Blue Eden #06 唇に海を







 水を拭き取るのが苦手な子どもだった。

 手を洗ったあと、濡れているほうが自然な気がして、幼い頃の永遠とわは家の廊下を水浸しにしていた。どうしても拭くのがいやだったのだ。それでも両親はそんな永遠に目くじらを立てることはなく、溺愛とまではいかないが、それなりに大切にしてくれた。一般居住区にあるごく普通の家庭。親は仕事が忙しくても子どもを大切にしようと努力している二人だった。永遠が文化区に遊びに行きたいと言ったときも、ヘヴンのフィギュアがほしいと頼んだときも、あまり裕福ではないはずなのに、叶えてくれた。
 絵本で海を知った。水たまりとも水槽とも違うそれを想像することができず、どんなものか尋ねてみれば、両親は「いつかそこに住めるように、にんげんは努力している最中なのだ」と教えてくれ、わざわざ環境保護区の水族館にまで連れて行ってくれた。ひとつだけお土産を買っていいと言われた永遠が、ヘヴンマークのついたお菓子やキーホルダーや変身ベルトやメモ帳、ネックレス、口紅なんかで散々迷った挙げ句、それらの誘惑を振り切って紙の重い図鑑を持って戻ったとき、二人は笑いながら頭を撫でてきた。年に数回ある移住先希望調査で宇宙と海のどちらを選んだのか、両親は絶対に教えてくれなかったが、その徹底した教育のおかげで永遠は偏見を持つことなく育ち、海だけでなく色々なものに興味をもった。それでもその海の図鑑は特別な宝物だった。
 ――とわ、おまえの名前は、えいえん、という意味だよ。
 深い海の底、というと、なんだか怖くてさびしい気もするが、どうやらそうではないらしい。目を指で覆いながら開いた図鑑には、水族館で見たよりもへんてこないきものがたくさん載っており、永遠はすぐに夢中になった。色が見えない世界だと聞いたときは大層驚いたのだが、そんな場所でもいきものはカラフルなのだった。おかしな触角の生えたものもいる。うろこがないようなものもいる。永遠は部屋で笑い転げた。すぐそこに魚や海月がいたらどんな気分か、手を伸ばして夢想して遊ぶようになったし、親戚から海の体験をできる装置を貸してもらったときは興奮しすぎて鼻血まで出して大騒ぎになった。どうしてこんな世界があるのだろう、もっと知りたい、水に触れていたい、と思うごとに、永遠の世界は拡がった。
 ――知ってる? 海月の仲間には、不老不死だって言われていたものがいるんだってさ。
 その海月が、永遠の大のお気に入りだった。図鑑に開き癖がつくまで友人に見せびらかし、ノートに写し取っては親にも教えた。実際は不老不死ではなく、若返りを行うことが誇張されて伝わり人気が出た海月だったのだが、高揚感は真実を知っても消えなかった。
 その頃だ。かえりたい、と思うようになったのは。えいえんの名前を持つ己が、えいえんの存在と言われるような海のいきものの元へ行くのは、とても大事なことに思えた。
 永遠が小学校高学年になるあたりに、家庭から笑顔が消えた。実際大きな事件があったというわけではなかったのだが、仲のよかった両親は、それぞれの仕事に没頭し、相手や永遠のことをないがしろにするようになった。三人分のいのちのせいで膨らんでいた家がしぼみ、空になっていくのを肌で感じても、どうすることもできなかった。口を開けば海かヘヴンの話しかしないせいで、学校で「浮いている」と友人たちに指摘されるようになり(宇宙か深海のどちらに住みたいのかという話題は、争いの火種になりかねないとしてタブーとされていた)、色々と悩んでいた永遠は、家族をどうこうすることにまで頭が回らなかった。
 おかしいと思ったときには、もう手遅れだった。
 火の消えたように静かな家へ帰る。いつの間にか、高校受験を控える身になっていた。両親は金だけは定期的に入れてくれていた。どうやら永遠の両親のように、データ化で寿命が延びた分やりたいことが増え、生涯夢追い人となってしまう人は少なくないらしい。同じようにどこかに行ってしまいたくとも生身である子どものうちは家に戻るしかなかった。高校を卒業して、早くデータ化手術を受けたくて、――決して大人の体になりたいのではなく、ふさわしい本来の姿を手に入れ、子ども時代を繰り返しながら海にいられたら楽しいだろうという理由からだったが――毎日が深度を増して色褪せる中、永遠は急かされるように日々を過ごした。心の慰めは、データの中でいつも笑っているアイドルキャラクターのヘヴンと、海月の載った図鑑、一度だけ行くことのできた水族館の思い出だけだった。
 ――とわ。えいえんと書いて、とわ。おまえの名前だよ。
 教師や学者が配信する講義を流しながら荒れた部屋を眺め、ひとりで過ごす永遠の脳にぼんやり語りかけてくるのは、図鑑を見ながら名前について教えてくれたあの日の親だ。えいえん。なんと不確かなものだろう。両親は永遠の誕生日のたびに家族三人いついつまでも仲良くいようと誓っていたが、その「ずっと」は叶わなかった。こんなばかばかしい話があるだろうか、名前があまりに恥ずかしいからいっそデータ化と共に改名してやろうと思ったこともあった。実際、そうやって家族からもらった名を変える人間は多くいる。何もおかしいことではない、同じようにすればいい。だが、何を信じればいいのか分からなくなったとき、そばにいたのはやはり海の図鑑とヘヴンという、可変でありながら不変であるものたちだった。
 自分も彼らみたいになろう。えいえんなんて名前をもらったのだから、せっかく名乗れるのだから、捨てないでそれを証明する存在になってしまえばいい。夢を叶えよう。はっきり生きよう。
 永遠はある日唐突にそう決意した。その決意は、何の目的もなく生きるにはつらすぎる日々に対する、防衛本能あるいは逃避から出たものかもしれなかったが、理由などどうでもよかった。垂れ流しだった講義がボリュームを変えてもいないのに一瞬うるさくなってそしてきゅっと絞られた。荒れた部屋を急に片付ける気になった。両親のことも、クラスメイトのことも、もう気にしない。よく晴れた日の夕暮れどきのこと。いつか海の底をこの目で見てみたい、海月のようになりたいという漠然とした思いが、明確なものへと姿を変えた瞬間だった。



***



 片足を金属製のはしごにかける。
 傾いた初夏の朝日を払うように両手でしっかりと棒を握った。大陸のほうから汚れた大気がおりてきたと最近は騒がしかったが、風向きが変わったのかその日はすっきりと晴れており、そして屋上には人っ子ひとりいなかった。
 成人した者は他の区へ労働に、データ化をしていない子どもたちは教育区の学校へ行っている時間帯である。狭い教室でクラスメイトと顔を突き合わせるのが面倒で、永遠は休み時間になるともっぱら屋上へ出るのだった。この高校は珍しく屋上への出入りが自由で、資金不足のせいか何故か柵がなく、そして眺めだけはすこぶるよいのだ。危険だと各自で判断を下し、ほとんどの生徒はここに立ち寄らないのだが、それが永遠にとってはよかった。誰もいない、傷んだ屋上。男女共通の制服であるシャツと半ズボンが風で揺れて肌に擦れる。
 一段目に足をかけたまましばし静寂を感じていた。勉強が好きでも成績は振るわないのも手伝って、この頃高校に来る意味がよく分からなくなっていた。せっかく試験を頑張っても授業内容はつまらない。クラスメイトと仲良くなる気も起きない。環境保護区に勤める人間の論文を配信するとか、そういうイベントを期待していたが、ない。これでは家で海外の研究資料やヘヴンの動画を漁っていたほうが百倍ましだ。
 やりたいことがあるのに不自由だった。人類はここ数百年でめまぐるしく進歩した、と授業で教えるくらいなら、その恩恵をちゃんと活用してほしかった。
 文句ばかり考えながらむき出しの耳にイヤホンを突っ込み、ヘヴンの新曲を聞く。こうでもしないと失踪してしまいそうだった。鼻歌と共にぐっと両手に体重をかけ、はしごをのぼっていく。屋上に続く階段をあがったところの、中央区のビル群まで見える、一段高いところがお気に入りなのだった。この校舎の歴史は古い。データでできているわけではなく、この国がちゃんとした島国だったときにあったものを移動させたそうだから、三百年以上はゆうに存在しているはずだ。幾多の先人たちがここで憩い、学んできただろう歴史に思いを馳せているうちに、半ズボンの裾が脇のパイプに引っかかる。もうすぐそこがてっぺんだったのに。興ざめしながら、行儀悪く舌打ちをしてズボンを振り払ったところで、前触れなく寒気に襲われる。喉の奥で空気が唸った。
 視界が壁のグレーと空の青のマーブルになり、吐きそうになったあたりで足首と背中の痛みを自覚した。うまく体勢を立て直せないのは恐らくイヤホンから大音量で流れる曲に三半規管が攻撃されているからだ。何か叫ぶ前に、数十センチ先の床へ胸ポケットにあったはずの通信用端末が飛んできた。足を滑らせて落ちた、とそれを認めてやっと分かったが、痛みと目眩でどうしようもできない。
 ただ、薄れゆく意識の中で、どうやら自分が下敷きにしているらしい熱さと柔らかさを、不思議と懐かしく感じていた。





 まさか入院沙汰とは想像していなかった。無機質なパジャマを着せられ、足首をぐるぐると包帯で固定された永遠は、これまた無機質な天井を見つめながら溜め息を吐く。
 場所は医療区。病院自体はほぼ、生身である子どものための施設だ。大人は体や心をデータ化しているため、担当者のいる他の施設へかかる。それでも医療区という大々的な区がわざわざ存在していることには、一応ちゃんとした理由がある。データ化にまつわることも含め、心と体の健康、記憶に関するすべてのこと、医学的な研究機関をひとまとめにしなければ、今の社会はうまく回らないからだ。医療区はその特性ゆえに、一般居住区と環境保護区の間にある。機械をいじることといきものに接すること、薬を扱うことと電脳世界に触れることのすべてが曖昧になった今は、もう生物学だの工学だのと大味に分ける意味が失われている。
 永遠が入れられた病室は六人部屋だったが、貸し切り状態だった。備え付けのクローゼットまでホワイトで統一された広いがらんどうの中、永遠は数日間、毒気を抜かれたようにぼんやり過ごした。担当医からただの捻挫だと説明を受け、それなら自宅療養でも平気だと一瞬思ったが、大事をとってと慎重になる医者に強く出る気は起きなかった。入院費については学校や国も負担するために心配もあまりなく、ここで暫くリフレッシュするのもいいのかもしれない、という気持ちが出てきたのだ。
 杖なしで歩けるまでに回復した頃、廊下ではたと気づく。ふぬけていたのですっかり忘れていたが、そういえばあのとき、誰かが下敷きになって助けてくれたのではなかったか。看護師にそれとなく問うてみればやはりそうで、その相手も同じ階に入院しているという。――入院しているということはこちらと同じように怪我をしたわけだ。そしてその程度はきっと己より重いのではなかろうか。永遠は頭を打たずに済んだが、相手は大丈夫なのか? 個人情報だからといってそれ以上は語らない看護師に一方的に礼を言い、翌日、相手がいるらしい病室をこっそり探してみる。永遠の性格上、相手に謝罪も感謝もせず過ごすのは我慢できなかったのだ。
 その六人部屋も貸し切り状態だった。部屋の前の壁にあるネームプレートを確認したが、名前がよく分からない。本当に同じ学校の生徒なのかも思い出せなかった。教育区は北と西と分かれているので、高校になって他の地域から進学してきたのだったら面識がなくともしようがないが、厄介だ。書かれている名は、永遠と同じで名字を継いでいないのか、ファーストネームだけで『夜半』。読み方は表示を信じる限りでは、やはん、のはずである。古文の時間にヨワという読みで習ったのを強く意識したせいか、いろいろ混ざってヨハンだと一瞬思ってしまった。もう一度ネームプレートを見上げる――Yahan、と書かれた部分が、ぼやけてJohannに見える――もうどれが正しいか分からないのであとは本人から聞こう。
 やぶれかぶれな気分で部屋へ頭をつっこむと、廊下側のベッドの上に、やや肌が白く、背丈の高い、眉の平坦な青年が上体を起こして座っているのが見えた。灰色がかった前髪の隙間から、甘い月のように知的に双眸が輝いていたが、表情そのものはどこまでも真剣さと哀愁を含んだ無で、その差がなんだかあまりにちぐはぐで、永遠の肩からちからが抜けた。
 何か音声が聞こえるが人は他に見えなかった。青年の視線は手元にある青い図のようなものを熱心に追っている。あれは、あれはなんだったろう、そう、確か星図とかいうものだ。星座早見盤というのが正式な名称だっただろうか。ベッドには他にも荷物が散乱していたが、ざっと見た限りではどれも宇宙に関係するものに思えた。見舞い品なのかサイドテーブルの上には林檎が置いてある。通信用の端末はというと、林檎の隣で持ち主に振り返られることなくニュースを流し続けていた。音声の正体はそれだ。
 つられるように星図に釘付けになりながら、気づけば永遠は青年の隣の椅子に座っていた。
「好きなの? 星」
 言葉が勝手に出た。青年はというと、いつから気づいていたのかそこでやっと星図から視線を外してしげしげと永遠を確かめた後、それでも驚きの含まれない声音で話し出す。
「俺は宇宙派なので。若いうちにちゃんと勉強しておきたいんだ」
 ところで怪我は、と続けられる。ずっと前から会話を続けていたような不思議な口調だった。笑いの一切ない声と目に永遠のほうが面食らってしまう。歩いてここまで来たのでもう平気だ、それよりそっちこそ、と気遣うと、向こうは向こうで体を起こしているのだからもう平気だと答えてくる。
 ベッドには星の書かれたカードやミニチュアの天体グッズだけでなく、古い児童書や聖書もあった。この相手もかなりの勉強家らしい。本を見ているとだんだんと永遠も海の図鑑が恋しくなってくる。図鑑は無理を言って家から運んでもらったのだが、息をほどいていたせいで暫く触れていない。
「そういえばあの屋上、大昔に爆発事故があったと聞いたのだが、それは本当なのだろうか」
 星図を見たまま発された相手の言葉に意識を引き戻された。景色が目に染みた気がして数度まばたきをし、永遠は夢見心地で返事をする。
「都市伝説のひとつだったっけ。変な跡があるんだよな、なんで建て直さないで島にあったのをそっくり移動させたんだろうな」
 相手は爆発の跡が残っていることは知らなかったらしい。――それもそうだろう、永遠は屋上の常連だが、今まで夜半の姿など見たことがない。彼はあの日が初めての来訪だったわけだ。
 今、話の流れを読んで礼を言えばいいと思うも、何故か永遠の唇は開かなかった。調子が狂うと思ったあたりで端末からコマーシャルが流れでる。それを見た永遠の口から出た話題は、やはり礼とは別のことだった。
「そんなに勉強熱心なら、もしかして入るつもり? ブルー・エデン」
 呟きを拾った相手の顔がゆっくり端末を向く。流れている広告は、データ変換手術を発明し、滅亡する地球から人類を逃がそうと宇宙開発や深海探査に取り組む大企業、ブルー・エデンのものだった。おかしな話でまだ宇宙や深海に行くリーダーが決まっていないらしく、広告は非常にこざっぱりしたものなのだが、意外とあれが人気で、優秀だとあの会社に入れるのだとどこかでいつも誰かが言っている。社長について、詳細は公表されていないのでわからないが――しかし大層賢い人間なのだろう。何しろざっと三百年も生きている、データ化を発明した重要な人間のひとりだというのだから。
 子ども向けのニュース番組だったのか、企業の宣伝ついでにデータ化の説明もし始める音声につられ、永遠はついつい相手の返事を待たずにぼやき続けてしまう。
「いいよなあデータ化。おれは人を率いるなんて自信ないし、いくら海に興味があってもブルー・エデンには行く気が起きないけどさ。でも早く高校卒業してさっさとデータ化したい。そしたらこういう怪我しなくて済むし、パンデミックとか怖くなくなる。防護服なしで宇宙にも深海にも行けるんだろ? 便利だよな、障害や病気がある人だって心身どっちも健康にできるし、コンプレックスなんか全部消えちまうんだから。いいなあ、明日起きたら十八歳になってないかなあ」
 こんなことだけでもプライバシーの観点からあまり周囲には言えなくなっており、気を張って生活していた永遠はそこでつい思いを吐露してしまった。相手がそこまで深い仲の人間ではないことが逆に永遠を安心させたのかもしれない。しかし途中でふと今回の怪我は自分に原因があるということを思い出し、そこから言葉は尻すぼみになって消えた。端末に無骨な指が伸びてくる。相手が星図の目盛りではなく端末を握るのを、永遠は沈黙と共に見守る。
「ブルー・エデンに関しては同意見だが、俺にはデータ化もよく分からない。医者や技師も仕組みをちゃんと理解しないでやってるって噂で聞いたし、生身に戻るすべは未だないというし、どうなんだろうな。こんなことを考える俺はどこか変わっているのだろうか」
 まったく切羽詰まっていない声に、永遠はまだ何も言えなかった。どう会話を続けたらよいか考える傍らで、相手はさぞや悩みがない人生を送っているのだろう、とぼんやり羨望を抱く。相手の返事はいかにも健康人のものという内容だった。――いや、でもしかし、相手もこうして怪我をして入院する身なのだ。回復したとは言うが、思い通りに動かない体に恐怖は覚えないのか。永遠を受け止めたときにさぞ痛い思いをしただろうに、もうそれを感じたくないとは思わないのだろうか。――永遠はこんな痛みや悩み事と一生付き合うなど考えただけでもうんざりだ。生身では海にも行けない。
「でも、こんな話、久しぶりにした気がする。データ化のこととか、宇宙と深海どっちにするかとか、全部他人には秘密にしろって怒られるだろう、あれが窮屈なんだ、俺は」
 またニュースを流し始めた端末を握りながら、かみしめるように夜半がそう語るのを聞き、己も似たような気持ちでいたのだ、と、永遠は言いたくなってうまく言葉が出ず、もどかしくなって立ち上がった。こんな話を落ち着いて誰かと交わしたのはいつぶりだろう。己は海が好きなのだ、ともっと教えたくなり、しかしそれを証明できるものを今何も持っていないことに気づいて呆然とした。怪我をしたとはいえ、何をこんなにのんびりしてしまったのか。
 図鑑を取りに戻ろうとして去り際に、名前は何と読むのか訊いてみれば、相手は「やはん」とはっきり答えた。名乗り返して礼を言おうと思った永遠に気づかなかったのか、夜半は視線を手元に落としたまま続きを舌に載せてくる。
「そっちの名前、とわ、っていうんだよな。えいえんって書いて、とわ。珍しいから覚えてた。いつか会話できたらいいと思って」
 浮世離れしているようでしっかり現実を生きている夜半に、永遠は言葉を失う。クラスメイトと話しても無駄だと思っていた。周りは皆退屈な人間で、意思も夢もないのだと諦めていた。同じ世代の者で、己と張り合えるほど何かに熱を向けている人間などいないと、ずっと。
「あの日俺が屋上に行ったのは偶然で、まさかクラスメイトを受け止めることになるなんて思ってもいなかったが――お前とこうして知り合えたんだから、気まぐれも怪我も必要なことだったんだな」
 話してくれてありがとう、と紙がこすれるような声で言い、少しだけ微笑みを浮かべて満足そうにしている夜半をまっすぐ見ることができなかった。おれもおまえを知れてよかったとはまだ言えず、ただ、助けてくれてありがとう、と床に向かって永遠はやっと呟いたのだった。



***



 ふたりの距離はあっという間に縮まった。
 怪我が完治するまで、病院で互いのことを存分に語り合った。こちらの知らないことを教えてくれる夜半の存在が、永遠にとっては貴重だったし、向こうにとってもそれは同じようで、いつまで話していても時間が足りない。看護師に呆れられるほど、同じ部屋に入り浸って話し続けていた。これまでの孤独だった時間を埋めるように饒舌になる己を、永遠自身内心こそばゆく思っていた。
 同じ部屋がよかったが、そればかりは医師の采配なのだし仕方がない。環境保護区から輸送される簡素な朝食を発育不全の体に詰め込み、夜半よりも怪我の軽かった永遠は相手の病室へせっせと通う。時間が惜しかった。夜半は恩着せがましいことも言わなければ、こちらを気遣いすぎるようなこともしない。知識を語る声音は表情と同じくどこまでも静謐で、淡々としており、それが却ってユニークだった。
 とりわけ面白いのは、こんなに違うところを見ているというのに、お互い相手を否定する気が一切起きないことだ。夜半に宇宙の話をされると、なんだかそれは深刻なことに思えてくる。興味がなかったはずなのに、いや、海と宇宙のどちらかしか選べないと聞いたときから苦手意識すらあったのに、海に負けず劣らずひとときも目を逸らしてはならないような世界だと感じてしまう。だから素直に耳を傾けた。よく分からない部分があっても、黙って聞いていた。お返しに永遠がするのは深海の話であり、海月の話なのだが、夜半のほうも余計な口を挟まずに頷いて、しっかり受け止めたあとに驚いたり質問をしたりしてくるのだった。
 のどかだ。
 知れば知るほど夜半は奇妙な人間だった。周囲と比べ老成した印象を受ける。何かにはしゃぐさまをあまり見せないため、永遠よりも余程、地に足をつけて生きているように見える。しかし手持ち無沙汰なときに鉛筆を転がしてみたり、食事中に考え事に嵌まると無意識で箸を噛んでみたり、実年齢よりずっと幼いとも言える面も唐突に見せてくるので、気を抜けない。飽きることがない。知っても知っても知り尽くすということがなかった。甘やかな感傷というよりは、探究心を刺激される。夜半は底のない深い沼のようであり、壁のない広い空間のようでもあった。付き合いが長くなれば相手の思うことは大体想像がつくようになったが、いちいち調子が狂う。そして不思議なことに、その調子の狂う感覚が、今のところの永遠はいやではなかった。ときどき話が通じなくなるが、それはそれでいいような気さえしたのだ。
 物静かな異星人。――いつしか永遠は夜半のことを、心の中でそう表現するようになっていた。まったく夜半はその通り、はちみつに浸した月の瞳を浮かべてじっと立っている異星人なのだった。
 一緒に水族館に行こうと最初に誘ったのは永遠だった。退院して半年のことである。館内に入ってから、大きいいきものに呑み込まれた気がする、と言っては立ち止まって眉間を抑えていた夜半だったが、かといってそれは嫌悪という言葉で表せる感覚ではないらしく、ともすると永遠よりも真剣に展示に見入っていた。そういえば幼い頃に来たきりだったことを思い出した永遠が、土産屋をそっと窺えば、そこはあの頃の永遠によく似た子どもたちで賑わっている。あの頃我慢したヘヴンのグッズはもうないようだった。
 唐突に、己が普通の存在に戻った気がして、永遠は分厚いアクリルガラスの向こうを睨んだ。久方ぶりに好きな魚や海月に会うのに緊張もしていたのに、結局ここに立つときは誰かと一緒なのだ。なんだかそれがひどくつまらなく、そして、温かい。
「ひとは死んだら星になるんだ」
 夜半の希望で宇宙科学館にも行った。
 隕石を見ている最中に呟かれ、永遠は言葉を発した相手へゆっくり顔を向ける。相手は白に近い灰色の髪を展示用のライトにいいように遊ばせながら、隕石の中の鉱物が溶けた目で、ケースに入った仲間を見つめていた。夜半がひとときも目を逸らそうとしないものの前で、永遠は立ちすくんで続くささやきを浴びた。
「兄貴が言ってた。命は星でできていて、みんな元は同じものだったって。この宇宙は外部からの足し引きがないまま同じもので違う命を造っては滅ぼしていて、そして命は死んだら星に戻っていくんだって。ほら、死んだ人間はそらに昇るっていう言い伝えがあるだろう」
 ロマンチシズムあふれる話が、リアリストだとみなしきっていた人間から飛び出し、そのときの永遠は少しと言わず当惑していた。夜半はというと、そんな永遠には目もくれず話し続ける。
「こんなものはただの慰めなんだと分かっていても、未だに否定ができないで俺もなんとなくそんな感じがして、それでずっと星を追ってる。もしかしたら死んだ祖父さんや祖母さんたちが夜空で輝いているんじゃないかと思うと――とんだ夢想だよな。――でも、人が死んで星になるのなら、データ化して寿命なんて延ばさなくても、気軽に会いに行ける。空気が綺麗な夜に顔を上げるだけでいい」
 夜半の両親が体だけはデータ化しておらず、その他の親類は皆亡くなっているということは、家に遊びに呼ばれたときに知っていた。体をデータ化していない人間は外見が老いるのですぐに分かる。無論、怪我も病気もするし、元々の寿命で死んでしまう――しかし兄は確か未成年、データ化もまだだったはずだ。特に兄弟仲が親密なようには見えなかったが、学問に関しての交流はあるのか。夜半の宇宙好きの原因には兄の存在が多分にあるのかもしれない。が、夜半の口調はあくまで星に重きを置いたもので、やはり兄に対する特別なものは感じられなかった。――死んだ人間は星になる、という言葉は、距離をとって見ればこんなにも不確かで子どもだましだと分かるのに、真実ではないのかと聞いた側に信じさせてしまう、不思議な重さのある響きを伴って永遠の心へ落ちてきた。
 死ぬ、ということを、こんなにありきたりなことのように言う人間は見たことがない。データ化が普通になった人類にとって、死は遠い存在だ。ほとんどの人間が真っ先に体をデータ化する。肉体がどんなに不便なものなのか、子どものうちに知ってしまうからだ。やりたいことをやるには生身の人生では短すぎる。死がどんなものなのか、永遠にもまるで想像がつかない。そんな願望もない。永遠の目指すものは、データ化した体であり、ヘヴンという不変のアイドルであり、大人にならず若返りを繰り返す海月なのだから、死というものは一番遠いものと言っても過言ではなかった。
 対して夜半は、自身があっさりと老いて死ぬことを予感しているような、おかしな口ぶりなのだった。予感、いや、確信というべきか、それとも許容だろうか、どう言い表したらよいかてんで見当がつかない。どちらかというと、命は水から生まれ水にかえっていくような気が永遠にはするのだが、それをこの場で言うのは憚られる。夜半とはほんのときどきこういう具合に話が通じなくなる。
 夜半の雰囲気に呑まれて、何の疑問も持たず頷いて流してしまいそうになるが、こういうとき、いつも、永遠は落ち着かない。
 どんなに仲がよくても同じ景色を見ることはできないのだ。違和感の石ころを蹴り飛ばし、永遠は口を噤むしかない。これを相手にぶつける方法が分からない。一体何をぶつけたいのかもだんだんよく分からなくなってくる。どこか不服な気分でプラネタリウムに移動し、係員に促されるまま椅子を倒し、大人しく天井を見て、まがいものの星空に夢中になっている夜半の隣で永遠も光を見上げる。あの、視界いっぱいに散るノイズのような点、星々、あれらが命だとすると――凝視しているとただの点なのにやたら立体的に見えてくる。ひとつひとつがこちらを認識して見張っているような、――急に意識が回転しだす。いや、動いているのは星空のほうだろうか、何時の空、というアナウンスに併せて天が回る。四方八方暗闇どころではない、ここは孤独な空間などではない。深海とはかけらも似ていない、あの白い粒はマリンスノウとは違う。夜半の腕を引っ張ろうとして伸ばした手が空を掻く。ぎゅっと瞼を目の奥に押し込む。そうこうしている間に背後にも星は回っていく。夜半は軽々進んでゆくのに、永遠はというと勝手が分からずもがくばかりだ。だれがどこにいるのだろう、なにがここにいるのだろう、焦点が弧を描いてどこかへ消えていく。広いのにどこにも隠れるところがない。視界が一気に白く染まり、慌てて目を隠したが時既に遅く、誰かの笑い声とともに風が押し寄せる。まぶしくてにぎやかしい、
 息ができない、

 ――とほうもない――

 数分後、永遠は出口近くのロビーのソファに寝かされていた。
 器用なことに、椅子を倒して横になっていたにも関わらず、目を回して昏倒してしまったのだった。同伴者はというと、彼なりに罪悪感を覚え、永遠を心配していたようで、濡らしたタオルをせっせと畳んでいるところだった。
 気がついても無言でぼうっとしている永遠の額にタオルを乗せ、「今回は支えられなくてごめん」と夜半はおもむろに呟く。出会ったときの事故と比べられているのだということに永遠が思い至った頃には、夜半はすぐそこにある土産屋に足を向けていた。太陽や月を模したオーナメントの間を縫って、酔い止めや吐き気止め、飲み水などを次々籠に入れている、かいがいしい後ろ姿をぼんやり見つめながら、永遠は黙って横になっていた。伸ばしている黒髪がソファの革とこすれてざらざら言うのを聞いては溜め息をつく。
 ――恐怖とは違った。先ほどのくるめきは何だったのだろう。
 生まれたままの体はやはり不便だ。少しでもつっぱねられると逆らえない。宇宙に対する苦手意識がなくなればと勇気を出して夜半の希望に乗ったのに、あえなく突き返されてしまった。ここは永遠の居場所ではないと、そう言われてしまったのだ、他ならぬ永遠の体そのものに。宇宙に拒絶されてしまったのではない。永遠が宇宙を拒絶しているのだ。
 落ち込んでいる永遠の鼻先に、ぼとん、と音を立ててぬいぐるみが降ってくる。額からタオルが落ちるのにも構わず慌てて飛び退けば、ソファの前には山と積まれたヘヴンのグッズがふらふら揺らめいて立っていた。
「お待たせ」
 荷物が夜半の声でしゃべった。あっけにとられた永遠が返事をできずにいる内に、あれよあれよとヘヴンのグッズがソファを占領していく。ぬいぐるみの他にはキーホルダー、メモ帳にペン、変身ベルトにお面、風船、飴玉とシール、ネックレスやおもちゃの指輪。既視感に襲われながら、永遠は膝のあたりに転がってきた青いリップスティックを拾い上げる。
 なんのことはない。幼い頃に水族館で見かけたグッズは、プラネタリウムにはまだ残っていたのだ。
 最後に渡された薬を水で喉の奥に押し流しながら、それでも片手でずっと安いつくりのリップスティックをいじっている永遠に、長い両腕を解放された夜半が話しかけてくる。
「今日のお詫び。もので埋められるものじゃないかもしれないが、贈らせてくれ。――好きなんだろう」
 夜半のほうを向けば、相手は珍しく笑っているのだった。とは言っても控えめなもので、普段の夜半をよく知らなければ見逃してしまうほどのささやかな笑顔だったが、それで十分だった。つられて永遠も笑ってしまったのだが、そのことに永遠自身は気づいていなかった。ただ、――夜半が言った最後の一言は呆れるほど簡単に腑に落ちた。腑に落ちた瞬間、急に腹が立ってそして悲しくなった。かっと熱をもって広がり、かと思えば冷えて形のくっきりした己の心を、どうすればいいか分からなくなる。苦しいときに腕を掴めなくとも、心の奥でもうひとりの己が拒絶しているとしても、もう認めるしかなかった。夜半はずっと、すべて知っているとでもいうような罪のない顔で、じっと永遠を見つめていた。
 その夜、ひとりぼっちのベッドの中で、頭まで布団を被って久しぶりに永遠は泣いた。親に買ってもらってからずっと、眠る前に図鑑を開くのが日課になっていたのに、初めて開かずに寝た。夜半と二人で手分けして運んだヘヴンのグッズが、誰かの代わりだとでもいうように、おもちゃのリップスティックを握る永遠を見守っていた。