朝起きて、そしていつも思うのだ、また無駄な命が生き延びてしまったと。
 だからといって別段自殺願望が強いだとか、とっとと自分は消えてしまえばいいだとか、そんな暗いことをわたしは考えているわけではない。ただ、思う、のだ。意識が水面へと浮上するその一瞬、気泡がはじける、それと同時に、その一言。



 ひとつ、またひとつ、と今日も先輩はそこで、ペットボトルに透明を入れている。

 いつからか先輩は、それしかしなくなった。科学が得意で、数学の成績も満点で、体育もできて、機械の仕組みにも詳しい、そんな美術部の先輩。
 先輩が失踪したというニュースが学校に広まったとき、わたしは真っ先に部室へと足を向けた。部室は、そりゃあ先輩が所属している部の活動拠点なのだから、誰だって最初に疑うと思う。でも先輩は、わたし以外の誰にも発見されないままで、そこにただ、座っていた。この部室には、部員が悪ふざけで作った仕掛けがあるのだ。教員や事務の人に見つかったら退学でも済まないような大改造。こっそりこっそり続けていたら、完成してしまった小部屋。誰にも気づかれていない、ここは隠れるにうってつけの、日のあふれる場所。
 先輩はその光のまんなかで、そっと、一本の筆を持ち上げて、空のペットボトルに水を落としていた。

 美術部に所属する先輩は、気まぐれで入部してしまったわたしなんかよりずっとずっと絵と色が好きだ。というより色のことしか考えておらず、成績がいいのにそれについてばかり話す。先輩のマニアックな話についていける人は、部の中でも皆無だった。先輩は人気者ではあったけど、孤独に色を愛している人だった。
 わたしが一年の春に気まぐれを起こした理由は、先輩の色だった。
 何が言いたいのか詳しい言葉なんて、一枚の絵からは到底わからないけど、ああ、呼んでるんだな、わたしかもしれないし、他の誰かかもしれないけど、ずっとずっとこの絵を描いたひとは、誰かを待っているんだ。
 先輩の絵は、色は、そう言っていた。少なくともわたしにはそう聞こえたのだ。だからわたしは気まぐれを起こし、その色を操る人に会うために、美術部のドアを叩いた。先輩は喜んだ。話ができる人が来てくれたと小躍りしていた。何枚も何枚も色をカンバスに筆で殴りつけ、そしてゆっくり撫でつけながら、とりとめのないことをたくさん話してくれた。わたしは、先輩のいう専門用語も、芸術的で抽象的な言葉もよく分からなかったけど、この人があの暴力的に優しい絵を描いたのだ、という感動だけでいっぱいだった。
 先輩はわたしに才能や知識がなくとも、わたしを構ってくれた。ことあるごとにお礼まで言ってくれた。
「あの絵の声を聞いてくれて、ありがとう」



 ぱた。
 水が溜まりつつある、もとは空だったペットボトル。三階の広場にある、自動販売機から出てきたもの。先輩が絵を描きながら、飲み干して空っぽにしてしまったもの。
 ぱたん。
 先輩は、あの日から家に帰らない。授業にも顔を出さないどころか、クラスの友人たちにも教師たちにも何も言わず、家族に連絡もせず、ずっと、ここで暮らしている。ひっそりとしたこの光の隠れ家で、ペットボトルに水を注ぎながら。
 先輩。でもそれは色とは違うのよ。あなたが今まで操っていたものじゃない。どんなに混ぜても、どんな色にもならない。光を吸い込んで反射するだけの、うしろをうつすだけのもの。
 答えはない。先輩はぽたん、ぽたんと、筆先から落ちていく透明を、ただ見つめている。
 先輩が操っていたものたち。空の水色。木々の緑。頬の色。先輩の髪の色。部室の天井の色。今はもう、鞄の中にしまわれてずっとそのままのもの。

 わたしにはもう、先輩が何を言いたいのか、わからない。
 もとからそんなもの分からないのだ。何の知識もないままここにきてしまった。そして先輩の一番弟子になってしまった。たくさんたくさん教わったけど、ろくにデッサンもできないし、色をつけて表現するなんて無理。でも見ているだけでよかった。わたしを呼んだ絵を描いた人を、見ているだけで。
 その絵が何を言いたいのか、もう、聞こえない。
 わたしに聞こえるのはただ、もう、この部屋に満ちる、筆から滴る水滴の音だけで。



 だからわたしは朝起きて、そしていつも思うのだ、また無駄な命が生き延びてしまったと。
 先輩、どうやったらわたしにあなたの声が、もう一回聞こえるようになりますか。どうやったら先輩は、こっちを見て話してくれるようになりますか。その透明が放つ言葉を、教えてくれますか。
 わたしを呼んだのはあなたの絵です。あなたの色です。何を言ってるかなんて、詳しい言葉じゃ表せないけれど、あなたの色は誰かを呼んでいた。それにわたしは惹きつけられた。暴力的な、優しさ。思いっきり野の花を引っこ抜いていく、無邪気なこどものようなそれ。
 この心臓を、声帯をあげたなら、あなたは教えてくれるでしょうか。先輩、あなたの心臓も声帯も無事なはずなのに、どうして何も言わないの。どうしてその指が操る色さえも、大人しく無言になってしまったの。あなたに何が起きたの。

 ひとつ、またひとつ。先輩の落とす透き通った音に、わたしの頬からすべるぬるいものの音が、まざって、光にとけた。





おわり



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14/12/20 【第30回フリーワンライ】
使用お題:水の音   一次創作もの
#深夜の真剣文字書き60分一本勝負