Blue Eden #08 新天、夜なく海なく







 Twinkle, twinkle, little star,
 How I wonder what you are!
 きらきらまたたくちいさな星よ
 あなたは一体どんなひと

 夕暮れの風に声が攫われる。
 永遠とわが図鑑を、そして買ってもらった青いリップスティックを持ち歩いてしまうように、夜半にも似た癖はあった。彼の持ち歩くものの多くは入院していたときに夜半を囲んでいたもので、年代物の星座盤であったり、古い童話が載った本だったりした。高校一年生の夏からそばにいて、いつしかやりとりが友人同士というにはもっと親密さの含まれたものになり、それでも話が通じないこともやはり何度かあったのだが、不思議なことにそういう癖があるところは変わらず似ているのだった。
 もうすぐ高校を卒業しようかという時期のことである。その日の放課後も揃って屋上にいた。その頃の子どもたちは高校卒業以降は教育機関に行かないことが一般的だったため、ふたりを包む空気はそれはそれは呑気なものだった。進学しないのならば必然的に働くことになってくるが、それもあまり心配はない。データ化が普及し様々なことが便利になった世の中でも仕事は山のようにあるからだ。
 宇宙で列車の旅をする少年二人の童話を飽きずに読んでいる夜半を、永遠は塔屋の上から何とはなしに観察する。夜半の、伸びかけている耳の前の髪が、もうすぐ終わる冬のぬるい風になでつけられている。柔らかそうだと見るたびに思っているが、永遠が感触を直接確かめたことは未だ一度もない。
「夜半。おまえ、これからどこに行くんだ」
 そういえば相手の読んでいる本は結局どういう展開なのだったろうか。永遠も一度だけ興味深く読ませてもらったが、何分なじみがないためすぐに忘れてしまう。茫洋とした考えとは別に気づけばそう声をかけていた。わずかに歪んだ赤の中、光で染まった体を傾けて夜半は永遠を見つめ返してくる。
「卒業後?」
「そう。どこで働くつもりなのか、聞いてなかった気がして」
 本当に悠長なもので――卒業式後に身の振り方を考え出しても遅くはないのだ――永遠も夜半も進路のことを何も相談し合っていなかった。そんな必要も不安もお互いなかったからだ。目指すものが違うのだから、生き方がいずれまったく異なってしまうだろうことは分かっていたし、わざわざそれを確認する気もなかった。それでも現実問題、どこで働きたいのかは気になる。思い出したように訊いた永遠へ、受けて夜半はいつもの平坦な声を返してくる。
「希望は文化区。宇宙に関しての仕事と言えばやっぱりブルー・エデンなんだろうが、俺は相変わらずそこに行く気はないし、あそこ以外で宇宙関係の仕事ができるのは文化区しかないだろうからな。親父も兄貴も文化区勤務で心強いし、まあとりあえず何でもいいから働いてみようかと」
 滔々と静かに吹く風のように言葉を落とす夜半に、ふうん、と永遠は息で返事をする。概ね予想したとおりの答えだった、と思っていると、今度は尋ね返される。
「そっちはもう決めたのか」
「おれは環境保護区かな。頑張れば水族館のスタッフになれるかもしれないし、あそこには人工浜もあるだろ。それでだめだったら文化区でヘヴン関連の仕事でもしてみようかと思ってるよ。スタッフ募集っていつからだっけ――まずは地道にやる。その前にデータ化の」
 そこで切った。当たり前にあることだと思って過ごしているため、訊くのをうっかり忘れていた。
「そういえばデータ化は? おれは卒業したらすぐ担当医に訊いてみようと思ってる。手始めに体を変換するつもり。おまえは? ――今まであんまり乗り気じゃないみたいに聞いてたけど。どこを換えるか決めたのか」
 こんなときに訊かなければよかったと悔いたのはずっとあとのことだ。その瞬間の永遠はそのことに気づかず、ただ、何かを踏み外したような気がして舌を緩く噛んだだけだった。
「俺はやらない」
 夜半が答えたことに気づくのに数秒かかる。
 一拍以上おいて永遠は相手に言い縋るようにして身を起こした。今聞こえてきた言葉が聞き違いである可能性を一生懸命考える。
「夜半、でも」
 相手は首を横に振るだけだった。
 出会った頃からデータ化に対する夜半の口は重い。ずっとそうだった。だがそれについて真剣に言い合うことは今までなかったため、永遠はどう言ってやればいいのかまるで分からない。――そういえば夜半の兄もデータ化をしていないのではなかったか。まだ彼も未成年だったはずだが、兄弟揃ってこんなに渋っているとは、もしや夜半のこの性格は遺伝のものなのだろうか。両親のデータ化も体以外のようだ――データ化をしたくない人間なんて他に会ったことがない。少し抵抗を見せる人間でもいつかは折れる。夜半もどうせそのうち折れると思っていたのに、いや子どもの頃から周囲にそういう主義の人間ばかりがいれば影響されて似た考えになってしまうのは仕方がないのかもしれない。
「どうしてそう頑固なんだよ。家族のことだったら気にしない方がいい、自分の人生なんだし。拒んだってどうせ誰も見逃してくれやしないぜ」
 まるで完全な負け惜しみだった。気づけばそう言っていた自分をごまかして打ち消すように、永遠は言葉を重ねる。己の考えは至極まともなのだとこの場ですぐ確かめなければ、その場で頽れてしまいそうだったが、これが一体どういった感情なのか気づくのは何となく避けたかった。
「決まってるんだぞ法で。人間だったら当たり前に受け入れることだろ? 小学校行って、それから歯が永久歯になったりして、そういうことと同じなのに。生身じゃ就職もできないし、あっけなく死ぬし、何度も言うけど宇宙にだって行けないんだ。もしも人類の行く先が宇宙に決まったとしても置いていかれるんだぞ、海に決まっても同じ。中立の立場だった人たちもみんな連れて行かれる。今に見てろ――おまえだけこの地上でたったひとりの人間になる、――それでいいのか? よくないだろ。行きたいくせに」
 どちらかに決まってしまったらどうするのだろう。せっかく好きな場所で生きていけるとなってそちらに周囲の人間が流れても、指を咥えて見送るだけになってしまう。それでいいはずがない。目の前の相手がどのくらい宇宙に興味があるか、永遠はもういいと言うほど知っているのだ。
 永遠の心境なぞつゆ知らず、夜半は落ち着いた様子を崩さないのだった。
「俺はお前の望みを否定する気はない。他の連中もデータ化したいのならすればいい。データ化自体がおかしいなんてそんなことは思ってない。家族のことも関係ないよ。自分で決めたんだ、俺はしないって」
「あのなあ夜半、いくらわがままに生きていいったって限度があるぞ。そんな生き方この星がゆるすもんか――お前が宇宙に行かないで誰が行くんだ。星は死んだ命なんだろ? 会いに行きたいんじゃないのか」
「他のやつに託すよ。俺は会いに来てもらえる側になりたいんだ。未来、俺みたいなやつが生まれたときに、宇宙服とかデータ化がなくても行けるようにする。そういう研究をして後世に遺すのも立派な人生だと思う。人間ってそういうものだろう。そうやって知識とか夢を伝えていくのが命じゃないか」
「ロマンチシズムに浸るのも大概にしろ」
 唸り声が自分の喉から出たのを遠くで感じている。他人の声と耳を疑うほどに低いそれに、しかし夜半はというとやはり動じてはおらず、ただ、どこか申し訳ないとでも言いたげな、こちらを慈しむような顔をして佇んでいる。誰かが二人を見ていたら恐らく、永遠のことを挙動不審だと見なすだろう。
 夕日が滲む。どこかで何か音が鳴った気がして目を見開く。音の出所を探すもどこにも変わったところは見られない。見事に焼ける青のもと、こちらを見上げて西日を背負った夜半がしらじら光って見えた。その筆でなぞったように整った唇がすうっと割れる。
 こちらの名を形作る。
 永遠からしてみればおかしなことを言ったつもりなど毛頭なかった。言葉の山を見れば確信もする。正しいのは永遠のはずだ。確かに、夜半だけならそういう生き方もあるだろう。そういったエゴを周囲に押しつけて回っているわけでもなし、自分で決めたのなら勝手にすればいい。しかしそれでは治まらないのだ。
 どうしてこちらのほうが傷ついた気分なのだろう。糾弾されているのは夜半だというのに。
「夜半、おまえ、なんで自分から不幸になろうとするんだ。おれには分からない」
「永遠」
「おまえが他人だったらおれはこんなにこだわらない。他人ならどうだっていい。好きにしろよ、おれには関係ないんだから。でも、おまえはもう、おれにとってどうでもいい他人じゃなくて、おれは無関係だなんて顔はしたくなくて、おまえに譲る気はないけどおまえにだってちゃんと夢を叶えてほしいし、これからもおれの知らないことを教えてほしくて、ずっとおまえに関わって拘られたくて、でも」
「永遠。落ち着いてくれ」
 ふっつりと永遠は黙る。説得は無駄ではないかという考えがよぎったからだ。動揺しきりの永遠に対して夜半の声は迷いがなかった。いつもいつも思うがなぜこんなにも堂々としていられるのか、永遠には不思議でならない。夜半の態度はどんなときも一貫して超然的かつ全能的だ。その相手が、夕暮れの空気と同じ波長で言葉を繋げていく。怒鳴っているわけでもないのに永遠を黙らせてしまう口調で。
「聞いてほしい。俺はすべてに意味があって、何もかも必然なのだろうと思っている」
 これまでも相手とは話が通じないことがあったが、今回のこれは修正の仕方が分からない。どう受け止めればよいのか。なんとか納得のいくところに落とし込めないか、いつの間にかはしごから下りきっていた永遠は考える。
「――、つまり?」
「俺たちが仲良くなれたのは同じ病院に入院していたからだ。あの日、お前がそこで足を滑らせて、そして俺は気まぐれを起こして屋上に来ていて、一緒に怪我をして、でも俺たちは怪我をする必要があって、きっとそういう運命だった」
 うまく相槌を打てない。確かに夜半は折りにつけてあの日の偶然に感謝していたが、それがこんなときに引き合いに出されるものになるとは思っていなかった。呑み込もうと必死に聞いているこちらに気づいているのかいないのか、夜半は独特のペースで淡々と話し続けている。
「更に言えば」
 促すのがうすら怖かった。永遠は塔屋をちらと振り返り、すぐにまた顔を戻し――今さっき、ここで、あの出会った日のようにまた永遠が足を滑らせていたとしたらどうなっていたかを考える。逃避のように想像する。
「今この瞬間を成立させるためには、これまでのすべてが必要不可欠だったと思っている。俺が生まれたことまでも、永遠、お前が生まれたこともだ。そしてそれぞれが宇宙と海を好きであることも。俺の容姿や年齢も今の状態が一番必要なことだったんだろう、どれかが違っていたらこうはならなかった。きっと。だから俺は感謝しているんだ、俺の性別にも、俺が生身でいつか死ぬ存在であることにも、それに」
 気の早い月が永遠を閉じ込める。
「お前が簡単に死ぬ人間であること、女であることも、全部」

 そういえば最近、爪を切っていない。
 屋上に舞うのは夜の混ざり始めた風だ。指先をびょうびょう撫でては去っていくその中、永遠は数回瞬きを繰り返して、表情を作ろうとして何度も失敗する。相手の髪も風だけに撫でられている。不発の感情だけが心の中で死んでいくのをどうしようもできない。
「永遠。お前は不変に憧れているんだろう。ならどうして生まれついたままの体を変えてしまおうとするんだ。それはすべてを否定することに繋がらないか。変わるものを無理に不変にすること、それそのものが変わることに含まれるんじゃないのか」
「さっきから何を言ってるんだ?」
 引き攣る頬をなだめすかしてようやっと形になった返事がそれだった。予定よりもずっと硬質な響きを伴って落ちたものに夜半はようやく黙り込んでくれたが、その薄い金色の瞳に変化は何も見えない。そこに映っている黒い己をよく見ようとして、そして永遠はすぐに諦めた。
「あのさ、夜半。色々話してくれて嬉しいよ、これは本音だ。いつもいつも宇宙の話ばかりだからこういう話もたまにはいいよな。仕方ないよな、――おれはおまえのことを面白いやつだって思ってる。おまえが色々楽しそうに話すの、おれはぜんぜんいやじゃない。ちゃんと好きなものがある人間なんだって分かるから――おれたちがいずれ一緒にはいられなくなるんだとしてもそれでもおれは――だって、だってそうだろ、――なんでそんなこと言うんだ? どうして」
 なぜ伝わらないのだろう。
 あんなことを言われてしまってこれでは何一つ許せなくなってしまう。相手をどうにか理解したいという気持ちが奥底まで何もかも燻り出されて潰される。
 聞き分けこそいいが、どうも夜半はさっきから永遠の葛藤を無視しているようだった。少なくとも永遠にはそうとしか思えなかった。それが夜半の、夜半らしい情熱の表し方なのかもしれなかったが、初めてそんな姿を見た永遠には気づけるわけもない。
「永遠、聞いてくれ。俺はデータ化はしない。ままならない体で構わない。今の体が好きなんだ。確かに怪我や病気はいやだし、自分だけ老いてできないことが増えるのも、地上に置き去りにされるのも本音を言うとあまり考えたくはないが、それでも生まれた姿で死んでいきたい。必要だというのなら苦痛は受け入れる。正しく死にたいんだ。それが生き切るってことだろう。ただ生きて死ぬだけでは駄目なんだ」
 およそ人間らしくないことを言われた。が、恐らく、夜半のほうでは彼自身を人間らしいと思っているだろう。彼にとってはきっと、彼の主張のほうが普通で、当然で、正しいのだ。確かに筋は通っているのかもしれないが、それでもこれは、
「おれだって――おれは――おまえ正気だよな? それじゃまるで自殺志願者に見えるぞ。おまえの言うこと、分からないから新鮮で楽しいと思ってきたけど、今だけは別だ。まったく共感できない――死ぬことを考えてどうする! おれたちは生きてるんだぞ。ちゃんと生きることに向き合えよ! 分かりたいのにさっきから全然分からない。ああいいよ、おまえはそのまま好きにすればいい、どこにも行かないならそれでもいい勝手にしろよ。でもおれ、――そんな生き方してる奴がいると思うと落ち着かない。よりにもよっておまえが? おれがおかしいのか? だっておまえの生き方は」
 まるでおれを否定している。 
 吸った息が言葉を殺した。それからは電源を落とした家電のように沈黙する。
 夜半の主張以上に、どうしてここまで自分たち二人が相容れないのかが分からなかった。最大の敵は夜半自身ではなく、無論永遠でもなく、この相容れないという事実そのものなのかもしれなかった。考え方の違う者同士でもそれなりの関係というものがあるだろうとずっと信じていたのは他ならぬ永遠自身なのにこのざまとはどういうことだろう。
「もういい」
 そんな調子のものだから、夜半が片付けを始めていることに気づくのが遅れた。その動きを認識しても尚、それがどういった意味を持つ行動なのか思い出すことができず、何秒か遅れてやっと言われた言葉が脳内で文字になる。相手を眺めながら乱れていた呼吸をひとつひとつ畳み、唇を開閉させ、そして何も言い返せなかった。太刀打ちができなかった。
 相変わらず夜半には乱れひとつ見えない。単語だけ受け取ればぶっきらぼうに聞こえるわりにはやはり、本人からは怒りや絶望といった負の感情はまったく伝わってこない。隠しているようにも見受けられなかった。それどころかどこまでも平静で、話せたことを喜んでいるような空気さえあるようだ。しかし、
 ――もういい? どういうことだろう。今、相手はもういいと断ったのか。どうすればいい。片付けなんてしてどこに行くつもりなのだろうか。誰か大丈夫だと言ってほしい。
「やめよう。俺もいつになく熱くなった。悪かった」
 ――悪かったってなんだ。どういう意味だ。自分の言うことを信じているのなら簡単に謝ったりしないでほしい。たとえこちらが謝罪を求める顔をしているのだとしても。
 荷物を小脇に抱えた夜半は軽いランニングでも終えたような顔で一度こちらへ向き直る。
「無理に分かり合う必要もないだろう。傷ついてしまうくらいなら理解できなくても俺は構わない。俺は俺のやりたいようにやるし、お前もそうしたらいい、お前は何も間違ってはいない――夢を捨てて死んでいくわけじゃないんだ。むしろこれが俺のやりたいことなのだから――ちゃんと生きたいという気持ちは、ちゃんと死にたいという気持ちと同じだとは思わないか。俺の言いたいことはそれだけだ」
 扉が閉まった。
 随分と錆びているのに、ここは出入りの扉も碌に整備されない。床もへこんで黒く傷んでいる。めくれあがって欠片がそのあたりに散らばっていて、それで、もう何もない。夜半はいない。
 引き留めることはできなかった。もう出て行ってしまった。階段を下りて、教室をいくつも後にして、廊下を歩いて玄関まで行って、門から出て、そして、それから?
 思考の追いついていない永遠だけがここにいる。
 何を言われたのかもう一度反芻する気はおきなかった。そんな自虐趣味はない、と思っていたのに、脳は感情を無視して勝手に夜半の声を再生し始める。黙ってそれを浴びる。まるで悪びれていない鈍く放たれる光になすすべがない。
 知らず額と頬を押していた指をはがし、シャツの前を開けて確かめる。鎖骨の下、みぞおち、臍――震えのおかげで力を入れなくとも簡単に痕がついた。たよりない体は皮膚と同じく薄く、爪を立てれば痛い。いつまで経っても柵の設置されないこの屋上から飛び降りたらひとたまりもないだろう。





 海と空の接する地上で出会った宇宙の者は容赦がなかった。心底思う。永遠がずっと相手をしていた者はやはり、空の果てからやってきた異星人だった。かつて永遠が相手に抱いた感情は正しく跳ね返り、今永遠のことを苛んでいる。
 永遠が今日あの瞬間にまたはしごから落ちたとしても、夜半は狂いなく永遠を助けただろう。長い旅を終えてこの星にたどり着いた異星人が地球の人を等しく慈しむように、あの手は誰にでも差し伸べられる。ぽっかり浮かぶ空の孔のごとき琥珀の目にはすべてが映っていて、だからこそ何も映っていないのだ。
 もうすぐ相手の領域の時間だった。夜は海の中によく似ているから気に入っているのに、今日に限っては何の慰めも得られなかった。
 まっすぐ帰る気にはならず、検疫を突破して環境保護区に助けを求める。水族館はとっくに閉まっている時間のため、そちらには行かずに人工浜に足を向けた。管理された、気軽に立ち入ることのできない波打ち際を、近くに立っている見張り台から眺める――焦がれるしかない。地上があまりにも息苦しいことを、海の者しか分かってくれない。ここで仕事をしている人間たちが帰宅のためにざわざわとうごめくのを背景に、そちらにはわずかとも気を取られることなく、手すりの前ですとんと尻を落とす。
 黒い海に吸い込まれるように靡く髪を払いのけ、持ち歩いている図鑑をめくる。美しい進化の系統樹の先、永遠の好きな、若返りを繰り返す海月たちはいつもそこで永遠を待っている。成体になっても細胞を未成熟な状態までに戻してしまえる海月――そう、成体というのは自然界では性成熟した個体を指すのだった。ふつうの生き物ならば雄か雌になって子どもを作れば死ぬようにできている。今の永遠は一体何者だろう。大人か子どもかそれとも――性成熟? そんなものは望んでいない。どういう了見で、誰の許可があってそんな生き方を決められてしまったのか。死ぬことも同じだ。冗談ではない。認めるわけにはいかない、絶対に。
 いてもたってもいられなかった。今のこれは自分の体ではない。本当の姿ではない。ここは己の居場所ではない。
 初春の空気が吹き荒れる見張り台の上、誰もが素通りして帰宅していく。永遠は世界の間違いのように一人きり、煌びやかな町のほうなど見る気もせず海だけを見ている。視界の端のほうを人間でできた派手な波がとまらずにロールされていく。
「もし、いのちである以上、おれのくるしみが絶対ついてまわるものなら」
 つっぱってひびの入りかけた唇で囁いた。
 ――相反する幸福は、決して同時には成立しえないのだろうか。死を望んでいるとまではいかなくとも隣人として受け入れている人間と、遠ざけて縁のないいきものになろうとする者と、これはやはりぶつかって離れるしかないのか。
 これから遊びにでも行くのか集団が通る。永遠が見張り台にいることなど気づきもしない彼らが去って、止まらないと思っていた流れの中に一人、くすんだ闇を固めたような少女が取り残されて立ち止まっている。
「おれはにんげんじゃなくていいんだ。いのちじゃなくていい。たぶん、ほんとうはもともと、そんなたいそうなものじゃないんだとおもう」
 舌足らずでかすれた告白へ呼応するようにどこからかヘヴンの脳天気な声が聞こえた。新しく展開しているアパレルブランドの広告がどこかで動いているのだ――迎え入れられているようで遠い存在に鼻の奥が痛くなる。行きたい場所にどこにも行けない。どうしてこんなに地上は狭いのだろう。これでは月光から逃げられない。
 見知らぬ少女はじっと黙ってこちらを見つめている。
「あいつは命のことをいつか星になるんだなんて言ってくれたがきっと、おれは星にはなれない。お行儀よく距離を保って回り続けるなんて、そんなことどだい無理だ。なぜっておれは海で生まれたから――嘘だと思う?」
 力なく、うっすら笑って吐息で言う永遠に、少女はブロンドの長い巻き毛を揺らして否定を返す。その顔つきがひどく真面目に見え、永遠はますます笑ってしまう。
「でも皆嘘だって言うんだぜ。生まれたのは地上でしょう、医者や親は生まれた瞬間を見てるんだから嘘つき、って。おれが夢見がちだからこんな嘘を言い張るんだとおれを責めるんだ。確かに――確かにそうだよ、おれはここで生まれた。でも誰も知らないんだ、おれしかおれのことを理解してやれるやつはいない――おれの心は海に触れて初めて知ったんだ、自分が生きているってことを」
 太陽ならいざ知らず、月の光が強すぎて海が消えてしまうことなどあっただろうか。とりとめなく熱に浮かされ永遠はぼやく。
「生まれたからには居場所がほしい。生きてるんだからもがいて走って安心できる場所を探してしまう。本当の自分のこと、やりたいこと、生きたい場所、――誰だって少しは考えるんじゃないのか。どうする? 大事な人たちに否定されたら。一生どこにもたどりつけなかったら」
 おれはなんのために生まれたんだろう。
「親もやりたいことを優先してる。もうおれに会いに来ない。でも恨んでなんかないんだ、自由でいいじゃないか。おれもそうなろうと思ったんだ、きっと海月やヘヴンにも近づける。いつか海に行けるんだって。息苦しい地上からおさらばできるんだって。――えいえんの存在になれるんだって――それがこれだ。同じように息苦しいのを我慢してる仲間かもしれないと思ってたのに、夜半は空より遠くの場所が故郷なもんだから結局は全然違った」
 図鑑を少女のほうへ雑に押しやる。律儀に首を傾げて開かれたページを見ている少女のディティールが徐々に明瞭になってきた。
「綺麗だろ。紙だから重いけど面白いんだぜ。海って全然静かじゃなくてさ、そりゃ底は暗いけどたくさん生き物がいて華やかだし、皆おしゃべりだし、おれたちは澄ました優等生なんかじゃないんだ。無機質で中途半端な宇宙よりいいと思わない? ――子どもの頃に買ってもらったんだ、親に水族館につれてってもらって、その帰り。ヘヴンのグッズとかアクセサリーとか他にも欲しいものはたくさんあって、でもそのときは諦めてさ」
「ヘヴンが好きなの」
「うん。でも夜半が買ってくれたリップがあって、これ、これも図鑑と一緒に持ち歩くようにしてたんだけど。こっちはプラネタリウムで買ったんだ。おれには縁のない場所だと思ったんだけどな、何でか分かんないけど行ったんだよ。そのときは勉強したいと思ったんだな、だって夜半が面白そうに言うから。夜半っていうのは屋上で塔屋のはしごから落ちたときに助けてくれたやつで、入院中に話が合うんだって分かってそれからずっと一緒でさ、――なんで一緒にいたんだろうな」
「夜半」
「異星人なんだと思う。すごく変なやつ。人がどこからきてどこへ行くのか、あいつにかかると全部星なんだ。データ化も全然やりたくないみたいだし、やっぱり変にもほどがあるよ」
「好きだった?」
「好きだった」
 まったくの無表情を自覚して永遠は空を仰いだ。
「今はぐちゃぐちゃにしてやりたい。もしまた相手に会うことがあるのなら、おれがそうされてしまったように、相手に消えない傷を残してやりたい。もう一緒にはいられないしいたくないな。ちょっと前まであった甘えるようなかんじが全部消し飛んじまった」
 心に差し込む悪いもののようにさりげなく相槌を打っていた少女が、今は図鑑を抱えて黙っている。さざ波と人のざわめきがよく合う夜だった。永遠は暫く沈黙を視線でかき混ぜ、逃げ惑う月光を絡め取ろうと遊び、そうして力尽きる。
「おかしいなあ。こんなふうに許せないものができるなんて思ってなかった」
 深い吐息混じりで、最後に、そんな言葉が漏れ出る。
 理解されないことには慣れている。愛が続かないことなら分かっている。えいえんはこれから永遠が体現するのだから、永遠の手の及ばない今はまだ色んなものが持続しないのだ。しかし骨が折れる。己一人の問題ならどうにでもできるだろう、というおかしな自信もどこかへ行った。これから先、もう一度立ち上がる気になるかどうかも保証ができなかった。自分のことが信じられなくなった。分かりたいとどんなに思っても理解できないものがあり、分からないまま共存しようとすら思えず、挙げ句の果てにただ存在するだけで打ちのめされてしまうのなら、もう滅ぶか滅ぼすかしか思いつかない。
「そう。あなたは不変を求めているの」
 体中の穴という穴に海の砂を練り込む想像をしだした永遠へ、目の前の少女が抑揚のまったくない声でそう話しかけてくる。といっても返事を求めているわけではないらしく、少女は軍服のようなつくりの濃い色の上着を翻し、見張り台より少し離れた浜にぽつんと立っている装置へ向かい、それを細い指でいじり始めた。少女の靴の形に砂浜が抉れている。
「勝手に動かすと怒られるぞ」
「今日は各区にある想像エネルギー分配器の点検日だったのですが、見ての通りこんなに遅くなってしまって。機械に弱いものだから専門家に任せることも考えたけど、わたしの始めた世界だからとひとつひとつなんとか見ていたの。でも無茶だってするものね。おかげで面白いひとを拾えました」
「なに? 初対面のおまえまで条件に感謝するの?」
「条件とまではいかないでしょう。これはただのきっかけ」
 目の前の少女が異形の触手のような髪を揺らすのを脇目で確認し、膝と尻の砂を払って永遠は立ち上がる。答えに安心して、そしてすぐ手が止まった。
「わたしの会社に来ませんか」
 永遠が疑問を口に出す前に先手を打たれた。相手は片手で装置を操作し、浮かび上がったパネルの表示が示すものを確認しながら永遠に向かって話し続ける。
「学校はどこ? もう卒業するだけなら行かなくて構いません。卒業証書だけあとでもらいましょう。家は中央に移して。あなたが望むのなら、明日にでも医者に話をつけてデータ化を行います。あなたがあるべき姿に戻るのを、わたしに手伝わせてください。――海のリーダーにあなたを据えようと思います。広告塔としても働いてもらいましょう、中々イメージキャラクターが決まらなくて困っていたところでしたから、ちょうどいい。あなたならぴったりです。――どう? 我が社でならやりたいことのほとんどが叶えられるはず。あなたが夢をどうするか、一番そばで教えてほしいの。できますね」
「ちょっと待てよ。おまえ、――おまえ何者だ?」
 駆け寄ることが何故かできなかった。問いかけた瞬間、もう正体を知っている気に陥る。反論の隙を見せない毅然とした態度から、彼女が人を束ねることに慣れていることを感じ取る。
 疑念を持つことで相手の存在が輪郭を持ったようで、手を止めて振り返る少女の一挙一動が今しっかりと時を刻んでいた。相手が長いブロンドを耳にかけて唇を割る。
「わたしは天上天下てんじょう てんげ。データ化の発案に関わり、海か宇宙か生きる先をあなたたちに問うている、ブルー・エデンの責任者です」
 砂浜を強い風が吹き付ける。一瞬渦を巻いた砂を小さなつくりものめいた膝の動きだけで黙らせ、天上天下は永遠を見つめて離さなかった。
「ひとつだけ打ち明けましょうか。――わたしにもやりたいことがあるの。それでもまだ叶えられない。あなたのように大事な人たちと意見を違え、傷をつけあい、そうして今ここにいる。わたしはずっと探しています。待っているのです、三百年も変わらずに――わたしのもとに来なさい。来るというのなら、わたしはあなたに助力を惜しまない。だからあなたもわたしに手を貸しなさい。わたしにはあなたが必要です。あなたがずっと変わらない者になりたいというのなら、わたしに寄り添ってみなさい」
 提案が懇願へ、そこからとうとう命令と挑発になりつつあることを永遠ははっきり気づいている。
 相手に対する疑惑のようなものは不思議なことにもうないのだった。これ以上ないほどに怪しい存在のはずなのに、相手の言うことには説得力がある。そして、魅力も。
 もう面倒な生き方をしなくていいのだ。夜半と顔を突き合わせる必要もない。さっさとデータ変換手術を受けられる。望みの体に、あるべき存在に近づくことができる。そして海にまつわる仕事ができる。仕事さえ得られればヘヴンに関わる機会もあるだろう――海のリーダー、広告塔だって? そんなもの実質トップアイドルのようなものではないか。望むところだ――がらんどうになっている一般居住区の自宅も、捨てていい。相手にはいと言いさえすれば今望んでいるすべてが叶えられ、次の場所へ行けるのだ。不変へ一歩踏み出せるのだ。
 ぼうっと音が広がった。それが己への祝福なのか、今人生が変わっていくことの効果音なのか、永遠には分からなかったが、なんにしろ誘いを断る材料はどこにもない。
 月を背負って波の前、かつてこの会社を拒んでいた己をもう思い出せなかった。冴え冴え飢えた獣のように青く棚引く髪と目の輝きの中、海と空の闇から抜け出た少女が満ち足りた顔で永遠に一礼した。
「ありがとう。――ようこそ楽園へ。えいえんとは何なのか、わたしに教えてください。わたしはずっと、あなたを待っていました」





 言葉通り、天下は永遠をその足で会社につれていった。
 部屋をしっかり整えるまでは会社のそばのマンションで待機する。物理的な荷物が自宅にあるため、引っ越しだけは少々時間がかかる。荷物の移動を待つ間、データ化を済ませた。情緒も感慨もなくあっさりと終わるデータ変換手術を永遠はというと驚くわけでもなく受け入れた。ただやるべきことをやっと終わらせただけだからだ。
 学校へは次の日から行かなくなった。卒業まで残り数週間、今更卒業が取り消しになるわけもなく、証書を天下の手から受け取る。印象的であれという天下の意向に従い、纏う色は髪の黒に寄せ、ハーネスとタイトパンツとピンヒールを体に這わせてポンチョで隠す。差し色の青が入った髪と唇の手入れに慣れたその頃には引っ越しも済んでいた。
 あれだけ拘っておいて体しかデータ化しない永遠へ、天下は再三念押しをしてきたが、最終的には納得したようだった。両親からの貯金の額から見るともうひとつくらいは余分にデータ化できそうなものだったのだが、永遠は体ひとつにオプションを山のようにつぎこんだのだ。それは一瞬で終わる手術とは真逆にこまめなメンテナンスを必要とする、いわゆる玄人向けといった手術で、受ける側にもそれなりの覚悟と知識のいるものだった。永遠にはそれが必要だった。
「ひとつ確認します。移住先というものは多数決で決まってしまうもの。齟齬はありませんね? 分かりやすく言えば――あなたが海を望んでいても、最終決定の日にあなた以外の皆が宇宙を選んだら、宇宙にあなたも連れて行かれてしまうということです。だからあなたが本当に海に生きたいと願うのならば必死で仲間を増やす必要があります。だからわざわざこの会社も、宇宙部と深海部というそれぞれに分かれて活動しているの」
「おれひとりじゃ気が遠い話だな。何しろ世の中には夜半みたいなやつもいるんだから」
 そこで出た更なる天下の協力というものが、情報の横流しだった。すべてをとりまとめる世界最年長はとにかく顔がきく権力の塊だ。その力をもって、集まった社員たちの個人情報を永遠に裏から寄越す。他に天下が永遠に約束したことは、永遠がこの会社で働くことの保証、移住したいほうへ永遠が社員たちを操作するのを見逃すこと、それに使うデータ改竄の技術の譲渡だった。
 絶対にこの先泣き言を言うまいと、永遠は部下や同僚となる者たちと初めて顔合わせをした日に決めた。
 申し訳ない許してほしいという甘ったれた感傷を、湧いた先から切って捨てる。褒められた生き方でないことは重々承知の上、誰かに指摘されても返す言葉はない。しかしこれをしなくては、永遠ひとりでは世界に立ち向かえない。正攻法で生きるのはもううんざりだった。絶対に負けられないのだから悪にもなる。そして、自覚をもって悪をなすのであれば、中途半端に反省や後悔などはしてはならない。どんな理由もこれからは言い訳だ。慰めも同情も屈辱だった。
 しかしなぜこんなことを社長ともあろう者が許可するのか、流石に怪訝に思った永遠が問うと、
「わたしにもやりたいことがあると言ったでしょう。内容は打ち明けられないけれど、そろそろどうにかしたいの――あなたは黙ってなすことをなして。いいんです、わたしは公私混同が好きだから」
 そう返されるだけだった。
 いい。どうせいつかは天下も敵に回るかもしれない。永遠のことをここまで面倒見ておいて、それを弱みとして握ってこないなどといううまい話はそうそうないだろう。敵には回らないという誓いを今お互いに立て合っても未来のことは誰にも分からない。いつか永遠も天下に刃向かう日がくるかもしれない。そう思って永遠は、社長の気まぐれを完全に利用することだけに頭を切り替える。
 それでやっと落ち着きかけた永遠の心を揺らがせたのは、天下の薦めによって出会った補佐の生き様だった。
 天下の次に長く生きて会社にいるというその、図体だけがすらりと伸びたあどけない顔をした補佐は、通信機であるバイザーで光を反射させるくらいで何も主張をしない。体だけでなく、心も、記憶もオプションをつけてデータにしてしまったこと、つまり性別や年齢だけでなく喜怒哀楽も生い立ちも時の狭間に置いてきてしまったということを教えられ、永遠は肝を冷やした。そういう者がいるとは聞いていたがただの噂だと思っていたのだ。
 永遠の右腕は、泣きたくなるほど永遠に忠実だった。
「セレ」
「なんでしょうか、永遠チーフ。こちら異常ありません。そちらで何か問題でも発生しましたか」
「いいや何にも。なんにも起きちゃいない、問題なんか、ないんだ、どこにも」
 ヘヴンの顔がプリントされた飴玉が静止して永遠を見守っている。部屋の扉に背をつけてあたりを警戒している補佐の返事を舌で転がすように受け流し、永遠は何十人目かの恋人のうなじを鼻先でまさぐった。
「なんでもないんだ。――、ほんとうに。――、きもちいい、」
 焦点の合わないうろのような目を見開く。声はもう、ほとんど呟きにも満たないただの息となって空気に溶けている。
 ひとを侵すのは楽しかった。寂しさも怒りも文字通り手に取るように分かる。天下から渡された情報をもとに社員たちにつけいり、生来の飾らない態度で面倒を見て、相手が心を開いたあたりで「おまえだけは特別だ」と二人きりになり、そしてこうやって相手を気絶させ、そのうちにデータを干渉させる。隠していたい弱音、思い出したくない記憶、それでも誰かに愛されたいという願い、永遠はそれらを見逃さずにひとつひとつ掬い上げて撫でていく。他の誰も触れない痛みを見つけてやる。意識を失っている相手に海に焦がれる気持ちを植え付け、あとは記憶を改竄してやり、永遠と何があったかなど忘れている相手に何事もなかったように振る舞い、また新しく相手を探し連れてくる。
 山ほどのオプションを体につぎ込んだ理由がこれだった。どんな人間が相手になろうとも、それに合わせて体つきを自由自在に変えてしまえば交わることができるからだ。我こそは特別だとのぼせ上がる部下たちは何も知らずに永遠に落ちていく。そのやりとりを消去されても、いつの間にか心の奥底に海に焦がれる気持ちを植え付けられた彼ら彼女らは、首を傾げながらも移住先希望を海と記して提出してしまう。気づけば海にかえりたくなる、その出し抜けな毒の出所が永遠だった。これが永遠の戦い方だった。
 境を失って脳を直接こすりあわせるほどの快感の中、どこからともなく啜り泣きがしじまに裾を伸ばしていくのを他人事のように感じている。永遠自身は記憶はいじっていないはずなのに、こういうときに何度も変わらず思い出されるのは子どもの頃の出来事だった。もう忘れてもいいはずだった。図鑑を捲るようにカーテンがはためいて、そこから記憶が顔を出すのだ。両親の足音、手を拭かないまま走り回った廊下の湛える光、滴が指をすべりおちるくすぐったさ、蛍光パネルをいじる天下の小さな手のリズム、視界の端で踊るヘヴンの服の模様、こちらを不審がる初対面の夢前ゆめさきが顔を背けたあの動き、虹色に輝くセレのバイザー、どこまでも続く暗い海の職場、夕暮れ、月、風に揺れている夜半の灰がかった髪、受け止めてくれたほのかな熱。
 何回も思い返すのだろう。
 夜半に一番近づいたのは永遠がはしごから落ちたあのときだけだ。結局一度も手を伸ばして確かめあうことはなかったのだ、と、ちぎれてとぶ寸前の意識が、ぱちんと鳴った。



***



 Twinkle, twinkle, little star,
 酔っ払いのような調子っぱずれの歌が途中で切られ、自室近くの暗い廊下の壁に永遠の細い足が跳ね返った。
 何が輝く星だ。この曲には海のうの字も出てこないしましてやこれはこの星を恋うた歌ですらない。届かないものを見て嘆き、分かちあえるはずだと手を伸ばすのはこりごりだ。
 あの聖人じみた、こちらを歯牙にもかけない宇宙の光を踏みにじりたくて、永遠は相手にすっかり忘れられていた哀れな青いリップスティックを何かの仇のように壁に押しつける。食事会での天下の言葉が永遠を焦らせていた。十年前からなにひとつ変わらない飄然とした夜半の態度も、すっかりそんな夜半に骨抜きになった光星みつぼしがかいがいしくついて回っていることも腹立たしくてならなかった。目も当てられない。めりめりと音を立ててワックスが銃痕の形を残すまで磨り減って、そこで永遠はやっと息を切らしてリップスティックごと壁から離れる。
 この望みを叶えるために何をしたらよいのか分からなかった。驚きと無力感に染まった相手の顔を見たい。鼻を明かしてやりたい、こちらを恨みの籠った目で見てほしい。奪ってやりたかった。相手にとって大切なものを台無しにして、その大切なものも、視線も何もかも独り占めして踏みにじってやりたかった。永遠がそうなっているように、相手にもこちらのことを目に焼き付けて憎んでほしいのだ。どうしたら楽になれるのだろう。ただ言い合いや殴り合いをするのでは生ぬるい。移住先が海に決まったとしても夜半は痛くもかゆくもない。そもそも生身なのだから海に連れていけるわけもなく、どこにいても夜半は変わらず宇宙をずっと見つめているだけだ。相手にされていないのだから失望すらしてもらえない。これでは救われないではないか。移住先の権利を勝ち取って永遠が海に行っても報復にならないのなら他に一体どんな手段があるだろう? 
 ちからの抜けた永遠の手から青いものが音を立てて滑り落ち、そしてまた静寂がやってくる。