Blue Eden #07 ユダたちの晩餐







 食事というものは、生きているなら必ず背負う罪である。
 罪と表せばどうも気障だがなるほど的を射ている。他の命を食べて個体が生き延び、種が繁栄するなど、よく考えればおぞましい。まごうことなく罪だろうがしかし悪とも言い切れない。誰もがこんなことをいちいち考えながら食事をするとは光星みつぼしには思えないしまた他者に強いるつもりもないが、今の自然の様子を顧みるとさすがに神妙になってしまう。
 データ変換手術を受ける直前に食べたもののことをよく覚えている。コロニー内部の人間たちの食事は、すべて環境保護区にて飼育された動植物だ。研究しつくされ、種の保存のために選別された生き物たちはコロニーから出ることなく命を終え、最低限の加工をされ、一般居住区や医療区に運ばれる。最後のごちそうは、その流れから特別に取り寄せて作った玉子でできた、好物のオムレツだった。わがままを言うとオムライスがよかったのだが、鶏肉や野菜をふんだんに使ったケチャップライスというものは中々用意できないのだ。生身で味わう最後の食事だからと親は奮発したがったのだが、物わかりのいい光星はわがままを封じ込めて遠慮した。正しい自分のことを、光星は愛している。
 天辺に旗を立てた。人類の大きな一歩、と呟きながら、旗のすぐそばに小さな自分が立っているのを幻視する。憧れのブルー・エデン社のマークがついた真っ青な旗が、広大な黄色の大地の上にぽつんと鎮座ましましている。ここが何の星か分からなくとも、支配の証を打ち立てた光星なら構わず食らってしまえる。
 オムレツも星もそう変わりない、と、いざ食べる瞬間になると一転巨人になったような気になってオムレツを観察したものだった。外部から力が加われば、張り詰めた表面はあっさり崩れて中身をあふれさせる。天体の中心部もかくやと流れる玉子を見て、ふとぱっくり割れて骨が飛び出した同級生の膝を思い出した――慌てて首を振る。知り合いにひどい怪我や病気をした者が出ると、光星はいつも眠れなくなった。いつ自分もそうなるか知れないではないか。生身だと命はあっけなさすぎる、こんなに命が脆いのは神の設計ミスだ。たくさん食べなければいけないし、睡眠だって必要だし、適度に運動もしなければならない。かといって神経質になりすぎても病気になるというし、何より時間がない。やりたいことに満足に向き合えずに老いてしまう。早く大人になってデータ化しなくてはならない、許可が下りたら真っ先に体だ、体だ、この柔い肉体をデータにしなくてはいけない、体だの記憶だの分けるとまどろっこしくてだめだ、もういっそのこと命全部をまるごとデータ化できてしまえばいいのに。ずっと焦っていた。――死ぬなんてまっぴらご免だ。
 まばたきをひとつ。レストランへ続く廊下が揺れる。
 食べることを楽しめるのなら、それは命に余裕があるからだ。今の大地に、人々に、余裕などあるはずもない。想像エネルギーでは補えないところがあるため、データ化済みでもまったく食事をしないというわけにはいかないが、もうあんな子どもの頃のように食べ物で遊ぶことは絶対にできない。好物を腹一杯食べることも、凝った加工品を楽しむことも、何も許されない。食べることはいよいよ本当の罪になってしまった。
 すっかりデータの体に慣れ、そろそろ自分が新入社員であることも忘れそうになる頃、光星のもとにひとつの連絡が届いた。それは天上天下てんじょう てんげからの業務命令だったわけだが、ほんの少し生身の子どもだった頃の食事が懐かしくなっていた光星は、うっかりと喜んだ。
「会食だなんて、天下社長は面白いことを企画されるんですね。何でも頼んでいいんですって。僕、昼のエネルギー補給我慢しておなか空かせてきたんですよ。何食べようかな、楽しみだなあ」
 同じく連絡を送られていた夜半と連れだって地下の廊下を歩く。わざわざ顔を合わせずとも、連日、天下には夜半や永遠とわから報告が行っているはずだった。それでもこんな回りくどいことをする理由は――妥当なところで交流と情報漏洩対策だろう。
 それならそれで仕方がない、いやむしろ筋が通っている、と光星は賛同してしまうのだが、夜半はそうでもないらしい。珍しいことに相手の足取りが重いため、光星はさっきから進みすぎては止まって夜半を待つということを繰り返している。
「夜半部長、どうしたんですか。もしかして前に来たときにめぼしいメニューは食べ尽くしちゃったとか」
 あえて茶化すように尋ねてみた。いつだったか、仕事終わりに行ってみる、と夜半が言っていたことは何となく覚えている。それでもデータ化を済ませた大人である以上――これは何度も宴会をしているという現場の者たちも例外ないのだが、――好きに何でも食べられるというわけではないのだから、夜半も楽しみにしているものだとてっきり思い込んでいたが。
 光星の意に反し、真っ白な大樹のような上司は、生返事だけをして立ち止まって片手を見つめているのみだった。精悍な相貌が何かを自問している表情に映り、光星は歩くように促すのを忘れてしまう。他人と同じことをするときに気持ちが違うというのはどうも落ち着かないので、光星としては食事前に夜半と話をしておきたかった。そういえばなんだかんだで忙しく、聞きたいことも聞いていないままだ。
 しかし夜半の空気に水を差すこともできない。もてあまして顔を進行方向に戻すと、反対側から艶やかな軍服姿の人間がブロンドヘアを弾ませてこちらへ進んでくるのが視界に入る。挨拶しようとした瞬間、それを遮るように横から黒い腕が伸びてきた。
「お久しぶり、我らが社長。会いたかったよ」
 やたら刺々しい永遠の声が雑然とした廊下に響く。
 腕と声の主の背中を認め、光星は思わず夜半の近くまでおずおず下がってしまう。呼び止められた天上天下はというと、暫く腕越しに光星のことを真顔で見ていたようだったが、やがて一歩も引かずに永遠を見上げて艶然と笑った。そうしていると一気に春でも来たようで、それまでまとっていた冷ややかさは嘘のようだ。
「光栄。わたしも会いたかった」
「相変わらず調子がいいな。ほんとにそう思ってんならちゃんと通信出てくれないか」
「生憎多忙なもので。さて、メンテナンスもしっかりしているようで感心です。あなたはメンテナンスが人一倍きらいなものだから心配していたの。今日も唇に青がよく映えてきれいね」
「それはどうも。おまえもいつも通り可愛いよ、その髪の毛なんかタコの触手みたいで最高だ。ところで提案なんだけど、そんなにおれの顔が好きなら二人っきりにならない? 思う存分触らせてやる」
「魅力的なお誘いですが、まずはお互い腹を満たしませんか。――永遠、惜しかったですね」
 はっとして口を噤んだ永遠が飛び退いた壁にカラフルなペンと職員証がぶちあたって跳ね返る。
「レストランの前でくだらないことしないでくれませんかこの有毒クラゲ。後ろつかえてんですよ」
 光星の肩がぐっと重くなる。いつの間にかハイマ医師が後ろにおり、勝手に手を置いていたのだ。白けたように青と黒の髪を掻き上げている永遠に向かって文句を言いながら、不機嫌そのものといった医師は乱暴にペンを回収し入り口へ吸い込まれていく。入れ替わりにそこからセレのすらりとした半身が覗いて光星はまたのけぞった。いつからここに控えていたのか。
「タイムアウトです、永遠チーフ。これ以上押し問答を続けるのは無理です。全員そろってしまいました」
「皆が来るまでにわたしを口説けなかったあなたの負けですよ、永遠。最初から二人きりでもう少し時間があったらうまくいっていたかもしれません。お誘いについてはまたの機会、ということで。ではお先に」
 ゆるくうねる飴色の髪をなびかせ、医師に続いて天下の姿がレストランへ消えた。光星のすぐ脇で黙っていた夜半も天下のあとに続く。その一部始終を何の他意もなく見届けてしまった光星がやっと我に返ったとき、昼過ぎの廊下にはもう光星と永遠しか残っていなかった。
 いかんせん向こうにマイペースなところがあるためか、はたまたこちらに気を許している証拠なのか、たまに行動が合わないことがある。急いで自分も入り口に足を向けたところで、視界の隅で永遠が手招きをしているのに気がついてしまう。
 ハイマ医師表するところの有毒クラゲを無視することもできない。放っておいて刺されでもしたらことだ、と渋々近寄ると、相手は黒手袋に包まれた手を引っ込め、睫毛の台座に載った宝石のような目を鋭くすがめてくる。
「おまえまた失礼なこと考えてるな」
「めっそうもない。食事前なんですから、手短にお願いしますよ」
「分かってる。どいつもこいつも連れないな、おい――あのだな、あいつ、――おまえの上司。最近どう」
 ためらってからの問いに目を見開く。
 夜半が何だというのだろう。というより、何故濁すような言葉を使うのだろうか。気遣わしげ、というのとは少々異なる。この相手が不審なことなどいつものことだが今日は輪をかけて様子がおかしいと思いつつ、光星はほとんど高さの変わらない位置にある永遠の整った顔を見て内心首を傾げていた。永遠はというと、会食を遅らせる原因になったことなど何ら自覚していないのかそれともわざとか、腹立たしいほどふてぶてしい。しかしやはりどうにもおかしい。常ならこちらを射殺すように遠慮なくまっすぐ見てくるくせに、何か――どう表すべきだろう。そう、後ろめたそうだとでもいえばいいか。
「見ての通り、仲違いもしてませんしお互い元気です。どうしてそんなこと訊くんですか」
「いや、何でもない。何もないならいい。呼び止めて悪かった」
 光星は飛んできた光を跳ね返すように負けじとまばたきをした。
「変な人だなあ、もう。あなたに心配されなくても、夜半部長には僕がついてるんですから大丈夫です。こっちのことは気にしないでくださいよ」
 何故だろう、という疑問は尽きなかったが、関わると拗れそうな予感もする。様子がおかしい永遠から視線を剥がし、扉を抜け、薄暗いカウンターに向かって好物の名を叫んだ。気にしたらいけない。
 深夜にはバーになるだけあって、見渡した店の造りは一風洒落ていた。長い楕円のテーブルの、議長席を公平な立場である社長とメンテナンス部代表医師が固め、社長から右側を宇宙部、左側を深海部の幹部が囲む。遅れたせいでてっきり怒られるものだと思っていたが、天下は小首を動かし着席するように促してくるだけだった。夜半と談笑しながらスマートにメニューを選ぶつもりだったのに。悔しがりながら光星が座ったと同時に、追いついた永遠がだるそうに斜向かいの椅子を引き、天下が口を開いた。
「食事を前にして長い口上は野暮ですね。必要なのは食べ物に対する感謝だけ。さあいただきましょう」
 めいめいの前に頼んだ料理が置かれ、天下の言葉が終わると同時に皆利き手を動かす。目の前にあるオムレツは、家族がかつて手作りしてくれたものよりものっぺりとしている。数分の間ののち天下がまた口を開く。
「さて、あなたがたとこうしてまた食事ができて嬉しい限り。宇宙部の二人が決まってからは初めてですね――夜半、光星、来てくれてありがとう。この会食は定例報告会でもあるんです。毎日の通信で言いそびれたことや言いづらいことなんかを、こういうときに言い合えたらいいと思って。だから遠慮しないで。――では誰か、この場で皆に報告しておきたいことがありましたらどうぞ」
 ありません、とどこか間延びした返事をしたのは天下の向かいのハイマ医師だけだった。公平な立場の二人が同じハンバーグ定食を食べていることに気づき、一度まばたきをした光星は周囲を見渡す。目の前のセレはいつもの無表情で、色気のない芋のスープを一匙一匙掬っている。光星の左隣にいる夜半は黙ったまま、焼き魚の切り身を丁寧にほぐして米に乗せていた。そして夜半の反対側にいる永遠はというと、つまらなそうに青いゼリーをつついて見つめているだけだった。ゼリーは前にもらった飴をとかしたように透き通っており、その場違いな救いの青をさくらんぼと皿が反射していた。
 天上天下の薄い溜め息で光星の意識が浮上する。
「分かりました。ところで、先日行った今年度初の移住先希望調査、社内社外ともに前回より宇宙部に票が傾きました。ずっと深海部優勢でしたが、これでバランスがよくなりましたね。後ほど詳細をお送りします。夜半の印象がいいのかもしれません、これからもよく勤めるように」
「今言う?」
 ゼリーめがけて抉るように勢いよくスプーンを突き刺し、目に見えて永遠がげんなりする。天下はというとどこ吹く風だ。
「そんなにいやな顔しないで。どうせ近いうちに投票した者全員に開示されますし、いつ言っても一緒じゃないですか。次はあなたが頑張ればいいだけのことです」
 優雅なほほえみ付きで打ち返され、永遠は黙り込んでまたゼリーをつつく作業に戻る。やりとりの内容でつい誇らしくなった光星だったが、左の席に波が立つ様子はなかった。
「ではハイマ、医療区の報告を。――今年度の事故の処理や――コロニー外の様子、成人を迎える者たちへの手術はどうですか」
「ご心配なく。今のところは概ね順調です。ただ、ちょっとゴミを捨てる場所考えたほうがいいですね、教育区周辺は論外だし、医療区の周りもガラクタでいっぱいですよ。間一髪の距離で無自覚に脅威を育むの、人類は有史以来ずっと繰り返してますけど、我々までそのお約束に従わなくていいでしょう」
「つまり、このままでは更に生態系をおかしくする可能性があると。そうですね、ウイルスや細菌なんかはどう変化するか分かりませんし……まずは区間の検疫をもう少し厳しくしましょうか。コロニー内外の境界も、もっと警備して」
 思案する天下の短い睫毛が下りるのを、反対側から医師が舐めるように見つめていた。やはり奇妙な二人だと思った光星の口から、ふと疑問がこぼれる。
「外ってそんなにひどいんですか。洗浄して緑化する話も風の噂で聞いていたのに」
「だめだめだめ。緑化なんてもう見通しが立っていません。とは言っても、実際にこの目で確かめたことはないんですが。わたくしデータ化してからメンテナンス部以外の仕事なんて全然したことないですし、本音言うと外の事情なんて知りたくもないんですよ。でもまあ、外はだめです」
「誰か残ってたりしないんですか。うちの会社なら洗浄も緑化もさっさと済ませそうなものなのに。だってデータ化してたら外なんて怖くないじゃないですか」
「甘いですよ星頭――どこだったでしょうか、データ化法施行の際に反対して外部に残った人々の子孫がいた気がしますが――姿は確認できていません。何度も言いますけど我々には余裕がないんです。誰も助けられません。これから外に行くにしても、少なくとも内部出身の生身は生き残れませんし、よしんばデータ化済みの人でも、安定したエネルギーの供給とメンテナンスの心得のある者が必要でしょうね。緑化なんて言っていないで、まだ見込みのある宇宙か海にさっさと逃げたほうが賢明です」
 随分と手厳しい評価だ。メンテナンス部と言えば人々を生かす正義の集団ととる向きもあるが、決してそんなことはない、ということをまた思い知る。
「ハイマ。今月中わたしが直々に医療区へ赴きます、細かなことはそのときに。報告感謝します」
「恐れ多いですよ社長閣下。まあ、貴女にそう言っていただけるのなら、重い腰を上げた甲斐があるというものです」
 仕事の意見にすぎないとはいえ、貴女自らわたくしに声をかけてくださるのだから、と続いた医師の言葉は黙殺される。しかし医師はさほど気にした様子も見せず、童顔に貼り付いた笑顔を崩さないのだった。
 同じ料理を食べているこの二人が結局どういう関係なのか、未だに光星にはよく分からない。時折話を聞いてくれる夢前も、分かっていないのかはたまた分かりたくないのかあれ以上何も言わない――夜半はどうかというとどうも興味がないらしい――口内で泳ぐオムレツを嚥下する。この場で二人の関係について尋ねるのは憚られた。
「さて、人も増えて安定してきましたし、ここらで新しい企画を始めてみようかとも思っているんです。何か提案がありましたら何でも言ってみてください」
 待ってましたとばかりに、永遠が銀に光る匙の先端をわずか持ち上げた。
「あれどうなった? ヘヴンとタイアップする件。文化区のプロジェクトに声かけてさ、広告も一新するっていってたやつ。天下が持ちかけて頷かないやつなんてもうどこにもいないだろ、そろそろいいとこまで進んだんじゃないの」
「深海部チーフ、そうは問屋が卸しません。ヘヴンは確かに人気者だからいいとは思いますけど、うちの社でやってもねえ。ほとんど貴方しか得しないじゃないですか。自分がファンだからって調子にのるんじゃない」
 訊かれてもいないハイマ医師が永遠へフォークを向ける中、別に職権乱用でも公私混同でも面白ければいいけど、と天下のひとりごちるのが聞こえた。いち経営者の発言とは思えないが、そういえばこの社長の信条はそうなのだった。
「永遠、ごめんなさい。随分わたしを買ってくれているようだけど、残念ながら先方がうんと言わないの。勿論アプローチは続けてみますけど。今までずっとあそこも中立を貫いてきたでしょう、うちの会社そのものを応援してくれるとしても、最終的には宇宙部か深海部か勝ったほうにヘヴンのイメージがつくことは必至だから、そうすると人気が偏る、それを避けたいのではないかしら」
「ほら見たことですか。そううまくはいかないんですからね」
「おかしいな。おれは天下に話しかけたのにさっきから他人の声がする」
 煽られた医師が食器を鳴らして立ち上がる。それに被すように天下はあどけない手のひらをかざして火花を散らした二人を制した。やたら血の気の多い部下がいて、社長もさぞ大変だろう、と光星は自分のことを棚上げしてしみじみする。
 その間も光星の若き脳はずっと回転を続けていた。ヘヴンを味方につけるのは面白いかもしれない。大手同士なのだし、今まで組んだことがないというのが逆に不自然にも思える。ハイマ医師はああ言うが、実際叶ったら子どもも大人も喜んでチェックしてくれるだろう――ただ社長の言うことも分かる。影響力のある存在が、ブルー・エデンのどちらの部に賛同するかというのは、非常にデリケートな問題だ。
 しかしそれよりも気になることがある。
「他に案がないならわたしが考えておきます。次の会食のときには何をするかお知らせできるようにしますね」
「あの、すみません、社長」
 呼び止めると愛らしい丸い瞳がこちらを優しく見据えてきた。何故か斜め前からも黒光りする流し目がきたがそちらは気にしないように努める。
「そもそもどうして社長は、人類の生きる新天地を宇宙と深海で分けたりしたんですか? いえ、勿論、経緯については勉強しましたが、社長世代の人に出会ったことがないもので、一度生の声を聞いておきたくて。――社長の方針を否定するつもりじゃないんです。ヘヴンちゃんとの企画のことを聞いていたら不思議に思ってしまって。うちの会社が分かれていなかったら向こうも二の足を踏まないわけでしょう」
「競争を作る必要があったんです。ひとつだけ行き先を示して人々を導こうとすれば、必ず不満が生まれて、それは言い出した人間をきっと襲います。わたしたち人類は協力し合うことができなくなる。けれど、ふたつ示してお互い競う理由ができれば、わざわざ敵を探す必要はなくなるわけです。結果的に平和が増えるでしょう。あとは、競争していればお互いに切磋琢磨しあうためによい発明が増え、生き延びる可能性も高まるから。こんなところです。もうひとつ、――最後のひとつは秘密にしておきましょうね。わたしにだってプライバシーはあるのだから」
「データ化もその流れでできたんですか。僕、当たり前にある時代に生まれたので、そのへんがよく分からなくて」
「そう――時に満天光星、あなた、不老不死に興味は?」
 頷いて会話をしてくれていた天下にさらっと尋ねられ、光星は目を白黒させた。こちらには、データ化さえしていれば満足だという考えしかないのだが、天下はその返事を待たずに勝手に話し続ける。
「いつの世も不老不死は大人気です。うちの国にもずっと、そういうことを研究している人たちがいてね。――いえ、わたしは元々スポンサー側の出身なのですが――まず地上には限界があり、人類が生き残るにはこのままじゃいけない、体や心をどうにかしなければ、という課題があったのです」
 老いさらばえ、むごたらしく苦しんで死んでいくのは誰しもまっぴらだった。人類がその歴史の中で飽きず争いを繰り返してしまうことも、多くの人がうんざりしていた。しかし中々世の中は変わらない。ならいっそ、科学のちからを使えばいい。当時急成長していた電脳の技術を遺伝子工学に適用させることで、研究グループの苦労はついに実を結んだという。
「それがわたしやわたしの父の雇っていたグループで。うちの家がこの社の前身というのはそういうことです。実際に確立されたデータ変換手術は不老不死とまではいかなかったのですが、それでも大偉業でした。彼らのおかげで、彼らの面倒を見ていたわたしたちは安心してこの会社を設立できたわけです」
 データ化を押し広めてきた当時の人間はもう天下しか残っていないという。実際に起きたことを見てきた人間からの説明に、光星は少しだけたじろいだ。目の前のこの社長も、会社に迷い込んできた学生と言われても分からない外見をしているが、光星の十倍以上は生きていることになるというのが、実感としてひしひし伝わってくる。
「俺からもひとついいだろうか」
 ずっと黙って焼き魚を口に運んでいた隣の人間が静かにそう言った。声をかけられた天下はというと、さして驚いた様子も見せずに先を促す。やがて光星の見守る中、夜半は心持ち重い声で続きを舌に載せた。
「どうして俺を引き抜いた?」
 水を打つ声だった。夜半の中で何度も繰り返された問いなのだろう。天下はやはり動じない。
「不満ですか。今の待遇が」
「まさか。思いも寄らなかったが、ずっと追いかけてきたことを仕事にできるのはやっぱり嬉しい。でも、俺には特別な業績も飛び抜けたリーダーシップもないんだ、俺はただ宇宙に行ってみたいと思っていただけの普通の男だ。この地位には俺よりも適任がいるんじゃないかと」
「まだ納得がいかないの? 何回も説明したのに。あなたが思うよりずっとあなたに価値があるから、わたしは声をかけたの。宇宙部部長はあなたがいいと、あなたに会って思ったんです。わたしは探し求めているんです、これまでもこの先も、優秀なひとを」
 まだ蟠りがあるのか、それともとうとう納得したのか、夜半はそれっきり口をきかなくなった。それを背景に、かち、と、控えめな音を立て、光星の持っていたスプーンがオムレツを切り分けて皿へぶつかる。――改めて聞くと奇妙な話ではないか。
 夜半のことではない。光星のことだ。入社を希望せず、普通の生活をしていた夜半が突然にこの会社へ、そしてこの地位へ収まることがまかり通るなら、同じ条件どころかより熱意があり年若い光星だってそうなる可能性があったのではないか。今、部長とその補佐として同じ卓についている二人を分けたのは一体なんだろう。
 それぞれの皿を綺麗にしている同僚たちを眺め渡す。左に座っている夜半は分かったので置いておくにしても、この場にいる者たちで他に引き抜かれてやってきた者は何人いる? いや、光星のように普通に入社してきた者は一体誰だ? 夜半の向こうにいるのは社長だ。次は自分の右側に首をやる。メンテナンス部はまた事情が違うだろうからハイマ医師も除外だ。セレはデータ化後に行き場がなく、天下が引き取ったと聞いた。実質スカウトしたようなものではないか。ではその隣は?
 光星は色素の薄い睫毛をしばたたかせる。テーブルの対角線上、天下とセレに挟まれた席にいる人間が、さくらんぼを匙の先で転がして名残を惜しんでいるのをとっくり凝視する。少年を思わせる細い手足を黒い布で隠した、やや扇情的な雰囲気を醸し出す忌々しい敵。永遠はどうなのだろう。確か夜半は以前、「永遠もこの社に入る予定はなかった」といったことを呟いていた気がする。永遠はその後の人生で急にここに入りたくなったのか。もしも永遠も引き抜かれた側の人間だというのなら、これはどういうことだ。もしかしてこの場でイレギュラーな存在は光星だけなのか。
「さて、ごちそうさま」
 光星の思考を断ち切るように天下が口元をハンカチで拭い、腰を上げる。ブロンドの巻き髪が肩からすべりおちたのを直しながら彼女は実に優雅な所作で出口に向かって歩き出した。そんな天下を慌てて永遠が呼び止める。
「おい、おれはおまえに話があるんだけど」
「ごめんなさい永遠、後日にしてくださいね。これでもやることが山積みなもので――先に業務に戻ります。今回も実に有意義でした。また次もこの六人で誰も欠けることなく共に食事ができることを祈ります。――ああ、そういえば忘れるところでした。うちの社員は誰も仲がよくて結構ですが、いかんせん緊張感が足りない気がするので、今年度は少し厳しくしていきましょう。永遠、そして夜半、深海部と宇宙部の費用の件、今後もいい成績のほうにより割こうと思うので」
 永遠はもう天下に食い下がる気が失せてしまったのか、皿に残ったさくらんぼをいじり、生返事を返すだけになっている。夜半も残りの魚を片付けるのに必死のようだ。満足に反応をもらえなかった天下はというと、皿の中身と格闘する二人を見比べ言い放つ。
「よく競うように。わたしは公私混同は大好きですけど、かつて恋仲だったからといって遠慮しあうのだけはやめてくださいね」
 さくらんぼが放物線を描いて飛んだ。
 永遠の皿から向かいの夜半のほぐした魚の身の中に着地したさくらんぼを、しばしその場の全員が注視していた――光星は絶句して夜半の尖った横顔へ視線を移す。夜半の月のような目がゆっくりと上がり、やがて永遠を捉えた。
「ちがう、おれは、」
 夜半の視線から何を受け取ったのか、同じくさくらんぼから目を離した永遠は何故か色を失い当惑しているが、当然のように天上天下の姿はすでにない。青い唇をわななかせた永遠に誰かから救いの手が差し伸べられる様子はなく、代わりとばかりに降り注いだのはハイマ医師の無慈悲な独り言だった。
「へえいいこと聞いた。さっそく広めちゃいましょう――みまる、聞こえますか? ええ今終わったところです。これから戻ります。で、面白いことが分かりましたよ」
「おい、待て、これだからおまえらは」
 通信しながら大股で出て行った医師を、慌てふためいて追いかけていった永遠の黒髪が視界から消える。セレも暫くぽつねんと残されていたのだが、やがて我に返ったらしく、こちらに会釈をして永遠のあとを追った。
 テーブル周りにまだいるのは、夜半と光星だけだ。



「――本当に?」
 思わず口から漏れる。いや、本人たちのリアクションからして、社長の単なる悪ふざけには思えないのだが。
「夜半部長。まさか、冗談でしょ、あんな人と」
「確かにそうだったが」
 どうして社長が知っているのか、と呟いた夜半は、光星の意に反して落ち着いた顔に戻っていた。永遠は何か勝手に追い詰められた顔をしていたが、夜半には永遠を責める意図はなかったらしい。
 永遠の皿からとんできたさくらんぼの、種だけが夜半のくすんだ唇から出てくるのを見届けながら光星は急き込んで言いつのる。
「おおかた相手が言いふらしてるんじゃないんですか――でも時効ですよね。一緒にいたのは部長たちが高校生くらいのときの話ですもんね、もう気にすることじゃないですよね」
 夜半が何かにつけて、永遠との相性は悪くなかった、というのはこのせいなのだと腑に落ちた。それは、一度親密になってしまえばそういう評価にもなってしまうだろう。分からなくもない。が、光星はそれが面白くない。夜半の人生に一度であってもあの存在が絡むのは許せない。ただの同級生だと思っていたから黙っていたのに。
「まあ幼かったといえばそうだ――どうした? そんなに騒ぐことでもないだろう」
「だって部長、名折れです」
 がらんとしたレストランに光星の声だけが響く。秘密を暴くちいさなライトが二人を不十分に照らしている。光星は自分の声を追うように身動ぎし、
「敵同士でそんな仲だったなんて恥ずかしいじゃないですか。どうしよう、広まっちゃいますよ、ああでも昔のことでよかった。それだけが不幸中の幸い」
 顔を覆った。もしかすると食事前に永遠の様子がおかしかったのはそのせいではないのか。夢前から指導を受けたとき、彼女が随分と永遠の肩をもつものだから、こちらも少しは態度を改めようと思ったのだが、こんなことになってはもうそんな気も起きない。ばかばかしい。水を得た魚のように色めき立つハイマ医師や、言い出した天下より、発端を作った永遠のことを心底くだらなく感じる。あれが元凶なのだ。困っていたのは自業自得だ。
 もしかすると恋仲だったというのも向こうの押しつけだったのかもしれない。たとえば何かで親切にした夜半にとりいって、挙げ句に逆恨みをして十年経った今でも迷惑をかける、――いかにもあの相手ならやりそうなことではないか。
「そうですよ。僕にも愛想よくしてきたのだってきっと嘘です。これ見よがしに飴なんか渡してわざとらしい。もしかしたら夜半部長に手加減してほしくて僕から買収しようとしたのかも」
 もう向こうのチーフには関わらないでください、と念を押しても、夜半の反応は薄かった。いまいちこちらの不安が伝わらなかった気がするが、夜半はこれでいいのかもしれないと思い直す。少なくとも夜半から永遠に同情をかけたりすることはないだろう。
 問題は向こうだ。
 情けをかけられたりしたら屈辱だ。夜半を支えるのは光星の役目だ。夢前に言われずとも分かっている。いつまでも子ども時代を懐かしんでいるわけにはいかない。どうにかして夜半を永遠から守らないとならない。そして、宇宙部のほうが未来があるのだと人々に選んでもらえるように、深海部とはくれぐれも正々堂々と勝負をしなければ。
「安心しろ」
 何でもない声音で夜半が声をかけてくる。光星は夜半の顔をよく見ようとしたが、どうしてもできなかった。
「俺はあいつのことをそういう意味では警戒していないよ。このくらいで手加減するような人間なら、そもそも恋仲になったりしない」
 すっかり新品のような顔をしている皿が卓に残る。夜半の皿にだけ、カトラリーの他に魚の骨とさくらんぼの種が載っている。先ほど食べたばかりのオムレツを思い出す――食べてしまえばおしまいだった。どこにも旗はない。堅く焼かれていたオムレツは、切っても何も出てこなかったはずなのに、今、何かが流れ出ている気がして、光星は強く目をつむる。