Blue Eden #04 こまぎれメビウス






 
「ようこそメンテナンス部へ! おめでとうございます、貴方がたで本日こちらを訪ねてきたのは計十六名になりました。大してめでたい数字でもないですが祝えるもんは何でも祝っておきたいので勝手に薬玉を割らせていただきます。はいぱかっと」
 掃除はどうするつもりなのか。ここは人が行き来する出入り口なのだが。
 間抜けなラッパ音と紙を浴びた光星の小さな悲鳴が背後から聞こえたが、ここでは何か反応すればするほど絡まれるので夢前ゆめさきはひたすら黙っている。いつの間にこんなに手も費用もかかるようなものを仕込んでおいたのかという疑問は握りつぶす。事前に気づければ防げたのだが。そんなこちらを、紙吹雪の向こう、やたら作りのいい顔がへらへら笑ってきた。
「顔色が悪いですよ夢前嬢。さては賞味期限切れのおやつでも食べましたか? 今すぐここで診て差し上げましょうか」
「お気になさらず、ハイマ先生。調子がよさそうで結構なんですけどおしゃべりはほどほどに。あたし、こう見えても今お仕事中ですよ」
「おーや奇遇ですね、こちらも仕事中です。意外かもしれませんがうちの社で一番外回りが多いのは我々メンテ部なんですよ。元々純粋なブルー・エデングループの者ではありませんからねえ、この社だけじゃなく教育区、工業区、環境保護区、一般居住区、その他ひっぱりだこで多忙なんです。で、今日も医療区のほうで変な騒ぎ起きたから行かなきゃならないっていうのに薬玉なんか取り付けちゃったりして何やってんだろ。あはは」
 世界広しと言えど口であははと宣う人間など目の前の相手くらいしかいないだろう。色だけはやたら美しいが死んだ魚のような瞳は一切笑っていない。こっちの言うことなど碌すっぽ聞いちゃいないのだ。いつもこうだ。お互いの事情を放置して自分勝手に捲し立ててくるメンテ部代表の医師とやりあうのが得意な人間は夢前の知る限りまるでおらず、勿論夢前も苦手としている。あの永遠とわでさえここにだけは積極的には近寄らない。データ化を済ませた人間として、必ず彼らの整備や診察を受けなくてはならないのが本当に面倒だ。せめて代表が違う者だったらいいのにと何度思ったろう。技師なら他にも多く勤務しているが、代表は百年以上ずっと変わっていないという。
「夢前嬢、顔に出てる出てる。後ろの新人くんが怯えてます。新人ですよね、噂の星頭だし、夢前嬢が用もなくうちに来るはずないし。社員の顔なら全員把握してますがそこのは知らない顔です。挨拶に来たんでしょう、どうぞ」
 遠い目をしていた夢前を押しのけ、黄色い星の残像が残るほど素早く光星みつぼしが礼をした。礼の深さからして、怯えている原因は夢前の表情ではなく目の前の男にあるとすぐに分かる。きっと目の前の白衣の男もそんなことは分かっているのだろう。これは夢前の考えにすぎないが、この社で本当に厄介なのは永遠でも社長でもない。
「も、申し遅れました。初めまして、この春から宇宙部の部長補佐となりました、満天光星と申します。夜半部長共々よろしくお願い致します」
「はいご丁寧にどうも。こちらメンテ部代表のハイマです。我々メンテ部は社員の体調管理と社全体の機密保持をするのが仕事です。調子が変になったらここ、身体の修理も精神のバグ対応もデータ更新もサイバーテロ対策も全部ここ。基本的には担当医を呼びつけてくださいね、社員の個人情報は社長と担当医が把握するようにしてますので。わたくしは統括係であって誰か一人の担当ってわけじゃないんですよ。強いて言うならメンテ部メンバー全員の診察が普段の仕事です。どうしてもと言うなら依頼通してくれたらいつでも診ます。免許は一通り持っているので気軽にどうぞ。こっちからも色々とお願いすることがあるでしょうがよろしく。で、早速ですが頼まれてほしいんですよね」
 今日も恐ろしく舌が回る男は、やや背の低い体を曲げてオフィスの棚から何かを取り出した。癖のついたセミロングの緑の髪が肩を滑る。
「こっちこっち。あのね、夜半部長に伝えてください。『早急に担当医を変更されたし』と――怪訝な顔をしてますねえ、我々は基本的にここに缶詰か外で仕事してるかなので部長職の人に会うチャンスがないんですよ、しかも彼らと通信できる権利も持ってない。連絡しても弾かれるようになってます。中立だからです。だから訪ねてきてくれる皆さんに頼むしかないんです。大方のシフトは事前に告知されてますが、皆さん大分イレギュラーな動きをしちゃいますし」
 光星君は変更済みですね、と医師であり技師である男は紙をめくっている。担当医に関しては、まだ生身である幼い頃は教育区や一般居住区にいる生身専門の医師に面倒を見てもらい、データ化を済ませて仕事に就くあたりで手術を担当した医師へと変更するのが通例だ。光星は担当医とはしっかり連絡をとっていたようだが、部長職の人間が未だに担当医を変更していないとは――そういえばハイマ医師も光星の名前と顔をわざわざ確認してきた。メンテ部は、情報が社長から即時飛ぶため、遅れがないどころかあらゆることにおいて先回りしているのが常だが、今回は連携がうまくいっていないのか。
 やや狼狽しながら光星が肯定を返すのを見守り、夢前はメンテ部前の廊下でこっそりと壁に寄りかかった。窓の向こうから入る日の光が白々しく通路を走り、それと同じほどにやる気のなさげな医師の声が響いていく。
「さて光星君。夜半部長の本日の動向は把握してますか?」
「ええ、恐らく先に宇宙部のオフィスに入っていらっしゃるか、もしくは天下てんげ社長とご一緒かと。今朝お会いしたときに伺いました。夜半部長は天下社長から直々にこの会社について研修を受けているそうです」
「それはそれは」
 にったり、といやな擬音が聞こえてきそうなど紫の目をゆがめ、医師が笑った。
 光星に大切なことを忠告し忘れていた夢前は、そこで自分自身の失態に気がついて哀れな青年の腕を全身で引っ張った。身を強ばらせて驚く光星に急いで耳打ちする。
「社長のことはここでは禁句! ただでさえおかしいハイマ先生がもっと変になるから」
「おやおや全部聞こえてますよ、教育係とはいえいたいけな若者にあることないこと吹き込むのは感心できません。――天上天下が夜半部長に手ほどきねえ、仲がよろしいことで――ところで夢前嬢、永遠チーフの本日のご予定は? 貴女は別に補佐でもなんでもないですが、永遠チーフのおっかけしてるんだから知ってますよね」
 しまった、自分も捕まった。
 ここでは天下社長にまつわる話題はなるべく避けるのが賢明だ。何故なのか理由はさっぱり分からないし知りたくもないが、どうしてかこのいかれた医師がもっとおかしくなるのだ。しかしどうもこの医師は自ずから進んでおかしくなりたがる傾向があり、こうしてメンテ部を訪ねた社員は大体が餌食になって戻ってくる。はっきりいって傍迷惑極まりない。
 歯噛みしたくなる気分を抑え、夢前は脳裏に今朝の永遠を思い出して渋々返事をする。まったく、訊かれなければ言わずに済んだというのに。
「もしも夜半部長が天下社長といらっしゃるのなら先輩はそれを捜してます。永遠先輩、ここ一週間ずっと社長を追いかけ回してらっしゃる様子で」
「ということは天上天下は友人でもある永遠チーフからの通信にも出てないと。何やってんだか――まあいいや、永遠チーフね、定期健診のメンテナンスが昨日だったのにまたサボりやがりまして。更新データ送ったのにそれも拒否されてるし、色々ひっくるめてうちに顔出すように強く言ってくださいね。仲良く追いかけっこしてる場合じゃないんですよもう、できるなら今伝えちゃって」
「今は繋がりません。どこにいらっしゃるのかあたしからじゃ全然探知できません。本日中には捜し出して直接念を押します」
 夢前や永遠のメンテ部嫌いもやむを得まい。何しろこの調子だ。担当医がいくら穏やかな人間であったとしても、ここの扉を叩けば代表のハイマ医師と必ず顔を合わせてしまう。変えてほしいのだがこれで有能らしく、一向に異動する気配がない。
 なんかおかしいな、と上半身をあさっての方向にねじ曲げて何かの作業をしながらハイマ医師が呟いたのを拾い、夢前はこめかみを揉んだ。鏡をラケットにして今の言葉を打ち返してやりたい。
「光星君は毎回忘れずメンテナンスに来るように。担当医ともちゃんと連絡とって。夜半部長にも、くれぐれも永遠チーフみたいにならないよう今から釘さしておいてください。生身みたいにあっさり死ぬことはなくなりましたが、データ修復はその方法を知る者じゃないとできないんですよ。ちゃんといじれるのは資格を持つ我々のようなごく一部の人間だけ。変換手術のときに説明があったでしょう、定期的にメンテナンス受けないと劣化するし変なウイルスにも感染しやすくなるって」
 変換手術、及び生体データなどの管理や修復は一般人には許可されていない。そもそも専門の道を選ばなければ方法を学ぶ機会も訪れない。自分の体なのだから、劣化や破損しても自分で修復するのが理想のあり方のように思えるが、現実では医師や技師連中が独占している。
「時間と人材と金の問題ですよ」
 とはハイマ医師の談だ。
 確かに、大体のことはそれで説明がつく。情けなくとも悔しくとも本当のことなのだ。こればかりは天下社長が優秀だとしても無理がある。現にデータ化についてだけではなく、三百年放置されている問題も多く、建物や法も昔のものを今でも無理矢理使い回している。
 人にものを教えている時間がない。教えられる人間がいない。いたとしても、そしてデータですぱっと教えられることだとしても、その人間を動かすための褒美がない。結果として変えられず、もう見捨てていくしかない物事が増えていく。
「メンテ部というか、うちの会社もどこもそうなんですが、無償で何かをするわけにはいかないんですよね、首が回らなくなっちゃいます。世間のバランスも今以上に崩れてしまうんです。個人にデータ修復法を教えないのもバランスのためです」
 ただでさえ人類全体が大地から追われているのだ。荒廃が進んだ大陸を再開発していくには何もかもが足りず、浮島のようなそれぞれの支部のコロニーで新天地を探し続けている。もう先を見るしか道がない。
「なんていうか、世の中って結構窮屈ですね。学校じゃこんなこと一度も思わなかった」
 隣で立ってハイマ医師の長広舌を聞いていた光星が目に見えて肩を落とした。――夢だけを追いかけてここまで走ってきた若者にはつらかろう、光星にはやや潔癖な部分も見受けられるし、学校が子どもたちにしてやれることにも限度がある。しかもブルー・エデンには機密事項も多いときた。民間人が知らないまま一生を終えるような事実と、ここの社員は色んな場面でぶつかっては折り合いをつけていかなければならない。
「光星くん、そんなに落ち込まないで。きみやあたしにはこういう現状を打ち破るちからと可能性があるからこの会社に選ばれたのよ。でしょ? あたしは海の底、きみは空の向こうっていう違いはあるけど、地表を離れて新しい場所で生きていけたら、あたしたち全員ここの窮屈さとはおさらばだわ」
「夢前嬢はロマンチストですね、果たしてそういうもんですかねえ。こうして見てると天上天下の手腕も中々どうして面白い」
 意味のよくわからない茶々を入れてくる紫の目に、黙ってて、と遠慮なくぶつけ、夢前は光星の腕をまた引っ張った。皺一つないスーツが彼そのもののようだ。
「おーおー怖くて敵いませんよ。これは永遠チーフの件はセレ嬢に頼んだほうがよかったかな」
 これだけこちらが苦手な空気を出しているというのに医師は態度を改善する気など更々ないらしい。呆れのあまり、のらくらしているその声を一旦無視しそうになり、戻って言葉を捕まえた夢前は口の中で返事をする。
「セレくん? いつもだったら先輩と一緒のはずですけど。でもそういえば今日はあの子もどこにいるのか……」
「私に何かご用でしょうか」
 背後から降ってきた湖を渡る風のような声に三者三様飛び上がる。こちらを向いていた医師は夢前や光星に注意をとられ、セレが近づいてくるのに気づかなかったらしい――声の主はそのシュールな光景には一言も触れず、透き通った青い目で夢前たちをただ見渡してくる。
「失礼、驚かせてしまったようですね。私の名が聞こえた気がしましてつい反応してしまいました。御用向きでしたらお伺い致します、――もしや永遠チーフの健診の件ですか。ご迷惑をおかけして申し訳ありません、こちらから必ず連絡しておきます」
 相変わらず話が早いなあ、とハイマ医師がぼやきながら背を向けた。光星はというと無表情でまっすぐ立っているセレを見上げて口を開けている。
「そういうセレ嬢はここに何の用で? あ、待って、なんか奥が騒がしいですね――ちょっとそっちで勝手に親睦を深めといてください。部長補佐としての仕事だったらセレ嬢のほうが詳しいでしょうし。どうせライバル部で組ませるなら部長補佐同士で組ませたほうがいいのにね」
 と、火種だけ落として医師は引っ込んでしまう。あとに残された気まずい空気に夢前は何となく舌を封じられていたが、ややしてから光星がその沈黙を破った。
「あの、」
「はい」
「もしかして、永遠チーフと僕の部屋に来たのはあなたですか。あなたが、つまり、永遠チーフの補佐の?」
 すっくりと真顔でセレが頷いたのを見、夢前もうっすら理解する。敵情視察、と永遠が説明してきたあのときのことが永遠の光星への謝罪を指すなら、一緒につれていた部下というのはセレのことだ。ホールで二人を出迎えた夢前には言い切れる。光星はまだデータと実際の社員たちの照らし合わせに必死な段階なのだろう。
 永遠の補佐と言えばセレである。比べて夢前は上層部スタッフだというまでだ。確かに嫌味な医師の言う通り、夜半の補佐になった光星の教育は対であるセレのほうがいい気もする。
「先日はどうもお騒がせ致しまして申し訳ありませんでした。その後どのようでしょうか。部長補佐としてなら私もお役に立てるかもしれません。私はメンテナンス部に用事があるわけではなく、貴方がたがお困りでないか様子を見に参りましたので、どうぞよしなに」
 セレのトレードマークである銀髪と後頭部のバイザーが光った。そこに反射して映っている夢前と光星の顔が動きに合わせて揺れる。
 永遠は随分とこちらのことを気にかけているらしい。「夢前だから信頼はしているがそろそろメンテ部にいじられている頃合いだろうから」、とわざわざセレを向かわせたという。確かに、ここでは何かを説明する暇も満足に与えられない。永遠はこういうところで妙に先を見て気を利かせることがあり、そのたびに夢前は助けられっぱなしなのである。奥の騒ぎはセレとは何の関係もないようだったが、セレが来たことで何となく空気が変わったことは確かだ。
「ありがとうセレくん、正直ほっとしたわ。先輩にもあとでお礼言わなきゃ。ハイマ先生、別に悪人ってわけじゃないんだけど、どうも肩が凝っちゃって」
「お疲れ様です。このメンテナンス部はもはやブルー・エデンとは異なる場所ですので、多少居心地が不安定になるのも致し方ありません。ここの技師及び医師たちは、誰も皆、深海にも宇宙にも興味がないのだと公言しております。人々にデータ変換手術を施し、その経過を見守り、整備していくことにしか夢中になれないのだと。だからこそ天下社長から中立の者として選ばれ、ここに配属されているようですが」
「そっかあ、個人情報を扱う人間としては最適なんですね。まあそうだよなあ、僕の体がどうなってるか知っていていじくれるような立場の人がどちらかの味方だったら、色々こじれるもんなあ――それにしても癖が強いですよ、ここは」
 すっかり苦手意識が刷り込まれたのか、眉を下げた光星が首元を緩めて息を吐いている。
「あまり緊張しすぎずとも心配はないかと。礼儀さえ守っていればトラブルは起こりません。それに個人情報は社長の指示もあり厳重に管理されておりますし、いくら癖が強かろうとメンテナンス部のメンバーはその道のプロです。私も変換手術を済ませて二百年以上こちらのお世話になっておりますが、問題など一度も起きたことがありません。いつも丁寧に診ていただいております」
 だいぶプライベートなことだがこのまま聞いてしまっていいのだろうか、という表情を光星が向けてきたので夢前は瞳で頷いてやる。夢前が知る限り、セレのこれはいつものことである上に、セレの監督者である永遠も頓着しない。セレもやりとりに気がついたらしく、清潔なシャツに包まれた上体を整えてまた話し始めた。
「お聞きいただいて構いません。どこを変換したかについてはトップシークレット、というのが一般的な考えだとは私も承知しておりますが、私個人に関しましては知られても何の支障もないと認識しております。こういった例があるのだという点で様々な方に取材されることもありまして、もはや隠す必要性を感じないのです」
 セレは、体と心と記憶のみっつすべてをデータ化させた唯一の人間だ。
 データ変換手術が浸透し、人類の義務となってから三百年、セレの他にこうした生き方をしている者は他には一人も出ていないという。セレの過去に何があったのかは誰も知ることができない。本人は忘れることを望んだために欠片も知らない状態になり、関わった医師たちや雇った天上天下も語ることはない。
 光星はというと、感心の態度を隠さず頻りに頷きながらセレを見上げていた。彼のきらきら輝く髪と目を見ていたために、今日一日まばたきの回数が増えた気になり、夢前はつい瞼をこする。
「へえ、あなたが……、お金かかったでしょうにすごいなあ、みっつ全部変えた人ってこの会社にいたのか。都市伝説だと思ってた。――メリットってあるんですかね? やっぱりすべてにおいて打たれ強くなるとか」
「すべてにおいて、という表現が適切なものかは判じかねますが、丈夫になることは間違いありません。鍛えなくとも身体は健康で老いを知らず、また重要な事柄を忘却することはなく、感情に振り回されず行動できます。私の場合はオプションとして心の面をかなり調整しておりますので、やや無機質な部分が出ているのはその影響です。心をデータ化させたからといって誰もが私のような口調や顔つきになるわけではございません」
「それでも代償は高いんですけど。小まめなメンテが必要だし、ロボットじゃないんだから感情自体は発生するし」
 こんにちはァ、と舌っ足らずな声とともに、メンテ部の出入り口からショートヘアの少女が顔をひょっこりと覗かせる。
「みまるちゃん」
 ハイマ医師の次にここでよく見かける顔だ。思わず飛び出た夢前の呼びかけに相手はにっこり微笑んだ。ファッションでかけているという丸メガネの奥、ただでさえ溶けそうだった相手の垂れ目が一気に白い肌へ埋まる。
「はい、みまるです。来ちゃいましたぁ。ハイマせんせ、まだ時間かかりそうだから」
 みまるの赤茶の猫っ毛と長い白衣が揺れる、その瞬間に彼女の背後から絶叫が響いた。なんだなんだと気にする光星を押しとどめ、夢前は跳ねた肩をごまかしながらその場の人間に目配せをする。
「大丈夫ですよ、ハイマせんせがいるから。ね」
 夢前のアイコンタクトを受け取らずにみまるが説明してきたが、多分新人には安心感が伝わらないだろう。大方、健診を受けている誰かがブラックアウトを怖がって駄々をこねているのだろうが――確かにあれは何度経験しても、いくつになっても気持ち悪くなるものだ、――少々タイミングが悪い。覆い隠すようにハイマ医師のあやす声も響いてきたがお世辞にも上手とは言えなかった。
 空気に耐えかね、みまるちゃん、とハイマ医師のほうを向いている少女を促せば、今気がついたというようにみまるがこっちに手を振ってくる。独特のリズムを持つ彼女はハイマ医師とは違った意味でコンタクトの取りづらい相手だ。
「あ、はい。みまるですよ。今日のファッションテーマはピンクのみまるですう。そっちの黄色い髪のひと、満天光星さんですね? みまるのこともおぼえてもらえるとうれしいです。えっと、みまるはメンテ部の技師兼医師で、主にハイマせんせのサポートをしてます。あとはモルグの管理人もしてたりしてなかったり、やっぱりしてたりです。ごぞんじですか? モルグのこと」
「もしかしてシュレディンガーのモルグ? うわ、今日で都市伝説ふたりめですよ!」
 初めまして、と喜び勇んで握手を求める光星に、みまるは愛想よく応じながらゆっくりはしゃぎだした。ゆっくりはしゃぐ、というのがみまるの不思議なところだ。彼女は何をしてもゆっくりに見える。夢前だけの感じ方なのかどうか知らないが、みまるが現れるとその周囲の時空がべたつくような感覚に陥るのだ。
「うれしい、みまるのモルグはまだ都市伝説入りしてるんだぁ。そう、みまるがあのシュレディンガーのモルグの管理人です。モルグって呼び名ついてるけど、実態がよくわからない、うわさのアレの管理人」
 実際何が眠っているかは秘密ですう、とみまるの小さな唇が紡いだ。
 モルグはそのままの意味でとれば『遺体安置所』ということになるが、ブルー・エデンのモルグに何があるのかは、今みまるが言ったように一般には知らされていない。実情を知っているのは管理人と天下社長だけだという。ただ、今までデータ化してきた数多の人間たちの何らかが保管されているのでは、ということだけは誰もが信じてやまない。モルグという呼び名をわざわざつけているのだから、そう呼ばれるほどの何かがあるのだろう、というのが理由だ。確かにそれは理に適っている。データ変換手術の際に、誰でも皆契約書にサインをし、生身の時点での個人情報を提供しているからだ。その情報がどこに行ったのか、医療区ですべてが管理されているとは考えづらく、それならばこれ見よがしにモルグと呼ばれている場所にしまい込まれているのでは、という理屈である。
 ちなみに、地下二階にある、何の音もしない暗い部屋にみまるが出入りする姿が何度も目撃されているが、どんな理由であろうとそこに足を向けた者は全員みまるの設置したセンサーに感知され、ハイマ医師と天下社長につきだされ、相応の処分をくだされている。勿論その部屋への入室許可を申請してもすぐに却下される。噂の真偽は置いておいても、そこに何かがあることは疑いようがない。
「くれぐれも度胸試しにつかおうとしないでくださいねぇ。さほどおもしろいところじゃないし。えっと、みまるたちは『肉体をデータに変換した』のであって、けっして『肉体を脱ぎ捨てて機械になった』わけじゃあないのです。セレさんも夢前さんも満天光星さんも、もちろんみまるも、体も心もここにちゃんと存在してます、生身じゃないってだけで。クラウド上にあげてるのはバックアップにすぎないし、本体はここにあるのです。だから、変換前のみなさんがカプセルに入ってぷかぷか浮かんでるとか、クローンが造られてるとか、そういううわさはひろめないように、ですう」
 その内容の噂が流布していたのは夢前が大学生だった頃のように思うが、まだ通用するのだろうか、と思ったあたりで光星がぎこちなく笑った。セレのような人間がいることを知っていたようなそぶりを見せたことといい、みまるへの態度といい、これはもしや。
「光星くん、ゴシップとか噂好きなんだ」
「ええ、まあ。でも好きっていうか、知れることは何でも知っておきたいっていうか、そういう感じですよ。怖いことでもみんなと騒げたら結果的にはいいし」
 夢前には彼の感覚はちょっと分からない。あまり人とそういった会話をすることがないのだ。情報通なのはよいことです、とセレがごくごく真面目に光星へ返すのを何とも言えずに見守っていれば、みまるの丸い頭の上にハイマ医師の顔が並んだ。僅差でなんとかハイマ医師のほうが背が高い。
「やけに賑やかだと思ったらみまるもいたんですか。楽しそうで結構ですがあんまり変なことに首つっこむんじゃないですよ、光星君には宇宙部の仕事があるでしょうが。我々は余計なことを考えずに目の前のことをやっていけばいいんです。――というわけで次」
 すっとんきょうな声を上げて光星の形のいい両手が握手の形から崩れる。多分メンテ部のほうから大きめのデータが送られたのだ。握手されたポーズで放り出されたみまるはというと、光星はそっちのけでペンの頭で眉間を揉んでいるハイマ医師を丸メガネの奥からじっくり見分している。
「すみませんね手荒で。担当医と天上天下から許可下りてましたよ、そろそろいってらっしゃい、武器庫」
「やだ、忘れてた」
 武器庫って何、と情けない声を出した光星をそっちのけで夢前は口元を押さえる。相当な重要事項なのにうっかりしていた。ここでハイマ医師に言われなければ、許可がおりていたかを訊くのさえ忘れたままだっただろう。――体だけしかデータ化していない自分の記憶力を恨む。いやそんなことより今は光星だ。
「光星くんしっかりして。あのね、よそだと警備会社とか警察くらいしか許されないんだけど、うちの社員はみんな工業区から武器をもらって携帯してるの。不意のトラブルでも切り抜けられるようにって配慮」
「不意のトラブルってなんですか! 皆さんラフなお付き合いをなさってるんじゃないんですか」
「それとこれとは、なんていうか、ちょっと待って頂戴、あたしだって社長が何を思って武器携帯を義務にしているかなんてこれっぽっちも分かんないけど! それを言われちゃあたしも困るわ」
「お二人ともどうか落ち着かれてください。光星さん、確かに私たちは例外なく――メンテナンス部および警備会社の方々は外部所属となりますので、やや事情が異なりますが――誰もが武装しております。いずれも威力の低いテーザーガンです。しかし実際に使われることはありません。少なくとも私はこの社に勤務して、これまで銃を持ち出すような事態には一度も遭遇しておりません」
 見た目に関しては当てはまらないが、セレは天下社長に次いで最高齢の人間だ。しかも記憶もしっかりしている。そんな人間が冷静に説明していることで安心したのか、ハイマ医師とみまるはこれ以上話に加わる気がないらしく、もうそっぽを向いて別の仕事をしている。メンテ部の連中にこれ以上何かを求めるのはむしろ酷だ。彼らは中立の立場であるがゆえに、こういったことの詳細に関しては口が重くなる。
 薬玉から出た紙吹雪の花畑の中、早々に諦めた夢前は、額を押さえてしゃがみこんでしまった光星の背中を軽く叩く。データ化させる前にきちんと体を鍛えていたのかもしれない、と叩きながらふと思う。痛々しいほど汚れのない紺のスーツに覆われた肩と背は、意外にも逞しい感触だった。
 しばらくの間、セレはそんな光星と夢前を見守っていたようだった。やがて身を屈めている夢前の頭上から、僅かに波立った湖面のような声が届く。どうも少し困惑しているらしい。
「大丈夫でしょうか。そろそろ永遠チーフのもとへ戻らせていただきたいのですが、構いませんか。――工業区まで続く地下通路は、機密保持のために同行者がいると通行不可になりますが、その通路の手前までならば誰と一緒であっても咎められることはありません。まず最初はお二人で道を確認されることをお奨め致します。――夢前さん、あとをお願い申し上げます。永遠チーフへの健診の件はお任せを。それでは」
 律儀にハイマ医師やみまるに向かっても礼をしたのち、セレは踵を返してエレベーターのある方向へと廊下を進んでいく。やや早足なのがセレらしい。ありがとうね、とその長身に投げ、夢前はまた光星を見下ろす。
「こんなの聞いてない!」
 セレが角を曲がったところで光星が突然立ち上がった。ぶわっと紙吹雪が床から舞い上がる。
「驚く気持ちは分かるけど慣れて。こういう場所なの、うちの会社は」
 ふと脳裏に永遠の顔が浮かぶ。セレは光星と夢前のことをどう報告するだろうか、という懸念が一瞬よぎったが、本当に一瞬で消えた。後ろから無責任な声が降ってきたからだ。
「ねえ夢前嬢。貴女うっかり失念していたわけじゃないでしょう、心のどこかでは新人に銃携帯の話なんか説明したくなかったんじゃないんですか。自分以外の他の誰かがさりげなく切り出してくれるのを小ずるく待ってたんじゃないんですか? 貴女結構そういうとこありますもんね。どうかな」
「ハイマ先生、業務に戻られたんじゃなかったんです? あたしも先生も暇じゃないんだから――光星くん立って! そろそろ行くわよ、支えたい相手と叶えたい夢は待ってくれないわ」
「そんなんだからセレ嬢に勝てないままなんですよ」
 引っ込み際にハイマ医師が落としていった呟きは光星の文句に掻き消される。反応するタイミングをすっかり逃した。
「やっぱり軍じゃないですか。この会社こわい、どうしよう夜半部長たすけてください」
 きみが支える側でしょうが、と言いつつ夢前は、べそをかく光星を引っ張ってメンテ部前から移動させる。データですぐ教え込めばいいようなことをわざわざ口頭で言ったり、紙でやりとりするのにも理由があるのだ。――社長にしか分からない理由だろうが。どうせデータだと漏洩の可能性があるとかそういう問題だろう――とにかく、今の夢前にできることは、光星を再び夜半の元へ戻す前に、宇宙部上層スタッフたちの足を引っ張らない状態までに仕立て上げることだ。憶測でしかないが、夜半も今頃説明を受けて戸惑っているはずである。光星をこのまま宇宙部に戻しては深海部全体の沽券にかかわる。
 ハイマ医師の言うことはまともに取り合わないほうがいい。あれは腕と頭脳は確かかもしれないが、色々と厄介な人間なのだから。何を言われても気にしないほうがいい。混乱しそうになる自分自身に言い聞かせて廊下を進みながら、そういえば夢の中で永遠が振り返るのはこの廊下ではない、と気づく。――あの廊下はどこなのだろう。存在しない、夢の中だけの廊下なのだろうか。――ここを進んでも永遠にたどりつけないことなど、今知りたくなかった。