一番古い記憶を思い出せといわれたなら遡ることは簡単だ。二十数年生きてきた青年にとって、その生涯のひとつひとつのシーンすべてが、色褪せない永遠のものだった。




 彼が保育園児の頃である。
 いつも髪をふたつしばりにした少女が、当時の彼の遊び相手だった。毎日毎日飽きもせず彼らは遊んだものだ、ときに教室内で、ときに園の小さな庭内で。ムスカリの花をつんで泥水に混ぜ「みそしるだ」と言ったり、銀に鈍く輝くクリップを散らして「こざかなだ」と騷いだり、それはもう平和で騒々しい日々だった。
 そんなある日、ふと気がついたのだ。少女のもみじのような小さな掌の先が赤く染まっていることに。どこか剥いたのか爪がやけに短くなっている。
 どうしたの、痛くないの、ぶつけたの、と矢継ぎ早に問えば、少女はさっと頬を赤く染めて両手を隱してしまった。
「なんでもない。つめ、きりすぎただけだよ」
 それならいいか、と当時は思ってしまったが、よくよく考えれば血がにじんだまま放置しておくのはおかしい。その時の青年は、青年ではなくただの保育園児であっただけに、遊びの誘惑に負けそれ以上追及することはなかった。それでもままごと遊びをしていれば指先は自然目に付くもので、様子を見に来た保育士に驚かれ、少女は両手指すべてを洗われ、消毒された挙句ぐるぐると絆創膏を巻かれていた。
 少女の爪は治りが遅かった。次の日も、その次の日も、彼らは遊び、ことあるごとに両手指の爪は目に入った。しかし少女のそれらは一向に治る様子を見せなかった。指先は土いじりをしたりと一番動かす部分であるから、そのせいで治りが遅いのだと青年――当時は保育園児だった――は思っていたのだ。けれどそれにしても依然として赤く染まった爪はそのままで、何度も何度も保育士に絆創膏を巻きなおされていたが、時折むき出しになるぎざぎざの爪は異様に短く、また赤いままだった。
 その内に少女の爪が短く赤いことは当然のことになってしまい、毎日巻き続ける保育士以外は誰も気にするものがいなくなってしまった。いつも少女は決まり悪そうに目を指から逸らし、また他人の目からも逸らそうとしていたが、その様子さえも周囲にはいつものこととして浸透してしまったのだ。
 そうこうして二人は保育園を卒園し、別々の道を行くことになった。小学校、中学校、高校。彼らは再会することもなく彼らの人生を進んだ。家が特別近かったわけでもなし、家族の間で保育園の頃のことが話題にのぼることもなくなった。いずれ青年は大学も卒業し、一人暮らしを始め会社勤めをするようになった。
 ただ青年が出社するときに見かける、他の家の花壇や花屋で咲くちいさな宝石のような青い房をつけたムスカリだけが、彼の記憶を刺激するのみである。




 社会に出た青年は当時を心に呼び覚ましては思うのだ。あの赤い爪は彼の原初の記憶である。あれは、あの雁木になった爪は、少女が小さな歯で噛み千切ったがゆえのものだった。赤が常ににじんでいたのはそのせいだ。単純な深爪などではなかったと、今の青年ならば言える。
 明日出勤した場所で起こるであろうことを思うと自然に指が動く。もう習慣化された動きだ。ひどく、ひどく落ち着かない。そうして真夜中に青年は、一人暮らしの部屋で指先を口に含み、がりりと音を立てた。
 赤が、落ちる。








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15/02/06 【第36回フリーワンライ】
使用お題:ムスカリ(花言葉「失意」)、爪を短く切りすぎた、一番最初の記憶
一次創作もの     #深夜の真剣文字書き60分一本勝負