絶対に近づいてはいけないよ、と、少年の祖母は言うのだ。
小学校中学年にやっとさしかかった少年の尊敬する祖母は、村の中で最高齢を誇る、いわば生き字引の老婆である。そんな祖母の忠告に、少年が圧倒され頷いたのも仕方がない。そもそも、その老婆の口にすることはおおかたが正しいのである。でなければ頼りにされたりはしない。
少年の住む村は、他の市や町から切り離された、政府にも忘れ去られているとしか思えない、小さな村だった。少年はその村が好きだ。祖母や両親の育った場所でもあるのだし、妹や友人と、自然いっぱいの場所でのびのび走り回れるのは楽しいものだった。自給自足の生活にも苦痛は覚えない。少年はまだ幼いうちに、詳細不明の事故で父親と死別していたが、その母親である祖母や、芯の強い母親たちに囲まれ、何も寂しいことはなかった。たったひとつ、昔、父と仲良く木登りをしたことを、心の頼りに生きていこうと決意していた。
ただし最近、ひとつだけ、気になることがあるのだ。
気になる自分がおかしいのかと、少年は何度も自身を責めた。他の誰も気にしていないからである。いつもサッカーをしている親友も、妹の世話をしてくれるクラスの女子も、母親も誰も、まるでそこには何も存在していないかのようにふるまうのだ。素振りだけではなんなのかわからない。気づいているのかいないのか、尋ねるのもはばかられるほどに、皆の瞳には、それが映らない。
登校中、大樹の根元にある黒々とした空間を、少年は見つめる。
七歳を超えたあたりから、はっきりと見えるようになってしまった。水には見えないのだが、他に形容のしようがない。真っ黒な水たまり、としか少年には思えないのである。コールタールでも絵具でもなく、光を反射しない、何もかも吸い込むような、不思議な存在だ。やはり穴というよりは水たまりに見える。一体なんだろう、と、近づいて触りたくとも、他の誰も気にしていないために、自分だけがおかしいのかと、いまだに近づけないままだった。
おばあちゃん。真っ黒な水たまりが、村中にあるよ。
とうとう少年は耐えきれなくなり、ある昼下がりに祖母の部屋を訪ね、こっそりと相談することにした。村長でこそないのだが、村民たちに敬われる人格者だ。そんな祖母が頭ごなしにこっちを否定するわけがない、きっと親身に聞いてくれるはずだと、少年は願う。
少年の祈りが通じたのか、老婆はちゃちゃをいれることもなく、愛孫の悩みをじっと聞いていた。
お前も見える子だったんだねえ、あの子の息子だねえ。
やがて老婆はそうつぶやいた。穏やかな顔で、ゆっくりと少年の細い体を、頷きで撫でる。そうして話し続けた。
あれはなあ、お前のお父さんを呑みこんだもんだよ。さわっちゃいけない。
絶対に近づいてはいけないよ。最後にそうしめくくられる。
初めて父の死因らしきものを聞かされた少年は、水たまりの存在も忘れ目を瞠った。しかし、それから祖母に何度詳しいことを教わろうとしても、老婆は口を割らなかった。
その出来事以来、少年は道端で水たまりを見かけるたびに、足をとめる。
父親はどこへ行ったのだろう。父親と自分があれを見てしまう人間なら、もしかすれば妹や祖母も見えているのではないか。血の繋がりが関係しているのかもしれない。父の親族は他になかったか。こどもすぎて、少年は誰にも不安を明かせないでいる。いつかきっと、自分でこの謎をといてやると、この平凡で平和な緑の村に眠る秘密をあばこうと、今はまだひとりで胸に刻むばかりだ。
お父さん、そっちには、何があるの。
少年の問いかけに応じるものは、初夏の風になびく森の葉だけ。
おわり
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15/08/21
一次創作もの #深夜の真剣文字書き60分一本勝負
使用お題:水たまりだけが知ってる
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