Blue Eden #10 ひとのゆめ







 海に思い入れはない。セレにとって海とは、人類の移住先候補のひとつでしかなく、宇宙も海も特に大差はないのだった。どちらも好き嫌いで語れるほど執着はないし、披露できる知識もごく一般的なものしか持たない。セレに夢などない。それは深海部部長の補佐となって十年経っても変わっていないことだった。
 そもそもセレは他の人間たちと比べると好き嫌いの基準からして変わっているのではないか、と、少なくともセレは自分でそう思っている。セレはものごとを比べられるほど情報や感情を持っていない。持っていたとしてもごく希薄なもので、ほとんどは他人から伝わったものである。セレには個が、過去がないからだ。正しく言えば、かつてはあったのだろうが、本人の望みで持つことをやめたからだ。データ化直前の個人情報は厳重に管理されており、いくら本人でも簡単にアクセスすることはできない。今のセレにわかることは、かつての自分は二十歳の頃にデータ変換手術を施され、オプションによって体も心も記憶もまっさらな状態にされ、データ化以前のものをすべて失った、そしてそれらはかつてのセレの希望により行われた、それくらいだ。ひとりの人間の生い立ちとして変だということはセレにもわかる。二百年以上生きていて他にこんな人間は自分以外知らない。
 データ化をして以来、新たに何かを積み重ねることをしないように、大人しく淡々と生きてきた。データ化は項目を増やすほど金がかかる。ブルー・エデンの社長に拾われたことは好都合だった。すべてをデータ化したロールモデル、サンプル的な存在になることで、二百歳の壁はパスした。生き延びてしまった。
 セレには何もない。かつての自分がどうして、何もかもを捨てたいと思ってしまったのかすら、何もわからない。まず知ろうという気があまり起きない。かつてのセレがどんな人間だったかはさておき、本気ですべてを捨てたいと思ってしまったことは確実だ。データ化以前の経験や家族のことなどは取るに足りないとかつてのセレは判断したのだ。その結果が今のセレだ。ならば何も探るまい、この世には知らないほうがいいことも多い。
 それでもセレは時々考える。かつてのセレと、今のセレと、自分たちは本当に同一の存在なのか。人格は連続しているのか。セレの認識などどこまで信用できるものなのだろうか? そもそもかつてのセレという存在からして疑問が生じてしまう。セレという人間などいなかったのかもしれない。AIを組み上げるように、たとえば人類がアイドルキャラクターのヘヴンを生み出したように、今ここにあるセレという人格も誰かが創ってしまったのかもしれない。データ変換手術の危険性も、穴も、人間たちはわからないまま使っている。一方通行の手術なのにやめられない。そうしなければ滅んでしまうからだ。すっかり依存してしまっているのだ。詳しいことを誰も説明できないのに、今ここにセレが存在しているとどうして信じられるだろう。生身の肉体だったセレとデータ化後のセレ、どちらがほんものなのだろう。もしかしてあれは死だったのだろうか。かつてのセレは死を望んだとでも? それとも死んでいるのは今のセレか。データ変換手術とは、生きながらにして死ぬ、いや、死んでいながら生きる技術だとでもいうのか。
 それならば死んでいるのはデータ化済みの者たちすべてだということになる。しかしセレたちブルー・エデン上層部は夢を見ることでこの社会を維持しているのだから、これは生きていると言えるのではなかろうか。セレでさえ感情の機微というものはわずかにあり、微弱ながらも想像エネルギーを発生させている。夢を見ることは生きている者の特権だ。きっとまだ、皆、生きている。しかし見た夢は――セレたちの想像エネルギーは――実のところ何を創っているのだろう。やはりセレ自身が誰かの夢なのではないか。この世界は誰かの見ているまぼろしなのではないか。
 迷宮はいつも甘やかな虹色をしている。磨き上げた二挺のテーザーガンにセレの平坦な眉と丸い瞳が映る。真っ青な湖面のような己の瞳がセレを見つめ返している。いつもの清冽な顔だった。セレから染み出した思索はセレを巻き取り、渦を描いてゆるく蠢き始める。
 そのうちセレはくたびれる。そうしてかつての自分の思いをなんとなく理解した気になる。こういうことにならないようにセレはオプションを加えたデータ化をされているのだ。心を持つのは面倒だった。思い出ができていくのも、思い出せないものができていくことも不便だし、生身の体の重さは言わずもがなだ。うれしい、たのしい、という正の感情を覚えることにさえ疲労は伴う。なるほどかつての自分は正しかったのだろう。ブラックアウトを繰り返してセレは更新されていく。定期健診のたびにくたびれたその気持ちを疑念ごと捨てる。くたびれていたこともあっという間になかったことになる。そんなとき、普段はなんとも思っていないメンテナンス部の人間たちが、死神にも天使にも見える。ここは確かに楽園なのかもしれない、と、そう思う。
 セレの前から迷宮が消える。セレはもう誰に傷つけられようが傷つけようが心は痛まない。ほんのりとした夢をみるためだけに残した喜怒哀楽は非常に薄い。必要なルールや約束を忘れることはなく、取るに足りないと思ったことは忘れる。殴られてもデータがぶれるくらいで痛みはないし血も出ない。データベースにあるバックアップごと消されない限りは死なないが、死の恐怖もない。これを生きていると言えるか(ことによると本当に人間だと言っていいのか)は本人にもわからないがこれでいい。何しろ望んでこうなっているのだから。
 体を、心を、記憶をデータ化しない者たちの、なんともどかしいことだろう。
 テーザーガンのカートリッジが輝いた。セレの持つものはワイヤーのある古いタイプで、昔は大量生産が難しいとされていた型だ。こんな世界になって需要が増え、否応なしに量産せざるを得なくなってしまった。カートリッジは使い捨てで撃つたびに付け替えなくてはならず、そこだけが手間だった。バッテリー、トリガー、セーフティスイッチ、ひとつの故障も見逃さないように確認していく。靴の裏に小さなナイフがあるにはあるが、この会社にいて生身の人間など相手にするはずがないし、もしいてもまずセレが勝つだろう。何しろみっつすべてをデータ化したのだ。相手がどんなに近接戦闘に慣れていても、セレの素早さには敵うまい。
 しかし注意を払ってメンテナンスをしてもらっても未だ根深く残る思いがある。ここまでして何故、セレはまだ存在しているのだろう。こんなに念入りにデータ化するくらいならいっそ死んでもよかっただろうに。わからない。クラウド上に自我を移す方法は確立されていないが、そういうものがあったらセレはそちらを選んだかもしれない。そう思うくらいなのに、それでもセレはどうしてなのか今ここに存在している。
 だからセレは周囲の面倒な人間たちに、不幸を感じたくないのなら幸福ごと心を捨ててしまえばいいのに、とは言えないのだ。貴方たちは矛盾している、などと思っていても口を噤むしかない。セレ自身が誰より一番、矛盾していて不可解なことをしているという自覚があるからだ。
 楽になりたいはずがどうして、ひとは苦しみの中に飛び込んでいくのだろう。不幸を感じることが幸福を感じることへの希望の道なのだとでもいうつもりなのか。もしそうだとしたら、心とは、命とは、なんと不自由なのだろう。



***



 公私混同、という、とんでもないことを天上天下てんじょうてんげは社員たちに奨めているが、前述の通り、そうしたくともセレにはその私がないのだった。
 永遠とわに出会うまではずっと天下の付き人をしていた。天下にはのらくらした部分が目立ち、セレに何も告げずに勝手にいなくなってしまうことも多かったため、付き人とみなすのは実際やや無理があったかもしれない。天下は秘密ばかり抱えており、自分からセレを付き人にしたわりにはセレを頼らなかった。天下が具体的にどんな仕事をしているのかセレには興味がなく、天下も明かすことはなく、彼女がいない間、セレは天下の無事だけを確認し、そのあとは暇を持て余して資料室で色々なデータを頭に入れた。自分がたまに足を取られる思考の沼は、哲学や医学、その他様々な分野で研究されてきたことだと知った。しかしどんなデータを開いても、求める答えはどこにもなかった。それどころか、人口の減少とともに様々な研究が失われていた。
 味気ない情報に囲まれる日々で、しかし天下は一応、わずかなふれあいの最中にセレをまともな人間として扱ってはくれたのだった。経歴が白紙になったセレのことを天下が気味悪がったり疎んじることは一度もなかった。
 記憶にある天下の面差しはいつも物憂げだった。小顔で、背丈もセレより頭ひとつは小さく、麦の穂色の目とうねる髪を持っていて、そしてセレよりも表情がない。頬のあたりが思春期の頃の娘のままに不機嫌そうに張っている。セレは無駄をなくすための無表情だから顔の雰囲気全体は明るいのに対し、天下はというと、身につけている軍服のように雰囲気ごと重苦しいのだった。世界から断たれた絶壁の孤島のようだ。天下の髪を視界に入れるとセレはいつも自分の感情について考える。天下の半眼半目が何かを訴えているような気がして、真意を知ろうと近い温度で視線を絡ませたこともあったが、それが結ばれることはなかった。セレは深追いするのをすぐにやめた。天下も何も言わなかった。
 天下に引き合わされ、深海部の執務フロアにある巨大な水槽の前で、セレと永遠は出会う。記憶にある限りでは深海部の執務フロアに足を踏み入れたのは初めてだった。地下深くのそこは、思ったよりもずっと暗く、生々しいにおいがする気がした。
 永遠もセレと同じく中性的な容姿であることに、セレはもちろんすぐに気づいた。より詳しく言うのなら、永遠は可変の両性で、セレは簡単には変えられない無性だった。
 気の早い天下はさっさと二人を残していなくなり、置いていかれた永遠は水槽の中の魚たちを見つめながら、出会ったばかりのセレへ、ぽつりぽつりとこれから何をするつもりなのか教えてきた。永遠の体が可変の両性であるのは、データ化の際に特殊なオプションを加えたからだった。永遠には目的がある。ここにいるのにはわけがある。天下は永遠に、人々が海に行きたくなるような広告塔になれというが、地道なことをしていてはいつ海に行けたものかわからない。その前に人類は地球とともに滅んでしまいかねない。正攻法ではとてもだめだから、情報操作をする。手当たり次第他人の信頼を得て弱みを握る。そして記憶を消す。そうするには手玉に取ってしまうのが手っ取り早い。だから、まず体を相手に合わせて変えられるようにしている。そんなことを打ち明けてくる。
 何も親睦を深めるためにしている会話ではない。この場に天下がいないのも、彼女が気を遣ったからでも何でもない。これから永遠の計画の片棒を担げと、これは暗にそう指示されているのだ。
 目の前の相手は何もかもを得ようとしているらしかった。何もかもを捨ててきたセレの目に、永遠のそんな生き方はただ不思議なものに映った。感想は特にない。強いて言えば、やや面倒そうだ、というくらいである。無論、うらやましいとは微塵も思わない。
 うらやましいな。
 セレが発したのではなかった。永遠は水槽を背景に、棒きれのように細い肢体を黒々と浮かばせて、瞠目してほんの少しだけ肩を竦めている。今し方自分の言ったことに軽く驚いているような顔だった。海月か何かの触手のような髪が腰を触り、ポンチョの下の背骨をなぞっている。
「おまえ、噂になってる。まさかここで会えるなんて思ってなかった。みっつデータ化したなんて、みんなうらやましがってるぜ」
 とりなすように永遠に言われ、セレは頷いてみせる。自分が巷で何と言われているのかくらいは知っているし、実際生身よりも便利なことは多い。そんな風に言われるようになったのは天下のおかげだ。この会社にいることで、こんな体にしていても金持ちの道楽などと言われないで済む。サンプルとしてセレには価値ができたのだ。
 水槽からの光と同化していて気づかなかったが、永遠の唇には青い色がついているようだった。セレの目と同じ色だ。もし永遠が本当に海の底へ行きたいのならそんな装飾は邪魔でしかない。探査機は今でも精密機器であり、化粧は厳禁だ。それなのにこれは一体、なんのポリシーなのだろうかとセレは一瞬思ったが、問うことはなかった。世の中に数多ある、知らないほうがいいこと、というのはつまり、聞かないほうがいいことでもあるのだろう。
「私のデータ化を羨ましいと仰るのは、それはもしかして、死にたくないという、そういうことですか」
 化粧の理由の代わりにそんなことを訊いていた。データ化してからずっと変わりのない、高すぎず低すぎずの淡々とした自分の声に、永遠のおどけたような返事がふわりと重なる。
「それはそうさ――おれだって色々あったけど、――今はやりたいことがあるからな。これ以上のデータ化も死もおあずけだ」
 答えながら、永遠は大きな目をすがめて少しだけ睨んできた。形のいい目の下に挑発的なうつくしい皺ができ、そうするとぐっと凄みが増す。別人のような顔に、いつもこの目つきでいれば誰かに舐められることは決してないだろうと、セレは何となく思う。
 セレの思いを知らない永遠はその表情をすっと収めてしまい、打って変わって孤独そうに横を向いた。こちらに向けられていた美しいナイフが音もなく頭をたれたようで、セレは思わず目を奪われる。ポンチョから覗く指が蜘蛛の足のように水槽をなぞっている――素でここまで振る舞えるのなら、セレの協力などなくても計画通りに永遠の目的は叶ってしまうのではないか。そう思わせる所作だった。
「おれはなだめられたくないんだ。あやされたくない。まだ何も叶えていないのに、もう苦しまなくてもいい、なんてゆるされたくないんだよ。おれには死がそういうことを言ってくるように思える――まるでおれの人生にもう価値があるみたいに慰めてきやがるんだ――まだ何にも決まっちゃいないのにな。おれはあきらめが悪いんだよ」
 永遠の言うそれは、ひょっとすると優しさや愛と呼ばれるもののことではないか、とセレはぼんやり感じたが、やはり初対面の永遠に言うのは憚られた。打ち明けられたのなら、受け止めるのが肝要だろう。不定形のいきものがうっすらとした闇の中に浮かんでいる。セレたちは青の前にいる。もうめまいなど感じない体なのに、視界が歪んだ気がしてセレは軽く頭をもたげた。音が聞こえる。これは海の――水の音か? 泡が粉になって吸い込まれて消えていく――規則正しい魚の群れが閃く。退屈な、しかし鮮烈な命のやりとり、物言わぬ珊瑚をセレは呆然と見送る。
 ここは深い海の中だ。
 セレには何も夢などない。懐かしいはずがない。ここは楽園の中で、セレの体はただのデータだ。それでもこんなに息苦しい。
 仕事で想像エネルギーを提供するためだけに残したなけなしの心が、ひとりでにうねっている。セレは目を閉じる。名前を呼ばれる。目を再び開けると、そこには青い水の光を横ざまに浴びた上司が、少年のように微笑んでまっすぐな視線を向けてくる。
「なあセレ、おれと一緒に夢を見ないか。年齢も性別も捨ててひとつの命に戻ろう」
 息を吸う。私は、とセレの口から言葉がこぼれ、それも泡になってどこかへ行ってしまう。しばらくその尾を追ったあと、セレは目を細め、ゆっくりと恭しく、永遠の前に膝をつく。もう一度言葉を腹に掻き集める。
「私は貴方の部下です。指示さえあればどんな命令であれなんなりと従います。無条件で貴方の味方になりましょう」
 目の前の相手は静かだった。誰もいないのかもしれない。目の前だけでなく、この部屋に、この世界に、もう何もないのかもしれない、こんなときだというのにセレはいつもの迷宮に意識を奪われかける。
「正直に申し上げれば、私には海に行く理由はありません。しかし同じように宇宙に行く理由だってないのです。ならば貴方に従いましょう。貴方の計画を、夢を叶える手足となりましょう。――私には個がありません。だからこそ貴方に忠実でいられます。――貴方の手よりも貴方になれます。裏切りようがないのです」
 静かに寄せて返す波のようなセレの宣誓を、永遠は黙って吸い取っているようだった。天下よりもずっとあからさまな視線を感じる。セレはしばしその姿勢でいたが、やがて伏せていた顔をほんの少し上げて、相手の微動だにしない足を確認し、そうして再び直立する。
「合格でしょうか。今の言葉は、貴方の虜になった人間として正しい反応でしたか」
 わざと小首を傾げたセレに、永遠はにっと口角をあげて笑って返してきた。
「正しいよ。これから第二第三のおまえを増やさなきゃならないから。忙しくなるな」
 言い切るとそこで永遠はおもむろに背後で手を組み、壁一面の水槽に沿ってセレから離れていく。跨ぐような歩き方だった。緩んできた相手をセレは無言で見守る。永遠の一挙手一投足を、包むように目で追う。
「おまえはおれの味方だと言ったな。おれもそうおまえを扱うかもしれないけど、でも、味方でなんかいなくていい。おまえだけはおれを許すなよ。おれがおかした罪の数を、傷つけたひとの数を、おまえだけはその頭で記憶しておいて。おれはこれからわがままになろうと思う、天下のことも誰のことも信用しない。本当のことはおまえだけに教える」
 あいつにはあいつで何かやることがあるみたいだし、と、そこで永遠は一回だけ視線を泳がせ、そして睫毛を震わせてからそっとうつむいて囁く。宝石の台座のように内巻きの髪たちが永遠の美貌を包んでいる。水槽を横切る海月たちが影を落としている床が、やはり、どこか別世界のようだった。
 少しの間を挟んだ向こう、永遠の青い唇がぱっとはためく。
「何度でも言う。味方じゃなくていい。でもおまえだけは見ていて、そして忘れないでくれ。おれがこれから何をするのか。一体どこへ行くのか」
 このひとはまちがっている。
 セレはそう思う。そんなことをして夢を叶えて満足できるのか、セレ以外ならきっと反発するだろう。セレと天下が庇わなくなれば永遠に居場所はない。他者のデータを集めて弱みを握り、挙げ句に他者からその記憶を消してしまうなど、どう擁護するまでもなく悪の所業だ。ましてや体を使った情報収集とくれば尚のこと時代錯誤でいびつである。それなのに永遠はその悪の所業をなすという。悪人となる腹づもりができていて、ゆるされたいとは思っておらず、しかし止める気はなく、しかもそれをセレにだけは覚えていろと頼んでくる始末だ。二人の間に良心というものがあるのなら、それはきっと開いた口が塞がらずに二人を責め立てているのだろう。しかしその抵抗は感じなかった。覚悟だ、永遠から伝わってくるものは、これは覚悟と呼ばれるものだ。
「貴方はずるい。とてもずるいひとですね」
 セレの落とした呟きを受け、永遠は眉を下げて困ったように破顔した。出会ってから三度目の笑みはさびしげで、どうしてか目を引かれる笑みだった。



***



 データ化済みであるセレに「目が眩む、慣れる」といった現象は起きないが、データの体だからこそ情報処理にタイムラグが生じることはある。誰より素早く動けるとしても不便なことは起きるのだ。今がまさにそれだった。明るく真っ白な別のフロアから闇に近い執務フロアに入ったからだ。そのままの姿勢でいると次第に部屋の様子が浮かんでくる――壁に貼り付くようにして設置されている、巨大な水槽が現れる。ここはもうすっかりおなじみの部屋、ちょうど十年前に永遠と出会った場所だ。――もう十年か。長いようで短く、短いようで長い。
 壁一面の水槽の中、服を着たままの永遠が目を閉じて漂っている。
 永遠の長い襟足と頭から伸びるコードが水流で触手のように広がっていた。セレにとっては見慣れた光景だ。深海部の上層スタッフの面々はこうして水槽に入り、頭にコードを繋ぎ、水に浮かんで夢を見る。水槽の中の魚たちは現場や環境保護区で面倒を見切れなくなったものたちで、スタッフが交代で世話をしている。水槽は水流を調節してあり、スタッフと水棲生物が接触しないように工夫されている。この部屋に音はない。光も最低限しかない。あるのは水槽と、水と、水のいきものだけだ。
 今は早朝で、ほとんどの社員はまだ自室で待機しているはずだが、このように永遠は勤務時間外でもよく水槽の中にいることが多い。永遠の場合は自室が仕事場のようなところもあるせいか、永遠は自室にいるよりも水槽の中にいるほうが落ち着くという。海月の浮かぶひときわ大きな水槽は、永遠のお気に入りの指定席だった。
「お休み中に申し訳ありません、永遠チーフ。本日の予定の確認に参りました」
 海月たちの主のように目を閉じて漂う相手に話しかける。こうして仕事の始まる前に報告するのが日課だった。離れていてもデータのやりとりはできるが、それを落ち着いて確認し合う時間も必要だ。
 水槽のわきにステンレス製のかごが落ちている。中には永遠のお気に入りの飴がいくつか転がっているようだった。様々な人間たちのオフショットを無作為に貼り付けたかのような包装だが、ここに印刷されている者はどれもアイドルキャラクターのヘヴンである。
「一個やろうか」
 不意に響いた疲れた声は永遠のものだ。どうやら完全に寝ていたわけではないらしく、いつの間にか上がってきて水槽の縁にひっかかってこちらを眺めている。見た目は完全に水死体だ。
「いえ、結構です。しかしなぜ。もしや満天光星まんてんみつぼしのためですか」
 セレがみなまで指摘せずとも、永遠本人も光星が砂糖菓子ごときで釣れると思っているわけではないらしい。いくら貴重品とはいっても原始的すぎる。しかしそんな無理なことでもやってしまうくらいに永遠は光星に手を焼いているらしく、憮然とした顔をセレに向けてきた。言葉でわざわざ確認しあうまでもない。かくいうセレも収穫はない。天下はどこを歩いているのか、たびたび存在が社内から消える。
 永遠が勢いをつけて水槽から飛び出してくる、その派手な水しぶきを浴びながらセレは考える。満天光星は入社してから何ヶ月もずっと永遠からアプローチされているというのに一切折れる気がないらしい。永遠一人ではさすがに限界がある。永遠との関係を忘れるように仕向けられ、しかし忘れたせいでまた性懲りもなく言い寄ってくるようになった連中のことも、永遠は放置したままだ。せざるをえない。天下と連絡がとれないのだから彼女に仕上げをしてもらうことができないのだ。天下の後ろ盾がなければ、結局、何も動けない。
 セレのデータの脳内にふと光が差した。
「永遠チーフ。夜半部長の処分を提案いたします」
 返事はなかった。
 ひんやりした薄闇の中、永遠は呑気にタオルで体を拭いている。てっきり、夜半の名を出したことで怒ってくるだろうと思っていたが、予想に反して静かだった。聞こえているのかすら疑わしいほど涼しい顔で淡々と頭をわしわし拭いている。時折面倒そうに手が止まるが、これは拭いて乾燥するのがいやだからだろう。永遠は生粋の海好きとでもいうべきなのか、水が付着する感覚が心地よく、その逆は苦手らしいのだ。
 親愛なるチーフが驚くどころかこちらに対して一切反応しないのを見届け、セレは続きを言うべきか慎重に吟味する。夜半についての話題はずっと避けていた。永遠に釘を刺されたことを今でも忘れてはいない。恐らく永遠も覚えているだろう。今の無視はもしかすると、これ以上話すな、という圧力かもしれない。遮られたらその通りに黙るしかない。
「永遠チーフ、聞いて下さい。満天光星や天下社長がチーフの思い通りに動かない今、狙いを変えることが賢明であると思われます。夜半部長は貴方と同じ役職です。彼の影響力を無視することはできません。確かに今は脅威ではありませんが、今後については予測不能です。夜半部長を無力化することが最適です。この会社に入っている以上、夜半部長も体くらいはデータ化しているでしょう。大事に至る前に手を打つことをおすすめいたします」
「おれがあいつを庇ってるように見えてる?」
 だしぬけに永遠が言い返してくる。
 まだ水分の残った髪を翻して永遠は振り向いた。いつものポンチョが取り払われ、あらわになった白く細い裸体に巻き付く金具とレザーハーネスがかすかに鳴る。その顔はどこかうんざりしたようにも見える、しかし落ち着いた顔だった。
「何をそんなに必死なんだよ、おまえらしくもない。――やってないことにはそれなりに理由があるんだ。おれだって考えてないわけじゃないから安心しろ」
 ――落ち着いた顔、そうだろうか。
 セレは水滴を避けてたたらを踏むように一瞬身動ぎをし、そして永遠を注視した。細い黒髪に隠されているすっきりした顔にはどこかとぼけたような、上の空のような空気を感じる。それでいて焦っているようにも見えるのだ。しかし永遠自身は落ち着いている。一体何故だ。
 永遠はセレに嘘をつかない。そう約束したからというだけではなく、単純に、セレまで騙していては夢が叶わないからだ。だから意図して本音を隠すことはしない。もし何か、真実を告げずにいることがあるとすれば、それは永遠自身が真実に気づいていないときだ。
「永遠チーフ」
 呼べば相手はこちらを見てくれる。セレには、この違和感をどう伝えたものかわからない。ただ、黙っていては永遠の望みは果たされないだろうという、それだけは何となくわかる。
「チーフ。私には最近の貴方が輪をかけて不自由に見えます」
 セレの言葉などどこ吹く風といった態度で永遠はふんふん鼻歌を歌い出した。今のセレには永遠の余裕が張りぼてに見える。
「お言葉でしょうが、私には、貴方が何か見落としていらっしゃるように思えるのです。貴方は海に行くためにすべてを犠牲にしているはずです。かつて私に、一緒に夢を叶えよう、と仰ってくださいましたね――今でもその気持ちにお変わりはありませんか。――貴方の夢とは一体なんなのですか」
 とうとう永遠は吹き出して、
「何って、夢は夢だよ。ここに来たときから変わってない。おまえと約束したときと同じだ」
 そしてさっと表情を消して眉のあたりを曇らせ、一瞬でその影を消した。心のうちに起こった何かに驚いたような反応だった。が、永遠の心の中でどんなものが起きたのか、それが嵐なのか大波なのか、他人であるセレには何もわからない。
 永遠はそれから一度も口を開かなかった。ずっと何か黙考しているようだった。セレもそんな永遠にそれ以上何かを問いかけることなく共に並んで青いフロアに佇む。もうすぐ始業時間だ。スタッフがやってきたら、いつも通り仕事の始まりだ。また彼らは交代で夢を見てこの世界を作る。永遠とセレは手分けして光星や天下にコンタクトをとる。ここ最近で当たり前になったいつもの日がまた繰り返される。静かな執務フロア、夢前の視線、雑然とした振り子広場やレストラン、うんざりした空気のメンテナンス部に水音。魚たちの青い影が二人を覆う。不自由な人生はまだ続いている。スイッチを切るように意識を消してしまいたいのに、感じることを、考えることを今日もやめられない。
 永遠のハーネスから水滴がしたたり落ちる。執務フロアの床にぽつんと黒い染みが広がった。
 海に思い入れがないのだから、セレは宇宙部のほうに配属されてもおかしくないはずだった。実際、その可能性はあった。セレには夢などないはずだ。しかし天上天下に指示されて十年、永遠のそばで海を見続けている。セレの見ているものはあくまで永遠の夢である。セレはそう思って生きている。夢を持って叶えるということがなんなのか、この不自由さは一体どこからくるものなのか、青い唇から酸素を吸う上司の隣で、セレはずっと考えている。