Blue Eden #09 消閑黙示録







 イエローの線が消えて周辺がストロボのように明滅し、みまるの目の前にある端正な童顔が浮かび上がっては消える。
「不老不死ねえ」
 その顔が呟いた。ブルー・エデン本社の正面玄関にある狭い箱の中、ハイマ医師とみまるが立っている。痛いほどの光の線が向かい合う二人の体を舐めて去っていくが、いつものこととして二人は取り合わない。
 みまるの外見がデータ変換手術を受けられる年齢よりも幼いのにはわけがある。みまるとて何も幼気な年の頃にルールを破って手術を受けたというわけではなく、十八歳を過ぎてから必要な手続きを行った。しかし手術直前に鏡を見て映った自分を、みまるは自分ではないと判断し、十五歳の頃の自分へ近づけるオプションを加えた。
 データ変換手術に於いて、データベースに登録してある他人に著しく似せること、一人では生活できないほどに幼くなったり老いたりすること、人間ではない種の体になることは禁止されている。倫理的な面へのなけなしの配慮、そして悪用による犯罪防止のためである。ただ許されるのなら――きっと多くの人間が、世話の必要な幼子や老人、動物たちのようになりたいと思っているだろう。少なくともみまるはそう考える。でなければそもそも、データ変換手術などというものが広く地球上で受け入れられることはなかっただろうからだ。
 不老不死に興味はない。他者がどうあれみまるは、ルールに縛られてはいるがデータ化手術には概ね満足しているのだし、こうして何度も医療区や環境保護区に足を運んで仕事をしていても根も葉もない噂に魔が差すことはない。騒ぎ立てる気も無論起きない。しかし、みまるの所属しているメンテナンス部の代表医師は、また違う考え方をしているらしかった。
「ふろうふし、ですか? ハイマせんせ、そういうのお好きでしたっけ。どうしたんですかあ、急に」
「ええまあ前の食事会のときにね。満天光星まんてんみつぼし君、あの例の星頭の新人がね、海と宇宙に分けたのはなんでだとか色々と訊いてたんですよ、天上天下てんじょうてんげに向かって。その流れで少し」
「ふうん。じゃあもしかして事故のこともおはなししたり」
「ご心配なく。あれについての詳細は我々メンテナンス部と天上天下しか知らないままです」
 今日も今日とて事故処理だった。とはいえ日常的に大事故が頻発しているというわけではなく、今回の外回りは、満天光星や夜半が入社した春に起きた爆発事故の後片付けの延長だ。ブルー・エデンに勤める者のための社員用玄関もあるにはあるが、社員たちの様子を見るために、みまるたちは客と同じ正面玄関を使うように言われている。こういうときにみまるはハイマ医師のサポートとしてよく連れ回されるのだが、退屈が紛れるので意外とこれが苦ではなかったりする。勿論、もやもやと小うるさい、歪んだ性格のメンテナンス部代表医師のことを好ましく思っているかどうかという点についてはまた別の話になってくるが。
「しかし――命いじり、不老不死研究の再現か。データ化で十分なものをどうして天上天下はまた掘り起こそうとしたんでしょうね。――ああ、逃げた実験体なら放っておいていいでしょう。研究の再現は失敗したんですから。再開の見通しもない。ただ」
 精神的に参っているらしいハイマ医師はそこでひとつ、あくび、という体をデータ化済みの成人ならば縁のないはずのものをわざとらしくかまして身体検査の箱から出た。
「問題は事故の影響です。ずっと防いできたパンデミックがねえ、こんなにあっさり起きてしまうとはね」
 未だに脅威は去っていない。そのことを知っているのは、メンテナンス部と天上天下だけだ。
 医療機器の故障による爆発事故の被害が施設の倒壊だけで済めばまだよかったのだが、実際はそれだけには止まらず、廃棄処理を行っているコロニーの出入り口の崩壊、そこからの汚れた空気の侵入と連鎖してしまった。一度にこんなに複数の問題が起こったために医療区は上を下への大騒ぎになり、一時期はその機能まで停止しかけた。コロニー外に逃げたらしい失敗作の実験体にまで気を回す余裕などあるはずもなかった。
 コロニー内の人類には病気やウイルスに対抗する手段がもうデータ変換手術ひとつしかないのだ。汚れた空気と共に未知のウイルスが内部に入ってしまったが最後、体以外をデータ化している大人や、まだデータ化を経験していない生身の子どもたちはあっけなく死ぬ。外部との出入り口が崩壊した事故当時、それが一番の懸念だった。パニックの拡大、また、感染による極端な人口減少を懼れた天上天下とメンテナンス部は、全住民の体を、感染したか否かに関わらず、秘密裏かつ強制的にデータへ変換することを決断したのである。
 今やコロニー内に生身の人間は残っていないはずだ。ハイマ医師やみまるたちメンテナンス部の認識ではそれで間違いがない。子どもたちも、大人で体以外をデータ化していた者も皆、本人たちの与り知らぬところで体の手術が済んでしまった。結果的にウイルスは中央区まで到達せず、死者などの被害は最小限に抑えられたことになるが、しかしまだその脅威は残っている。特に医療区付近の洗浄が終わっていないため、新生児の申請は、何か最もらしい理由をつけて当面は却下するしかない。そしてそれを不思議に思う者が出ないよう、この先ずっとメンテナンス部は人々の体に偽の情報を流し続けなくてはならないのである。
 このことをいつ住民たちに釈明するか、要人たちの間で密かに行われる会議には進展がない。住民たちは事故が起きたことさえ知らない状態にさせられているのだ。こうするより他の手立てはなかっただろうとはいえあまりにも強行だった、いっそ人々にはこのまま真実など知らせぬほうが余計な混乱も招かずに収束できるのではないか、という方向で最近はすっかり固まってしまっている。
「みんなが死んでしまうまで、みまるたちはだまってメンテナンスをし続けるってことですよね。そんなにうまくにげきれるのかなぁ」
 自分で気に入ってわざと舌足らずにしているみまるの声に、危なっかしい足取りで先をゆく医師がひらひら手を振って返事をしてくる。生白い指は明らかにこの世のすべてに飽きている。
「どうせ彼らが二百歳を超えたらまた我々が処理することになるんですからそれまでの辛抱です。面倒ですけどやるしかないですね、やむを得ないとはいえ知らないうちに勝手にデータ変換手術が行われていたと知れたらひどい暴動が起きるでしょう」
 それを受け、さも物わかりのよいようにみまるは小首を動かした。説明など求めずとも分かってはいるのだ。事情を知れば知るほど、狭いコロニー内の平和を保つためにはつべこべ言わずに全員を騙すしかないという気になる。しかし問わずにはいられない。暇だからだ。退屈を殺すためならくだらない会話でも何でもするからだ。
 面倒だというその言葉は嘘ではないのだろうが、ハイマ医師も今回の騒ぎを楽しんでいそうなふしはある。ハイマ医師だけではなくメンテナンス部の人間は皆そうだった。てんやわんやだった医療区の面々も同じだ――面倒だ、というポーズを取ることが重要なのだ。本当に面倒なことは嫌いでも、手間のかかるふりをするだけで生きている感触が得られる。もはや倫理的にどうかという問答でさえ形だけのものになっている。なぜならみまるもハイマ医師も所詮は、他人のデータをいじることにしか興味のない、退屈極まりないメンテナンス部の一員でしかないからだ。
「二百歳の壁、かぁ。人間の精神が二百を超えたら成長しなくなるっていうの、ほんとなのかな」
 近頃頓に出入りの増えている工業区の業者に頭を下げ、流れでみまるは隣に並ぶハイマ医師の紫の瞳を覗き込んだ。
 そもそも健康な人間の生命活動というものは百二十歳から百五十歳が限界であると言われていたという。これは大昔の研究結果なのだが、それ以降は生身が全然いなくなって調べようがなくなり定着することになった身体的限界の説である。
 そしてこれを追うように現れたのが、二百歳の壁、という考えだった。提唱者曰く、人間の精神の成長には肉体のそれと同じように限界がある。それが顕著に現れるのが二百歳で、それにはデータ変換手術も通用しないというのだ。
「人間はいくらでも生きられると、もともとはそういう考えが下地にあったわけです。データ変換手術だろうが不老不死の研究だろうがそれを元に進めたわけですね。肉体が滅びようとも、精神的に成長すること、よりよく変化していくことに限界などないはずだと多くが思っていたんです」
 今でも若い人間たちはそう思っているところが見受けられるが、これに疑問を投げかけたのが、百年ほど前に医療区に勤務していたとある研究者の論、二百歳の壁だった。
「長く生きたものには経験による知恵がありますがそれらは精神的な穏やかさや賢さには直結しない。もしするようなら、人間の歴史からはとっくの前に争いや差別が消えていたでしょう。知恵だけでいえばそうですね、個体だってそこそこ蓄積できますから、集まって積み上げていけばいつかはできる可能性があるわけです。それこそ宇宙や深海の開発だってどうにでもなる。だからそれに関してはデータ化は強いんですよ、無限の労働、学習、文明の発展――しかし知恵をつけ、感情をいくら制御できても、心そのものを培うことはデータ化をもってしても困難だったわけです。なぜなら我々は皆、個々として独立して存在し、その上に時間に支配されているのだから」
 目に見えない心の動きを化学反応による電気信号であると解明し、数値化し、遺伝子の書き換えに応用したデータ変換手術の齎した唯一の悲劇がこれであるといっても過言ではないのかもしれなかった。無限の領域に一歩踏み出した人類を待っていたのは、えいえんとはおそらく果てしのない停滞であるという、なんとも無情で拍子抜けする可能性だったわけだ。
 年若い者たちにこの考えは定着しない。データ化を受けたばかりであればあるほど、自分はずっと成長できる、データ化したことでより安定して変わっていける、と信じがちなのだ。恐らく若い者の間では、こんな考えがメンテナンス部の常識となっていることすら知られていないだろう。よしんば説明をしたとしても若者たちはすぐに聞かなかったふりをしてしまう。そもそも都合の悪いものを見て見ぬふりするのがデータ化なのだから、その反応は正しいとも言えるだろう。
 確かに、半永久的に存在することだけならできる。しかしその存在とは、同じことを変化なしにぐるぐると繰り返す、ただそれだけのものだ。――データ化をすれば体は老いなくなる。成長しなくなり、変化がなくなる。同じように心も老いを知らないように、つまり、よりよく変化することがなくなる状態になる。――変わりたければ死を受け入れる存在であったほうがよかった、ということを、長生きしていくうちに気づいてしまう。だからこそ、己の限界を感じた者のほとんどが自ずから処分を望む。退屈や恐怖をいなせても、変化がないという事実そのものは誰にも覆せないからだ。
 メンテナンス部の間でこの説が支持されるようになって以来百年ほど、籍を置く医師たちはずっと人々の処理を担当している。変化がなくなり、停滞による恐怖をごまかせなくなった人々のもとに赴き、彼ら自身の、そして社会のためにその命を奪う。こんな時代なのに最年長たる天上天下の同年代が残らず鬼籍に入っているのはそういうわけだった。
「みまる、貴女、歴史の本を読んで絶望したことはありませんか。しないほうがいい、もしくはしたほうがいいことは人類にとって自明なのになぜ世の中は変わらないのだろうと思ったことはありませんか? 恐ろしいことに誰もが同じことに気づいているんですよ。それなのに繰り返すんです。データ化ではこの愚かさを超えることなどできないんです。人類は半永久的な存在にしかなれない、つまり、愚かなまま立ち止まることしかできない」
 だいぶ突飛な印象を受けるが、これがメンテナンス部代表医師の考えだということは、つまるところ医療区とメンテナンス部の総意も同じだととっていい。みまるも特に異論はない。どうしようもない人間たちが見つけて立ち止まったのは、自分たちは成長できない、という事実の書かれた袋小路だった。こんなことは大昔に誰もがうっすらと気づいていたような気もする、が、何もできずにデータ化だけを信じてここまで来てしまった。しかしこれだけ分かっていても打破しようとする者がメンテナンス部から出ないのは、やはり、医師や技師たちはデータをいじることにしか興味がない人間にすぎないからだ。
 便利であることは本当だが――データ変換手術など実際はただの急場しのぎでしかない。あらゆる問題の根本的な解決をすべて諦めて、まるで痛みをモルヒネで紛らわすように人類は三百年を過ごした。宇宙か深海かなどメンテナンス部にとってはどちらでも構わないのだ。とにかく移住をさっさと済ませ、そこで一から研究をやり直す。ただそのことだけに望みをかけ、各自消滅するまでやりすごせればいい。
 みまるの横を挨拶もせずに社員たちが擦れ違う。お得意の嫌味で引き留めそうなものを、ハイマ医師は咎めることなく彼らを黙って見送る――こんな話をしていても誰も二人を奇異の目で見ない――周囲を騙すことなど今に始まったことではない、と、みまるはひっそりと思う。
「ね、せんせ。みまるたち、こんな生き方だけど、ハイマせんせはどういうときに生きがいかんじますか。ハイマせんせにも夢ってあるんですか」
 おもむろにみまるが問いかけ、そしてハイマ医師は振り返らずに足を止めた。天使の梯子と皆が呼ぶだだっぴろいエスカレーターの向こう、振り子を超えた中庭の手前、医師の視線の先に軍服姿を纏うブロンドヘアの女性がいる。少女と見まごう外見の彼女は供もつけずにひとり、花がうつむくように光差す中庭をじっと見下ろしているようだった。
「真似ですか?」
 問い返してきたハイマ医師の指はご丁寧に中庭の方向を指していた。みまるは首を横に振る。
「まさかあ。みまるはメンテ部ですよう、社長なんかじゃありません。ほんとは他人の夢なんて聞きたくないです――でもひまなんです。それなのに、あとたったの五十年で二百歳の壁にぶつかっちゃうし、こんなことしてると生きてる意味ってなんなのかわすれそうになっちゃって」
「いやがらせかな」
 もったいぶって問いを挟んだ割に医師はあっさりと答えを落とした。何の話の続きだったか一瞬分からなくなりそうなほどに淡々と答えられ、みまるはファッショングラスの奥にある眠そうに寄った瞼をわざと開閉させてみせる。
「あと約五十年、わたくしも大体は同じです。二百歳の壁にぶつかるまで、天上天下にいやがらせをしたい――話してませんでしたね。まあ同僚としては長いですが我々はそんな仲じゃないから――我が家は三百年前には既に天上家と親交がありまして。でもその割にはデータ化発案やブルー・エデン設立に関して知らないことが多いんです。満天光星が質問ばかりするのもむべなるかな、この会社はとにかく秘密が多い。わたくしが生まれたときにはあの人はもうとっくに社長だったわけです。真実を知りたくてメンテナンス部の門を叩いたんですがね」
 思い通りにならなかったり知らないことがあるといらいらしてしまって、と、若草のような髪を掻き上げ、医師はこともなげに言って肩を竦めた。こうしているとみまるや社長に負けず劣らず、この相手も子どものようだ。
「こんなに優秀な人間なのに、でも、給料以外にご褒美なんかないんです。どんなに頑張っても真実は見えてこない。それでいつの間にか目的が変わってね。真実を教えてくれない相手のいやな表情を見たくなって、この髪もこの顔もいやがらせのためだけにどんどん変えました。天上天下の目にとまるように、反応を返されるように、お手本もない状態で調整していったんです」
 玄関前のフロアの中心部で立ち止まっている白衣の二人を、休憩時間になったのか社員たちの一群が呑みこみ、そして吐き出す。残された二人は円筒形に長い中庭のほうを向いたままだ。
「――あの人はこの世界の最高責任者なんですから、二百歳の壁を超えてもあの世代でたったひとり生き残っている。この先も生き続ける。こちらがあの人を看取ることはできませんが、相手に死を見せつけることならできるんです。その日を心待ちにしているんですよ。それがわたくしの生きがい――夢です」
 長広舌の果てに結ばれた言葉を、みまるはゆっくりと記憶からこぼす。受け取ったはしから落としていく。忘れることを自由に選べる便利な記憶領域を活用する。他人の事情に興味がないという言葉に嘘はないからだ。ハイマ医師のほうもみまるに何も期待していない。こんな調子でもう百年以上になるが、お互い雑な対応をしあっても不愉快にならないのは、思いやりがあるからではなく、信じ合っているからでもない。どうでもいいからだ。
 言葉が途切れたところに業者たちの威勢のいい声が届いてきた。不自然に明るい日向のような名乗りも吹き抜けに響いている――何とはなしに聞いていた二人の顔が仰のく。この名乗りはヘヴンのものではないか。
「何やってんでしょう。みんな暇なんですかねえ」
 左手側、催事場として開け放たれているフロア東側で、工業区の業者が工具の販売と整備を行っている。刃物まで並んでいるようだ。企業によってはヘヴンと契約しているものもあるので、ヘヴンの声がすること自体は何もおかしなことではないが――初老の紳士姿と愛らしい少女姿をオーロラのように往復する、底抜けの愛想を振りまくヘヴンが手に持つものは、その表情にそぐわないやや物騒な刃物だった。
「わあすごい、もしかしてあれってサバイバルナイフじゃないですかあ。あっちにあるのは包丁? なじみなくてわかんないんですけど」
 非日常の気配にみまるはうっかりと喜んだ。目の前の光景は工業区では日常茶飯事なのかもしれないが、健全な光のあふれる白いフロアだと少々異質に見える。
「さあ。ああいうのは地下通路の向こうでやるもんでしょう、それが急に何故」
「それはね、社長が許可を出したからっすよ」
 勝手に加わった声の出所を見ると、そちらには影のように長い男が立っていた。
れん。貴方も暇なんですか? なんですそんな顔して」
「先生に用事があったのに留守だっていうから。捜してここまで来ちまったんですわ」
 切りそろえられた前髪が睫毛のあたりで揺れている。肩に担ぐように持っているファイルは何か、宇宙部からの重要な書類らしい。医師とみまるがさほど驚いていないことが伝わったらしく、二人分の視線を浴びても頓着せずに彼は説明を続ける。興味の先は催事場の人だかりだ。
「現場じゃ工具は重宝するんです。色々と採取しなけりゃいけないもんもあるし、そうなると刃物もね。深海部は海のいきものを相手にしなきゃならないこともあるようだし尚更でしょうや。で、社長が言うんですよ、これからは現場だけに任せるなって。これまで縁がなかったような人間でも道具は各人そろえたほうがいいってね。それでああいう」
 そこでふと恋が首を傾げた。そうすると濃く長い眉が一気に瞳に近くなり俗っぽさが増す――つられて二人も次々と催事場の方向へ顔面を戻す。
 光星だ。変わり者だらけのこの会社でもどうやっても目立つ彼が、これまた白く目立つ彼の上司を連れて思い詰めたような様子で催事場の手前にいる。
「なるほど――現場は――色々あるみたいですからね。――今となっては宇宙部上層部にとっても常識ということですか」
「さあ、詳しいことは何とも。使い方はデータでもらえばいいとはいえ、道具のことなんかよく分からないので」
 気もそぞろな医師と恋の会話のあと、ここにいる三人の視線を一身に集めているとはつゆ知らず、光星の姿は催事場の人の山へと吸い込まれた。ついで間を置かず出てきた彼の腕に、どことなく当惑しているような夜半も引っ張られてしまい、あとは工具をためつすがめつする有象無象の社員たちの背中や横顔しか見えなくなってしまう。
 何か言おうとしたのか唇を割った恋が、その口のままでふと振り向いた。どこからか走ってきたのか、すぐ後ろに永遠とわがいる。髪の先まで落ち着きがなくヒールの足を小刻みに鳴らしているところを見るに余程急いでいるらしい。
「ごめん。天下のこと見てないか」
「おや深海部チーフ、また追いかけっことはいいご身分で」
 色めき立った医師が底意地の悪い笑みを永遠へ投げつける間、みまるは永遠を見つめて中庭の方向へと指を向けてやった。みまるには永遠に親切にする義理はないが、かといって隣の医師ほどに邪険にする理由もない。医師を無視してみまるの指を確認した永遠は数度、目を疑うような顔でその指と中庭の方向を見比べていた。
「さんきゅ――あっち? どっちだ――エレベーターのほうじゃねえか。あんまり嘘ついてると舌抜かれるぞ。じゃあな」
 永遠に押しのけられて医師の小柄な体が傾ぎ、みまるはそれを支えてから支えた相手と視線を交わす。永遠はみまるの示した中庭の方向ではなく、それよりも西側にずれたエレベーターのほうを見ていた――嘘? 言いがかりだ。何度も言うが、みまるには永遠につらくあたる理由はない。しかし、先ほどまで中庭を見下ろしていた天上天下の姿は確かに今は西側のエレベーターの近くにある。催事場の正反対、中庭からもかなり離れている上、あのあたりにはワープゲートもないのというのに、あそこまでいつの間に移動したのか。
 永遠もどうやって彼女を捕まえる気なのだろうと見ていれば、回り込むように反対側を進む虹色の光がちかちか視界に映る。セレと二人で通信しあって挟み撃ちをするつもりなのだ、と気づいたときには今度はターゲットが何かを感づいたらしく、涼しい顔をした天上天下は巻き毛を揺らしてエレベーターに入ってしまった。
 薄くガラス張りになっている箱は彼女を乗せて見る間に上昇していく。瞠目して一瞬静止しかけた永遠が、端正な小顔をぎゅっと渋く顰めて足を速めた。永遠に気づいた社員たちが顔を明るくして、さあっと波が引くように道を譲るのを永遠は当然として駆け抜ける。そこで背後から小さく声をかけられ、みまると医師は再三振り返る。
「すみません。先輩、うちのチーフがここに来ませんでした? ついでにセレくんも」
 夢前ゆめさきだ。この三人の顔ぶれがここにあるのが不可解なのだろう、居心地悪そうにしている。
 医師が余計な騒ぎを起こすより先に、みまるが今度こそエレベーターの方向を指し示したとき、合流した永遠とセレは隣のエレベーターに乗り込むところだった。頭を下げつつ夢前は彼ら目指して駆けていく。その途中で催事場から出てきたスタッフたちにぶつかり、謝罪しているうちに永遠とセレは視界から消えた。
 誰も彼もタイミングの悪いことだ。嵐のように訪れた深海部の面々を見送り、三人は呆気に取られたようにフロアで暫く棒立ちになっていた。
 メンテナンス部ではない恋がみまるたちと立っているのが余程珍しいのか、通り過ぎる社員たちは皆ぎょっとして去っていくが、そんなことに構っていられない。やはり時々でも外に出てみるものだ、と、もはや呆れや驚きを通り越して感動じみたものを覚え始めたみまるの横で、ようやっと医師が時間を取り戻した。
「やっぱり暇なんですかね、あの人たち」
「あなたたちこそ」
 四度目の来訪者に三人の体が一気に翻った。
 背後にちんまりと立っていたのはまさかの天上天下である。一瞬ひしゃげた声を上げた医師を今度は恋が支えるのを尻目に、みまるもそっと口元を抑えた。天上天下はというとやはり涼しい顔でみまるたちを観察している。まるで幼子でも見守るかのようなたおやかな半眼だ。
「社長、上に行ったはずでは。どこから出てきたんですか、もしかしてワープゲートの増設でもしたんで?」
 恋が困ったように言うのを聞きながらみまるはふと周囲を気にする。未だに誰も彼もそわそわとみまるたちを窺いながら通り過ぎてしまうが――さっきまでも皆、恋とみまるたちの取り合わせではなく、天下の姿を見ていたのだろうか。医師とふたりで不穏な会話をしていたときは注目されなかったのに何かを境に急に視線を感じるようになった。天下はいつからいたのだろう。
「まあ落ち着きなさい。――あまり油を売らないでそろそろ持ち場に戻ってね。くれぐれも誰かに暇だなんて言われないように」
「どの口が! まさかとは思いますが貴女が私情で彼らを振り回してるんじゃないんでしょうね? 後ろめたくないのだったら今この場で説明くらいなさい。我々は外回りだったんですよ、この意味は分かりますよね」
 立ち去りかけていた背中にハイマ医師からの難癖を浴びた天下はというと首だけをこちらに振り向け、
「あの子は諦めが悪いから」
 そう呟いたかと思うと、さしたる問題などないという顔で足早にいなくなってしまう。
 あとには地団駄を踏むハイマ医師と、みまると恋とが残される。清楚な顔をしておいて天上天下もいい性格をしているものだ、あからさまな悪意などなさげなのが尚たちが悪い――実際ほとんどないのだろう。そんな気配は一切ない。何年も会社にいて彼女のやり方を既に分かっているみまるでも、こうして改めて見るとしたたかさに舌を巻くほどだ。
 ほぼ無視をされてしまったハイマ医師はかんかんである。気持ちが治まらないのか急に歩き出した医師のあとを、みまると恋が慌てて追う。雑然としたフロアの床が鏡になり、社員たちの影が木々のように伸びて映っている――その森を踏み荒らして進む。
「馬鹿にして。――食事会以外で会うといつもこう。これがあの人のお好きな公私混同のやりかたなんですかね。――いい度胸ですよ。目に物見せてやる」
 ひとしきり文句を吐いたのち、幾分か胸がすいたらしくいくらか医師の歩調が緩やかになった。よくも公衆の面前で臆面もなく感情を露わにできるものだとは思うものの、いつものことなのでみまるはさすがに動じない。
「やれやれ、大変ですな。メンテ部の人たちの苦労もいかばかりか」
 恋は慣れないのだろう。片眉を上げてみまるに目配せをしてくる恋にみまるは反射で微笑んだ。医師はというとそんな二人に挟まれてまた腹の虫が暴れ出したらしい。
「ひとが腹を立てているのに機嫌よさそうにしないでください。恋、貴方のその――やたら世話焼きなところが鼻につくんです。他の人は随分貴方を買いますがね、わたくしは絆されませんから。なんていやらしい――、ブラックアウトをご所望ならどうぞ。いつでもやって差し上げます」
「ご勘弁を。怖くて仕方がありませんや、先生がそんな調子だからこれでも遠慮してるんですがね」
 世話焼き、という評価を、恋は否定しない。
 二倍の歩幅で悠々と歩く恋の後ろ姿をみまるはじっと見つめる。黙っていると厳めしい鷲のようだ。みまるも恋と密な付き合いがあるわけではないが――永遠が来る前に全体の面倒を彼が見ていたことはよく覚えている。予め、永遠の「代理」でしかなかったわけだが、仕事の内容ばかりではなく、まるで人気も引き渡すように永遠にあとを任せ、彼はいちスタッフへと自然に戻っていった――しかし今でも様々な場所で永遠の次に名前を聞く。永遠は持ち前の華やかさのせいか水中の宝石だの囁かれて人気まで派手だが、恋の慕われ方はまた少し違う。彼は会社の隅々まで自然に浸透しているのだ。彼を嫌がっているのはハイマ医師だけだと言い切れるほどである。
 親切である。恋は本当に、先ほどハイマ医師が言ったとおりに世話焼きだ。メンテナンス部に来たがらないのは他の社員と何ら変わりがないが、その前の廊下ではよく見かける。率先して厄介ごとを引き受けるのが好きなたちらしい、というのは、みまるも察している。何か困っている人間に、その人間の所属如何に関わらず声をかけているのが常だ。大人しい見た目に反し、レストランやバーで談笑している姿もしょっちゅうである。今日、深海部の面々がみまるたちに声をかけたのも、恋がいたおかげかもしれない。
 恋は恐らく、もののついでに感謝されている。特定の友人と強い絆で結ばれているような様子がとんとない。そこにいるのが当たり前だが、誰も恋のことを特別に気にしたりはしない。しかもどうも意図してその位置に甘んじているようだった。――メサイアコンプレックスじみている、といえばそうかもしれないが、そうだとしても少し妙である。周囲も恋本人も彼自身のことをよく理解し、開き直っているように感じられるのだ。
 何のためにこの会社に来たのだろう、この男は何が楽しくて生きているのだろう、と、みまるの中の好奇心が首をもたげた。
 医師はというとまだ落ち着かないらしくずっと胸ポケットの筆記具をいじっている。蛇のような上司の嘆息をむなしく見つめ、みまるは問いを口にしようか逡巡する。
「みまる。そういえば、さっきの貴女はおしゃべりでしたねえ。ひとの夢だの生きがいだのがどうとか――貴女はどうなんですか。なんのために生きているんですか」
 医師の声でぼうっとみまるの意識が浮上した。いつの間にかフロアを過ぎ、メンテナンス部まで下りる小さなエスカレーターにいる。なんのために――なんのために?
「みまるさんはやっぱり、モルグの管理じゃないんですか。選ばれた人なんだし生きがいでしょう」
 黙っているみまるへの助け船のつもりなのか、恋が朗らかに話を続けている。彼はメンテナンス部まで寄ってくれるようで、医師にあんな扱いをされたあとでも何食わぬ顔で一緒にいる。
 勝手なことを言われているが好都合だ。選ばれたと言ってもみまるである必要性はまったくないもので、メンテナンス部の代表以外ならば誰でも声をかけられる可能性のあるものなのだが、周りはやけにこの役目を特別視する。
 そうですよ、と殊更ゆっくり言ってみる。これこそが生きがいだ、と、自分に言い聞かせるように。 
「なんといっても都市伝説で大人気のモルグですから。光星さんもモルグのこと知ってたんですよう、これからも残り続けるように守らなくっちゃ――これから掃除にでも行こうかなぁ。最近ちゃんとしてなかったから」
 恋もハイマ医師も満足したようだった。それを確認してみまるもまた正解を見つけた気になる。
「貴女も大変ですねえ。では、わたくしは先にこの仕方のない人と戻っていますから」
「みまるさん、また今度。頑張ってくださいね」
 最後まで気持ちよく挨拶をしてくれる恋に、みまるも、さも上機嫌そうに笑って手を振り返した。もし自分の所属先に永遠がいたら、その存在感に圧倒されて毎日気分が浮ついて大変かもしれないが、恋と同じ所属だったら落ち着いて仕事に集中できるだろう。そんなことを考えてしまう物腰だった。そして医師はというとみまるへの興味がもう失せているのだろう、知らんぷりだ。モルグはここからほど近くに入り口がある。みまるであれば入り口のセンサーも大人しい。――曲がり角でふと、先ほど一緒だった彼らのいるほうへ視線だけ戻してみる。
 他人を不快にすることに腐心する者と周囲に親切ばかり振りまく者、正反対に見える二人が、そんなみまるに気づかずにつかず離れず廊下を歩いていく。
 




 罪悪感がもうないのだった。
 みまるは心をデータ化していない。生々しく動く感情があっていいはずだ。それなのに、年を経るごとに自分自身がつまらなく、冷徹になっていくような気がしている。暇をつぶすために他人をおもちゃにすることも、真実を隠してメンテナンスをし続けることも、抵抗がない。この退屈を殺せるのなら自分自身の命もどうでもいい。
 騙すだのなんだのと騒ぐ必要もやはり分からない。誰が――誰が正直に生きているだろう? 人とはまず自分自身を騙すいきものではないか。データ化があろうがなかろうが、幸福な気分を手にするためならわざと不幸な状況に身を置くこともあるのだ。
 先につまらなくなったのは、世界と自分、どちらだろう。 
 あるいは天上天下なら退屈を消す工夫も知っているのだろうか。人類がどこに行くのかも分かっているのだろうか。メンテナンスに関しては医師連が独占しているとはいえ、彼女よりも権利のある人間など他にいないのだから、結局すべてにおいて彼女しか真実を知らないのかもしれない。そう、このモルグについてさえも。
 ほんの少し、埃っぽい気がする。
 入り口をくぐり、この埃のにおいがどこからくるものなのか考えながらみまるは暗闇で片手を伸ばした。目に入りそうに頬を覆っている髪の毛を別の指で摘まみ、そっと耳のほうへ戻す。空気が唸る。
 みまるのデータを感知して、モルグに明かりが灯る。データ化をとっくに済ませた体がまぶしいと言った気がして目をしばたたいたが、グラスを通して光がもっと刺さるだけだった。