夏はとても人が耐えられるものではなく、夏を知ると寿命が短くなったり気がそぞろになったりするというので、僕たちはみんな夏をおそれる。しかしいくら夏をおそれてもあまり意味はなく、なぜかというと今は夏を知ることさえできない世の中になっているからだ。知ることはほぼ不可能に近い。失われたものについて正確に知ることはとても難しい。かつて夏はほんとうにあった。誰も知らないがあったという。ましろい雪に覆われた、どこに行っても常に氷点下を切るこの星にて、夏という季節とともに、夏を知っている人間の大多数が失われて久しい。夏はその存在を書物の中にのみ残し、夏を知る人々を道連れにして消えた。僕も夏を知っている人間の存在など聞いたことがない、僕の姉以外には、誰一人として。 姉は夏を知っている。もしかすると人類で最後の「夏を知る人間」かもしれないと世の中では噂されている。当の本人は噂には興味がないらしく、毎日のらくら暮らしている。独り立ちしておかしくない年齢ではあるが仕事をしておらず、事故死した僕たちの両親の遺産を少しずつ切り崩しながら生きていて、ときどき僕の勉強の様子を見に来ていた。たしかに、姉の暮らしぶりや対人関係はなんとなく宙に浮いているようで、その奇妙さは夏を知っているがゆえのものだと誰かに指摘されてしまえば納得してしまうようなあやうさを含んでいたのだった。ところで僕はというと生活は祖父母に面倒を見てもらっており、ほとんどのことは特に心配もなかったのだが、こと勉強となると姉の存在がありがたかった。僕や祖父母は勉強が苦手だったが、姉は勉強が苦ではなく、かつ僕を構うことが好きだったのだ。 姉は夏を再現しようと試みたのだった。僕がそれを姉から聞いたのは僕が十六のときで、姉は僕に勉強を教える途中でなんの前触れもなく僕に話し出したのだった。その手はペンをもてあそび、ぶどうのような目は僕を見てはいなかった。彼女の話によると姉はかつて中学生だった頃、授業で夏について学ぶうちにどうしてもほんとうの夏を知りたくなり、同じ願望を持つ仲間を集めて夏を再現する活動を始めたのだという。ほんとうの夏を実際にすごした世代はもうとっくにいない。姉は彼らの残した記録から夏をよみがえらせようとしただけだった。うまくいったのか、と僕が訊くと、姉は、たぶん、と言った。その「たぶん」が否定と肯定のどちらを含むものなのかは結局わからなかった。姉と同じ場所にいた者たちはいずれも早く死んだらしかった。話が終わっても僕はずっと黙っていた。話のあとは姉も黙っていた。にわかに視界が明るくなり、部屋のなかの点と線がばらばらになって僕の目に飛び込んでくる。姉の腰掛けるクッションが姉の重みで影をつくっており、そこに姉の手から落ちたペンが転がった。姉の声はそのくぼみの影にそっくりだと僕は思った。 成人した僕は姉の教育のおかげか器用に暮らせている。建物の内側から雪を解かして、人間の住むスペースを増やす計画に携わっており、毎日が忙しいので祖父母にももうずいぶん長いこと会っていない。姉の居場所はいつからかわからなくなっていたが、つい先日、ちょうど雪を解かしていたときに彼女の訃報が届いた。汗が床に落ちた。僕はその、落ちた自分の汗とそこに広がる影を、いつかのようにじっと黙って見下ろしていた。熱源がじりじりとあたりを焼いていた。その脳に夏をとじこめて僕の姉は死んだ。僕は彼女を悼むために数日喪に服し、やがて彼女を思うことがもはや夏を思い描くことと同義になっていることに気づく。夏はあまりに寒すぎる星で死んだ。もうどこにもない。よみがえらない。 |