Blue Eden #11 地球の子どもら







 お兄さんとは仲がよかったんですか、と、夜半に向かって光星みつぼしがようやく尋ねられたのは、夜半の兄の存在を知ってだいぶ経ってからのことだった。
 「光星」は死んだ兄に似ている字面の名だ、といつだったか夜半から言われたとき、光星の心を襲ったのはなんとも表現しがたい不可解な感情だった。光星はこの会社に来るまで、毎日のほとんどを教育区や一般居住区ですごしていたが、学校では常に中心人物でいたし、どんな人間とでも大体仲良くやってきた。自分にとってはそれこそがふさわしいふるまいのように思えたからだ。それでも、夜半のような性格の人間とはあまり関わってこなかった気がする。出会っていたのかもしれないが、率先して一緒にいたいとは当時の光星には思えなかったのかもしれない。だからだろうか、最近の光星は夜半の発言や態度にとにかく混乱させられていた。初対面のときは彼のことを単に正直で朴訥とした青年なのだと思っていたが、半年以上経った今ではそれだけで済まないものを感じている。連星のつもりでそばにいたのにいつのまにか遠ざかる彗星のようで光星は困惑してしまう。
 夜半とは友好的でいなければならない。できればそうしていたい。初対面のときのことを考えても夜半は決して悪い人間ではないのだし、何より光星と志を同じくした仲間なのだし、上司だ。いつまでも間に何か挟んだような付き合いをするわけにはいかない。この靄のような思いをはっきり晴らしたい。相手の兄のことを問うことで、今のこの関係が変化するのではないかという淡い期待があった。もっとも、肝心の夜半が何を考えているのかは今この瞬間もこれっぽっちもわからないのだが。
 問われた夜半はというとしばらく無言でおり、――機嫌を損ねてしまったのかと光星が慌ててしまうに十分な反応だった――それで光星は質問を変えることにする。死とは無縁の光星には想像しづらいが、夜半の兄は既に故人なのである。こう見えても夜半にも複雑な思いがあって、それで答えにくいのかもしれない。しっかりと気を遣わなくてはいけないだろう。
「すみません、急に訊いてしまって。前にお兄さんのことを言われてからずっと気になっていたんです。お兄さん、どんな人だったんですか?」
 場所は最上階。屋上にはカーブの美しい球体のロケットが鎮座しており、工業区から作られたパーツが毎日せっせと運び込まれている。最上階とそのひとつ下のフロアは仕切りのない広い部屋になっていて、パーツを運び込む前にひとつひとつ目視で確認したり、動作を手で再現したり、分配された想像エネルギーの調整をしたり、レーダーで軌道上の様子を観測したりしている。工場のような一角と管制室が同居している様相だ。
 地上が荒廃するまでは宇宙開発は今よりももっと盛んだった。光星はずっとそう習ってきた。三百年前、つまり二〇一〇年当時、打ち上げられた人工衛星の数は既に四千弱あったという。回収方法をろくに考えずに射出されたものもかなりあったらしい。スペースデブリとなってさまよう彼らの正確な位置を探るのも、今の現場の人間たちの仕事だ。現在、現役の衛星はもはやなく、観測は地上からのレーダーに委ねられていた。スタッフたちは皆忙しなく働いており、同じ宇宙部でも横になって夢を見てばかりの上層部とはまったく違ういきもののようだった。
 今日の光星と夜半は定期視察として現場に来ていた。革張りと見せかけてデータで創造された椅子に腰掛け、夜半は古い型の電子機器の画面をなぜている。エレベーターでここまで上がる際、なぜか暗い面持ちだったので心配していたが、どうもあれは光星の気のせいだったらしかった。
「ああ、前に名前のことを言ったからか。兄貴も宇宙が好きだったよ。兄貴は俺に星を見ることを教えてくれた人間だ」
「星を?」
 それは今の夜半に繋がる大切な存在なのではないか、と光星は思ったが、夜半はというとそのわりにはどうでもよさそうな顔をしている。
「兄貴は俺に本や星図を譲った張本人だ。生前はコロニーの天井越しに宇宙を眺めるのが趣味だった。ひとは死んだら星になるんだ、命は死んだら星にかえっていくんだ、って、それが口癖だった。この口癖はよく覚えてる。耳にたこができそうなほど聞かされたし、俺自身も次第にそうであれと思うようになったから」
「じゃあ、とても大切な人じゃないですか」
 光星は救われた思いで夜半に食いついた。淡泊そうな夜半にも情熱の炎が灯っている、と、光星にもやっと感じられるようになりそうだ。星とはうるさく眩しく燃えているものだ。
「もしかして、夜半部長がこの会社に入ったのはお兄さんのため、という理由もあったりしますか?」
 命は星にかえるというのなら、星は夜半の兄でもあるわけだ。夜半は兄との再会を願って宇宙の星たちを目指しているのかもしれない。
 夜半は首を竦め、手元から外した視線で光星を捉えてくる。
「いいや。兄貴のことなんてお前の名前を見るまで忘れていたくらいだよ。残していくべきなのは兄貴の存在そのものじゃなく、兄貴の言ったことだろう」
 きょうだいがいないので夜半のことが羨ましい、と光星が思った瞬間に返ってきた言葉に、光星は面食らってしばし固まる。夜半はぎこちない動きの光星など気にするそぶりも見せず、立ち上がって屋上への階段を上り始めた。
「ひとが死んで夜空の星になる、それは俺だってそうだったらいいと思うし、兄貴の言葉のおかげで俺は宇宙を知ったんだから、それは感謝しているとも。条件は大事だからな。でも兄貴に関して思うことはそれだけだ」
 頑丈なハッチに夜半が手をかける。ここはいつロケットを発射することになってもいいように準備されている。重いそれを夜半がわざわざ肩で押しのけると、二人のあいだに空からの青い光がさっと差し込んだ。
「俺はたしかに宇宙に行きたいが、それは全部俺自身のエゴのためだ。兄貴や他の死者に会いに行くのはまだ先だ。まずはお前みたいな若い人間が安定して宇宙に行けるような環境を作りたいんだ」
 拍子抜けしている光星を置いて夜半はそんなことを言うのだった。
 ドーム状のコロニーの天井越しに降り注ぐ陽光を浴びて光星は考える。夜半はそんな光星に頓着せず、すたすたと純白のロケットに近寄っていく。彼が兄に対して特に思い入れがないということは本当らしく、彼の話しぶりや顔つきは妙にさっぱりとしている。いつもの夜半だ。
 ということは前、上層部の執務フロアで、兄の名と光星の名が似ていると言ったのも、本当に単なる感想でしかなかったわけだ。意味深長に捉えていたのは自分だけだと気づき、光星は夜半の後ろを歩きながら人知れず恥の電波を体中に走らせた。もっと湿っぽくて人間味のあるエピソードが聞けるとふんでいたのに肩すかしをくらってしまった。
 夜半はどうしてこうも光星の調子をおかしくさせるのだろう。夜半と一緒にいてなんとなく落ち着かなくなるのは、これは光星だけなのだろうか? はっきり言ってしまうと反応が読みづらい。こうだろう、と思った場所に返ってこない。どう響いてくるのか予測がつかない。同じ言葉を話して同じ空を見上げているのに、まるでまったく異なることわりによって存在しているような、踏み外しやすい階段のような、奇妙としかいいようのないものを感じるのだ。――せっかく色々と話せたのに、違和感は取れないままだ。
 すれ違い様に現場担当のスタッフが渡してくる衛星のデータを、夜半ではなく光星が受け取って脳内で処理をする。夜半はというと、ロケットを囲んでいたスタッフたちに声をかけながら近づいていき、今はロケットの表面を真面目な顔をして触っていた。真っ白に伸びた体躯の夜半が球体に寄り添う光景はやたらと美しかった。月に住人が帰るようだ。
 夜半の手などまじまじ見たのは今が初めてかもしれない――そういえば出会った頃に握手をしたような気がする。あのときの自分は今よりも混乱していて、手のことなど何も意識していられなかった――大人しい印象のわりには大きくて無骨な右手をしているな、と光星はぼんやり思い、その手から伸びた指がパーツとパーツの接着面をなぞるのを見守る。あまりに神妙な手つきなのでいたたまれない。
「そういえば、お兄さんはもう、亡くなられているんですよね」
 気づけばそんなことを問うていた。さすがに身内の死はデリケートすぎるため、詳細を聞くことは憚られると思っていたのに、そんな遠慮も忘れて言ってしまっていた。
「どうして亡くなられたのか、理由をお聞きしてもいいですか」
 改めて口にしてみて思い知る。夜半の兄が故人だということも不思議なことである。今の世の中、先天的な障害や疾患はデータ化で対処してしまえる。データ化後であれば尚、大抵の事故や病気は恐るるに足らない。死と無縁なのは何も光星だけに限った話ではないのだ。夜半の兄に一体何が起きたのだろう。
 スタッフたちは持ち場で真剣に作業しており、誰も近づいてくる気配がない。笑いながら声をかけでもしたら閉め出されてしまいそうな雰囲気だ。彼らの動向にも気を配りつつじっとしていると、体が空の青を吸い上げてしまうようだった。そんな錯覚を覚えるほどに、今、耳の奥に音がなかった。
 死ぬ、という言葉が、自分自身にねばついた影を落としているような気がして、光星はもぞもぞと腰のあたりを揺する。次は臍が気になり始めた。――臍。そういえばおとぎ話のようだが、子どもは必ず生身で生まれてくる。データ化をした体からも生身が生まれるのだ。影も感触もあるデータの体。仕組みは誰もわかってはおらず、どんな医者や科学者も解明しようとせずに都合のいいように使っているばかりだ。臍はこの世に生身で発生した証である。痩せ細った大地の栄養を、親となるデータ体の胎から吸収するための器官。かつては光星にも間違いなくあった緒の痕――光星は腹を掻いた。ない産毛が逆立ったようだった。
 言葉の影が当たることで、取り返しの付かない汚れをなすりつけられたように思う。夜半が兄の死について、何らかの、光星の納得できる説明をくれるのなら、この思いもどうにかなるかもしれない、光星はそう願ってしまう。
 実際のところ、光星は、自分とよく似た名前を持つらしい夜半の兄の性格が気になるのではない。夜半たちのきょうだい仲など興味もない。死は遠いものだと確認できればそれでいいのだ。今の光星が頼れる相手といえば夜半である。支えなくてはならないのも夜半だ。何はなくとも夜半とは親密でなければいけない。教育係の夢前ゆめさきが教えてくれた「信じられる人間」とは、光星にとっては夜半のことだからだ。
 たっぷり数分は二人で黙っていた。夜半はいつの間にかロケットから目を離し、そばにある巨大望遠鏡に関する報告書を読んでいた。紙はかなり貴重だが、アナログなもののほうが保管がきく場合もあるらしい。紙から目を離さぬままで、夜半は声だけで返事をしてくる。
「兄貴はデータ化を渋っていたんだ。手術が可能になった十八歳から、期限である二十歳のぎりぎりまでずっと。期限が迫ってきて、何も決めずにいるうちに病気になって、そしてあっさり死んだ」
 光星は――守るように手で手を包み込み、体の前でこすった。
 もう自分でも認めるしかなかった。光星はさっきからずっと期待を裏切られている。それでも自分から話し始めておいてふてくされるわけにもいかないので、なんとか返事をしようとまた口を開いた。
「変わった人ですね。世代なんでしょうか。僕の友人たちではそういう人は見たことも聞いたこともないですよ、――ふつうだったらすぐデータ化するもんでしょう。データ化は当たり前のことですし――まさか嬉しくなかったんでしょうか? それともお兄さんにはデータ化を見送らざるをえない不可抗力の理由でも?」
「本人の意思だ。データ化そのものが気に入らなかったらしい」
 光星は最初、夜半が何を言ったのかよくわからなかった。
「光星。お前、データ化をまったくしていない人間がいたらどう思う」
 光星のリアクションを待たずに夜半が重ねて聞いてくる。音もなく上がったそのおもてを、光星は凝視してしまう。
 夜半は満月を背負う異人のように立っている。
 言われたことに対する処理が追いつかなかった。心もデータ化しておけばよかった、こんなとき、光星はすぐにそう思う。それくらいには光星はデータ化に依存している。
「それは、成人で、ということですか」
 念のため光星が確認すると、夜半はあっさりと頷いた。清潔な砂でも落としたように長い白髪が揺れる。文字通りの白眉はぴくりともしなかった。白い屋上の床から生えたような色をした夜半は、いつもの長い足でロケットのそばから鷹揚に離れ、デブリ観測レーダーの足下へと近づいていく。
「そうだ。成人で、金銭面、身体、精神、家族関係、いずれも問題はない。ただひとつだけ自分の意思で、データ化せずに生身で生きることを選択した人間がいたら、お前はどう思う」
 光星は口を閉じる。
 夜半は黙った光星のことを急かすような真似はしなかった。返事を待っているのか待っていないのか、観測結果の出る画面を何度も確認している。最近持ち歩いているらしい、小さな星図まで出してきて見比べているようだ。あのレーダーでは星の並びまでは確認できないはずだが、気になるところでもあったのだろうか。俯きと仰のきを繰り返す夜半の、やや厚い、四角い肩から幹のようにすっくりと白い首が生えている――うなじを覆うセーターも白い。現場で作業服を身に纏うスタッフたちの中に紛れると彼はひときわ目立つ。まるでにんげんではない別の何かのように。――
 問われたならなんでもいいからすぐに返事をするように心がけて二十年間生きてきて、光星は、それが正義で正解だと思っているが、今だけは何も即答できる気がしないのだ。こんな質問をされる日が来るなど光星でなくとも誰にも想像がつかないはずだ。
 当たり前すぎることを疑うのはそれだけで罪である。他の誰に賛成されずとも、光星にとってはそうだった。
 お言葉ですが、と前置きして、光星は息を吸う。澄んだ空の青に近い、紺色のスーツのすそを握りしめて。
「受け入れられません。そんなの、死にたいって言ってるようなものです。狂人の所業です」
 夜半は光星の返事を受け、不可解なことに、一瞬だけ、ほほえむように口角を緩ませた。そうしたように光星には見えた。光星が錯覚を疑ううちに夜半の表情は元に戻り、忍び込むように深い呼吸が聞こえてくる。
 異常なし、を示す緑のランプが画面上で明滅している。
「夜半部長?」
「そうか。お前はそう思うのか」
 スタッフたちのざわめきに紛れるようにひとりごちる声が聞こえ、光星はいよいよ訝しんで再び声をかける。
「夜半部長」
「聞こえてる。ありがとう、わかった、もういい――それより光星。こっちに来てお前も見てくれ」
 星図を懐にしまいながら夜半が言うので、光星は急いでそばに寄る。夜半はもう話題を切り替えたつもりでいるらしい。気まずくなることを恐れ、光星はわざとおどけて大仰に画面を確認し、そして茶化すように答える。
「問題はなさそうですね。デブリっていっぱいあるって聞いてますけど、意外と晴れてるじゃないですか。このぶんなら、ロケットの最後のパーツが届き次第すぐにでも出発していいくらいでしょう。このまま一緒に乗り込みましょうか? きっとすばらしい体験ができますよ」
 夜半は光星をまたしばらく見つめていた。確かに夜半は物怖じせずに他人を見据えるほうだが、今日は視線のぶつかる頻度が高い。石膏のような、月のような、据わった瞳は微動だにしないのでそこそこ恐ろしい。光星が責めるように見つめ返していると、ややしてから夜半は機械的に唇を割った。
 ――そうだな。
「何も問題はないな。お前の言うとおり、最後のパーツさえ届けば今すぐにでも出発できそうだ。――そうだ、本当に、このまま乗り込んだらすばらしい景色が見られるだろうな」
 そうして夜半はゆっくりと、花がしおれるように黙り込んだ。うさぎの耳を思わせる長い長いサイドヘアがその鋭利な横顔を覆う。
 この人は本当ににんげんだろうか、と光星はふと思う。
 光星が気になったのは兄についての執着のなさだった。仮にも家族だ。データ化の普及により、血のつながりを重視する風潮は廃れてきているが、それでも自我が確立しないうちに生活を共にするという意味ではもともとの家族は大きな存在感を持つものである。好きなものや夢に関わる思い出があるのなら、その存在感はより好ましいものになると考えるのが妥当ではないか。
 家族のことを恨んだり嫌ったりしているわけではない、そのくせ特別に好きなようにも見えないことが気にかかる。ふつうどちらかではないのか? それだけ関わっておいて、強烈な死を見せられて、それなのに好きでも嫌いでもなく「執着していない」。そんなことがあるだろうか。
 例えば永遠とわのような、ややグロテスクに思えるほどに鮮やかな人間や、データ化のオプションのために無機質になったセレ、つかみ所のない天上天下てんじょうてんげなど、およそ人間らしさのない者はいる。しかしそういった者たちはそれでもまだ人間に見える。わかりやすいからかもしれない。しかし彼らよりずっとまともで芯の通った人間であるはずなのに、なぜか夜半からはそれが感じられない。光星には夜半の正体を掴むことができないのだ。
 夜半はまだ画面を見ている。いくらデータ化が当たり前になったからといっても、肉眼では宇宙空間は見えないのに、何度も手元と上空とを見比べているようだった。何がそんなに面白いのだろう。
「もう戻りましょう。いい時間です。れんさんから連絡が入っています、そろそろ執務フロアに戻ってほしいって」
 ハッチ扉を抜けてフロアを横切り、エレベーターに向かう。まだここに用事があるという夜半が見送りのためについてくるのを感じ、光星はしぶとい悩みについてつらつらと考える。落としどころを見つけないと今夜眠れそうにない。
 何度も言うが、夜半は悪い人間ではない。約束は守るし、誰かと口論することもない。業務で足を引っ張ることもない。部下が何か訴えれば、それがどんな内容であれ耳を傾ける。否定せずに要望を通してくれる。一見地味に見えるが妙な迫力があり、関わると忘れることができない。だからか、上層部だけでなく現場の人間たちにも信頼されているようだ。非常に温厚でいい上司だと言えるだろう。誠実で質素で親しみやすい。どんな人間に対しても夜半だけは公平な態度で向き合っているように見える。
 少々意思疎通が難しいことを抜いて、夜半に対して不満など、光星は抱いていないはずだ。
「夜半部長、しっかりしてくださいね。ロケットだってもうすぐ完成しますよ、ちゃんとやっていれば天下社長だってこっちを評価してくれるでしょう。最後のパーツはきっと宇宙部に来ますよ。僕たちが落ち着いていないとみんな困るでしょう。何か腑に落ちない点があったら黙ってないですぐに教えてください」
 夜半は返事こそしたもののあからさまに上の空だ。首だけ少し後ろに向けると、夜半は歩きながら報告書をまた広げて読んでいるようだった。データで送ってくれと一言スタッフに言いつければいい話なのに、不可解なものである。こうやって不便なことを文句も言わずに受け入れてしまう態度も気になる。
 やはり兄の死について訊いてしまったのがよくなかったのかもしれない、と光星はこっそりと反省し始める。落ち込んでいるように見せないだけで(もしかすると光星が知らないだけでこれはデータ化の影響かもしれない)、夜半は兄のことを気に病んでいるのかもしれない。兄の死そして思想について、夜半には何か後ろめたいものがあるのかもしれなかった。それとも、所持を押しつけてしまったナイフを気にしているのだろうか。結局現場でも用事がなかった。乗り気でないところにむりやり持たせられていやなのかもしれない。来るときのエレベーターでの顔色は光星の気のせいではなく、今の夜半には不具合が起きているからなのかもしれない。もしくは先ほどのレーダー観測結果に納得がいかなかったのか。このどれかでなければ、あんなことを言い出した説明がつかない。
 他人の兄について狂っていると評したことは言い過ぎたかもしれないが、それでも光星は撤回する気にはなれなかった。光星の感じた本当のことをまっすぐに言っただけだ。何も悪いことなどないはずだ。あまりにもおかしなことを夜半が言うものだから仕方がない。光星の感覚を夜半にもしっかり伝えておきたかったのだ。これは同じ感覚だろう、と、そう、確認したかった。
 ――そういえば夜半はどこをデータ化したのだろう。
 余程親しい仲でもない限り、そんなプライベートなことはとても訊けないが、気になって光星はとうとう夜半を振り返る。
 夜半は光星を見てはいなかった。報告書の束も雑に脇に挟んでいる。彼の静かな両目はじっと、懐から再び取り出された星図を捉えていた。何か声をかけようと思ってもかけられないのは、その両目の湛える空の光がどこか沈んで見えたからだった。視線は落ちるものだということを、光星はにわかに思い知る。
 ドアが閉まった。
 エレベーターが降下を始めてしばらくしても、光星は呆然としてドアを見つめていた。鏡になったドアの内側は無慈悲に光星を映している。狭いエレベーターの個室で光星は一人だった。夜半のことを信じている。職場に不満はない。しかし、だとしたら、ずっとつきまとっているこのさびしさのようなものは一体なんなのだ。



***



 信じられる人間はたった一人でいい。夢前にとってそれが誰なのかは言うまでもない。相手にとっての特別な人間にはなれないとしても、相手の顔を見ることが日々の楽しみであり、支えであり、その存在は海に移住する夢と同じほどに大切で、夢前は今、その相手に会うためにエレベーターで海中へと潜っていく。
 社内のエレベーターは大体が二室セットで並んでおり、基本的には誰がどちらを使おうがまったく問題ないのだが、片方が深海部用でもう片方が宇宙部用、と分かれている認識でいる。夢前の入社した頃には既にそういう空気が流れていた。たまに宇宙部の人間が深海部のエレベーターから出てくると、なんとなくおかしいような、気まずいような顔をしてしまう。ふしぎだ。夢前よりも長くここにいるスタッフからは、そんなルールは会社からは何も出されていないのに、次第にそのように決まっていったのだと説明をされた。人間が集まると不文律が固まっていく。誰もが変だとわかっていてもそういう現象は起こる。今、誰か隣を使用しているかどうか気になり、夢前はそちらの方向を向く。壁しか見えないがこれは気分の問題だ。
 連絡内容を信じるのなら宇宙部の活動も順調ではあるようである。ただし、動力源となる想像エネルギーのための重要なパーツは工業区から届けられることになっており、それが完成しないことには宇宙部も深海部もどこにも行けない。しかし去年よりは今年、昨日よりは今日と現場の準備は着々と進んでいるはずだ。上層部のスタッフはこちらと同じように毎日せっせと夢を見ているだろう。そういえば最近は連絡を取っていないが、光星はどうしているだろうか、という教育係としての至極まっとうな心配は、エレベーターの突然の停止によって遮られた。
 まだ最下層には到着してしない。二階の資料室から下りてきたのだから、地下六十階に行くまでにかなり時間がかかってしまうことは仕方がないのだが――表示は地下二十五階を差している。ここは上層部スタッフの居住フロアだ。――勝手に開いたドアの前には誰もいなかった。戻ろうとするドアを手で軽く抑え、夢前は上半身だけ乗り出して周辺を確認する。
 やはり無人だ。
 白く長い廊下にくらくらしそうだった。誰かが何かの用事があってここにいて、呼んだはいいが乗る必要がなくなって立ち去ったのかもしれない。姿勢を直してドアを閉めるパネルに触れ、そこで夢前はおかしなものを幻視し、そっと片手で口を押さえる。
 ――誰かが――誰かが廊下を歩いている。白く長い廊下に黒い影が伸びる。髪が空中に散った。鞭か触手を思わせる青い糸混じりの髪だ。視点から腕が伸びて相手の肩を掴もうとする。こもった音が聞こえる。水の中で声を出しているような振動だ。先を行く黒髪の相手がふと立ち止まった。その華奢な後ろ姿は花のようにこぼれる。振り向いた青い唇がつややかに動く。この青は、
「永遠先輩?」
 囁くような呼び声はエレベーターの個室を漂ってすぐに消える。エレベーターは静かに降下を始めていた。音を吸い込む個室の隅、夢前は口から離した手を見つめ、そうして顔の前でそれを振る。幻影は煙も残していない。
 ちょうど光星たちが入ってきた頃からこういう景色がたまに見えていた。就寝中の夢だけに留まらず、近頃は起きているときにもこうやって見てしまうのだが、ここまではっきりしたものは初めてだった。向き合うことが怖くて後回しにしていたのだが、ここ最近悩みの種だった。
 夢前も上層部スタッフだ。居住フロアは地下二十階、先ほどのフロアと廊下の景色は瓜二つである。もっと深くに自室を持つ現場スタッフであれば地上に近い便利なフロアに憧れてこんなまぼろしを見ることもあろう。現場に近づくように潜れば潜るほど、深度を増して廊下の照明は暗くなる。いくら深い海が好きでも、毎日そんな場所へ帰っていれば嫌気もさすかもしれない。しかし夢前は暗いフロアに住んでいるわけではない。居住フロアをまぼろしに見るほど憧れる理由などない。そもそも住処に頓着するたちではないのだ。
 心当たりといえば永遠への好意だ。永遠のことを考えすぎていよいよおかしくなってしまったのかもしれない、願望がこんなまぼろしを見せたのかもしれないと思いつき、そうして夢前はうなだれた。なんだか自分がひどく醜く膨れ上がってしまった気がする。俯いているとその考えはどんどん膨張して、うなじの部分からもうひとつの頭部として生えてくるようだった。ウェーブのついた髪が夢前の視界を囲み、夢前のつま先を差し示す。つま先だけやけに小さく見える。
 見て見ぬふりをしたくてたまらない。向き合うのはいやだ。何もかも気のせいだ。きっと夢前のどこかがおかしくなってしまったのだろう。もうそれでいい。しかし、おかしくなる、ということなど起こりうるのか。体をデータ化しておいてそんなことがあっていいのだろうか。そんな例は聞いたことがない。それとも心をデータ化していないと、こうやって感情がデータの体に影響を及ぼすこともあるのだろうか? 定期的に健診に行ってメンテナンスをしているが、何か足りないことがあるのだろうか。
 メンテナンスの際に個人的な記憶を覗くことは禁止されているが、もしかしたら誰か、たとえばあの底意地の悪い医師あたり、夢前のこの幻影に気づいていたとしてもおかしくない。――誰にも知られたくないし、消したくもない、と夢前は不意に思った。――恥ずかしい願望だからこそ、そのままにしておいてもいいだろう。波風立てず見て見ぬふりをしていれば、あるものだってないことにできるはずだ。
 しかし生活する上で困るのも確かだった。たとえばこうして、くだんの相手に実際に会うときなどは、特に。
 最下層である。うっかりすればモノクロームのつぶれそうな景色になりそうなところを煌々と照らし、水質調査のための無人潜水機を囲んだスタッフが意見を交わしている。どうやら潜水機は帰還した直後らしい。永遠は、奥の特殊ガラスの張られた壁際であぐらをかいて座り込んでいた。いつ見ても腕の長い海月だ。潜水機が何か捕まえてきたのか、永遠は体で小さな水槽を抱え、その内部を熱心に覗き込んでいる。
 しばらく永遠に見とれたあと、夢前はわざとかかとを鳴らして相手に近寄った。
「永遠先輩。迎えに来ましたよ」
 声を投げても永遠は振り返らない。髪一本動かない。先ほど居住フロアで見たもの、最近くりかえし見るあれは本当にまぼろしだ、と思い知って、夢前は小さく溜め息をついた。現実なんて所詮こうだ。
「今回の調査もうまくいったんですね。それは喜ばしいことですけど、先輩、執務室に帰らないこととそれとは話は別です。もう予定の時間過ぎてますよ。まったく、そんなに夢中になって、潜水機は今回は何を捕まえたんです?」
「なんだろ。おまえには何に見える?」
 ということは新種か。
 問われた夢前は体を曲げて永遠の手元を覗き込んだ。ここのスタッフや永遠が調べてわからないものならば新種だ。環境保護区の専門家に届けねばならないだろう。永遠が右手に持った光源をするする移動させると、それに合わせて塵ほど小さなものが動くので、視覚に干渉してそれをよく見る。
「かわいい、ずいぶん小さいこと。これで成体? これはエビの仲間かしら。尻尾の形が特徴的ですね、確かに見たことないわ、どのあたりで見つけたんだかデータをもらわないことには――あの、先輩。詳しいことは環境保護区に送って調査が済んでからです。この子をダシにここに残ろうって魂胆は通用しませんから」
「はいはい。あばよエビ公、おまえの正体がわかる頃また会おう。死ぬなよ」
 調子のいい返事をする永遠の右手が握られて光は消えた。海中へせり出た、環境保護区まで通じる輸送用の空間へと小さな水槽が落とされる。恐れ多くも永遠に口説かれたエビは数時間後には環境保護区に到着するだろう。現場で捕獲された生き物は、ほとんどがこうして環境保護区まで送られてそこで研究されることになっている。送る必要がないと判断されると、上層部執務フロアの壁面水槽に投入されたり、もしくはここで解体されたり、さまざまだ。
 永遠のあとを継いで輸送の準備についたスタッフたちと目が合った。彼らが口元だけでほほえんでいるのを認め、夢前は気まずくなって顔を逸らす。永遠以外とはあまり交流しようとしていないせいか、夢前は現場のスタッフたちから気難しいと思われている節があるのだが、こうやってたまに成果に色めき立つと彼らの表情が変わるのだ。不愉快だとまでは言わないが居心地は悪い。むずむずする。
「永遠先輩。ずるいですよ」
「そお、ご挨拶。おまえはかわいいよ」
 夢前の態度がどうやったら軟化するか、夢前自身も生きてきて中々わからないのに、たった十年ほどの付き合いの永遠はあっさり御してくる。返事のわりにはしらを切るつもりなどないらしく、顔を見れば永遠も目をすがめて笑っていた。夢前がどうして怒っているのか、なぜ居心地が悪いのか、永遠にはお見通しなのだ。
「ごめん。見せたかっただけだよ。そんなに怒るなよ――ところでなんで迎えに来た? おれがいなくて困るわけないだろ。おれは十年間ちゃんとおまえらを教育したはずだ。それにそっちにはおまえだっているんだし」
 夢前は一拍置いてから吹き出した。永遠のこういった発言は大体が打算的なものなのだが(永遠自身もそれをわかって、わざとおどけて言っているように見える)、時折心の底から無自覚で漏れてしまったようなことも言うのだからたまらない。わざとらしいと思って聞き流しているはずが、油断するとこちらのテリトリーにするりと入り込まれそうになる。手遅れといえば手遅れだがこれ以上この場で心を明け渡すわけにはいかない。
 永遠が見ている景色を思うと感心してしまう。夢前ならばこんな芸当はできない。データ化でオプションでも加えないことには無理だ。自分が永遠に絆されてゆくさまがひとごとのようにあっけなく、魔法か手品のようで、夢前は笑った。
「ありがとうございます。その信頼には応えます。今の言葉、他のスタッフも嬉しいでしょうね。でも何度も言うけど、潜水艦のおみやげがいくら可愛らしくても、仕事に戻らない理由にはならないんですよ」
「わかった。わかったから怖い声出して詰め寄るんじゃない。帰るよ」
 大仰なことに両手をあげて永遠は謝ってくる。どうも本気で懲りていないようだったが、夢前はそこで追求をやめた。
 それでもせっかく来たのだから、と夢前と永遠は現場を見回ることにする。無人潜水機での水質調査、生態調査を無事に終え、現場は活気づいていた。この部屋の窓からではマリンスノウの舞う白黒の海中しか見えない。地上の生き物すべてを拒絶する、この深い海に、人間は何度も敗北してきたが、潜水機を使えば色々なことがわかるのだ。人がそのまま潜れたなら一番いいだろうが、いくら酸素のいらないデータであるとはいってもエネルギーは必要だ。ただでさえ電波は海中だと頼りない。移住するにもまずは活動拠点となるものを送り出さねばならない。
 その活動拠点としての巨大な潜水艦が、有人でワイヤレスなものとしてここで造られているのだった。工業区あがりのスタッフたちは日夜交代で潜水艦につきっきりだ。壁際にセレが立っているのを見つけ、会釈をすると向こうからも会釈を返された。セレはああやって場の様子をまるごと記録していることがある。
「宇宙部はもう完成させたのかしら」
 夢前はふと疑問をこぼした。
「こっちとほぼ同じだろうさ。最後のパーツが工業区から届くのを待ってる」
「それ、やっぱりふたつ同時に造るのは難しいんですか」
「みたいだな。工業区もそんなに余裕がないみたいだし。かといってあれは想像エネルギーで代替できるものでもないしなあ、もしものことで揺らいだりしたら危ないから。どうした? 向こうを出し抜くチャンスだろ」
「そりゃあそうですけど。勝つことが大事だとしても、相手を負かすことは目的にはならないわけでしょう」
 なぜかきょとんとしている永遠に夢前は説明を続ける。今更だが不公平であればあるほど負けたほうからは不平不満が山のように出るはずで、夢前もそれは厄介だと思うのだ。天上天下の描く競争劇がどう終わりを迎えるか、願わくは深海部の悲願達成で結末を迎えてほしいものだが、改めて考えれば片方のみの願いしか叶わないのは恐ろしい。光星あたりは正義漢に見えるので随分騒ぎそうなものである。
「光星ねえ。そういえばおまえ、みっちゃんとはどうしてる」
「みっちゃん? ああ光星くんのこと。彼、もう困ってることなさそうですよ、連絡も寄越しません。宇宙部のスタッフからも苦情は来てないですし、かなり立派にやってるみたいです。もう一人前でもいいんじゃないかしら。あたしにはそう見えるわ」
「なるほどね。おまえには懐いたんだよな」
「ええ。先輩は、――ずいぶん光星くんにご執心のようですけど――」
 言葉尻を濁す。まさか新人教育の内容に永遠に対する好感度が含まれているなどということはないだろうが、夢前としても永遠が嫌われてしまうことは避けたかった。しかし光星に無理をさせてもよくないだろう、却って苦手意識が増してしまうかもしれないし、そんなことでは本末転倒だ。こんな世の中で忘れがちだが人間には相性というものがあって、何事にもそれを軸に育てなければ根が張らない。
「おまえの教育が悪いわけじゃない。おれがあいつと全然うまくやれないだけだ。おまえはよくやってるよ」
 永遠もそれはわかっているのか、夢前が指摘する前にこともなげにそう言うのだった。諦めたように息を吐いて予備のレンズに大の字に乗っかる上司を見下ろし、夢前は腰に両手を当てる。真っ黒なポンチョの下の細い胴体が膨らんではしぼむ。
 どうして永遠が光星のことをそんなに気にするのか、その理由を夢前は教わっていない。
 向こうの部長である夜半と過去に関係があった、ということは噂になっていたので知っている。知り合いどころではなかったというわけだ。それが本当かどうかはこの際どうでもよかった。この会社では永遠はアイドル的存在で、誰にも靡かないのだが、会社に来る前はそうでなかったとしてもそれは永遠の事情である。永遠はこう見えて噂通りに夜半と何かあったかもしれないし、やはり子どもの頃も今と同じようにアイドル的で、個人的なつきあいなど誰とも何もないのかもしれない。噂が露わになったことで逆に気が抜けてしまい、夜半に関しては夢前はもう静観している。
 そうではなく、今気になることは光星とのことだ。
 尋ねたところで答えてもらえる自信はない。どんなに永遠の面倒見やリップサービスがよかろうとも、永遠にとって夢前はただの部下、後輩の一人にすぎず、それ以上の存在にはならないことを夢前本人がよく知っているし、つまり永遠のプライベートのことを教わる権利などない。どうせはぐらかされてしまうに決まっているのだ。それはちょうど、
「ということは新人教育は成功ってことでいいんです? あたしとの約束、まさか忘れてませんよね」
「もちろんだとも。でも楽しみは延ばしたほうが味がよくなるぜ。来年度になったらまた改めて決めるから、急がない急がない」
 今のこの会話のように。
 かえりましょう、と、呟く。
 永遠は黙ってむっくり起き上がった。棒きれのように細い四肢を子猫のように突っ張って、お次は蜘蛛のように丸めて、そしていつもの海月に戻る。その海月はふわふわと夢前の後ろをついてきた。チーフ、もう戻られるんですか、チーフ、また来てくださいね、チーフ、次こそ潜水機に乗ってください、そんな言葉をかけてくるスタッフたちを片手で制し、いつもの下瞼がやんわり持ち上がる、あのすがめるような笑みで返事をしている。
 記憶の限り、夢前は永遠から愛称で呼ばれたことなどない。
 他人の話題を通してでしか夢前と永遠は繋がれないのだろうか。夜半のことは過去のこととすれば気にならない。今の永遠は夜半を煙たがっているように見える。天上天下も気にしない、相手は社長だ、永遠をこの会社に連れてきた張本人である。張り合っても無駄だ。大人気マスコットキャラのヘヴンに勝てないことも気にならない。あれはどうせ手の届かないアイドルなのだから、アイドルはアイドル同士で惹かれ合っていれば筋が通るし傍目にも平和でいいだろう。――セレは――セレもまだわかる。立場上、セレのほうが永遠とよく関わる。夢前が遅れを取るのは仕方のないことだ。それにセレはオールデータの存在でオプションの影響が強く、あんなに生き方が四角四面なのだし、永遠のことをどうこうすることは絶対にないだろう。しかしぽっと出の新人、それも他部署の光星にまで負けているとはどういうことだ。
 心を奪うとはよく言ったものだ。奪われたきり返してもらえないどころか、その手当さえしてもらえない夢前はただふてくされる。しかし心をデータ化すればこんな面倒とはおさらばだとわかっているのに、夢前にはそれができない。
「夢前。ゆめさき」
「なんです、さっきから。聞こえてますよ」
「現場は楽しかったか?」
 窓の外に目をやる。白い塵がゆらゆら舞う。海底にマリンスノウの積もった山があったとして、それがなんなのだろう。人目につかなければ存在などなかったことにされるのだ。
 間を開けて、楽しかったですよ、と渋々答えた。渋々だが嘘ではない。現場の人間たちは皆気のいい人間たちで、ともするとそのせいなのか、現場の活気に触れるといたたまれなさを感じるが、しかし永遠がいればその空気も薄まる。ここには部長職の人間から許可がないと来られないのだ。
「よかったあ。夢前、ごめんな」
 永遠の声が無邪気に舞うのを感じ、永遠がどうして自分に入室許可を出したのか気づき、夢前は相手を振り返る。
 永遠は立ち止まっている。エレベーターの外にいる。照明の動きで電流のように永遠の髪と唇の青が光る。エレベーターの扉が音もなく二人の間を隔てていく。
 先ほどの永遠の謝罪はこのためだったのだ。
「『ごめん』。一時間後には戻る。じゃあな」
「先輩」
 にっこりと笑った永遠を置いてエレベーターは上昇を始めた。ざわめきから遠ざかる。
 いつもいつもこんなことばかりだ。それでも今まではこれでよかったのだ。振り返られないままでまったく構わなかった。積もる塵、それが半永久的に続いていくのならそれでよかった。いつかは塵の山も海面に届くかもしれなかった。海に行けるように一緒に夢を見ていればそれは夢前の願いなど叶ったも同然だった。
「永遠先輩。あなたがいなきゃ意味ないのよ」
 夢前の願いを、この感情をエネルギーにして世界が回っていることを考えると、かつて内臓のあった部分がひっくり返りそうだった。美しいものなどどこにあるのだろう。この星が滅ぶことはきっと、自明の理だ。