羊たち





疾病や障害の可能性があるもしくは治療中である・民事刑事問わず何らかの形で事件に関わったが回復できていない・影響を受けやすくフィクションと現実の区別がつきにくい・以上のような事情を持った知人や家族のためにストレスを抱えている、など少しでも不安定になりやすいかたは、大変恐縮ですが閲覧をお控えください。


第五幕 駐在所勤務巡査部長




 おゆるしください、貴方が貴方の肉を抱いたとき、私はおのれの夜だけ見つめておりました、
 失礼を申し上げました。構いません、お気遣いは無用です。ええ。あのかたのすべて。私の知る、猫の額ほどの世界と時間。打ち明けましょう、打ち明けましょう、そのために来たのですから、神父、貴方が憂うわけなどどこにもありません。ご安心をば、そうしてどうか私の悔悟の告白をさっぱり最後まで聞いたなら、上澄みのみをきれいに掬い取っていただきたいのです。私の底をどうかさらってほしいのです。私は無力だ。弱い人間です。ご笑覧ください。大層な制服を着せていただいていますが中身は空洞、所詮は張りぼてなのです。笑ってくれ、もはや私には道化になるしかすべがない。いいえ違う、それで貴方に許しを請う腹づもりではございません、聞いてください。聞いてください、私はあのかたに会わなければならない。あのかたのご無事を今日も確認せねばなりません。出会った頃、あのかたは公園でいつも肩を丸めていたものでした。歪んでいないのがいっそおかしいほどの痩身にまとわりついた上着が、モールばかり巻きつけられたツリーのように重そうで、それなのにあのかたの顔はというとなぜだか清々しく、晴れやかでありました。私はしがない警官です。口に出せばなお滑稽、なんて癪に障る名乗りでしょうか、私にそんな資格はないのだ。ひょっとすると生まれたときには既になかったのかもしれない。どのみち未来永劫ないのは間違いない。うそ、うそ、嘘ばかりだ。それでもあのときの私は今よりはこの肩書きを名乗るにふさわしかったはずでしょう。勤勉に生きておりました。保証いたします。日々の巡回のさなか見つけたあのかたははじめから異常だった。煌々照る月ほど明らかに、申し開きもなくこの町でたったひとつ、あまりに清冽すぎたのだ。いいえ見つけられたのは私だったのかもしれません、きっと私のほうだった、そうに違いない。私は逃れられなかった。逃げ出したいなんて気持ちのほうが私より先にするする抜けていきました。こんな私にぜんたい何ができたでしょう。広がることすら諦めた染みに、神父よ、貴方ならばどう声をかけましたか。いいえ神父、誤解はよしていただきたい、私は神の子なぞではない。純朴な貴方とは根から違うのだ。不出来な私に器用な真似ができるはずもないのです。ほんのわずかでよいのです、想像をしてみてください、もし私があのかたをつまみ上げたとしてもそのあと下ろす場所がありません。拾うも庇うも追い出すも、つまみ上げるのと同義です。助けたつもりが真逆の所業、居場所はないと突きつけるようなものでしょう。ですからそうです神父よ、私はただ見ているだけを選択したのです。見守るといえば聞こえはいい、一丁前に仕事をしているようだ。それにしても、助ける、とは改めてみればなんとも胡散臭い、靄のごとき言葉です。そもそも助けとは一体何のことでしょう。真の助けなぞこの世にあるのでしょうか。驕りの煮こごり。ええ、はい、あのかたですか。あのかたは、そうですあのかたは、最初からすべてを見透かした目つきをしておりました。あのかたの目をご存知ですか。宝石の台座みたいな睫毛、うっすら稲妻の走る白目のまんなかに、錐で穿ったような細い穴が空いております。とんでもない、いやしい妄想ではない、単に私は視力がいいのです。これだけは学校でも褒められておりました。自転車を押して公園を横切る私に笑って手を振ってくださる朝もあれば、ベンチで寝ている昼下がりもありました。ずいぶん面倒見がよかったらしく、学生相手に勉強を教える日もあったようですが、それ以上は誰とも特別馴れ合う様子もなく孑然とされていました。私はいつもその様を外から見ておりました。ひもじい畜生が一家団欒とその豪勢な食卓をうらやむように眺めていたのです。手を出せないとおのれを定めたのは他ならぬ自分自身だからです。私は無力だった。そうあるべきだった。何にも壊したくはなかった。私には難しいものへの対処がわかりません。先ほど申し上げたとおりに目はよい、射撃も得意です。けれども神父、私には、この腰の銃の撃ち方は知っていても、あのかたへの声かけとなるとてんでおぼつかなかったのです。手をとったとしてどこに行けたでしょう。病院。保険証がなければ帰れという。役所。親類か顔見知りでも頼れという。警察。私がそうだ。こんな喜劇があろうものか。見当もつかないのです。無力無力とおのれをあざ笑ううち、どうやらいつのまにか本当に無力になっていたらしい。いい気味です。あのかたですか。あのかたは、災難なかただった。決してあわれむつもりはないが、じっさい不憫なひとでした。しかし無体はいっさい働かなかった。蒙昧な人々の下馬評にもそよともたじろぐそぶりはなかった。あの頃の私の勤勉さも相当だったがあのかたはというともっと無欲で、もはや無我の境地にでもいるのではないかと疑うほど清浄だったのです。信じられますか。何も持たない人間の、にじませる空虚な笑みひとつが清純なのです。小さな揚げ物たったひとつを折れそうな指で握りしめ、人足も疎らな公園で誰の邪魔になるはずもないのに隅でしゃがんで食べていました。姿はほとんど祈りだったのです。生き方が、神父、畏れ多いことを申し上げますが、あのかたの全身が清心そのものだった。あのかたの爪を、足先を、脛を、膝を、腿を、腰元を、ご存知ですか、おゆるしを、着古された上着の庇う背、何かが足りないと叫ぶ脇。肘のおうとつ。痣と汚れの取れない手首、砂埃にまみれた手の甲。あのかたは芯しかなかった。細い首を縛る縄のような鎖骨、小さな顎。軽そうな頭、痩けた頬、けものを思わせる黒髪が潮風を吸って膨らんでいました。知るわけがないでしょう。誰一人知るはずない。私だって光を盗むがごとく見ていただけなのだ。あのかたのすべて風にいいようにあそばれているのが悔しくて、口惜しくてならなくて、ええ神よ認めましょう、私はあのかたをどこかへ連れていってさしあげたかった。あのかたにふさわしい舞台がこの世にあるわけがないとわかっていながらそれでも、ならばなぜ生を受けたのでしょう。居場所は、奪い取るものだ。あのかたにはどんな蛮行さえゆるされたはずだ。どこだってあのかたひとりのための花道だったはずなのだ。いいえ神よ滅相もない、思い上がってはならないといつだっておのれに言い聞かせておりますとも。世に救いなどないのです。貴方がもういないのですから。そうでしょう。あのかたについて、ただ知ろうとすることさえ野卑じみた詮索にすぎない、これぞ下衆の勘繰り、向かい合えばはっきり見えるあのかたの上がった眦に私は常に恥じ入るばかりだった。あの日だってそうだった、堕落と倦怠のしみこんだ共同手洗い所、そうです、あの冬の初め。外気は臈長けた針のようで、駐在所を出た私は呑気にも、あのかたによく似ている、などと思って歩き出したのだ。愚かな私、私には何もできなかった、手遅れだった、目覚めたときにすべては終わっていたのだ。貴方は威風堂々、朝焼けでも受けたごとくに佇んでいたが、おわかりだったはずでしょう。朝も夕もない世界にすすんで閉じ込められてやるとはどうしたことか。さしもの貴方にだって勝てる道理はなかった、そんな可能性は万に一つも。鍵の壊れた個室のひとつから産み落とされたようにうずくまり、薄汚れた床に頭をつく彼の、寒さ以外のためにかじかむ手に握られたあやまち。それをバトンのように受け取った貴方の小さな口。煤けた天井。ばかになったちょうつがい、わななくとびら。あの場所には欠けしかなかった。貴方が立っていた。こうべを垂れて動かない彼の前に仁王立ちをしていた、華奢な肩をいからせて、風を受ける帆のように髪を揺らして吐息をくゆらせ。知らなかった。私は知らなかった。何にも気づいてやしなかった、何度も立ち寄っては彼にも会っていたはずなのに、私が愚鈍であるばかりに屋根は崩れた、そうあるべきドミノにはほど遠く醜い音を立てながら、派手に、しかし慎重に。落ちていく落ちていく落ちていく坂はいつでも不協和音で大賑わい、転がる石の丸さの背徳。慚愧で底が抜けるのだ。貴方が彼の手を握ってやる前に私に何かができたはずなのだ。いや何ができたでしょう、私なんぞが貴方に。それとも彼に。もっと彼を見ていればあの日の貴方はあんな真似をしなかったのだ。本当に? ふわふわしがむ貴方の唇を見つめ、私はなすすべなく腰を地べたにつけているだけだった、この町には天気がない。晴れも雨もおんなじだ。あの日だってそうだった、私の周りだけ天井はいやに低く、貴方はというと諦めをはらんだ哀切の視線を私に投げて寄越したのだ。虹がいつも私を追い立てる。見ないでください。お願いだ。後生だからその強い瞳をふたつとも隠して、大事にしまっておいてほしい。花束! 焼けて小鳥が落ちてしまう。私は、ただ、貴方に見られるのが怖かっただけなのだ。迫る闇夜からはらはら走り逃れる夕暮れの、私もその薄紫になりたかった。撤回しましょう、逃れようという気持ちがなかったなんて嘘だ。まじめに生きたというのも全部まやかしだ。見守ったなんて、詭弁。ていのいい言い訳ばかり探して歩いてきただけだ。押しつけがましい惻隠ひとつを見透かされるのが恐ろしかった。貴方が助けなど微塵も不要の顔をするから私はよくよく思い知る羽目になったのだ、この矮小な身にみっちり詰まった貴方への背信を。貴方のくびきという甘美な響き。見ないでほしい、こんなに汚れて恥ずかしいいきものを、貴方は知ってはいけなかった。この世に貴方の視界に映る価値のあるものなどない。違う。あのとき倒れていたのは彼じゃない、彼は貴方の脚に縋っていたのだ、虫けらみたいに這っていたのは私のほう。醜い私だ。わざとじゃない、本当に気づけなかっただけだ。彼が何度もせがむものだから貴方はつい彼をいつくしんでしまった、そうでしょう。同情などという軽薄な言葉で片づけてたまるものか、私は、貴方のまなざしに、もっとたましいに入り込む特殊ななめらかさを感じていた。貴方に影はない。貴方に不徳はない。まっさきに彼を引き剥がすべきでした。貴方にとまる虫はたとえ私であってもゆるしてはならない。それでもあのとき私には、彼を見逃す理由があったのだ、貴方に知られたくなくていつしか貴方を避けるようになったのも、本来であれば何より貴方を優先すべきだったのに巡回のルートを変えたのも、もとは同じ。ああ、おゆるしください、どうかおゆるしを。貴方の目から隠れたかった。彼だけがその効率的な方法を、冴えた答えを持っていたのだ。わかっています。彼は罪深い。私といい勝負だ。私は彼の正体を本当は知っていたのだ。しかし彼のもたらすものが――救いからほど遠い魔の手が――貴方より私を暴かなかったのもまた真実なのだ。それなのになぜ貴方まで。貴方がわからない、貴方の望み、何がほしくてあんな無茶を。たった一言教えてくれさえすれば私は千里も万里も駆けたのに、施しも慰めも愛さえも貴方の前ではひとしく無価値だったくせにどうして。貴方がいない貴方がいないどこへ行ってしまったのか、貴方は貴方自身の目に照射されることなどなかったでしょう。誰からも逃げ回らずに済んだでしょう。なのにどうして。にくいひとだ。おかしなひとだ。自らの透明度をつゆほど知らずにまき散らすなんて公害もはなはだしい、貴方は貴方を知らないなんてこんなに間抜けなかなしみが他にあろうものだろうか。貴方はあの目であの日何を見ていたのだろう。彼。壁。過去。私。私のなに。知っていたんだ、ああお願いですおゆるしを。おゆるしください。ゆるしてください。ごめんなさい。ゆるさないで。私を照らして打ち砕いて焦がして火をつけて灰にして、貴方へ。風になって髪を揺らし、煙になって貴方の吐息。私は貴方に会いに行く、この悔恨をたずさえて。ご無礼をどうかおゆるしください。ごめんなさい。ごめんなさい。あの日、薄汚い私には貴方と同じ場所に行くことなどゆるされなかった、だからせめてもの抵抗に、貴方そのものに回帰したかったのだ。ああなんて恥さらし、今すぐ口を縫いつけたい。ひれ伏したい。両手を投げ出して貴方にすべて擲って。しかし叶わなかった、かなわなかった。しくじった。すべて私がわるい。無様。いいえ、わかっております、はい、大丈夫ですとも、ありがとうございます、ありがとうございます、私のすっかりぜんぶを打ち明けました。もう構わない。これで貴方は全知になった。私には、何もない。悔悛さえも貴方に差し出した。約束しましょう、残りのなすべきことをなすと。仕事は仕事でございます。私は未だ腐っても警官です。この町のおまわりさん。お笑いぐさでも全うせねば。けりをつけるとここに誓います。償わせてください。どうか待っていてほしい。すべて終わった暁に、貴方のおそばへ参ります、必ずやきっと。








image...... Garnet