Blue Eden #05 Dropping Drop







 目の前で、不規則な穴の空いた球体が、穴から光をこぼしながらゆっくり回転していく。まばらに眩しくなる暗闇を光星みつぼしは見つめている。
 球体はこの宇宙部オフィスの顔だ。ライトダウンしたオフィス一面、つまり天井といわず壁にも床にも、球体のこぼす光が張り付いては移動する。ちょっとしたプラネタリウムになっているのだ。宇宙部なのだからそれらしく、という安易なものではないらしいが、これを見たときに光星の頭に浮かんだものは――ここはやはり宇宙部の中枢なのだ――、という感嘆にも安堵にも似た実感だった。誰か個人がわがままで設置したというわけではなく、会社を作っているうちにこういうインテリアになったのだという。
 宇宙部のメンバーはこのインテリアを皆一様に気に入っており、他にもそれぞれ自分の好きな本やらオブジェやら持ち寄っては勝手に置いていたりもする。滅亡と隣り合わせで贅沢など縁がないような状況にも関わらず、皆、生きることや楽しむことに貪欲だった。持ち寄られるものはいずれも宇宙関連のものばかりで、そもそもここにいる連中は宇宙を憎からず思っているからこそ宇宙部に配属されているわけであり、喜ぶほかのリアクションはないわけだ。こればかりは公私混同を奨励している天上天下てんじょう てんげにも感謝したい。メンバーは皆魅力的で朗らかで、ぜひプライベートでも仲良くしたいと光星が思える相手ばかりだった。
 部屋の中心のソファに、そんな愛すべき仲間が数名、輪になって横たわっている。――彼らとの交流ももう当たり前のものになりつつあったが、――懐にある銃の感触には、まだ、慣れない。
 渡されてからもうだいぶ経つというのに、これに関しては居心地が滅法悪いのだった。扱い方も手入れ方法も、すべてデータで落としたために、体のほうはというとこれがすっかり慣れている。そんなものだから、胸元に手を突っ込んでそわそわ歩き回るような真似はさすがにしないで済んでいる。マニュアルを落とした際に記憶にも干渉させたため、まるで幼年期から銃と共に生きてきた感覚さえある。そしてそれは錯覚だとはっきり分かっている。感情だけが追いつかない。これが一番肝心だろうに。
 覚悟の問題なのだろうか。迷いがあるのは光星が若いせいなのか。考えるが答えは出ない。心を置いてけぼりにはしていても、これだけ体と記憶には「銃の携帯は当然」と叩き込んでいるので、いざというときに足手まといになるようなことはないだろうことだけが救いだった。いや、そんな、いざというとき、などにはそうそう来てもらっては困るのだが。そもそも本当に何故社員全員が武装する必要があるのだろう、警備員はいるのに。
 中心部のソファを離れて物思いに耽っていても誰も咎めてこないのは、今が午後の休憩時間だからというだけではなかった。夢前に教わったとおり、ここでは全員がいい意味で雑に生きている。好きなことに、好きなように関わっているのだから、まあこの自由さも納得だ。――それなのに光星はまだ銃の感覚に足を取られている。無意識に唇を噛んだ直後、オフィスの壁に面した椅子にもたれる光星の目の前を白いケープが横切った。
「お疲れさん。はい、水」
 ぽう、と目の前が明るくなった。夜空に浮かぶ月のような黄金色がふたつ、薄暗い室内に浮かんでいる――夜半だ。慌てて起き上がろうとする光星の額にコップがあたった。冷たい、と思う間に夜半はすとんと音を立てて隣に座ってくる。
「すみません、恥ずかしい姿を晒してしまって」
 もしかしたらチームの足を引っ張っているのかもしれない、と歯がゆさを濃くした光星だったのだが、夜半はというと自分のコップを口から離して瞳を丸くさせていた。変なことを口走ってしまっただろうか、と不安になっていると、暫くの静寂を挟んだのちに夜半はゆっくりと言葉を紡いでくる。
「俺はただ労りたくて労っただけなので、お前が謝ることは何もないのでは」
「そう……そういうものでしょうか。なんていうか、社会人としてあるまじき情けない姿でしょうに」
 本心からだった。これまでの短い人生でこんなに自分を恥ずかしく思ったことはない。大体のことは素早くそつなくこなせてきたのに、ここに来てから振り回されてばかりなのももどかしい。銃ひとつでこんなに悩むなんて、やはりきっとこれは、自分がまだこどもだという証なのだ。早く慣れなければ。
 光星の言葉を受け、夜半はというとまた少し沈黙した。律儀なことに、話し出す前に慎重に言葉を選んでいるらしかった。
「誰だって生きてるだけで疲れるさ。いくらデータ化してるっていっても、新しい環境になじむには時間が必要だろうし。――銃携帯の件だって、俺も抵抗がないわけじゃないし――、心配するな。お前自身がどう思っていても俺は情けないなんて微塵も思わない」
 自律の心があって大変素晴らしい、と真顔で締めくくられた。光星は落ち込む心などどこへやら、ほんの少し頬を緩めながら――そして自分の目を疑った。誰かがこういうことを淡々と話す光景が珍しかったのだ。人間、他人を褒めようとすると、大抵声音がゆがむものである。自分自身のことのように錯覚して必要以上に誇らしそうになったり、褒める相手に気に入られたい色が差したりする、そういうものの雑じった賞賛を光星はよく浴びてきた。だから分かる。夜半はだいぶ、いや、かなり、変わっている。声が顔と同じで無表情だった。本心が濁っていないのだ。
「顔合わせのときのこと、まだ気になるか」
 このまま黙って人工の星々を見ながら休憩時間が終わるのか、と思ったときだった。まったく予想していなかった問いかけに光星は面食らう。夜半が気にする理由などどこにもないだろう。というより、気絶したのを介抱してもらった件で十分に相殺されている気がする。コップの水をこぼしそうになりながらたじろぐと、夜半の視線も一緒に揺れた。相手はどこまでも大真面目らしかった。
「すまん。今でも引きずってるのかと思って。いくらびっくりしたからっていっても叫ぶのはよくなかった。悪かった」
 あのときの夜半の大声は驚きゆえのものだったらしい。憤慨しているようだった向こうとは違う声音だったのは確かに覚えているが、本人から言われるとは思っていなかった光星が黙っていると、夜半が話を更に続けてくる。
「騒ぎにしたことは反省しているんだが、困ったことに向こうが怒鳴った理由が分からんのだ。本人に訊くにしても話題にしないほうがいいような気がするし」
 口調こそ淡々としていても、夜半はこれで結構悩んでいるようだった。逆恨みでは、という言葉が光星の喉に引っかかった。こんな風に他人を気にかける夜半が人との別れを拗らせる人間にはとんと思えなかったし、実際に本人は心当たりがないと言う。
「想像しづらいんですけど、学生時代に何かあったんじゃないんですか」
 余談になるが、深海部のほうでも似たようなやりとりが行われたということは、この二人は知る由もない。夜半はしばらくの間沈黙を挟んだのち、僅かに視線を上げる。
「いや、やっぱり特に何もなかった。相性が悪いというわけでもなかったはずだし――どうしてだろうな。あいつのことだけじゃないよ――色々と不思議でしょうがない。俺は別にこの会社が嫌いなんじゃなくてだな、ちょっと疑わしいと思ってるだけなんだ。お前みたいに優秀でここに入りたい奴だけ入社させればいいものを、どうしてさほど執着のない俺をわざわざ引っ張ってきたのか、って」
 うんうん頷いて静かな夜半の声を吸い込んでいた光星が止まる。
「引っ張られてきたって、部長は部長で入社試験を受けられたんじゃないんですか?」
「受けたには受けたが、お前とはだいぶ違うんじゃないかな。ほぼ引き抜きのような状態だったというか。実を言うと、俺も永遠とわも学生時代はブルー・エデンに入る予定はなかったんだ。それぞれ宇宙と海に興味はあったけど、まあ一般人として生きていくんだろうとお互い思っていてな。それがまさかここで再会するとは」
 夢前ゆめさきと話したときには、ここの社員の大多数がブルー・エデンに入りたいという意思の元に集まった印象を受けたのだが、聞くところによるとどうも夜半はそこまで確固たる信念を持って入ったわけではないという。ここに就職が決まって「ようやく」と安心したのは、それまで職が不安定だったからという面が大きいそうだ。
 まあ、そういう人間もいるだろう。事情なんて人それぞれなのだから仕方がない。自分と同じようにまっすぐここに来たのだろうと、夜半のことを決めつけかけていた光星は、なんとか自分に今し方得た情報を言い聞かせてその気持ちを飲み込んだ。まだうまく噛み砕けないが、別に光星の生き方を否定されたわけでもないのだし。
 奇妙な具合に肩の凝りそうな光星の横で、夜半の眼球の表面を星が滑っていく。もう適当な表現がみつからないらしく、夜半はコップの縁を唇に当ててまた黙り込んでしまう。
 実際どういう状況だったのかは本人でないと分からないが、引き抜き、というからには、やはり夜半が優秀だったのではないだろうか。それなら納得できる。思いついた光星は、小さな光を追いかけるように声を上げた。
「他に同じような境遇のひとがいらっしゃらないかとか、天下社長ご本人から理由を聞き出せなかったんですか?」
「特に。必要な人材には声をかけます、ぐらいだな。――そういうもんかね――、ほんと、俺より適任はごろごろいるだろうに」
 水を飲みながら器用にしゃべっている夜半を見、なんとなく内心で光星は胸をなで下ろした。そうか、夜半は別にこの会社を悪く捉えているというわけではないのか。社長を信じていないと言われたことが引っかかっていたのだが、光星が深読みして心配するほどおかしな意味はなかったらしい。夜半はただ、ここに呼ばれた理由が気になっているだけなのだ。確かに何も心当たりがないのにいきなり引き抜かれたら戸惑いも抱くだろう。納得できる理由を教えてもらえないのなら尚更だ。
「天下社長ならそういうことをするお人ですよ」
 考え込んでいた二人の前に真っ黒な髪のカーテンができ、一瞬で星が消えた。髪の持ち主は宇宙部のスタッフだ。水の入ったピッチャーと髪を揺らした彼は、光星と目があうといたずらっぽく目配せをしてくる。
「すいませんね、お困りのようだったんで聞かせてもらいました。――社長ご本人が仰ったとおり、優秀だから部長はここに呼ばれたんじゃないんですか。たまに見ますよ、そういう引き抜かれた奴。皆が知ってる例ならセレさんですかね。あの人はデータ化後に行く当てがなかったらしくってね、それならって社長が迎えたそうで」
 断りを入れずにピッチャーを傾けてくる相手から、されるがままに水のおかわりをもらい、相手を観察して暫くぼうっとしていた光星は慌てて礼を言った。コートのような丈の長い上着にロングヘアーという、全体的に長いこの男性は、名をれんという。宇宙部のオフィスに夜半と光星が来るようになってから何かと世話を焼いてくれる存在だ。夜半が来る前は永遠と協力してここを支えていたというから、その名残がまだあるのかもしれない。
「セレって向こうの補佐か。あの人が」
 同じく礼を言いながら水を注がれていた夜半が呟いた。引き合いに出すにしてはちょっと古株すぎやしないかと光星が首を捻っている間に、恋は肩へ髪を流して夜半の視線を掬う。
「他に知りたきゃうちのメンバーのデータ見てみればどうです? オレは無理だけど部長なら権限持ってるでしょ。入社の経緯ぐらいなら開示されてるんじゃないかと」
「できるとしても、それはちょっと気が進まないな。皆そう簡単に個人的なことを知られたくはないだろう」
 ごく普通の返し方をした夜半に向かって、潔癖ですねえ、と恋は猫のように顔を引き延ばす不思議な笑い方をした。
「不思議なひとが上に来たな――お二人ともオレのこと必要なさそうな顔しちゃって。――いえ何でもないです。言いづらいんですけど、そろそろ休憩終わっちまいますよ。どうですお二人さん、仕事には慣れた感じ?」
「ええ、いや、あんまり。ほら、ブルー・エデンは秘密が多いでしょう? こんなところだなんて思いませんでしたから、僕はまだ」
 夜半がまた思考に耽っているため、光星が代わりにと返事をすれば、恋はいたずらっぽい笑みを更に深めた。まるでアニメ映画に出てくる猫か狐のようだ。
「無理もないわな。一日中横になって空想し続けるなんて、なんだか仕事って感じしないもん」
 確かに。改めて自分たちの職務を言葉にされると少しおかしい。
 ブルー・エデンの上層部での仕事は、夢を見続けることだ。ここでいう夢というのは叶えたいことではなく、リラックスしているときにとりとめなく想像するものや、突拍子もないような願望の類いを指す。オフィスの中央には、そういった空想をエネルギーとしてメンバーから抽出し、分け、世界に配送するための機械がある。部屋がプラネタリウムのようになっているのはより落ち着いて想像することができるように、との配慮もあるそうだ。部屋の中心部のソファで横になり、想像したことを機械に送るためのヘッドホンのような装置を身につけ、あとは就業時間いっぱい夢を見る。現場の人間は細かな作業ばかりしているらしいが、上層部はほぼ一日中眠っていると言っても過言ではない。
 ほとんど眠っているとはいえ、それが楽で簡単だ、とは言い切れない。何しろ光星たちの空想で人間たちの生命活動やコロニーの構成が成り立っているのだから、割と疲労感がある上、責任は重い。
 データ化した際に、生命活動で発生するエネルギーが集められ、巡り巡って他の人間の生命活動のための原動力になる、という説明はある。一般人でも存在しているだけでエネルギーを発しているのでそれを利用して社会を維持させているのだ。
 データ化を考え出した世代の者たちは、崩壊していく日本列島から人工の浮島を切り出し、そこに国の中枢機能を置いて国民を集めた。だからコロニーの土台は間違いなく物質的なものなのだが、それでは規模が小さすぎて宇宙や海底に逃げる準備どころかコロニー内で生きていくこともできずに滅びてしまうことが危惧されたため、こういった対策が講じられたのだ。コロニー内での電力は限られる。かつて主流だった発電方法のほとんどが封じられた今、人を支えるものは夢であり想像だった。
 光星たちはいわば夢を見る専門家である。夢は収集され、備蓄され、比喩ではなく人を生かし、物を、大地を形作る。一部は人々の生きるエネルギーになり、残りは所属する部の目指す場所へ到達するための動力として保管される。足りない資源のすべてを、自分自身の想像力に頼る、人類は今そういう生き方をしている。
「想像エネルギーが生活を支えているのは習いましたが、具体的なことはここに来るまで知りませんでした。僕の見た夢は世界のどのあたりを構成しているんでしょうね」
 光星はしみじみと言いながら部屋の中央へ視線を投げる。休憩から戻ってきたメンバーが思い思いに各々のソファに沈み込み、ヘッドホンをつけて夢を見るのを見守る。自分も戻る頃合いか、と立ち上がったところで、まだ何か考え込んでいる夜半に向かって気を引こうとしている恋を振り返った。
「ところで恋さん、あなたはどうしてこんなに僕らに親切なんですか? 社長に何か言われたわけではないんですよね」
 今日と言わず、恋は何かと二人に構う。やはり夜半が来る前に永遠とここをまとめていた習慣が残っているのか。もう無事に部長職が決まったのだから、少々頼りないかもしれなくとも、諸々のことはこちらに任せてのんびりしてほしいものだが。ややこそばゆくなった光星がそうこぼすと、恋は肩を揺らして部屋の中央に足を向けた。夜半を現実に戻すのは諦めたらしい。
「他人の世話焼くのオレの性分なんで。それに夜半部長はともかくとしても、光星さんには恥ずかしいところ見られてるからね。挽回したくて」
 流し目を向けられて慌てた光星が記憶を掘り起こす。が、何も思い当たるようなことはない。宇宙部上層のメンバーとは初対面の際何もなかったので安心しきっていた光星は何となく焦る。そんな光星を確認し、恋は黒髪をなびかせて星の散るソファに倒れ込み、続きを投げてきた。
「メンテ部でブラックアウト怖がって叫んでた奴いたでしょ、光星さんが挨拶に来たとき。あれね、オレなの」
 答えを聞いた途端に光星の記憶の中へあのときの悲鳴が帰ってきた。
 あれは恋だったのか。靴の先も見えなかったので誰かなんてまったく分からなかった。しかし相手はというと、恥ずかしいと表したのは言い過ぎでも何でもないらしく、ひらひら大きな手のひらを振ってヘッドホンをつけて視界から消えた。こっちは気にしていないのに。
 そんなことをつらつら考えていたせいで、横でやっと我に返った夜半のことを、光星はなんともいえない表情で出迎えることになった。明らかに光星を心配する顔つきになった夜半が何かを言う前に、光星は自分自身に言い聞かせるように話し出す。
「なんでもないんです。ただ、初対面のイメージをどうにかしたいと思う方が多いなと思いまして。ここに来てから出会いがいちいち強烈です」
 しかしよく思い返せば光星にもそういう部分はある。夜半と永遠が大声を出した、あのとき緊張で泡を吹いたのを、夜半に忘れてもらいたい、と光星は願っている。精神的にも身体的にも頼りになる鋼の部下だと誇ってほしいからだ。社長は――何も言わないのだから流してくれているはずなので――置いておいてもいいだろうが、夜半にだけは弱いとみなされたくなかった。自分もこんなことに必死になるあたり、永遠や恋と同じなのだ、と思いかけたところで、光星は思考を切り替える。
「僕らも戻りましょう。部長、もう考え事は済みましたか? 何をそんなに考えてたんですか」
 空になったコップは終業のときに戻せばいいだろう。小さな宇宙空間の中で白く浮かび上がる夜半に、立ち上がるよう促せば、音も立てずについてくる。琥珀の目はまだ遠くを見ているようだった。
「いや。お前の名前に懐かしさを覚えるので、何故かということをだな。この親しみはどこからくるのかと探っていた」
 まさかそんなことを唐突に言われるとは思っていなかった光星の、ヘッドホンを持つ手が止まる。
「そう思ってくださってたんですか。それは嬉しいです」
 心からそう返しながらも光星は妙な気分に陥る。なんだか自分が複数いるような、自分の知らないところで既に自分と夜半が出会っていたような、おかしな気分だ。
 業務に戻る前に理由まで聞いておこうと相手を見つめる。夜半の骨の浮いた手が持ち主の頭を覆い隠すのと、静まった室内へ声が生まれるのは同時だった。
「光星。死んだ兄貴の名前と字面が似てるんだ」



***



 光星のことを考えている。
 天下もそうだが光星も捕まらず、最近の永遠は些細なことで不機嫌になりやすい。生まれつき感情豊かなほうだ、とは一応自覚していても、外部からそれを揶揄されるのは慣れなかった。今日も今日とていやいや立ち寄ったメンテ部の代表医師に、定期健診にスケジュール通り行かなかったことを散々責められた挙げ句、「深海部のメンバーは性格が海底火山だ」といじられたのが結構効いている。あの医師はいっぺんどうにかならないものか。
 光星のことへもう一度思考を移す。本当に時々、共有フロアですれ違うのだが、そのたび後ろめたそうにそそくさと逃げられる始末だった。夢前とはそこそこ打ち解けているらしいと聞くのにどうしても永遠には心を開いてくれない。
 もう光星たちが入ってから一ヶ月以上が経つ。中庭では、環境保護区から贈られた夏の花が咲き誇り、虫まで飛ぶようになった。何もかもがうまくいっていた退屈なこれまでの自分だったら、興味を持って今年一番きれいな花はどれか見ていったかもしれないが、そんな余裕もない。こここそが天国だとでも言い出しそうに浮かれている中庭の様子を見るごと反比例して永遠は焦れる。
 詰めていた息をほどくと、エレベーターの扉にばっちり反射する自分自身と目が合った。今日は深海部のほうをセレに任せっきりにし、宇宙部の居住フロアをうろついていたのだった。もう時間は深夜に近く、自室に戻ってくる社員も増えてくるため、切り上げてバーで何かひっかけてから帰ろうと決めたのだ。ふと化粧が崩れているのを認め、どうせ誰もいないのだし、とポケットからいつもの青いリップスティックを摘まみ出し、唇を押さえていく。
 光星の件も含めて天下にも会っておきたいのに、あの顔合わせ以来彼女にも会えない。
 永遠がセレを連れずにいること自体が珍しいのだが、天下を探すことに集中したくてわざと一緒にいないのだった。永遠が深海部の執務フロアを離れても、セレを残していけばメンバーは安心する。それに万が一、天下がオフィスを前触れなしに来訪したとしても恐らく留めておける。しかしこれほど毎日社内をうろうろしても一向に天下のあの軍服姿を見かけないのは奇妙だった。連絡だけはきっちり入るがこちらの言いたいことを告げる前に切られる。まさか、こちらが中々手を出せない社外か宇宙部のほうにいるのか――いやそれにしてもこんなに長く社長室を空けたりはしないはずだ。通信にしたって返事くらいはしてもいいだろうに。少なくともこれまではこんなことはなかったと思うのだが一体どこで何をしているのか、十年付き合いがあっても中々計れないのが天下らしさであり、それがブルー・エデン自体のイメージ作りに一役買っているといえばそうなのかもしれないとは思えど、こんなところで個性を発揮しないでいただきたかった。こちらは真剣なのだ。
 心の靄を分散させようと、ひたすら唇に青を塗りたくる。――この青を身につけていると落ち着くのだ。青は永遠のかえる場所であり、味方であり、鎧だ――二階でエレベーターがとまり、蛇腹のように扉が動いたところで映っていた自分もずれていったため手の動きを緩めた永遠だったが、乗り込んできた相手を見て呼吸も少し止まった。
 夜半だ。
 なぜここに、とその真っ白でやや角張った姿から一瞬目を逸らすも、いや同じ会社で働く身なのだから乗り合わせるのは普通であると思い直す。二階には、社員なら誰でも入室自由な資料室もあるので彼がここで乗ってくるのは何ら不自然ではない。が、意図的にあまり考えないようにしていた人間と出くわすと気まずかった。相手はといえば顔合わせのときのほどに驚いた様子はなく、飄然と会釈をしてくるのでまたなんともいえない。
「あのさ、おまえんとこの満天光星なんだけど」
 形だけの会釈を返したあと、永遠の口を突いて出たのはそんなことだった。沈黙に耐えきれなかったのだ。話し出してしまった以上、何でもないと濁すわけにもいかず、右から放たれるほぼ同じ高さの視線を感じながらリップをポケットにしまい姿勢を正す。
「おれにちっとも懐かないんだけどどういう教育したわけ? 逃げられて困ってんだよ。おれはあいつのこと気に入ってるから仲良くしたいってのに」
 何を考えているのやら、夜半は眉一つ動かさなかった。地下二階に着いたことをエレベーターが告げる頃、永遠を捉えていた黄金の目がゆるゆるこちらから離れ、形の整ったやや厚めの唇が動く。夜半の声はひたすらに冷静だった。
「それは俺の教育云々ではなく、初対面のインパクトが大きすぎたのでは」
 思わず「おまえはセレか」と返しそうになる。どいつもこいつも、と続けて苦々しく思いながら廊下に出て、そこで相手が当たり前のような態度で隣を歩いているのに気づいて永遠は壁まで飛び退いた。
「びっくりした! なんでついてくるんだよ! おまえまでここで降りるこたねえだろストーカーか」
「頼むから落ち着いてくれ。――ついてきたというか、――もともとここで降りるつもりだったんだが。ここ、バーがあるんだろう。今日は何かひっかけてから部屋に帰ろうと思って」
 次は「おまえはおれか」と叫びそうになるのをすんでのところで押さえて落ち込んだ。根本的にはかけ離れた人間であるくせに、こうして時たま思考回路が似るのが厄介なこと極まりない。
 心なしかうきうきした空気が伝わってくるのは気のせいではないだろう。何を頼もうか考えているのだろうが、それまで分かってしまうのが正直しんどい。そうだこういう調子の狂う奴だった、としみじみ思いつつ、何だか様々なことが面倒になって永遠は投げやりになる。夜半とカウンターで話す間柄になるなんて願い下げだ、ここで帰ろう。そうしよう。
「用事思い出した。おまえはひとりで呑んでろ」
「忙しいんだな、お疲れ」
 どこまでも真面目な深い声に、嫌味も何も通じていないことを悟り乾いた引きつり笑いを起こす。今すぐここから立ち去りたいという気持ちが強まった途端、腹に響く大きな音と共に突如足下がぐらついた。
 揺れが大きい。津波か事故か、と、慌てて体勢を整えるも間に合わず永遠は見事に転倒する。己の意思で動く分には不自由がない体だが、今の揺れは大きすぎた。そういえばよそのコロニーから食糧が届くのが今日の今頃だったはずだった。しまった、失念していた。潜水艦が追突したのではなかろうかと不安になりながら身を起こすため手探りをしたところ、頭のほうから夜半がぼやいているのが聞こえてくる。知ってはいたがこんなときでも相手は特有のペースを崩さない。
「収まったか。――なんだ今の」
「多分、支援の潜水艦、こうやって地響きとどろかせながらうちの会社に着くから」
「そうか。全然知らなかった、教えてくれてどうも――ところで起きられそうか。ちょっとみぞおちに肘が食い込んでて苦しい」
 はたと気付いて目を見開く。道理で懐かしい気がするわけだ、下敷きにしていた夜半を蹴り飛ばしながら永遠は一度身を離し、またすぐに相手のタートルネックの首元を引き寄せる。
 懐かしい? 不可解だ。――そう感じる要素などもうないだろうに、とめまぐるしく思考がうごめく――ひとつの仮定に行き着いた永遠は表情を消して立ち上がる。ますます苦しい、と報告してくる相手の全身を無遠慮に触り、夜半の首をひっつかんで離さないまま早足で歩き出した。
「服が伸びるのだが」
「黙ってろ」
 夜半への謝罪も何もかもすっ飛ばし、一直線にバーの入り口を通り、よそ見せずにとある一カ所へ向かって進んでいく。表情が見えるくらいまでの暗さにライトダウンしたバーでは、仕事が終わってくつろぐ社員の姿もちらほら窺えたが、永遠はそれには一瞥もくれない。バーテンダーたちがしてくる会釈も浴びるだけだ。ただ一言、カウンターの向こうへと、
「いつもの部屋」
 とだけ言い放つ。衝立の奥へ迷いなく移動し、そしてそこにあるシックな扉を開け放って即、その口へ向かって夜半の背を思い切り蹴飛ばした。制止してくるわりには抵抗しなかった夜半がそこでとうとう派手な声を上げるが、永遠はそれさえ無視をして入り口の柱を見上げる。――取り付けられている装置が作動したのを確認し――手本のような舌打ちをかまして扉をくぐり、閉めた。先に入っていた夜半が蹴られた箇所を庇いながら呻いているのを視界に入れ、永遠の腕が慎重に背中へ回る。
「肉が抉れる。言いたいことがあるならまずは話をだな、――なんだここ」
 バーとは違って煌々と明るい。靴が埋まるほどにしきつめられているのは『世直しヘヴンちゃん』のプリントされた飴だ。明らかに先ほどとは異なる一室を見渡していた夜半を、永遠のテーザーガンが静かに封じる。起き上がろうとした中途半端な姿勢で、夜半は飴の沼を後退し、それにぴったり合う形で永遠もゆっくりと進んだ。こういうときにヒールだと歩きやすいのだ――やがて、沈黙に痺れを切らしたように永遠の青い唇が割れる。
「いつからブルー・エデンは保育園になったんだ? ここはガキの遊び場じゃねえぞ」
 怒気を孕んだ声音で呟いた永遠の前で、夜半が両手を開いて肩まであげる。
「おかしいな。俺たちはバーに入ったのではなかったのか」
「十年前のおまえのほうがもうちょっと演技が上手だったぜ。おかしいななんてそりゃおれの台詞だ――、言え。――生身がこの会社に何の用だ」
 その一言で夜半の肩から力が抜けるのを、永遠は両目で確かめる。相手はどうやらあまり隠す気がなかったらしい。
 ここは永遠の自室だ。バーの個室の扉をワープゲートに改造し、永遠が申請をしたときだけにここに移動できるように繋げてある。バーのスタッフたちも知らない隠し部屋だった。扉に設置されていたのは転移に使うエネルギーを計測する機械であり、そこをくぐった者の身体検査のような役目も果たすのだが――それが今回、そこそこ大きな数値を叩き出していた。体でも心でもどこでもいいが、とにかくどこかしらデータ化の済んだ者ならあんなにエネルギーは消費しない。
 間違いない。本人の反応で確信が強固になった。夜半はどこもデータ化をしていないのだ。
「人間の成長は第一次性徴、第二次性徴、そしてデータ化だろうが。もっと分かりやすく言ってやろうか? 乳歯が永久歯に変わるようなもんなんだぞ。そんなことも済ませないで何でここに来たんだ」
 己のことよりうんざりしながら永遠が夜半に訴えるのは昔と同じ言葉だった。夜半は頑固なもので、中々自然の流れに身を任せようとしないのだ。データ化に必要な資金がないというわけでもないくせに。
 というより何より不思議なのだが、よくもまあここまで捕まらずに生身で生きてこられたものである。二十歳になる前には、資金のあるなしに関わらず、国の補助を受けて強制的に皆手術を受けさせられるというのに、何をどうやって逃れてこられたのか。
 十年前とは違う、とってつけたような真っ白な姿で、それでも夜半は十年前と同じことを永遠に向かって紡いでくる。
「俺がどう生きようが勝手だろう。怒られる筋合いはない」
「だまされねえぞ。もっともらしいこと抜かすけどな、法で決まってんだよ法で。仮にも一応同僚なんだから見て見ぬふりは無理な相談だ。宇宙や深海へ行くにしろ、ここで生きるにしろ、生身じゃできないってのに」
 十年前もこんなことを返した。気が遠くなるような目眩のせいで銃口がぶれそうになるのをなんとか押しとどめ、引き金に指をかけないように本体だけで相手を脅す。
 そもそも天下が許さないだろう。いや、さすがにあれを欺くことは不可能か。もはや天下が法なのだから、その鼻先を通って気付かれないはずがない。ということは、
「天下は知ってるんだな? 知ってておまえを採用したのか」
 果たして夜半は沈黙したままだった。何よりも雄弁な答えを受け、そして突然永遠はひとつの結論に至る。
 色々滞っていたのはこのせいだ。夜半がすべての原因だ。
 例年通りであれば、新顔が増えるのと同時に天下から彼らの情報を渡され、他の社員の情報も更新される。社員のプライバシーなど永遠にとってはないも等しかった。マスターキーを持つ天下が永遠に流すからだ。そういう約束だったからだ。今年は夜半と光星、二人の情報がくる手筈だった。それなのに今年に入って急になおざりになった。そのうちそのうち、で、もうずっと天下には逃げられている。それどころか、永遠が手を変え品を変え社員の情報を知ろうとしても、夜半や光星以外に関しても全員アクセス不可にされてしまった。
 何もかも、夜半を守るためのカモフラージュだということになる。夜半だけはデータベースに登録しようがないからだ。夜半を浮き彫りにしないために、全員の情報を閉じる。今年になって天下が公平さに目覚めたのではない。ましてや気まぐれでもない。夜半が生身であるという、そのたったひとつの秘密により、永遠は盲目にされ、すべてがもどかしくさせられているのだ。
 守られていることを夜半本人は知らないのか――何故、天下は夜半を庇うのだろう。この二人に接点などなかったはずだ。生身であることを許しているとでもいうのか。許しているのなら堂々と公表してもいいだろうものを黙っているとはどういうことだ。よくここに入れたな、とつい毒突き、決まりの悪さに永遠はすぐ口を噤んだが、夜半はどこまでも真面目な視線を返してくるだけだった。どうしてこうも透き通った顔になれるのか。
「――もういい分かった、――おれも黙ってる」
 何故かこちらが根負けしたようなおかしな気分に陥りながら、永遠は銃を下ろしてやる。身を挺してまで守る気は起きなかったが、騒ぎ立てて自分にメリットが発生するわけでもない。天下が知らずに夜半を入れたのなら天下には告げただろうが、それとも事情が違うのだし今は黙るしかあるまい、ただし近いうち必ず彼女に問いただそうという意思だけは固めておこう。
「生身が歩いてるなんて知れたら大騒ぎだから気をつけろよ。エレベーターで倒れたりしたらすぐ気付かれるからな。食事とかも。そもそもみっつのうち体データ化済はうちの会社じゃ暗黙の了解みたいになってるし」
「分かった。お前には迷惑かけないから」
 脱力しそうだ。夜半と会話をすると良くも悪くもこういう雰囲気になる、思い出したくない感覚と再会した永遠は我慢しきれず溜め息をこぼす。自由になった夜半が両腕を伸ばし、縮め、立ち上がって肩を回すのに合わせて、床一面に敷き詰められた無数のヘヴンたちが振動した。どれひとつとして同じものはないカラフルな景色の中、全身黒い永遠も浮いているが白い夜半はもっと異質だった。
 態度にこそ出さなかったが天下に隠し事をされていたというのがショックだ。少なくとも十年ロスのある夜半よりかは、もう天下と永遠のほうが親しい仲だというのに。公私混同なんてことを推奨しているのだしいつかはこうなる気もしていたが、いや疑うのはまだよそう、きっと理由があるのだ。敵を騙すにはまず味方からという考えからかもしれない――、いや、敵なぞ天下にはいない。一体何故? ――渦を巻き出す思考をすり抜け、夜半のとぼけた声が届く。
「ところでずっと訊きたかったんだが、服の趣味変わったか」
「おれの趣味じゃなく天下の趣味だよ。お前のその死に装束みたいな格好だってどうせ天下のプロデュースだろ?」
 聞き返せばあっさりと相手は首肯する。そんなところだろうと踏んでいたのが当たってしまった。広告塔として、それぞれの部のリーダーは印象的であれ、というのが天下が永遠によく言うことだったのだが、やはり夜半にもそう指示したらしい。
「うなじは隠しとけよ、データ化だのメンテナンスだのはうなじからやるのが通例だから。そのタートルネックはいいチョイスだ」
「どうも。相変わらず面倒見がいいな」
「……親切が怖いなら礼として満天光星に話とおしてくれない? 永遠チーフはいいやつだから、是非仲良くしなよ、って」
「それは了承しかねるな。お前がいくらいいやつで俺が感謝していても、それは光星本人が決めることだ」
 十年越しの再会を経たものとして自然なのか不自然なのかよく分からない会話をしているあいだに、夜半は扉のほうへ向かっていく。知らず知らずのうちにしていた緊張が永遠から抜けそうになる、すれ違うその一瞬、急に白い長身が止まった。なんだと振り返る前にあらぬ場所にぬるい感触を覚え、それとほぼ同時に青く染まった夜半の親指が永遠の視界に入る。
「あんまり口出したくないんだが、――これはやめたほうがいい。顔色悪く見えるぞ」
 何か反応する暇がなかった。
 唇を裸に戻された永遠が、愛する自室の床に倒れ込んだのは、夜半の足音がずっと遠くへ消えたあとのことだ。――これだからいやなのだ、夜半と向き合うのは。こっちのことを気遣っているようで無遠慮に踏み荒らしにくる。穏やかで真面目な顔をしておいて、よくも、よくも。汗がこめかみを伝う、耳の奥に海流の音が聞こえてくる――、見ろ、お互い名前で呼び合いもしなかった。永遠と夜半は結局こういう関係なのだ。
 永遠は呟く。己に言い聞かせる。たぶん、あいしょうがよくないのだ、と。