Blue Eden #03 夢先案内人







 近頃おかしな夢を見る。
 果てがないように思える、真っ白な廊下。自分の大切な先輩が、自分の先を歩いている。青いメッシュがまばらに入った長い黒髪が揺れている。自分はその少年のような華奢な背中に声をかける、そこまでなら概ねいつものことだ。相手に懐いてしまってから幾度となく見続けてきたただの夢だ。そこからの展開が最近は違う。ヒールの音がとまり、相手はこちらを振り向き、こちらが追いつくまで親しげに笑いかけて待ってくれるのだ。夢の中で自分は安堵して相手に手を伸ばし、やっと捕まえられた、と弾んだ声で話しかける。それに相手も楽しそうに返してくれる。コバルトブルーの小さな唇が羽化した蝶のようにひらめいて形作る。夢なのでよく聞き取れないが、何か、とても好意のこもった無邪気な言葉を。
 よくわからないオブジェに感謝するのはこういうときだ。なんとなく会話が途切れてしまったとき。案の定、先ほどまで目の前で黙ってこちらの話を聞いていた光星みつぼしも、吹き抜けを使って作られたフーコーの振り子を放心したように見つめている。――よくわからない、というのはおかしいか。この振り子は地球の自転を可視化してくれるものだし、それによってここが日本支部のコロニーであることも証明してくれるし、何だかんだいって社内では目印として人気である。末端同士の人間が遊びに行こうとするときの集合場所にはもってこいだ。夢前ゆめさきにはあまりなじみがないが。
「約四十一時間で一周でしたっけ」
 思えば中途半端な時間だ。無言でいるのも憚られたため、そうね、と相槌を打ってやれば、光星は揺れ続ける振り子を覗き込むようにしてチェアから背を伸ばした。
「で、結局、どうして他部署のあなたが教育係なんですかね」
 心底困った声で言われてしまったが、それだけはこちらも分からない。肩を竦めて見せれば、向こうもまた雛鳥のようにそうしてくるだけだった。



***



 お互いぎこちなくなるのも無理はない。しかし夢前はこれでも最大限努力をしているのだ。ここは色々と規格外の会社だが、一応新人教育のマニュアルはなくはないのでそれを取り寄せ、どうすればいいか身近な者たちに訊いてまわった。今まで新年度をどう切り抜けてきたのか、ひとつひとつ丁寧に思い出したし、自分がされたときの遥かな記憶も掘り返した。夢前が尽力することは夢前自身のためだけではなく、新人のためにも、大切な上司や同僚たちのためにもなると確信していたからだ。
 初めまして、とほぼ同時に頭を下げ、落ち着いて挨拶を交わしたのはほんの最初だけだった。
「よく来たわね満天光星、休暇の間に家族や友人に連絡は済ませたかしら? 早速この会社のあれそれを叩き込んでいこうと思うのだけど覚悟は決まっていて!?」
「僕は軍にでも入隊したんですか!?」
 光星が青ざめて数歩後退するのを視界に入れ、完全に間違った方向へ気を張っていたことに気づく。夢前が入社したときもこんなことはなかった。ごめんなさい、と慌てて取りなそうとしたところで、光星がしおしおと泣き言を言っているのが耳に届く。
「これから他の区の小屋にでも放り込まれて腕立てやスクワットをやらされるんでしょうか……、そういえば医療区に謎の施設があるとかないとか……きっとそこに閉じ込められるんだ」
「そんなことしないわよ。怖いこと言わないで」
 医療区の謎の施設ってなんだ。また若い世代の間で新しい都市伝説でもできたのだろうか。あとでちょっと聞いてみるのもまたコミュニケーションになるだろうかと思いながらも話を続ける。教育係として親しさと威厳を見せるつもりがこれでは形無しだ。
「ごめんなさい、あんまりしょげないでね。改めてよろしく、あたしは夢前。産んでくれた父から名字だけ継いだので名はこれだけなの。ええ、その、一応あたしも十年以上ここにいるからそこそこ色々詳しいのよ、遠慮しないで何でも訊いて頂戴」
 夢前のどことなく落ち着きがない様子が逆に共感を呼んだのだろうか。光星は幾分打ち解けたような顔になってデータを返してくる。
「こちらこそすみません、何だかここに入ってから予想外のことばかりで。満天光星です。よろしく――早速なんですが派手な名前の人が多いですね。僕の名前が霞みそう」
「訊かれるだろうと思ってたわ。あたしも入社してから周囲に尋ねたことのひとつだし。――それは天下社長の完全なる趣味です。社長は幼い頃に名前の件で随分苦労されたそうで、それで雇う側になってみてついつい変わった名の人を贔屓してしまうんだそうよ。今じゃ名前は服みたいに気軽に変えられるもののひとつだけど、やっぱり大事だものね」
 青年の『満天光星』もかなり目立つ名だが、社長の『天上天下てんじょう てんげ』に勝てるものは中々ないだろう。芸名かと思ってしまうほどだ。幼少期の苦労もいわんや推して知るべし、と夢前が告げたところ、光星も少し納得できたのか頷いた。
「何となく分かりました――それにしても、それ以外もここはちょっと変わっている気がします。僕の想像してた会社っていうのと全然違いますし、友人と連絡とっててもだいぶ差があって。機密事項も思ってたより多いし。まあ、ブルー・エデンだから、で大方は片付いてしまうんでしょうけど」
 光星の言いたいことは分かる。日本の大半の人間たちが勤める周辺の会社と、ここでは色々と仕組みが違う。そもそも成り立ちが特殊であるため、当然のようにあり方も異質だ。例えば、他では内定の決まった者はその時点で教育が始まることが多く、光星のように入社してから詳細を知らされて泡を食うことなどないよう進めるはずなのだが、ここではそうはいかない。変動が大きすぎて事前の仕込みなど意味をなさないということも理由としてあるだろうし、この社が何をしているのかあまり余所に知られてはならないという秘密主義のせいでもあるだろう。
「ほとんどの会社は系統だったことをしているしね、しっかりした組織にしたいんだから予め色々仕込んでおくのも道理だとは思うわ。うちの末端なんかもそういう意味では入社の前に仕上がってくるし」
「現場の人たちですね、最上階と最下階で実際に船を造ったり、海や宇宙の様子を観測しているという」
 ブルー・エデンは高さも深さも三〇〇メートルはある。階数にして合計百二十階、上も六十、下も六十というつくりだ。地表より上は宇宙部のオフィスや住居エリアになっており、対称的に海に潜るにつれ深海部のオフィスなどが並ぶ。最上階では有人小型ロケットを打ち上げられるように日夜開発が進められ、最下階では有人深海探査機を潜水させられるように色々とチェックしている……といった具合だ。工業区と連携を計って機材の調達などもする、現場はいつ訪ねていっても騒がしく生き生きとしている。前に現場まで顔を出したのはいつのことだったろう、と懐かしくなりながら、夢前はホールの中心部に見える大きなエスカレーターを何とはなしに見遣った。
「現場まで足を運べるのはその部の人間だけの特権よ。きみもあたしも現場には配属されなかったわけだけど、部長や社長の許可があればそれぞれの現場に顔を出していいの。結構ラフに付き合いがあったりするし、そこは心配しなくていいわ」
 一階付近は共同の場所だ。夜間はバーとして開くレストランがあり、オフの人間たちでも気軽に利用できるカフェがあり、その他宇宙も深海も関係なく世話になるものは大抵ここにある。
 つまり、社長室も一階だ。これは余所では見ない配置だろうな、と夢前は常々疑問に思っているのだが、審判役のような存在である社長なのだからどちらにも傾いてはいない、と説明されて以来口に出せないでいる。
 待ち合わせの場所として使われるこの休憩所もそうだ。みんながつかうばしょ、として、まるで公園のように愛されている。実際に中庭まであり、休憩時間には現場から時間をかけてここまでやってくる者もいる。
 振り子がゆっくりと地球の自転を教えるのを尻目に、夢前もまた新人へ口を開く。
「週休三日、でも休みたいと思ったらいつ言ったって大丈夫。数人抜けても大丈夫なようにシフトは組んであるから。朝礼には遅れないでね。何か問題が起きたらすぐ通信すること。休憩は午前と正午と午後で一時間ずつ、その時間内だったら社外に出てもいいし、時間外の労働には手当がつきます。保険やお給料の件は社長からデータが行ってるわよね? 中々待遇がいいほうだと思うのだけど、惜しむらくはこの会社に来る人間ほどワーカホリックが多いってとこかしら。特に現場の子に多いけど、仕事が好きすぎて部屋にも戻らないのよ」
 分からなくもない、という顔を光星がしたため、夢前もつい微笑んでしまう。相手はライバルだが、この会社に来たということはそういうことなのだろう。質問どうぞ、と促せば、今思いついたかのように光星が視線をこちらに投げてきた。
「ラフに付き合いがあるって言いましたけど、それは」
「気のあった人同士だと飲み会なんかは自由にやる、ということよ。現場に携われなくて社内から動く機会が少ない人はよくやるみたい。気さくな人ばっかりだし。いくら現場に缶詰でいるのが好きだとは言っても、息抜きは必要だしね」
 夢前はついつい宇宙部の連中を敵視してしまうが――これは夢前自身の性格によるところが多いと本人も自覚はしている――何もふたつの部署は戦争をしているわけではないのだ。敵だのなんだの言うことはあれど殆どが言葉遊びの延長の軽口である。目的は異なっていても仲良くなってしまうことはある。そしてそれは罪ではない。ここはそんな風に、立場や目的は違えど励まし合って働く者でひしめきあっている。
 対立、といってしまうと剣呑な気配を感じるが、そんな緊張を表に出しているのは夢前くらいだろう。
「みんな結構仲がいいのよね。海と宇宙で分けたくせに張本人の社長は煽らないし……、夜半部長が来る前はうちの先輩、えっと、永遠とわチーフが全体的な面倒を見てくれていて、その影響もあってあの人も宇宙部に友人が多いの。ライバルではあるけどそれだけを理由に突然嫌ったりしないわ。最近ちょっと荒れてるのは夜半部長が昔の知り合いだったせいね」
「あの人は、その、お言葉ですけども、根が凶暴なだけでは」
 光星は腑に落ちないらしい。昔の知り合いと不意の再会をするのは心臓に悪いでしょ、と返しながら夢前は、目の前の青年は余程幸福な人生を送ってきたのだな、と思ってしまう。本人が善であるということなのだろうか。苦渋の表情で夜半のことを説明してきた永遠を見て、何となく察してしまった夢前にも、できればもう関わりたくない知人がいる。だから永遠に詰めよらなかった。人に好かれる永遠があんな反応を見せていること自体は驚きだったが、それも飲み込んだ。それは敬愛する相手に何があったのか知ることが怖いという臆病さゆえの自衛だったのかもしれないが。
 カフェの前を通ってエスカレーターへと数名が歩いて行く足音を遠くに聞きながら、夢前はゆっくりと口を動かした。あの巨大エスカレーターもこの一階の人気者だ。吹き抜けの下まで繋いでいるその姿を、誰が発端かは分からないが、皆『天使の梯子』と呼んでいる。だからあのエスカレーターを使うたび、何となく夢前も粛然とした気持ちになる。
「きっと色々あるのよ。永遠先輩――チーフにも」
「あの、気になってたんですがそれは」
「それ?」
 突然疑問を挟まれ驚いて聞き返すが、光星はというと呼び方です呼び方、と指をくるくるさせている。
「社内を歩いているとですね、夜半部長のことは部長って呼ぶ人だらけなんですよね。でもそちらの部長はチーフって。深い意味でもあるんでしょうか。単純に混乱を避けるため? なんか気になっちゃって」
 相手の指を目で追い、ああ、と一回頷いてから、
「さっき言ったように、夜半部長がいらっしゃる前は全部永遠チーフが見てたのね、それの名残。深海部の部長だけ肩書きで呼んでいたら公平じゃないからチーフにしようって、まあ無茶な理由に聞こえるでしょうけど、他ならぬ社長がそう呼ぶように広めたの。で、分かりやすいから今もそのまま通そうっていうわけ。最も絶対ってわけじゃないから好きにすればいいわ」
 かくいう夢前も永遠のことはずっと先輩呼びだ。自分のほうが年上でここでの経験も長いのだが、尊敬の意を示すためにこうしている。まあ、こうやってまとわりついていれば永遠の頭に特別なものとして残るのではないかという願望もある。塵も積もれば山となる、という言葉がどんなことにでも当てはまると、夢前はわりと本気で信じている。
「じゃあ、永遠チーフ、と僕も呼ばせていただきますが、――なんというか、不思議ですよ。まだ警戒心は薄れていないんですが」
 これをもらってしまって、と光星が丸テーブルに何かを落としてきた。こん、と軽い音がする――飴だ。
 目をぱちくり瞬きさせている夢前の前で、光星も同じくらい目を大きくさせている。どうしても癖っ毛に視線がいくが、髪に負けず劣らず目が印象的な青年だ。星を割って飛ばしたような輝きをしている。
「入社後に永遠チーフが部下のかたと部屋までいらっしゃったんです。僕の緊張をほぐしたいとか、顔合わせのときのことを謝りたいとか色々言われてしまって、僕は混乱してたのもあって追い返してしまったんですが、あとでドアを開けたら包みがあってその中に。食べようか悩んでいる内にこんな日になってしまって、じゃあもう信じていいのかどうかあなたに聞いてからにしようかと」
「……顔合わせのときに何があったの?」
「ということは永遠チーフは明かしてないんですね? ですよね、普通あんなこと話したくないですよね――なんでおまえがここに、って夜半部長に向かっておでこぶつけて怒鳴ってましたよ。僕のとこに謝りに来たのはつまり、そのときの印象を変えたいっていう下心のせいじゃないんですかね」
 僕に本気で構ってるわけではないのでは、と光星は話を結んだが、夢前はそれどころではない。
 会いに行っていたことは勿論既知だったが、内容は今知った。あの永遠がただの新入社員にわざわざ謝罪しに行った? 確かに面倒見はいい。フランクだ。広告塔に相応しきアイドルなのだ。
 しかし、
「先輩はね」
 言っていいものか、内心戸惑いながら夢前はまた口を開いていた。無意識のうちに白い手のひらがテーブルの飴を掴んでいる。――これはどういう意味なのだろう。
「ご自身の立場を分かっていらっしゃるから、安易に特定の誰かだけに優しくしたりしないの。夜半部長に怒鳴ったっていうのも本当は信じがたいけど、――それは今は置いておきましょう。あの人は追いかけられても振り返らない。特別な人になってくれない。笑ってかわされちゃうのよ。仲がいい人は部署を問わず多いけれど、自分から誰か一人だけに構うようなことは、これまでの先輩だったらしない」
 自分でもわかるほど凍った声を出してしまったのだが、光星はその部分は別段気にした様子もなく、首を傾げてチェアに深く腰掛け、そのまま黙り込んでしまった。新人を困らせているようではやはり教育係失格か、と申し訳なく思い、取り繕うように飴を揺らしてみせる。
「ね、これ包みが可愛いの。人生でみんな一回は夢中になるんじゃない? ほら、大人気キャラの『ヘヴンちゃん』」
 自転を教える振り子の如く揺れるパッケージを今度は光星の澄み切った瞳が追ってきた。光星の名に恥じない、やたら大きいその目がほんの僅か細められて語りだす。
「ああ、小学生の頃に流行りました、よく覚えてます。父と母は中学のときに好きになったって教えてくれたなあ」
「長い作品だし、文字通り世代を超えて愛されてるよね。あたしは大学のときに好きだったな。先輩はこどもの頃からずっとファンなんですって。生まれる前に発表された作品も遡ったんだそうよ」
 結構愉快なところがあるんですね、と、自覚してかしないでか光星の頬が緩んだのを認めた夢前は少しこわばった。
「――永遠先輩、よっぽど光星くんのこと大事なのね」
 ぼんやりした毒のように続いている無意識の呟きを、果たして相手は拾い上げたようだった。暫しの間静寂がホールを満たす。
 そんなはず、と、遠慮がちに光星が反論してきたのは、振り子がかなり移動した後である。
「今の口ぶりじゃ永遠チーフは一人の人を気にかけないんでしょう? 僕を訪ねてきたのはその前に最悪な顔合わせがあったせいでは。僕を挟んで罵り合ってたんですよ、あのお二人。それに申し訳ありませんけど、こんなことされても僕はあの人に抱いた印象をそう簡単には翻せません、個人的には夢前さんの言うのは考えすぎだと思います」
「そうかしら? 付き合いだけならあたしのほうが長いわよ。永遠先輩がただ悪いイメージを払拭したいだけで新人の部屋へわざわざ足を運ぶとは思えない。それだけでそこまではしないはずだわ。第一この飴だって」
 また包みを掲げる。
「気軽に他人にあげられない。おやつは高級品だと教わってこなかった? 生きるために必要な食事じゃなくて、余計なものであるおやつなのよ。教育区でも一般居住区でも食物は厳重に管理されてるわ。ケチだとかそういう次元じゃなく、そもそも食べ物を他人に分け与えるのは結構な行為でしょ。それを」
 焦点の合わない瞳でにこにこと笑っているマスコットと行き交う無数の顔が重なる。揺れる飴の向こうで、眉を八の字にした光星が夢前を見つめている。乾いた息を吸い込んだ。
「きみに対して先輩はあっさり渡した。しかもこれは先輩にとって思い入れのある大事なマスコットの飴よ。先輩がこれを誰かにあげてるところなんか、あたしは十年以上もそばにいて見たことないのに、きみは出会ってすぐにそれをされた」
 光星くん、だからきっと、きみは特別な存在。
「誰を信じるかはきみが決めて。そう、言いたかったことなんだけど、上司でも何でもいいから、大事なのは『信じられる相手を見つけること』よ。尊敬できる人でも恋人でも構わないわ。無理して見つけろとは言わない。でもとにかく、見つかるときっと安心するし、仕事に対してもやる気が続くでしょうね。あたしだってずっとそばにいられるわけじゃないんだもの」
「信じられる相手」
 先ほどから光星は何か考え込んでいる。強く輝いていた視線が揺れている。これは見ようと思ってものを見ていない目だ。相手のそんな態度にみぞおちのあたりをくすぐられているように思いながら、夢前は続きを紡ぐ。
「永遠先輩のことは苦手なのね、いいわ。天下社長はどうだった? 実際に会ってみて何を感じたかしら。あたしとは出会ったばかりだから信じられるかまだ判断が下せないかもね――、でも、じゃあ、夜半部長は? 好きになれそう?」
 もう好きです、と小さな声が返ってきた。特に面食らうことなく、夢前は光星の言葉を受け止める。
「僕は決めたんです。夜半部長を支えると」
 揺らいだ態度から一転して確かな声だった。
 不思議だ。入社して突然、宇宙部の部長となった夜半が、一体どんな人間なのか夢前には分からない。挨拶する機会もまだない。知っているのは外見と、永遠にとっては関わりたくない相手らしいという情報だけだ。目の前の新人はそんな夜半のどこを見て信じようと思ったのだろう。深い理由があるのか、それとも直感で惚れ込んでしまったのか。興味は尽きないが、生憎と夢前の立場ではお目にかかれる予定もない。かといって今ここで光星に夜半のことを根掘り葉掘り尋ねる気にもなれない。
 光星には永遠が心を砕く価値があるのか。確かにいい青年だと思うが、具体的にどこを永遠は気に入ったのだろう。というより、夜半は永遠にとってそんなに忌々しい相手なのか。マイナスな面を見せようとしないあの永遠が、平静を保てないほどに、――社長や新入社員という、これ以上ないほど印象が大事なはずの人間たちを巻き込んでも冷静になれないレベルで嫌な相手なのだろうか。そんな人間がこの世にいるのか。
 永遠が目の仇にしているのなら、それだけで夢前にとっても敵だ。



 碌に話したこともない他部署の上司へ煙がのぼり始めたことにうっすら気づき、夢前は憂鬱になった。また一方的に誰かを嫌いになりかけている。立ち上がって振り子を覗いている青年のことも、正直どうしたらよいか分からない。
 自分でよかったのだろうか。
 たっぷり沈黙を挟んだのちに光星からも問われてしまった。しかしそれには答えられず、ごまかすように肩を竦めることしかできない。チェアを蹴っ飛ばされて支えのない海にでも放り出された気分に陥る――顔をあげれば独りぼっちだ。なぜ、まったく関係のないはずの無垢な新星の教育係に自分が選ばれたのだろう。もし社長がこのやりとりを聞いているのなら、こちらが分かるまで理由を教えてほしい。
 自信がない。先ほどから自分は何を言っているのだろう。これは本当に正しいことだろうか。
 頭の中でまた永遠が振り返ったのを直視できなかった。こどもみたいに笑うのだ。この一週間だって、新人教育などしたことがない夢前に付き添い、親身に色々助言をくれた。あの上司の魅力を光星にどう言えばいいだろう。ちゃんと伝わるように話せるか分からない。目の前の彼は、永遠の普段の顔を知らない。
 迷いに迷った挙げ句、勝手に言葉が口を突いて出て行く。
「先輩の雰囲気が苦手なのは分かるの、実を言うとあたしも初対面の頃は気が合わないんじゃないかと思ってたから。あたし、ほんとは一人で黙ってるほうが落ち着くタイプだし。それに今回の件は、いくら理由があるんだとしても、部下の前で取り乱した先輩に問題があるわ。そこはあたしにも謝罪させて」
「それはその、夜半部長も怒鳴ってたし、それを言ったら僕も謝んなきゃいけないじゃないですか。お相子というかあのお二人の問題では」
 意外な内容だったのか、光星が目に見えて狼狽えた。なんだか面白い青年だ。多分、隠し事ができない人間なのだ。
「それでも――先輩のこと、あんまり邪険にしないでね。きみの苦手な人は誰かの好きな人よ。好きな人を目の前で悪く言われて許せる人は少ないわ」
 光星は上体を起こし、気まずそうに謝ってくる。すみません、僕、思い返せば随分失礼なことを。その声を聞いて夢前は何となく心細くなる。傷つけるつもりはないのに嫌味になってしまった。なんだかさっきから謝りあいっぱなしだ。
 こっちこそごめんね、とできる限りの笑顔を向けてみる。喧嘩っ早い夢前と普通に会話できるのだから、よく考えてみれば光星は貴重な人間だ。何より、あの永遠が大事にしようとしているのだし、それならば自分だって無条件で大事にしてやりたい。それ以外は考えないほうがいい、ここで考えては光星を不安にさせてしまう。
 気にかかることすべてを払い落とし、空気を切り替えようと、わざと手を数回叩いて立ち上がった。その流れで放置されていた飴を光星へ返す。あたふたと光星がポケットへ飴を仕舞い込むのを待たず、歩き始めながらウインクしてやった。
「さあ、そろそろ移動しましょう。あたしたちの会話のせいで振り子がずれたりしたら困るしね、――ついてきて。社員なら絶対避けて通れない、我が社屈指のとびっきりおかしな場所へ案内してあげるわ」