夏は影の季節だと、つくづく思う。
 入れば地面を抜け反対側の地表も貫通して宇宙に放られそうな木陰。容赦を知らない太陽のせいで、日々は皮膚という皮膚に張り付いて過去になる。



 約十年ぶりに再会した相手は、鼻白むほど垢抜けた姿で最寄り駅の待合広場に立っていた。
「迎えにきてくれるってわかってましたよ、嬉しいです」
 グラサンに黄緑のアロハだ。おいおいこっちはスーツですよ、何をそんなに夏満喫してんだよ、と脱力してしまったのも仕方ない。責めないでほしい。俺は夏日でもきちんとスーツを着込んで働きに行く真面目な会社員なのだ。今日だって起き抜けに、朝刊にまぎれたハガキなんか見つけなければ、こんな場所でこんな浮かれた格好のやつと再会なんてしなかっただろう。律儀にハガキを読んでしまったから。つい。うっかり。
「心配してくれたんですか?」
「当たり前だボケ!」
 反省の色がかけらも見られない相手に軽く蹴りをかます。これくらい乱暴でも許される、相手は中学校のときだけの親友だった。俺はそいつのやけに にこやかな表情へわざと睨みを送り鞄をさぐり、今朝届いたハガキを引っ張り出し相手につきつけてやった。やっとひらがなを覚えた幼児が意気揚々と書いたと言われたら一も二もなく信じてしまうだろう悪筆のハガキである。それ以外には何の変哲もないハガキだったが、字と内容で平和は台無しだ。解読できてしまった今朝の俺が哀れすぎる。
「ああこれ、今朝だと思ったんですよ着くの」
 笑顔で言われてしまう。案の定計算尽くだった。
「そして君は絶対来てくれるって、わかってました」
 その自信はどこから来るんだ。
「君、お人よしですもん。人の性格ってそう変わりませんよ。違う高校に進学してから音信不通になっていた僕から急に、妙な筆跡で怪文書が送られてきたら無視できない人だって、僕はずーっと知ってました。だからハガキ出したんです」
「引っ越してたらどうするつもりだったんだよ」
「あの家放置してどこかに引っ越すような人じゃないでしょ。いるって思ってました。僕の勘はあたるんです」
 ああこういうやつだった。

 一度も思い出さなかったのにな。

 ばかやってた十年前そのままみたいだ。
 こいつは、仲のいい大家族の中で育った、親の影響である丁寧語を崩さない、ちょっと変わったやつである。こいつとは逆に家族と折り合いが悪く、当時すでに勘当扱いであった俺の、たったひとりの友人だった。中学校で孤立していた者同士、なんとなく波長が合ったのだと思う。
「つかなんでアロハ」
 いよいよ目が痛いので訊くことにする。
「羨ましいんですか?」
 ここに置いてってやろうか。
「そんなに怖い顔しないでくださいよ、女性ウケする顔なんですし。あ、今でもモテてます? 君のことだから二十代のうちは遊びつくすつもりでしょ」
「今きーてんのは俺」
 黒い鮫のような通行人の波を背景に、相手はしばらくおかしな黙り方をした。
「あのですね」
「ん」
 なんだろう、改まって。相手に合わせて姿勢を正してしまった俺は、笑顔溢れる答えを聞いてのち瞬時に後悔することになる。
「僕、大金持ちになっちゃったんです」




 こいつは俺に給料を払う義務があるんじゃなかろうか。
 新品とおぼしき黄緑のアロハをなびかせ、夏休みの子供向けに営業している露店からアイスキャンディーをふたつ手に追いかけてくる足音を聞き、心底そう思った。人生を金に換算するほどさもしいわけじゃないが、曲がりなりにも今日は出社日だったのだ。緊急で電話をいれて休みにしてもらった。素行がよ く上司に気に入られている普段の俺に今日ほど感謝した日もない。
 しかし、その結果がこれだ。
「はい、君の分。ソーダ好きでしょ」
 太陽からの熱視線に耐えられず、今にも名画の時計の如く垂れさがろうとしているソーダアイスを、俺はしげしげと見やって溜息を吐く。こうやって差し出されてしまえば礼を言わないわけにもいかず、さんきゅ、とだけ呟いて受け取る。しっかし、よく覚えてんなアイスの好みなんて。
「お給料、謹んで頂戴しますよっと」
「何言ってんですか」
 ふざけまじりに言い放ちアイスを振る俺に、相手は一瞬きょとんとした表情を見せてから、また小走りで近づいてきた。
「僕に会えたことが君にとって一番のご褒美です。それにまだ再会してすぐじゃないですか、なんて気の早い」
 もう言葉も出ない。さらば俺の一日。地球をかみ砕いたような音が口内に走り、ソーダ味が広がった。同時に横でイチゴ味のアイスも削り取られる。
「なあ、大金持ちってなんで?」
 夏休み真っ盛りなのにしんと静まり返った、異世界のような住宅街を抜けながら、俺はふと思い出したように言ってみた。相手は丁寧にキャンディーの棒を舐めきってから、
「僕が善良な人間だからです」
 善良だったら一瞬で大金持ちになれるのか。
「お前のその基準でいくと俺も一秒後には大富豪か」
「あはははは」
 なんと相手は嫌味さを微塵も見せず、清々しく笑いとばした。そしてすぐに真顔に戻る。顔芸は今も健在のようで何よりだ。
「いや、ありえますよ。笑っちゃってすみません。真面目です」
「で、ほんとの理由は」
「だから僕が公序良俗を守る働き者だからですって」
「殴っていい?」
「ご無体な。本気です。なんの宗教も信じていませんけど、もしかしたら日頃の行いって、ほんとに誰かが見てるのかもしれないですね」
 胸ポケットにひっかけた、どうかしてるとしか思えないハート型のグラサンを相手はいじって歩いていた。こういうのこいつ好きだったっけ。金持ちになったと言う割には随分とチープに見え、何か妙なひっかかりを心臓に感じる。
「どこで買ったの」
 歩調を合わせながら話題をふってやると、不思議そうにこちらを見上げられた。それ、と顎をしゃくってシャツとグラサンを示してやる。そこで相手は一体何の話かようやく気づいたようで、喜色満面でシャツを引っ張り始めた。なんだよそんなことしても似合わねえよ。
「よくぞ訊いてくれました! 僕にはもう一生遊んで暮らせるほどのお金がありますからね、もう衝動でお店に飛び込んで目についたの買っちゃったんです。僕の地元のほら、あの服屋さんですよ。君も何回か来たじゃないですか。これ、似合うでしょう、僕ったら何でも着こなせて大変。君ほどじゃないけど一 応顔立ちいいし、こんなアロハなんか着ちゃった日にはそれこそ太陽だって僕の味方です!」
「はいはい似合う似合う。暑苦しいって」
「うそだあ」
 懐かしい舌っ足らずさだった。
 そうだ、こいつはいつも、何かあると、うそだあ、と笑うのだ。
 笑い声に合わせ、熱されたアスファルトにはらはらと朝顔が落ちる。昼も夜も気まぐれでしか知ることのできない、支柱に巻き付く花。何かに言い訳するように俺の唇がはためく。
「嘘じゃねえよ。暑いだろ」
「そういうことにしときます」
 何が、と反射で言えば相手は、何でもです、とのんびり返してきたのだった。




 変わってませんねえ、なんてぬかす細い背中を見ながら、どうして今ここにいるんだろう、と疑問を転がす。なんといっても夏で、晴れで、今日は自由すぎた。こんなに世界が間抜けになる季節、若い身空で女の子と遊ばなきゃそれこそ嘘だ。
「ここ。ほんと昔のままですね。覚えてます? 駅ビルの二階のゲーセン、疲れるまで居座って、そのあとここ来ましたよね、いっつも。風の通りもいいし何より景色がいいからって、君が教えてくれて」
 相手は俺の感傷なんか知らずに、無人の大きな橋を進んでいく。そう、ここはどうしようもないガキだった俺たちの、大事な居場所だった。家から割と近場にあるというのに、成長するにつれてどんどん来ることがなくなった。部活とか課題とか、女の子とか、仕事とか。そういうものにこの場所は殺されてい た。
 今、生き返ったかな。
 俺たちのいる地域はそこそこ都会なのだが、こういう穴場がある。ちょっと自然と触れ合える、誰かが自分だけの場所にできるところが。ここは俺やこいつが来なかった時間、他の誰かの居場所になっていたのだろうか。
 人っ子ひとり通らない、甘さを孕んだ涼風にくすぐられ、二人で黙りこくって下をゆく水を見渡す。べたつきの消えたアイスの棒を、ずっと大事に 持っていた俺は、手遊びでもしようかとふと思い立つ。頭を右側に動かしたその時、川底を見据える冷えた目に心がひっかかった。相手のむき出しの腕はあの頃と同じままに細く、川面の色が映りこんでいるのかいやに白かった。
 流れの緩やかな川のコースティクスに重なるように、相手の血管が浮かび上がっている。それにしてもさっきから眼裏に瞬いている、説明のしづらい違和感、これは一体なんだろう。
「真昼の晴天と同じ色に見えるくせに、どうして正反対の色のものが噴き出すんでしょうね」
 相手は俺の視線に気づいていたようだった。昔からやつは日焼けしづらく、くっきり走る静脈はまるで外国の貴婦人のそれだとまで教師に言われていた。それを誇るでも恥じるでもなく、何か言われるたびにただ、そっと相手の指はその線をなぞっていた。今もそうだ。
「色と光の反射だか吸収だっけ」
「たしかそんなんでしたね、詳しいこと忘れましたけど。……僕、幼少期、本気で血はこの色だって信じてました。それがまあ真実は惨いですよ。真逆ですもん」
 相手は不可思議なほどに静謐な瞳をしている。もう少しそれを見ていたい、と思いかけたあたりで、急に顔をあげられてしまった。
「あのハガキ、よく読めましたね」
「今更その話題かよ。どこのガキんちょからかと思ったぜ」
「あはは。あれ左手で書いたんです、いい出来でしょ」
「なんなの、あの内容」
「怪文書です」
「助けてください、って? 差出人は何年も音信不通だったお前で? 確かに事件性はぷんぷんだわな。お蔭でお人よしの俺はお前と再会してここに来ちまったわけだが」
 そんなつもりはなかったのだが、歌うような口調になった。今更しつこく責めたつもりもない。しかし相手はどうとったのか、数秒だけ無言になってから、下流のほうへ体を向けて欄干に寄りかかり、体をゆらゆら動かし始める。
「事件に対する予行演習です。人生、何が起こるかわかりませんからね。小市民の僕が一夜にして億万長者ですよ。呑み会でひとり遅くなったら実家は火の海で、あとに残ったのはお金と僕だけ」
 その瞬間そうなるように決められていたのか、俺の手先からアイスの棒がすり抜けた。
「ばかばかしくて会社なんか辞めてやりました。元上司に言われた通りに葬式挙げて、ええ会社でも大学でもまともに友人なんてできませんでしたし、 これが自由かって思って、服屋に飛び込んで、いかれたアロハシャツなんか買って。真実って惨いんです。どこかで誰かが見てるなら一体なんで」
 胸ポケットにかけられたハート型のグラサンが、危なっかしく曲がっている。何かの警鐘のように。
「それで君はまんまと僕の罠にひっかかったわけです。暇と金しかない僕の姦計に。ああ可哀想、僕ばっかりバカンス気分」
「あのさ」
 言葉と態度だけでこいつを止められるだろうか。俺は一縷の望みをかけ、口を割った。
「落とすのはグラサンだけにしとけ」
 恐らく川底の石よりも冷え切っているであろう心が正面から、俺を捉える。
「縁起でもない。落ちるもんですか」
「嘘つき」
「嘘つきはそっちでしょう。なんだかんだで君、会社で気に入られてるでしょ? 中学時代はつっぱってただけで人気はあったわけだし、いつか結婚もして、こども育てて、歳とってそれで」
 君もいなくなるんでしょう。
 震えているのは水面だけではなかった。真夏だから上着なんかかけてやれない。

 一度も思い出さなかったからか。

 突然答えが降ってくる。こいつと再会してから、あの日々と地続きのレールを自然に歩くことができた理由だ。一回でも思い出したら、こいつは思い出になっていた。そうしたら最後、再会したときにはもう過去の人間だ。思い出さなかったからこそ続いていたのだ。
 燃え続ける家屋にまとわりつく赤を、弧を描いて消したものは、炎と一緒にこいつの心のどこかも流してしまったのかもしれなかった。
「いなくなんねえよ」
 意識せずに発した言葉をどう取ったのか、相手は眉を顰める。そしてかなり間が空いてから、うそだあ、と小さな返事が川魚の跳ねる音に交じった。
「そもそもどっちが先に逝くかなんてわかんねえだろ。何が起こるかわからないってさっきお前も言ってたじゃん」
 ありがちすぎる、うそつき、だのごちゃごちゃ聞こえていたが、生憎と声に被る音のほうが喧しいので、そんな言葉は拾ってやらないことにする。
「嘘になりそうだったら、そんときゃ一緒でいい。お前が決めて」
 お人よし? 違う、生きろなんて無責任なことを簡単に言うつもりもない。ただ。
「俺はお前に苦しいまま生きられたら嫌だし、苦しいまま死なれても嫌だ」
 せっかくの、十年ぶりのこの再会がご褒美なら、さいごまで貫いていただきたい。何せまだ再会してすぐなのだ。別れるには早すぎる。
 音に負けないように声を張ったのだが届いただろうか。頬を伝って橋に落ちる透明な雫の音から、バトンタッチされたように大きくなった慟哭は、蝉時雨に溶けて橋を渡る。やがて、のろのろと隣の嘘つきが、酷い表情で硬直していた背を起こし、胸元へと手を伸ばした。揺れ光る網目を這わせたその腕を、振りかぶりそして、突き抜ける叫びに天を仰ぐ。
 空を流れる飛行機雲と、川下へゆくハート型のグラサン。



 太陽だって味方につけてみせる。だから、まだ、生きていける。





「再光」 終

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