Blue Eden #02 水深三〇〇メートルの憂鬱







 ぐっ、と強めにリップスティックを口元へ押し付けて、横へ引く。筆は使わずにそのまま、使うたびに磨り減ってなだらかになっていく切り口をこちらの唇にくっつける。

 己を深海部トップとして敬う可愛い部下たち、愛でくるんだ欲を押し付けてくる連中、ただただ仰ぎ見てくる大衆、彼らには到底想像がつかないはずだ。彼らが神聖視している深海部のトップの唇を彩るものが、こんなに安っぽいおもちゃのリップスティックだとは。
 薄すぎず厚すぎずの唇のふちをなぞり、少々はみ出した青を永遠とわの指が拭っていく。こんなへんてこな色をつけていると色素が沈着してもとの唇がおかしくなってしまうのじゃないか、という心配なら無用だ。データ化済みの体なら、そんなことは起こらない。
 広いレストルームでひとり、かちりと音を立ててリップスティックに蓋をしながらも、揃った睫毛に縁取られた永遠の黒目は今しがた直したばかりの唇を見つめている。鮮やかな青。こんなにはっきりと目の醒める輝きのくせに、青という言葉の示すものは「漠然としたもの」だという。つまり正体がないのだ。なるほど然り、確かに空の色も海の色も掴み所がないし、実際に手を伸ばしても手応えというものがまるでない。
 しかしそんなものに魅せられ、うかうかと酔っぱらったように信じ続け、己を含め人類というのはどうにもおめでたすぎる。所詮何もかもがまやかしだろうに――ああ、今日も水の流れが頭の奥で反響している。目を閉じればそこには、こちらを捕らえて離さぬ砂嵐のようにマリンスノウが渦巻いている。



***



 再会を考えたことがない、と言ってしまったら嘘になるが、いざそうなった今、まさか己がここまで狼狽えるとは微塵も思っていなかった。
 海月の足のように削られた青と黒の髪の房をひっぱりながら、レストルームを出た永遠は先日の社長室での出来事を思い返す。人間たちが物思いに耽っていようが関係なしに勝手に運んでくれる広大なエスカレーターは実に勤勉だ。気まずいことなど何も問い詰めずにいてくれるのだから、何よりも察しがよく真面目だと評しても過言ではなかろう。
「チーフ」
 一階のほとんどを占める大フロアから下へと移動する最中である。わずか数歩ほど下がっただけの距離から、慣れきった呼び声が永遠の背へ放られる。
「永遠チーフ、次のフロアでカフェに寄ることをおすすめします。随分とお疲れに見えますので。差し出がましいかとは存じますが、どうかご検討願います」
 静かな湖が神のいたずらで意思をもったかのような声音だ。ここ十年ですっかり耳に馴染んだその声の主へ、余計なお世話だ、と普段のように強がりを返したくなるところだがぐっと堪える。
 永遠の右腕は、泣きたくなるほどに永遠に忠実だ。
「仕事の予定」
「今日の分は終了致しました。また明日以降の仕事で急ぎのものも特にありません」
 セレ、と永遠は片手をあげる。呼ばれた相手は素直に黙った。
「オーケー、おまえがおれを心配してくれてるのはよく分かった。ありがとうよ。その気遣いは嬉しいことこの上ないがカフェに寄るのはなしだ。最近ウェイターの一人がしつこくて」
 よれひとつない髪をかきあげ、眉間を揉んで永遠は答えた。己に集まってくる人間たちは大抵が礼儀正しく気のいい者ばかりなのだが、中には時たまいるのだ、厄介な類のものが。そういう輩を排除する際は天下てんげも手伝ってくれるのが常なのだが、まだ手を貸してくれるほどの段階ではないのか今回は放置されている。天下に頼れないなら自衛するしかない。年度始めのこのややこしいときにもっとややこしくなる真似は避けたい。
 巨大な吹き抜けになっている大フロアの向こうを指差して見せてやれば、永遠に負けず劣らず年齢性別不詳の相棒は素直に頷いた。両耳の上からつけている通信機のシールドバイザーが貝殻の裏のように光って揺れる。
「了解です、配慮が足りず申し訳ありませんでした。――あのウェイターですね。今覚えましたので今後は問題ありません。もし目に余るようでしたら私が間に入ります」
 ところで、と今度はセレのほうが片手を出してきた。
「カフェに寄らないのであれば、このまま先程のお話の続きをさせていただきますが構いませんか」
 セレを振り仰ぐのをやめ、永遠は手で続きを促してやる。できれば話したくはないのだが、ふったのは一応こちらである上、話題が話題だけに避けられない。とっくの昔にデータ化を済ませた肺を絞りに絞ってため息をつく永遠の後ろで、セレの長い指がそっとフロアの壁を指し示していく。
「あちらの彼――今また壁のスクリーンを流れていきましたが――彼が永遠チーフの元同級生だとして、何か問題があるのでしょうか」
 さしたる脅威になるとは現時点で思えないのです、と続けられ、永遠はため息の流れのままに細い体を傾ける。
「チーフ?」
「ひとつ同意だ。あんなやつが脅威になりえることは絶対にない。ないんだけどな、その――いるだろ、あんまり会いたくない奴っていうの、――たぶん相性がよくないんだよ。別に親友とかそういうあれじゃあなかったしさ、こんな場所で再会しても嬉しくもなんともないんだな、」
「良くも悪くも特別な仲ではなかったと仰るのですか。それにしては非常にいやそうなお顔です」
 そこで永遠は両腕をばっと広げてのけぞった。身に纏った黒いポンチョがばさばさ暴れ、両脇のエレベーターを使っている社員が驚いて見てくるがそれはお構いなしだ。
「その体でいるおまえなら分かってくれるでしょ、会いたくないやつがいるっていうおれの気持ち」
 と言ってみるが永遠はセレのことなど何も知らない。十年一緒にいても知らないことのほうが多いのだから驚きである。しかし、つまり、そういうことなのだ、セレが周囲どころか本人でさえ知りようのない複雑な体をしているのは、データ化する前の過去を一切合切捨ててきたということの表れだ。
 透徹とした青い大きな瞳、紛れなく人間であるくせに機械じみた反応。直線ばかりで曲線が少ない体、高い背、それと比べるとやや幼いような服装。永遠よりももっと外見の性別や年齢があやふやなセレは――語るべき過去を持たない。データ変換手術を受け、この会社に勤めることが決まってからのことしか記憶しないという選択をした人間だという。十年前に補佐として天下から推されて以来、ずっと永遠のそばで何があっても嫌な顔ひとつせず支えてくれている大切な相方だ。
 そんなセレはというと、自分自身と永遠を照らし合わせてやっと納得したらしい。思い出す青春時代などセレにはもうないのだが、まるごと捨てるという選択をするほどの何かがあった、ということだけはセレ本人にとっても明白な事実なのだ。
「よく分かりました。以後彼のことは話題にしないよう心掛けます」
「理解が早くて助かるよ。でもこんなことになっちゃあいやでも目に入るからな」
 話しながらも二人の目はまだスクリーンの男を追っている。
 両耳を後ろで繋ぐ金のピアス、流れる長い白髪。数日前に突然宇宙部の部長になった、永遠の元同級生、夜半の姿がそこにあった。
 彼の穏やかな顔がスライドした直後に永遠の顔が流れ始める。悪趣味なコマーシャルだよなあ、と永遠は一言で片付けた。己一人の顔だけならいいがそのすぐあとに続く人間の顔が問題である。社長の天下はこうして映像を流すことで社員を含む国民を楽しませようとしているのだ。それがわかっていてもどうしても気が滅入る永遠は吐き捨てるように話し出す。
「そもそも天下が未だに直で人事担当してんのがおかしいんだよな、そのくらいは分けたほうがいいって言い続けてもう十年だぞ十年! 誰かあいつのワンマン運営をとめてくれ」
「心苦しいのですがそこそこの付き合いや発言権のある永遠チーフや私でも無理だったのですし、今後も望み薄かと。何しろ天下社長のモットーは、公私混同、ですから」
 社長がそんな言葉を堂々と掲げている時点でこの会社の実態など知れている。が、とりあえず今日までもっているのだし、そんな天下の姿勢に庇われている部分もなくはないので、いくら友人といえどあまり生意気な口を叩くわけにもいかない。それでも永遠の不満は収まらず、溜まったそれらは亡霊のようにふらふらと青い唇から這い出てくる。
「昨日な、おれはもう早く上がって久々に文化区まで足を伸ばして漫画買うつもりだったんだよ。あれだよホラ、『世直しヘヴンちゃん』の新刊がとうとう出てさ、データじゃなくてやっぱおれは紙媒体で揃えたいわけで、前から楽しみにしてたってのに――それがおじゃん! 新入社員の顔合わせとかいうからサボんないで行ったのに見てみればあいつだ。んでもって心のオアシスたる漫画はかれこれ一週間も読めてないという悲劇! なあ分かったって言ってくれよセレ、おれにはもうおまえしか味方がいないんだよ」
「少し落ち着いてください。分かります。チーフは入社する前からあの長寿作品の大ファンだとずっと聞かされてきましたので、新刊を買えずにいる苦しみは想像がつきます」
「おまえが相方でよかったよ。あれさ、内容も新年度に合わせてちょうどいい盛り上がりがきててさ、やっとパイロットの訓練に慣れてきた主人公が今度はとうとう先輩として新人を迎えるっていう」
 はた、とそこで、熱弁していた永遠の動きが止まる。
 セレはというとこんな展開は慣れているために真後ろで直立不動のままだ。もうすぐ長かったエレベーターも終わる、というところで、永遠は髪を鞭のように靡かせ振り返った。セレの平らな胸板にばっちりと当たったがお互い気にしない。
「うっかり。おれとしたことが大事なこと忘れてた。今年の新人は夜半のやつだけじゃないんだった、あいつはおまけだ。そうだそうだ、じゃ、――やることはひとつだよな」
 いつものですね、とセレはこれまた慣れた表情で頷き、シールドバイザーについた通信機のボタンを押して退勤モードに切り替える。ここから先は個人的な動きだと強調するかのように。
「夜半部長のお話ばかりでしたのでてっきりこのたびはないのかと思っておりました。反省致します。――これから行かれるおつもりですね? もう一人の新入社員のところへ」
「そ。顔合わせじゃあ怖い目に遭わせちまったからなあ、イメージ払拭も兼ねて早速行こう今行こう。こんな地獄に迷いこんじゃった子羊はちゃんとおれが慰めてやらなきゃ」
「ところで夜半部長も新入社員に違いはないわけですが、彼についてはどのように」
「あいつはいいの」
 そこで一瞬、永遠の黒い目が遠くを映す。セレが顔を見ようとするよりも早く、瞳は元に戻り、照明を反射していた。打って変わって引き締まった口許が言葉を紡ぐ。
「将を射んと欲すればってやつだ」



 というわけで、
「みつぼしくん、開ーけーてー」
 二人は若き新入社員の部屋の前まで来たのだが、
「昨日の今日で敵が訪ねて来た! オニ! アクマーっ! 悪霊退散ーっ!」
 扉は一向に開く気配がない。それどころか響くものは永遠のノックを掻き消すほど大きな満天光星まんてん みつぼしの絶望の叫びだ。
 場所は二階より上にある宇宙部上層部の居住フロアである。本来であれば中央区の勤め人は大体が会社に隣接するマンションに詰め込まれるのだが、ブルー・エデンの者ならば社内に住むように言われることが多い。きっと入社が決まってから転々と住む部屋を変えるよう指示されて来たんだろうな、と永遠が光星の苦労を思ったあたりで、それを裏付けるようにまたも扉越しにぶつぶつ文句が届く。
「やっと引っ越し作業が終わったと思ったのに。今度はマンションから社内……社内が住まいだとかなんにも知らされなくて――やっと片付いたのに」
 改めて聞くと可哀想だ。かなり本気で同情し始めた永遠はついそこで声を挟んでしまう。ちなみに彼の安息が台無しになった理由に己が訪ねてきたことが含まれているのは自覚している。
「お疲れ。引っ越しもそうだしさ、いきなり部長補佐とか任命されて困ってるだろ? 地下にいい店入ってんだ、これからそこ呑みに行こう。何頼んでもいいよ、奢るから」
 途端に相手からぎゃんと反論が返る。心なしか扉まで堅さを増したようだ。
「敵に優しくされる筋合いはないです。大体顔合わせのときの態度、僕は忘れてないんですからね! 仲良くする理由も何もありません、さようなら」
 とりつく島もない。しかしどこまでも永遠は優しく食い下がる。
「顔合わせのときは悪かったって。怖い思いさせたよな、さぞおれのことがやなやつに見えたんだろうな。ごめん」
「自覚があるならお帰りください!」
「あのときはちょっと別件で荒れててさ、おまえは悪くないから安心して。反省してる。な、呑みに行こ」
 割りと心からの悲痛な謝罪が功を奏したのか、やっとのことで扉は数センチ開き、中から光星が現れた。喜んでいそいそ窺うも束の間、闇に浮かぶ相手の不信感たっぷりな表情に永遠の笑顔もついひきつる。
「僕みたいな新人がそっちのトップであるあなたと歩いてたらなんて言われるか! それよりあのですね、せめてもう少し厚着していただけませんか」
「厚着って」
 廊下に立っている永遠とセレの目が永遠の細い体をつい捉える。下がる足を支える黒のピンヒール、少々透ける薄手の黒いポンチョ、そしてそこを泳ぐ青いメッシュ入りの黒髪。
 三人揃って永遠の全身を見分したのち、永遠は言いがかりをつけてくる新人にまた顔を戻して言い返す。
「なんか失礼なこと考えてんじゃないだろうな。あ、ポンチョの下か、そうかそうか、それはひみつ」
 知りたかったらついておいで、とポンチョを広げて見せたのだが逆効果だったようで、永遠の鼻先でまたも扉は閉じられる。あまりの素早さに風が起こって前髪が煽られたほどだ。
「こわい! そもそもなんでこんなとこまで来られるんですか、ここ宇宙部スタッフの居住フロアでしょう」
 扉越しのくぐもった問いかけに肩をすくめ、永遠は後ろに控えていたセレと視線を合わせた。
「お互い居住フロアまでなら入ってもいいんだよ。おまえも困ったらいつでもおれを訪ねておいで。――なあ、そんな様子じゃ肩凝るだろ? 新人可愛がるのに敵も何もないよ、おれだって期待の星に色々聞きたいことがあるんだ。どうしてここに来たかとかもっと楽しく詳しくさ。酒が無理なら他のとこでもいいし。おまえだって喋れば少しは落ち着くはずだ。だからほら、部屋出ておれと遊びに行こうよ」
「お断りします」
 本当に頑なだ。
 いや、好かれてはいないだろうと分かってはいたが、ここまでとは。仲良くしたい姿勢を見せれば、今までの十年で出会った人間は結構あっさりと永遠の懐まで転げ落ちてくれた。光星だけそうはならない、ということは、やはり顔合わせのときの第一印象が悪すぎたのだろうか。――予想外すぎる再会に気を取られすぎて、あのときは光星はおろか天下のことさえ頭から抜けていた気がする。よくもまあ無事に退室できたものだ、と様々を省みながら額を扉に押し付け、永遠はこっそりとセレを手招きする。
「どうしよう」
 滅多に呟かない自覚のある単語を受けたセレがまばたきをした。
「正直なところ私も困惑しております。チーフはどんなかたとでもかなり早めに打ち解けて仲良くされてきましたので」
「何が駄目だと思う? やっぱり第一印象かな」
「もしかしますと夜半部長から何か言われているという可能性もなくはないのでは」
 え、と喉奥で小さく叫んで永遠は口を抑えた。夜半が何か吹き込んだ? だとしたら何を言うだろう。永遠に関する何かを夜半が光星へ教えている光景を、想像しようとして――うまくできないことに気づき永遠はすぐにやめた。夜半なら何も言わない。言うとしても精々で、高校の同級生だった、あたりが妥当だろう。あれはそういう人間だ。永遠の考えに答えるように扉が光星の声で勝手に話し始める。
「えっと、永遠チーフでしたっけ? 高校で夜半部長と同級だったそうで。昔の誼だからって夜半部長に迷惑かけたりしないでくださいね」
 安心しかけたが、あたっていればいたで居心地が悪く、瞬時に永遠は憤慨した。
「あのな、おれはあいつとは――」
「永遠チーフ」
 社長から通信です、というセレの声と同時に永遠も耳元に手を当てる。セレのバイザーとは違い、永遠は耳そのものを通信機にしているのだが、なんとなくの癖でつい手を当ててしまう。
「天下? ああはい。おれ今日は上がったんだけど――え? それだったらあっちの管轄じゃねえの。それこそ部署が――、なんでだよ自分で通信しろよ。おいちょっと、待て天下!」
「切れましたね。再接続不可です」
 一緒に連絡を受けていたセレが淡々と状況を説明する前で、うなだれた永遠はまたも扉へと頭を押し付けていた。
「――ああ、ええと。光星?」
「いません。しつこい」
 今の連絡は永遠とセレだけに向けたものだ。何も知らされていないことを裏付けるような、にべもない返事に少しだけほっとしながら、永遠は口元に手を当てメガホンにしながら呼び掛ける。
「じゃあみっちゃん。残念ながら急用だ、今日はやめよう。また来るから次こそ遊びに行こうな」
 誰がみっちゃんですか、という扉越しの叫びを背中で受けながら、永遠とセレは廊下を走ってエレベーターに飛び込む。誰も来なくてよかった、という永遠の内心の独り言がそのまま霧散して消えた。



***



 先ほどまでの一件は、永遠というひとりの人間が個人的に満天光星と仲良くなろうとしていただけのことであるため、行き来に会社の設備は利用できない。エレベーターは使えてもワープゲートの使用許可がおりないのが証拠だ。まあ、走ったところでとくに息があがるわけでもなく、ピンヒールの踵が痛むこともない体なのだし気にすることではないのだろうが、移動のための時間がかかるという点においては少しだけ惜しい。便利なことが増えると不便なことばかりが目について息がつまる、永遠はそんなことを考えながらエレベーターのガラス張りの壁へもたれる。
「永遠チーフ。天下社長からの件は」
「わかってるよ、今日済ませる。――夢前ゆめさきのやつだったらまだ執務フロアにいるか退勤して部屋に向かってるかだろ、まずは大フロアに下りてから。で見つかんなきゃさすがに内線」
 催促する右腕へ喋りながら永遠は腰をまっすぐに折ってピンヒールの踵を直した。特注なので走っても壊れることはない上くじくこともないが、それでも気にするのは、永遠にとっては体や顔が商売道具のひとつだからだ。
 永遠の均整のとれた中性的な全身は、天上天下社長のお気に入りである。だから十年間も社の広告塔としてやってこられた。これまで出会った人間はそんな永遠に面白いほど呆気なく落ち、永遠も望んで己の美を人々へ振る舞った――が、このたびの新人は一筋縄ではいかないようだ。さて今後どうしてくれようか。
 円筒形に立っているこの会社を貫くエレベーターで、アラビア数字がどんどん下がるのをセレの瞳が見つめている。室内が無機質なせいか、今はその青もやや褪めて見える。
「承知致しました。夢前氏の捜索と連絡には私も同行致します。それと先ほどの満天光星についてなのですが、――彼のデータのほうはもう受け取られましたか」
「そうか、そっちもあるんだった。あれな、数日中には送信しますとか言われたから待ってるんだよ。あいつにしちゃ珍しく勿体ぶっちゃってなんなんだか。まてよ、光星のが来るなら夜半の――まあ、そうだな、それ来たらまたやり直しだ」
 チン、とそこでベルがなんとなく郷愁を誘うような声音で鳴き、エレベーターが目的の一階フロアに到着したことを告げる。ほぼ同時にエレベーターから飛び出した二人は、
「見つけましたよ永遠先輩」
 目の前に目的の人物を見つけてつい一歩下がった。
「やーっと会えた! まったく、退勤するといっつもすぐどっかいなくなっちゃうんですから。今日もすごい捜したんですからね、一体どこ行ってたんです?」
 相手の剣幕に押されるがまま、みっちゃんとこ、と永遠が小さく答えてみると、誰ですそれ、とすかさず返される。
「――上からエレベーターが来たってことは宇宙部ですね。じゃあもしかして噂の星頭の新人のところです? んな他部署の若造のとこに何しに」
 噂になっているのか。新人なのに宇宙部部長補佐に抜擢されたからだろうかと永遠はうっすら考えるが、ここで夢前を問い詰めても仕方がないと思考を切り替える。
「敵情視察。それよりちょうどよかった」
 何がです、と永遠の前に堂々立ちふさがる女性の名前は夢前という。パールのついたバレッタと、そこから下がる色の暗い茶髪と瞳が印象的な、永遠の部下の一人だ。その肩をそっと押し返しながら、永遠はさりげなくエレベーター乗降口の横へ彼女をいざなって話の先を舌に乗せる。
「夢前。おれもおまえのこと捜してたんだよ、何しろ口伝でってお達しだったから」
「てことは天下社長からの連絡ですね。今度はなんでしょう? 社長も何考えてるんだか、いつも永遠先輩に回りくどいことさせてばかりで、あたしに直接通信すればいいのに」
「天下のことは今は置いとけ、おれが文句言っとくから。――新入社員の件。噂の星頭のやつと白髪の宇宙部部長と入ってきただろ」
 来ましたね、それが何か、と訝しげにしてくる強気な瞳を見上げ、永遠は聞き取りやすいように意識して告げていく。
「星頭の満天光星、やつの教育係におまえがつけって。天下からの指示」
「え」
 言っていて永遠自身も疑問だらけでしょうがないのだが、そんな顔をあまり部下に見せるわけにはいかない。だんまりを決め込んで背後を守るセレと、対称的に仰天して叫ぶ夢前に挟まれながら、永遠は小言を呑み込んだ。今日で何回目だろう、というよりも天下と知り合ってから小言とため息をつきたいタイミングが増えた気がする。
「ちょっと待って下さい、何であたしが満天光星を? ライバル部ですよ、ライバル部! 宇宙と深海、油と水、即ち相容れない、それを社長は分かって仰ってるんですよね? まさかご自身の社なのに把握してらっしゃらないなんてことはないですよね」
 こめかみのあたりを押さえ、頭を忙しなく振ってもっともな訴えをぶつけてくる夢前にたじろぎつつ、永遠は彼女を不憫に思う。この命を受けたのがもし己だったとしてもまあまず断ろうと思ったかもしれない。それでも譲歩しないのが天上天下という我らがワンマン社長なのだが。
「まずですね、今の世界を宇宙派と深海派に分けたご本人は天下社長でしょ。あのかたは気まぐれがすぎるんですよ、どうしてこんな、そもそもあたしは永遠先輩の」
「そこまで。多分あいつに聞こえてんぞ。というか行き交う皆が見てくるんだが」
 擬音がフロアに響きそうな勢いで夢前は大きな口を閉じた。この通り、曖昧なことや曲がったことが嫌いでやや気が強いあたりが彼女の魅力だ。永遠も上司として彼女を守ってやりたいのは本音である。これで気さくなところもあり、優秀な人材なのだ。
「ちゃんとした意見なら天下も無下にはしないはずだからさ。天下にはおれから言っとくから、な、頼む。仕事だ」
「ああもう。先輩ってば誰の味方なんです?」
「自分の夢」
「ですよね。訊いたあたしが間抜けでした」
 そうまではいかないだろ、と力なく返すも、夢前は拒絶するように体を揺すってその内がっくり項垂れてしまう。
「わかりました、わかりましたよ。しっかりと務めさせていただきます。ここでごね続けて永遠先輩の顔に泥塗るわけにはいかないですし。――待ってなさい新人、こてんぱんにのしてやるんだから」
「くれぐれも穏便にな」
 扉越しに喚いてこちらを遠ざけようとしていた光星を思い出し、永遠は小さく声をかける。これ以上心証を悪くしたくはない。――己の尻拭いを可愛い部下にさせるようで心苦しいのだが、ずるい自覚のある永遠は話題をそれとなく逸らす。
「おれのこと捜してたんだろおまえ。今日は何の用? 内容によっちゃ乗るのもやぶさかじゃない」
「あらご自分から訊いてくださるんですか珍しい。夕飯ご一緒しませんかって。いつものお誘いです」
 何事もなかったかのようにけろりと夢前が告げた。それを受けた永遠はにこっと笑う。
「ざんねん。先約が」
「全然残念そうに見えません。――ああ今日も振られちゃった。セレくん、きみはついてくのね」
「永遠チーフのお相手は『ヘヴンちゃん』ですので」
 じゃあ勝てないわ、と視線が虚ろになる夢前を尻目に、永遠は犬か猫でも叱るようにセレを軽くどやす。セレは忠実なのだがもともとの性格なのか結構容赦がない。
「新人教育の件、任せてください。命じられたからにはしっかりやりますので。じゃ、お疲れ様でした、先輩、いつかご飯行きましょうね」
「――新人教育が天下のお気に召すように終わったら考える」
 永遠のその一言で、夢前を取り巻いていた暗い空気は完全に吹き飛んだ。またも退勤中の社員たちの視線を集めた夢前はというと小躍りをしている。
「ほんとですか! 約束ですからね!」
 失礼しますお疲れ様でした、とフロアを颯爽と去っていくその後ろ姿へ同じように返事をし、永遠とセレは彼女が視界から小さくなるまで見守っていた。ざわめきが再び戻ってくる中、セレの声が空とぼけたように降る。
「よろしかったのですか?」
 永遠は無言だ。黒い瞳が五つのパールの煌めきを閉じ込め、すぐあとに見えなくなった。



 ――耳の奥で水流の音がする。右ポケットの中では、青いリップスティックが泳ぎ、おろした右手の指先へと気まぐれに触れている。