生まれる



 春、私たちは光の狩人になる。全身の細胞が風船になって肌から浮き上がっていく。次から次へと足を止めない自殺にいいように身を任せ、ただ空がまるいことを確かめる。感覚は悲鳴であり、そして歓声だった。
 鳥が鳴いている。
 山に行こうと先に誘い出したのがどちらだったのか、よく覚えていない。ただ私たちにとってどちらが言い出したかということは些細な問題だった。相手が行きたいと言えば一緒に行く、やりたいと言えば一緒にやる、結婚したふたりとはそういうものだと私たちは思っている。私たちは手を取り合う。どんなときでも、そこがどんな場所であっても。
 すべてがすべてにふさわしい昼下がり、命が希釈されていくのを感じながら山へ行く。レンタルした軽自動車が平日を横断する。窓の外を流れる景色の笑い声を聞いて、隣で運転している伴侶の今日の服装を思う。私たちは色とりどりなので、混ざると黒になる。混ざるということは私たちの境がなくなるということであり、それは幸福なことで、だから私たちは今、確かに幸福なはずだった。
 隣からふと声が上がった。一面のどかな緑と青の中、しみのような黄色が近づき、ゆっくりと余韻を残して軽自動車が停車する。郊外の小さな山、周囲に広がる住宅街を一望できる道に私たちは降り立った。少し行った先に道路標識が見えた。
 誰かを待っていたとでも言いたげな標識にこわごわと近づいてみる。やがて文字が像をむすぶ。目を凝らしてふたりでそっと読み上げた。ひかり、ちゅうい。
 光注意、と書いてあるのだった。心当たりがまるでないが、どうやらこのあたりには光が出るらしかった。
 私たちはそのあたりを散策することに決めた。いそいそと木々の中に分け入り、息をひそめて沢を渡る。ピクニックの目的地はここではなかったのだが、こんな沢も秘密基地めいていていいと思った。しばらくふたりで沢を飛び越えて遊び、どちらからともなく沈黙して葉の揺れるのを見守った。また鳥の鳴き声が聞こえる。今はちょうど正午頃だろうか。
 ぱっと何かが閃いた。反射で手を伸ばし、走ったものを捕まえた。視界に映った手は現実味がなく他人のもののように硬直している。合わせて閉じた両手を、ふたりの間にこわごわ掲げ、手の中に少しずつ空気をふくませる。
 隙間から光が走った。ためらったのは一瞬で、あとは思い切って裂くように開いてしまう。
 しばらく魂でも抜けたように光を見る。
 心地よい虚脱を、閑寂とした森の空気が包んでいる。ここにあるまたたきのなんと正しいことだろう。沢の小さな石たちは木々の下、土にまみれてこもれびに照らされている。
 ひかえめなまぶしさに似合うように注意を払って私たちはしばしその場に佇み、捕まえた光をひとつひとつ、鞄にしまいこんでいった。
 私たちはやはり幸福で満ち足りている。どうしてこんなに簡単なことに気がつかなかったのだろう。色とりどりの私たちは、しかし色ではないのだから、混ざって黒になることはない。簡潔な白になるのだ。



 ふさわしいものを探してずっと歩いてきた。今、私たちは森の奥で暮らす一頭のけものである。正確で、欠けがなく、穏やかで、とても静かで粛々としている。
 かつての私たちはふたつに分かれていた。私と伴侶は数年前までは赤の他人で、傾いた食品加工会社で上司に引き合わされて知り合った。その日は互いの部署の書類交換をしただけなのだが、なぜか視線がやたらとかみ合ってしまったのをよく覚えている。私たちは互いがつまらない事務仕事をしていることを揃って恥じていた。それが視線でわかった。機械じみている上司や同僚たちの頭の上を飛び越えて、それからというもの私たちは、悪事でも働くようにこっそりと視線を通わせたものだった。
 一応入りたくて入った会社だとはいえ、ただの事務員でしかなかったので、食品を実際に扱うことは全然なかった。案外私は抜けているものであるから、そういうことをしたければ工場のスタッフに応募したほうが余程よかった、ということに思い至るまで結構かかってしまい、しかしいざ気づいても中々今の仕事をやめるふんぎりはつかないのだった。せっかく得た職を失いたくなかった。食いはぐれてしまうことも怖かったが、何より度胸がなかったのだと今なら思う。
 どうにかしなくてはいけない。しかし、具体的に何をどうするべきなのか、てんでわからず途方に暮れる。誰に気兼ねすることもない一人暮らしだったのに帰宅が面倒だった。私は私を生かすのに飽きていた。焦りと飢えだけがある日々だった。
 限界だったある日、同じく限界を迎えているらしいコピー機の前で、私たちはとうとう結婚を決意した。その必死さは罪人たちの逃避行によく似ていた。言い出したのは、これもやはり、どちらだったのかよくわからない。とにかく私たちは結果的に、あのとき目の前にあったコピー機の仲間入りをせずに済んだ。
 ふさわしいものを探してずっと歩いてきた私たちは、あの日ようやく息をすることを覚えた。互いの無事を祝福しあって、手を取り合い、生まれて初めてそこで私たちになった。
 そして完璧な生活が始まる。結婚をきっかけに相談し合って仕事を変えた。しがない事務員だった私たちふたりはそれぞれ、駅地下の惣菜屋の従業員と、個人経営レストランのスタッフに収まった。実入りはもちろん、前と比べたら雲泥の差だ。しかしどうしても事務仕事を続けるわけにはいかなかった。惣菜屋の同僚たちとは、最低限の仕事の話しかしない。同僚たちは黙って食品をさばいて定時には帰る。伴侶もレストランから早く帰ってくる。それでよかった。
 そっとしておいてほしかった。私たちは完全に欠けのないものとしてひっそり生きたかった。
 にんにくであらかじめ香り付けしておいたオリーブオイルの中で玉ねぎがふつふつ炒められている。それを尻目に、伴侶がピーマンの張りを確かめ、さっと水で洗って種を取り、ほどよい大きさに刻んでフライパンに加えてくれる。切っておいたベーコンもフライパンに投入して加熱していく。
 横目で電話を確認すると、どうも実家から連絡が入っていたようだった。実家の人間たちは何かと心配ばかりしてくる。私たちには私たちがよく見えている。満たされた存在であると知っている。しかし、これがどうも周りにはわからないらしい。
 私たちにとって食事とは、ふたりでいることとは、しっかりと生きていくということで、地球上に散らばった自分自身を取り戻す行為なのだった。それをするためには退屈な仕事などしている場合ではないし伴侶以外の人間と話している余力もなかった。
 拍手のようにやかましいフライパンの中身へ塩と胡椒を振って味付けをして、トマトペーストとケチャップをしっかり具に絡める。麺の湯切りをして冷めないうちに混ぜ込む。フライパンの中で赤くひとつになったものを、私たちは見下ろし、頷き、均等に皿に分ける。
 ものが完成するのは何度見てもいい。完璧さとは善である。席に着いて手を合わせ、伴侶が粉チーズとパセリをかけているのを見て、ふと昼間の光景を思い出した。ふたりで集めた光はまだ鞄の中だったはずだ。
 テーブルの上に鞄を持ってきて、おごそかに開いていく。光はそこにあった。
 ひとかけら手に取る。いつも粉チーズやパセリを仕上げにかけるように、親指でほろほろ砕いてパスタに光をかけていく。自分の皿だけではなく、伴侶のものにもかけてやる。再度手を合わせて、光をフォークに麺ごと巻き込んで口に突っ込み、咀嚼する。
 塩辛くも甘くもない、生臭さもないし、青さやえぐみも感じない。音を立てて切れていく麺の間に味の濃いベーコンがあり、苦みをはじけさせるピーマンがある。ケチャップの味がする。隠し味に入れたバターの香りもする。しかし光は沈黙していた。無味無臭であり、食感もなかった。
 だからこそ、私たちは光を、私たちにふさわしい食材だとみなした。
 きっとこれが完璧な食事だと思った。欠けのない私たちに一番似合う。朝靄漂う森の奥で暮らす一頭のけものが食んでいるものとしてこれ以上のものはないだろう。
 私たちがどんどん、完全さを増していく。



 そうして光は私たちに欠かせない食材になった。
 最初の光は翌週には食べきってしまった。最初は我慢していたが、そのうちいつもの食事では物足りなくなる。そして私たちは毎週、曜日を決めて、光を捕りにでかけるようになった。その日の夕食では必ず、捕ってきたばかりの光を食べる。一品でいい。サラダでも、刺身のつまでもなんでもいいので、とにかくどれか一品に光を混ぜる。その日の夕食はとびきり豪勢にして、一週間分の光を摂取し、そうしてまた次の週、光を捕まえに出向く。
 光は市場に流通していないため、自分たちで確保するしかなかった。最寄り駅近くの商店街でも、私たちのそれぞれの職場でもとんと扱う気配はないのだった。惣菜屋でコロッケの油を紙に吸わせながら、あるいは客に出すシェフのきまぐれランチセットを運びながら、私たちは幻視する。その料理に光が混ざっている様子を勝手に想像する。何か料理をしていても、これに光をかけてみたら合うのではないか、とすぐに気持ちが浮つくようになった。
 決めた曜日になると山に向かい、いつもの沢に下りて、光が降り注ぐのを待った。誰もいない静かな自然の中で、息をひそめて光を捕まえては袋に詰める。それを繰り返す。虫を追いかける子どもたちでもここまで切実ではないだろう、とぼんやり思う。
 さて、光はどんな料理にも合った。サンドイッチ、煮付け、親子丼、ドリア、オムレツ、生姜焼きの付け合わせ、カレーライス、ハンバーグのつなぎ、餃子、ピザ、味噌汁の具、何に使ってもちょうどいい。主張しすぎることはなく、それでもその存在を失うことはない。何しろ光なのだから。
 光はお菓子とも相性がよかった。クッキーに練り込んで焼いてもいいし、ケーキに乗せてもいい。今日は篩いにかけてガトーショコラにかけてみた。つまみにも最適だ。光を単品で炙っておくだけでも満足感が違う。ワインにも日本酒にも合う。私たちはそのうち、夕食だけでなく晩酌のときにもふたりで光を分け合うようになった。
 次第に週一回では追いつかなくなり、通勤中、または帰宅中、私たちは光を集めるようになる。晴れだろうが雨だろうが大した差はなく、昼間は狙いを定めさえすれば取り放題だし、夜は夜で光が際立つので楽である。地下鉄のホームに差し込む月光、水を打ったように静かな住宅街の外灯の明かりや、駅近くの小川の水面の反射光なんかを拾って帰る。捕りにくい光もあるので工夫が必要だった。人目を忍んで光を集める。隠すように手のひらに入れる。鞄に詰め込み、息を切らして走って帰って、袋に小分けして保存するのだが、そのおかげでキッチンは今やちょっとしたイルミネーションの海だった。
 ぶんと震えて唸りながら、型の落ちた冷蔵庫がはちきれんばかりに光を抱いている。
 光を毎日摂ることが当たり前になった頃、私たちの部屋の扉を叩く者がいた。訪ねてきたのは同じマンションに住んでいる人間だった。何年ぶりかわからない来客を出迎えたのはちょうどふたりとも休みで予定もない平日のことだった。
 隣人曰く、ごみ出しの時間が我が家とわずかに被るせいで、こちらが出していく姿を相手はここしばらくずっと見ていたらしいのだが、こちらの置いていったごみが最近おかしいという。おかしい、はあ、どのように、とやんわり尋ねれば、他のご家庭より量が少なすぎて、そしてところどころ光っているのです、とごくごく真面目に返された。それの何が問題なのだろうか。どうしてわざわざそんなことを言うのに貴重な時間を使っているのか、私たちは不思議でならなかった。そもそも他人の家庭のことをそこまで見て気にする人間がいるというのもわからない。
 近所でも職場でも、私たちに構おうとする人間はここ数年ずっといない。それが好都合だったのに、どうして今になって文句をつけられなくてはならないのだろう。私たちは誰も害さずに生きているというのに。
 苦情を言いに来たにしては隣人の口調に責めるような色は一切なかった。しかし、かといって気遣わしげでもなく、とりたてて下世話な興味があるというふうにも見えず、隣人自身もどうして我が家まで来てしまったのかわかっていないようなどこかとぼけた顔をしている。
 よければ夕食を召し上がっていきませんか。気づけば私は、隣人に向かって表情のない声でそう呟いていた。
 無言の隣人を椅子に座らせ、食卓にテーブルクロスを引き、昼からずっと煮込んでいたポトフを器に盛り付ける。アスパラガスの和え物を小皿に移し、なすすべなく悄然としている隣人の前に並べる。洋食に合う白米を立てるように茶碗に盛り付け、整え、三人分卓に置いた。フォークだけではなく箸も予備のものを棚の奥からひっぱりだして揃える。
 どうぞ、と促した。私たちもめいめい席に着いて手を合わせてから隣人を見守る。仕上げにかけるまでもなく光をふんだんに使った料理だった。ポトフの具にもアスパラガスの和え物にも光を混ぜ込んである。米は光で炊いたものだ。このご飯が煮込み料理によく合うのだ。しかしこれでは足りないらしく、伴侶は袋詰めにした光をテーブルまで持ってきて、光を更に取り出してだめ押しのようにポトフになみなみと落としている。
 隣人はなぜか呆気に取られたように私たちを眺めていた。絶句しているようだった。
 おいしいですよ、味見もしましたし、どうかそんなに構えないでください。私たちは隣人を安心させるようにそれぞれほんの少し食べてみせる。上品に箸を持ち、ほぐれた豚肉に光を絡ませて口元へ運ぶ。そうしてちまちま口に入れ、よく味わって喉を鳴らして呑み込んで、隣人に視線を戻した。私たちはなるべく優しく話しかける。さあどうぞ、これは食べるべきものですから。
 椅子を鳴らして隣人が立ち上がった。結構です、もう帰らせてください。隣人は確かにそう叫んだのだった。血相を変えた隣人は、私たちが何か言う前に荷物をひっつかみ、あっという間に玄関まで駆けて行ってしまう。なんとか追いついた私たちが扉の隙間に指を挟むと、隣人は土気色の顔をして目をぎょろりとこちらに向けてきた。
 そんなもの、食べものじゃない。
 とその唇がわななき、一瞬のうちに指が外れて扉がしまる。
 横にある窓から外を見る。転がるように足をもつれさせて隣人は私たちから遠ざかっていく。長い長い影が、マンションの廊下をせわしなくうごめいてそしていなくなった。
 残された私たちは言葉もなく小窓から隣人の背を見送っていたが、やがて静かに食卓に戻った。冷めても光の味には支障がないとはいえ、せっかく料理したものを放置するわけにいかなかった。当たり前のことだったので、隣人が一口も手をつけずに残していった分もふたりで食べた。いつものように晩酌もした。
 キッチンからこぼれる光を感じて眠る。私たちには光がついている。



 室内が明るい、と気づいたのはそれから二週間ほど経った頃のことだった。家具が光っているのではない。私たちの溜め込んだ光が多すぎて、それで明るく感じるのだ。
 私たちの部屋は一見するとぼんやりと発光しているようだった。マンションの近所を散歩すると、窓や換気扇から光が漏れているのがわかる。私たちの部屋はいい目印になった。光を目指せばふたりの家に着く。帰りがけに拾った光をそこに足す。視界がもっと輝いていく。食べるために捕ってきた光だけで生活できるほどで、それはとても便利なことだった。失せ物を探すときにわざわざ朝を待つことがなくなった。居間の電気が切れようとも困ることはない。私たちの視界は常に透明だった。
 一日を終え、風呂場でシャワーを浴びながら私はタイルに反射した光をひとつずつつまんでいく。シャワーヘッドを傾けると新しくまぶしいところができた。その輝きもはがして、脱衣所に置いていた袋にひらひら入れてやる。卵の薄皮でもめくるようにそっと爪を合わせて、ひとつひとつ、重ねていく。
 風呂場のにぶい照明から放たれる光も集めればそれなりの量になる。探そうと思えばこの世界には光が満ちあふれている。
 今や冷蔵庫だけではなく米びつにもお菓子の缶にも光が詰め込んであった。流しの上下、食器棚の空いた棚にも光を保管してある。瓶詰めにして廊下にも置いた。寝室にも光を並べて明るい中で眠った。
 何をしても光はなくならない。
 光にまみれて寝起きするのが普通になって、そして私たちは気づく。どうも体中の穴という穴から光があふれているようなのだった。ただ目を開いて歩くだけで行きたい方向が照らされる。自分自身の周りが常にぼうっと明るく見える状態だった。食べた光は蓄積されて体内から出てこない。私たち自身が光源になったわけではないが、まるでそう錯覚しそうなほどあたりはまぶしかった。
 手づかみで光を口に詰め込む。調理の手間が惜しく、仕事に行くのも面倒だった。料理は私たちにとって大事なことだったはずなのだが、完璧な食材たる光があることを思うとなんだかつまらないことに拘っている気分に陥ってしまう。冷凍庫で保存しておいた光を舐める。カトラリーを使うのがもどかしくなって指ごと吸う。投げ出したスプーンに室内の明かりが反射しているのを認め、その光を拾ってボウルに入れる。伴侶はごみ箱をひっくり返して、捨ててしまった光がないか確認しているようだった。電話が鳴っている。その通知の光を舌で掬う。しばらくその体勢でいたが、もう光っていないことに気づいて廊下に出た。瓶の蓋を投げ捨てて中身の光を掻き出していると、居間のほうで伴侶がカーテンを破り捨てている音がする。浴びるように食べているとそのうち瓶も空になった。キッチンに戻って口を開けたまま冷蔵庫に上半身を突っ込む。
 舌先にずっと光が触れている。光は減らない。



 そして今日だった。
 もう朝のはずだ。最後に時計を見たときに夜だと思って、そこから少しして眠った。もちろん家から出たりはしていない。それなのに今、目を開けているのかそうではないのか、起きているのか眠っているのか、ここがどこなのかわからない。
 上体を起こして首を動かす。何も見えない。
 うかつに立ち上がることもできない。もしかしたら今は夜中、いやまだ夢の中かもしれないと思い直そうとしたがだめだった。瞼を開けている感覚がある。視界一面が白く、目の奥が痛かった。閉じてもまぶしいのは変わらない。痛みを感じるたびに影が見えて、その影を追いかけても正体を捉えられず、そこで落胆する。あれは生き物でもないし家具でもない。脳や視神経が勝手に認識している模様だ。実体がないものに手を伸ばしても仕方がない。下ろした手で今まで寝ていた場所をなでさすり、そしてはっとする。伴侶がどこにいるのかわからない。隣には何もない。
 今の私は私たちではなかった。私は私になってしまった。
 何も見えないのだから闇の中と同じだった。うろたえながらおそるおそる立ち上がる。立ち上がるということはこんなにも勇気の必要なことだったかと思いながら床を踏みしめる。ぶつからないようにすり足で進む。なじんだ寝室のはずなのに、壁を遠く感じた。伴侶を呼ぶ。その名を呼ぶ。ひたすら呼ぶ。戸惑いがちにかすれた声が喉から出る。次第にそれはエスカレートし、腹に力を込めて呼ぶようになる。
 伴侶の名を呼ぶのは久しぶりだった。最後に呼んだのがいつのことなのか私には思い出せなかった。伴侶は今どうしているのだろう。どの部屋にいるのだろうか。もう一度名を呼ぶ。むなしく声が壁に吸われる。伴侶は本当にこんな名前だったか。私は何か間違ってはいないか。間違ってはいないか。
 しばし所在なく立ち尽くす。足下ががらがら音を立てて崩れていくようだった。
 私は何も知らない。前の職場がどうしてあんなに灰色だったのか、実家の人間がどうして定期的に電話をかけてくるのか、惣菜屋の同僚が何を思って仕事をしているのか、我が家を訪ねてくれた隣人が何を感じていたのか。わからない。私が正しいことをできていたのか、まるでわからない。
 隣人がこの家を去るときにぶつけてきた言葉が脳裏に甦る。
 私たちは、私は、私のことを欠けのない存在だと思っていたが、そうではなかった。ちっとも完璧ではないし粛々としてもいなかった。ここは森の奥ではなく、私と伴侶は一頭のけものではなかった。そうあるために必要だったことを私はずっと怠ってきた。本当に穏やかで満ち足りている存在なら、あの日、光を捕まえたあとに、あんなことはしないはずだった。こんなことにはならないはずだった。
 目をさすろうとしてまた身じろぐ。まばたきをしてもやはり変化はない。視界の幾何学模様が揺れる。目尻を拭ったところで、私は弾かれたように体を起こす。
 誰かが私を呼んでいる。
 私は手を伸ばす。目の開いていない子猫が鼻先で親を探すように必死で手を前に突き出した。声のする方向へゆっくりと進む。平衡感覚をなだめすかして歩く。壁にぶつかり、それに沿って移動して部屋を出ると、匂いと音の響きが変わった。廊下に出たのだ。そこでまた呼ばれる。
 私も伴侶の名を呼び返す。
 長くはないはずの廊下を時間をかけて進んで、やがて指先に何かが触れた。壁ではないと一瞬でわかったそれに手を這わせる。初めはこわごわと、そしてすぐに荒らすように、すがるように両手で触れる。視覚以外のすべてが、そばにいる人間が私の伴侶であると告げていた。伴侶の頬は熱く濡れていた。相手も泣いているのだった。手のひらの中で相手の唇が動く。吐息が触れる。また名を呼ばれる。壊れものをつまみあげるような声だった。私もまた伴侶を呼び返した。手だけでは足りずに顔を寄せ合い、匂いを確かめて舐めて囓る。懐かしかった。息を深く吸う。ふくらんでしぼむ全身をなぞり、祈りのように命のかたちを確かめる。
 私たちの間で手が繋がれる。
 そして光だけがある。




「生まれる」終





19年11月 アンソロジー光 冊子参加
不可村天晴