後ろでけたたましい呻きをあげながら、コピー機が吐いている。
「だからね」
 この学生とこの研究室で二人きりになるのは今に始まったことではない。このセリフだって何回も吐いてきた、それこそ背後のコピー機みたいに。
「お前ね、他の教科軒並み高評価のくせに、なんでこんなことするの。修士進みたいんでしょ、それはおれも嬉しいし、教授も喜んでくださっていてだな、あまつさえ目をかけて応援してくださってる。いやおれや教授のことを抜きにしても」
 徹夜続きで視界がかすむ。そのど真ん中で、愛弟子ともいえる後輩の学生はふてぶてしく革張りのソファに鎮座していた。聞いているのやら聞いていないのやら、
「でも先輩。オレのレポートが読み応えバッチリだから次の講義で資料として出したいって最初にオレに頼み込んできたの、先輩ですよね」
 あーもーきいちゃいない。
 相手のこの態度がこれなのはもう、研究室に入ってきたときからこうだったので分かりきっている。その内誰かに鼻を明かされてしおらしく謙虚になるだろうと思いきや、割と手厳しいことで有名なこの大学で揉まれても尚、相手はずっとこのままの自身ありげな態度だった。困ったことにそれも、自信過剰なのではない。自分自身がどこまでできるのか、そして何をできるのか、できないのか、そういったことを弱冠二十歳ほどにして自覚しているのだ。うぬぼれでないことが厄介だなんて、この相手に出会うまで知らなかった。教授はそんなこいつの性格をとっくに見ぬいていて、それでいてそばに置いてるんだからもっと恐ろしいものだ。
 まあ、世の中色んな考えの人間がいて、そんな人間の思考を根本から研究しているおれからすれば、彼は非常に面白い研究対象である。そんな大変失礼な考えで彼に愛弟子のポジションを与えたのだけれどおれは間違ったのだろうか。ああ優秀な後輩よ、レポートの内容はすばらしいよ、その思考回路も本当に毎日観察してても飽きませんよ。
「でもね」
「なんすか、先輩」
「このレポートは内容、締め切り、そして枚数制限という関門があるわけで」
「そっすね」
「お前は見事いつもの手さばきで内容も締め切りもクリアしてみせたわけ」
「そっすね」
 言葉が全然うまく回らない。いくら不眠不休がたたっているせいだとしたって、これで哲学科の人間だなんて笑ってしまう。
「まあ落ち着いてくださいよ、先輩。今日暑いし、もう講義はないんだし、今は一応休憩時間なんだし――ああ、さっきこれ買ってきたんで飲んでください」
 その貴重な休憩時間をつぶしてるのはだーれだ! あっはははぶっとばしちゃおっか、こいつめー! と笑いながら顔をあげると同時に、顔面に水浸しのペットボトルがぶつかった。べしゃ、と実に涼しい音が本だらけの研究室に響き渡る。
「はぶしぇ!」
「生憎ですがハブ酒じゃないです。今流行のほら、なんだっけ、透明なのに他の味がするあれ……なんだっけこれ?」
「買っておいて商品名も知らんのか!」
 水浸しなのは恐らく、冷却装置つきの自動販売機から、急に暑い場所に出されたせいだ。暑かったし喉が乾いていたのは事実なので、一応きちんと礼をいい、そのへんにあったタオルで持つ部分を拭く。濡れた額のあたりは手で雑に拭っておいた。
 こちらが普段、レポートを書いたり読書をしたり、調べものをしている相手の姿を見ているように、相手が今、こちらの一挙一動を観察しているのが分かる。こちらにとって相手が格好の研究対象であるように、きっと相手にとってもこちらは研究対象なのだろう。大勢の中の一人でしかないだろうが。
「ごちそうさん。あとで百五十円出す」
「いいですよ別に」
「あのなーお前、呑みにいくときもいっつも言うけど、金は金だ。飲み物は飲み物。どっちも大切だ。貰いっぱなしってわけにゃいかん」
「オレは先輩に貸し作ってみてどうなるか試したいんですけどね」
「話を逸らすな」
「今話逸らしたの明らかに先輩ですよね?」
「あのな! ま、ず、は、言いたいことを言わせろ! 教授に任された間はここはおれの法で動く部屋だ!」
 一番最初にしたかった説教の内容がふっとんでしまう。これ以上暑さにやられる前に、と窓際に向かって、隅に設置してある古ぼけた扇風機のスイッチをスリッパの先で押した。
 全開のくせに、一向に風を入れてくれない窓と違って、扇風機はすぐにいうことをきいた。こんな暑い日くらい、たまには、この聞かん坊の後輩も素直に言うことをきけばいいのに、なんてふと思ってしまう。思ったよりだいぶ疲れているらしい。
「前述のとおり内容はいいよ。ちゃんと期日も守ってくれたしそこはほんとにありがたいよ」
 後輩から昨日、茶封筒に仕舞われて届けられたレポートを三枚、しっかり三枚、おれは傷だらけのローテーブルに広げる。
「枚数が問題なんだって。ほい左から数えて」
「三枚ですね」
「右から数えて」
「三枚です」
「そこなんだよ」
 いっそ相手が淡々としすぎていてこわい。……こいつ相手にこういう風に怖いと思ったのは初めてかな、メモメモ……じゃなくて。
「おれがね、最初に二十枚でって頼んだのはね。そんくらいすれば、講義で出したときに一年坊主が安心してくれるからなの。一年のころ困ったときなかった? レポートの枚数あいまいに指定されたとき、どこまで出せばいいか、みんな迷ってなかった? ほらうち、学生に対してかなり雑な無茶振りするせんせー多いから」
 相手はきっかり三十秒沈黙した後にまっすぐこちらを見上げてきた。
「迷いませんでした」
 訊いたこっちが間抜けのようだ。相手のうす茶色がかった目と見つめあいながら思う。言われてみれば、こんなことをしでかす相手が迷うはずがない。
「そもそも先輩、なんでそんなことしたいんです? 一年には自分で考えさせなきゃだめじゃないんすかね」
 その理由は、この厳格なくせに弱小である大学の在りかたにある。かつ、おれの、なんというか、信念のようなもの。大きなお世話かもしれないけれど。これからいくらでもきついことはあるんだから、せめておれの講義にあたったやつらにだけでも、最初の追い風を送ってやりたいというか。
「……うちには無茶振りばっかの教授だっていったろ。お前は迷わなかったかもしんないけど、大概の新入りはそこでつまづくの。で、おれは、そんな中でだな、まず、こう、お手本を見せたいわけだ。丸写しだのは論外だが、こういうスタンスで最初は走っていって大丈夫だからねー、ここから自分の書き方だの教授やテーマへの接しかただの見出していけばいいからねー、っておれは安心させたいわけ。そしてそれには、おれの書いてきたテーマのレポートを出すよりはお前ののほうが一年には馴染みがあるわけで、更におれには時間がなくお前にはあったわけで、私事ながら頼んでしまったわけだ、それはまあ、こちらの落ち度なわけだけれど」
 一口飲んだはずなのに、まだ頭は冷えず、喉がまた干ばつ状態になってきた。
「そうですねえ。先輩がどういう教育理念を掲げているかなんて、興味深くはありますけど、ぶっちゃけオレ関係ないですもんね」
「同じ研究室にいるくせによく言うよ……」
「でも先輩、今回のはあんたのミスですよ。多忙だったからってなんでオレを誘ったんです?」
 それは……あれだ。同じ道を歩む者としてこう、そういうのを見せたかったからだ。今まではきちんとこの件には話したことがなかった。おれ独りでやってきたことだった。でも、こういう提案をして、こいつがどう返してくるか、こっちだって知りたかった。一年にわかるようにこいつがどんなものを書いてくるか。新入りへの追い風になろうと、こいつも少しは思ってくれるかどうか。
「はあ。ま、オレがOKしちゃったから気にしたってもうしょうがないですけど」
「いや待て待て」
 うっかりききのがすところだった。薄い水色のワイシャツのボタンを開け、汗を拭いながらおれは慌てて相手を見返す。
「待てよ」
「なにがです」
「そもそもどうしてお前、おれの提案にのってくれたの」
 先輩からの頼みごとだから? やっておきゃ何かのちからになるから? 一年に頼ってもらえるから? それともこちらの信念に、同意したから?
 後輩はしばらく、味つきの透明な水を飲んでいた。口に含んでるときに話しかけるんじゃなかった、と思って返事を待ちながら、中庭から聞こえる蝉の合唱と学生の笑い声を、深海魚のような気分でただ耳につめこむ。
 はたして、後輩の返事は遅く、そいつの最初にしたことといったら、扇風機のリモコンを探すことだった。みんなの手垢がついて所々茶色くなっているそのボタンを、相手はそっとささくれだらけの親指で押していく。
「先輩」

 ――先輩。哲学って一体なんなんでしょうね。こうやってオレとあんたで会話して、こうやってオレもあんたもレポート書きつづけてますけど、この道に捧げるべきものってそれでもう全部なんでしょうか。読んでばっかり、考えてばっかり、書いてばっかり。観察しては議論して。確かにオレと先輩はこの道に色々捧げてますけど、ほんとにこれで、足りてるんですかね。対象に伝わるんでしょうか。対象はこたえてくれるんですかね。

 ……何も返せなくなったおれの背後で、印刷されきった書類を、扇風機のぬるい風がふきとばしていく。いやでも枚数は守れよ、どうやって入学できたんだよお前その態度で、と頭のはしっこで考えたけど、喉奥は乾涸びていた。飲み物、貰ったはずなのに。
 何が足りない。こんなに書いて、調べて、考えて、話して、研究してるのに。こいつは何が言いたいんだ、いつもみたいに議論したいのか。この暑いのに、寝不足のおれ相手に。なんなんだ。なにが、なにがたりないんだ。
 うつむくこちらに構わず、相手は言いたいことを言い切ったのか、テーブルに散らかったままだったレポートの最後に、わざわざ赤ペンで『これ以上は蛇足につき』と書いておれに見えるように回してソファから腰をあげ、そのまま研究室を去っていく。たてつけの悪いドアのしまる音が響き、書類の舞う部屋に残されたおれは、目の前のレポートをじっと、みつめていた。その赤に目の裏が悲鳴をあげる。なんてものを置いていったんだ。

 あついとそれだけで体力がへるのに。勘弁しろ。








おわり



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15/07/03 【第53回フリーワンライ】
使用お題:愛は言葉と態度の両方で示せ
一次創作もの #深夜の真剣文字書き60分一本勝負