゃないかしら。

 でも愛をえいえんにするなんてとても無理だわ。少なくとも今のあたしたちの技術じゃたちうちできない。データ化は所詮まがいものだから。あたしたちは変化ありきの時間の流れる世界で生きているから、こんなに瞬間的なものを持続させるなんて不可能よ。
 愛が変わらず続いているように自分たちに思い込ませることは可能だけど、それは時間に逆らうということだから、とても不自然だわ。いつか必ず変わってしまう。
 それでもその状態に見せかけだけでも近づけることはできるようになったし、価値が変わってしまったのね。先輩、学校で言われませんでした? データ化する前の生身での体験こそが重要なのだ、って。それと同じで、なんて言えばいいのかしら、そう、より自然なものが大事に思われている。見せかけだけだったり、無理に延命させたり、発生させたりしたものはあんまり価値がない。
 自然発生した愛とか、手を加えていない永遠性への憧れを、あたしたちはとめることができないのよ。時間が流れてるせいで始まりも終わりもないものに憧れてしまうんだとしたら、なんだか――時間を止めるよりももっと――それは死にたいって気持ちとほとんど似てるような気がしてしまう。やっぱり死にたがりね。



 水の中はきもちいい。
 えいえんなんてどこにあるのかな。こんなことで悩むの、高校生の頃までだと勝手に思い込んでたけど。あたし先輩より年上だからもう少しいい答えを返せるかと思ったのにまだまだで、ちょっとくやしいです。
 先輩、えいえんになれるといいね。 きっと先輩ならなれるわ、人間なんてつまんない存在やめて、ずっと変わらないもの、時間の流れなんて関係のないものに。 諦めなかったらきっと大丈夫よ。何もかも、自分さえも犠牲にする気概で進み続ければいつか何か掴めるわ。あたしだって先輩のことを捕まえられたんだから。
 先輩、もう一度言うけど、あたしは先輩がなんであっても嫌いになったりはしません。ひどいことをされたら許さないって決めてるけど、でも、信じるって、そういうことじゃないかしら。 たとえ嫌いになったとしても、愛することをやめたりはしない。きっと最初に会ったときから、あたしは既に先輩のことを好きだったのだと思う。でなければあんなに憎く思ったりしないもの。だからこれからも同じよ。いつかまた憎く思うことがあるとしても、許せなくなる日があるのだとしても、愛していることには変わりはないんだわ。
 憎むのと愛するのは同時にできることだから。
 先輩、いつかあたしたちが海の底へ住むことに決まったら、そしてもしあたしたちが人間をやめる日がきたら、先輩はあたしを選んでくれる? あたしは、あたしはきっと先輩を選ぶ。あたしが貝で先輩が海月でもあたしはきっと先輩を見つけるわ。それで水に溶けていっても、ひとつの海にかえっても、きっとそれがいちばんいい。だってそうすればもうあなたを探して、求めて焦がれることもなくなるもの。
 そう、それで、ふたりでえいえんになるのよ。
 あたしたちには空気なんてもう必要ない。水の中でも苦しくない。あなたの顔がよく見える。どこまででも沈んでいける。離さないでね。あたしを地上に返さないで。ずっとずっと、いつまでもあなたらしいあなたのままで、あたしのそばにいてね。
 せんぱい。