さて今の俺はどうしてこんな体勢なのか。真っ逆さまに世界は目の前を支配していて、丸いスプーンに映ったみたいに素っ頓狂な顔でこっちを見ているのは最近知り合ったばかりの男子生徒である。最近とは言っても、もう数ヶ月の付き合いになる。説明している俺とて別段仲がいいだとかそんなわけではない。部活も違うし、帰り道も違うし、クラスもそもそも遠いし。俺は一組の文系クラスで、確か相手は八組の理系クラスだったはずだ。
 で、俺の体勢だっけ。そう、これ。これどうしてほんと、こんなになってるんだろう。物凄く、頭に血が上る。怒っているわけではなく、倒立してるとそうなるという、あれだ。じゃあ倒立しているのかって? いやいや俺の運動神経の悪さをなめたらいかんですよ皆様、俺は小学校の低学年以来、倒立なんか出来ない。ついでにいうと逆上がりも出来ない。いやついではよくて。
 ついつい、現実逃避したがる頭を、現状の認識へと無理やり移行させる。
 八組の理系クラスの、男子生徒。同い年の、仲が好いわけでもない、それでも一応は顔見知りになってしまっている相手。俺がどんな体勢でも、いつだって一言も発しないそいつ。
 こいつのせいだった。
 こいつが学校中に作る妙な罠に引っかかったのだ。子供だましのトラップといえばそうなのだろうけど、何しろ俺は前述のとおり鈍臭い。校庭を歩けば穴にはまり、木の近くにいけばロープに足をとられ、教室のドアを引けば真上の黒板消しが頭に直撃する。そしてそういった、それこそ小学校で卒業せねばならんようなトラップの数々を仕掛けているのが、目の前の同い年の男子生徒なのだ。
 どうやって作ったのだかは知らないけれど、今とにかく俺の視界は、普段と180度違う。さかさま。右足首がロープに巻かれて頭の遥か上で揺れているのが分かる。ああ、現状の認識を始めたらどんどん憂鬱になってきた。自分でもはっきりわかるくらい、恨みがましげに相手を睨んでやると、やけに幼いそいつは鳩みたいに目をまん丸にしてこっちを覗いてきた。見下ろすな、なんかいやだ。というか助けなさい。
 空いている左足でその小さな顔を蹴っ飛ばす真似をすると、やつはさっと避けて、無言のままこっちをじっと眺めていた。でもそれだけだった。よく分からない、やつ特有の癖であるらしい、口をただ無音でぱくぱくさせるだけの仕草をして、そうして走り去っていった。忌々しい黒髪。この学校は厳しいから、髪の毛が学ランの襟についたら怒られるっていうのに、やつの髪は長い。
 はー、と長い長い溜息をついてから、うんざりした気持ちでトラップ解除にかかる。そもそもどうしてあいつの子供じみた罠にかかるのが決まって俺なんだよ。他の生徒だって、校庭を歩いてるし、教室のドアだって開けるのに。はいはい分かってますよ、それだけ俺が鈍臭いってことですよね。



 で。
 そいつに友人がいないのは自明の理だ。そんなはた迷惑なことばかり繰り返しているようじゃあ、誰も寄り付かないに決まっている。最初こそは珍しがった連中が、仲良くなろうと近づいたらしいが、何しろやつは口をきかない。トラップをかけた理由も、作り方も何も説明しないのだ。表情もそんなに豊かだとはいえない。ひっかかった人間を笑いもしない上に、周囲に気味悪がられても厭そうな顔ひとつしない。ただ勉強だけはできる。こういう手合いは一番厄介だ。そんなこんなで、皆避けるようになってしまったのだ。
 何を考えているのか分からない相手というものに、人間は弱い。理解できないものを避ける、それが人間だ。
 自業自得だろ、と俺は思う。考えるにやつは友達なんかほしいと思っていないんだ。じゃなきゃおかしいだろ、どんなに注意されても悪口叩かれてもひとりで黙々とトラップ作ってるだけなんて。もし悪口言われて腹が立ってるなら、嫌いな奴めがけて罠を張ればいいんだし、その成績のいい頭で難解な言い返しでもすればいいんだ。仲良くなってほしいなら、罠にかかったやつに向かってジョークたっぷりに笑いながら説明して、謝ったりなんだりすればいい。頭いいんだからそれくらい簡単だろ、と俺は毒づく。



 もう何回かかったか数えるのもバカみたいに、やつの作るトラップに引っかかるのが日常になった頃。
 季節は夏だった。暑くてしょうがなくて、決められた制服をいかに涼しくかっこよく着こなすかが俺たちの一番の課題といってもおかしくない季節だ。勉強だのはどうでもいいし、部活やるにも恋愛やるにもこの暑さには敵わない。
 でもなあ。だからってなあ。俺がいつあいつに言ったよ。水かけろって頼んだかよ。
 俺は懲りずにあいつのトラップに見事ひっかかり、教室中の視線を集めていた。
 いや、気をつけてはいたんだ。数回ひっかかればそれはいくら俺だって用心深くもなるよ。頭上に変なものが置いてないか気にするようになったし、足元に変な縄が走っていないかチェックするようになった。それでもだめなのは俺の学習能力の低さと運動神経の悪さのせいでは決してない。ないと言ったらない!
 やつのトラップのレベルがどんどん上がっているのだ。他にも被害にあってる生徒がいると聞くから、きっとそうだと思う。今回、直前に異変に気づいた女子が俺のことを呼んでくれたんだが、ちょっと遅かったな。水も滴るなんとやらとは言うけど、こんな水の被り方じゃあ魅力もへったくれもないだろう。溜息ひとつ。大丈夫、と差し出されたタオルを有難く受け取って、頭を拭くことにする。夏だけどカゼをひくのはいやだった。夏カゼはバカがひくっていうし。
 驚きの縛りから解放された友人たちが集まってきてくれる。あがった声につられて上を向くと、自分の喉からも変な声があがった。なんだあれ。もう、なんというか、説明のしようがないトラップだな。単純に黒板消しを挟んでたあの頃が懐かしいですよ。
 このクラスはあいつがいるクラスとは遠いから、あいつについて入ってくる情報はただの噂ばっかりだ。わざわざ確かめにいく物好きももういないしどの噂が真相かなんて誰も分からない。それでも、八組のあいつには近寄るな、学校を歩くときは足元やら頭上に気をつけろ、とそれだけだ。やつの人間性なんて誰も知らない、そもそもあいつが喋るのを、きっとここにいる全員、聞いたことがない。
 放課後だけど夏休みが近いこともあってだらだら残っていた友人たちは、だんだんと怒りでも湧いてきたのか、思うままやつへの不満をぶちまけ始めた。こいつらは、顔を知らないからこうやって何でも言える。本人がいないから何でも言える。やつのことを知らないから。やつがここにいないから。その耳に入らないから。
 俺はちょっともやっとした。



 なんでもやもやするのか分からず、要は顔を見てはっきり文句を言って問いただせばいいんだそうだそれがいいと思った俺は、八組まで足を伸ばすことにした。日が高いせいで早足の俺の影が短く廊下に映っている。
 なんでこんな簡単なこと今までしなかったんだろう、と思って、ああそうか何を訊いても相手が首を傾げるばっかりだったからだ、と思い直した。
 それも今日でおしまいだ。
 けれど八組に入ろうとした瞬間、異様な雰囲気に俺は気がついた。見慣れない女性がいる。あれは教師じゃない、誰かの親だ。俺のクラスと同じようにだらだら居残りをしていただろう、数人の生徒たちに、必死になって何回も頭を下げている。近くの席に、異常なくらいの無表情を貼り付けた例のトラップ名人が座っているのを発見して俺はやっと気づく。そうか、あれは、やつの親だ。学校に呼び出されるか何かして、とにかく生徒に謝ってるんだ。
 見てはいけない場面を盗み見てしまった気がして、校内でやつのトラップの被害にあってるのは俺が一番だろうにそんなことまで忘れて、そこからそっと離れようとする。八組のほうに背を向けて、とりあえず廊下によりかかった。どうしたものか。
 叱り飛ばす声。泣きそうになりながら謝る声。それにどう答えたらいいのか戸惑う生徒たちの呟き。そして無言。
 この子はこのとおり自分で謝れませんから。頭さげるくらいしたらどうなの。わたしが何言ってもこの子に届かない。

 無言。どうしてやつは無言でいられるんだろう。
 この子はこのとおり自分で。
 自分で?

 ふと意識がやつの一瞬見えた横顔に傾きかけたとき、いきなり八組のドアが開いた。心臓が口から出るかと思うくらい焦った俺がそっちを見る間もなく風だけが鼻先を通り抜ける。まっすぐ階段をあがっていったのは、やつだ。あのトラップ作りの神の申し子だ。
 なんだ何が起きた。教室の中じゃ、親らしき女性が当惑してうろうろしているだけだし、生徒たちも口をぽかんと開けたままだ。ドアが開くまで何の争う音もやつの声も何も聞こえなかった。
 やつの声。

 俺は八組を無視して、そのまま階段をあがる。この上には屋上しかない。屋上には鍵がかかってるが、なんせやつはトラップ作りの名人で、頭がいいのだ。もしかしたら。
 仮説はあたっていた。屋上へのドアは難なく開いた。ぶわ、と熱風が吹き付けて、さっき水をかぶったばかりだと言うのにすぐに乾きそうになる。
 その暑さの向こうに。
 フェンスの奥に無表情で立っている、やつがいた。
 俺が来たことに気づいていない。ゆっくりと歩を進め、そいつの背中に近づく。
 風は目の前からまっすぐ吹いていた。水が散って、飛んでくる。
 なんの気配もたてずに、俺はそいつをひっぱりもどした。戻ってこいよ。俺はお前のトラップ、きっと殆ど全部に引っかかって、それでも無様にもがいたりしなかったよ。驚きでやつの小さな体が暴れ、落ちそうになる、それを許さず、俺は夏の風ごとそいつの体をフェンスの内側へ引き上げて戻した。何回お前のトラップにかかったと思ってるんだよ。このくらいの知恵と力はつきました、残念でしたか。
 聞こえない耳をもつ相手だからといって、悪口を言っていいはずがない。
 こいつはずっと気づいていたんだ、聞こえてはいなかったけど、表情だとか場の雰囲気は、きっと読んでたんだ。ただその時にどう謝ったらいいか分からなかった。自分の表情が出せなかった。
 でもさ、喋れない口だからって、トラップで無差別攻撃していいってわけでもないだろ。友達がほしいんだったら、もっと別に何かあるだろ。お前は頭いいんだから。ああでも俺は手話なんて高等なことはできないからな。だから胸ポケットをまさぐって、俺はやつの黒い瞳の前に、生徒手帳を突き出す。入学したときにとった、間抜けな俺の写真と、ハンコで押された俺の名前。喋れないなら書けばいい。文字で意思疎通すればいいんだ。お前頭いいくせに、こんなことに気づかなかったの。それとも気づいてて、諦めてたのか。どっちでもいいや。
 黒髪が揺れる。連動して、水の張った黒い瞳がもっと揺れた。通じたかな。
 こんな友情の始まりだって、アリだと思うぜ、俺は。





おわり

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14/12/26 【第31回フリーワンライ】
使用お題:簡単には逃がしてやらない  一次創作もの
#深夜の真剣文字書き60分一本勝負