こんな時季にひまわり畑を見に来る人は、決まって同じ名前を持っている。
 旬のすぎた草原はただの草原で、確かに真夏には陽気さをまきちらしていたはずなのに、花たちはどうかしたくらいに黙り込むのだ。思い出したようにそこへ見回りにいくと、これまた何かを思い出したかのようにふらっと、誰かが草と一緒にゆれている。今日もそうだ。ここはこれでも花畑なので、咲いていないとはいえ、見どころは一応は花なのだけれど、そのひとはただまっすぐに顔を上へ向けていた。降らない雨を待っている。もしくは、ぼくが気づいてないだけで、雨は降っているのかもしれない。
 高すぎる青空くらいしか魅力のない、健康的なシーズンオフのひまわり畑に、白がひとり。
「こんにちは」
 声をかけて名を呼ぶ。ぼくたち以外誰もいない草原で、そのひとは振り返る。
「ごめんなさい」
 開口一番に謝罪されてしまったが、これは口説いていると勘違いされているだとかそういうのではない。わかっているからこそぼくは頷き、そのあとでゆっくりと首を横に振る。どちらも必要な答えだからだ。相手もそれを理解したようで、長いフレアのワンピースの裾を握りしめて立ちすくんでいた。


 どうしてわたしの名前がわかったの。
 蕾さえもない、葉と茎と種だけになってしまったひまわりを、相手はやさしくいじりながら呟いた。さみしそうな肩は、そのままに落ちていて、どうにも返事のしようがない。
「こんな時季にここにくる人は、必ずみんな、同じ名前だからだよ」
 ぼくがやがてそう答えると、彼女はますます俯いた。さっきまで蒼天を仰いでいたのが嘘のような消沈ぶりだ。
 誰だってそうだった。ここにくる人は、誰だって。ぼくが介入するまでは自由なのだ。この、花を失ったひまわり畑は、彼女たちだけの舞台になる。他の誰もいない、いらない、それなのに誰かがほしいという彼女たちの願いいっぱいになった舞台だ。そこにぼくは入ってはいけないのに、どうしても誰かがいると、気づいてしまう。ふと見回りをしたくなってしまう。そしてここへたどり着けば、絶対に彼女たちがいるのだ。
 同じ名前。顔も背格好も服も髪も、違うのに。話し方も、空の見上げ方も。
 大きな雲がのんびり、ぼくらを隠しながら進んでいく。いっときだけ翳りを全身に浴びたぼくたちは、その間、言語を世界ごと奪われたように正しく黙っていた。雲の中は、うるさいのかもしれない。
「わたし以外にも、咲いていないひまわり畑にくるひとなんているのね」
「いるよ、たくさん」
 本当にたくさんね。心の中でそう付け足しながら、しゃがんでしまった彼女の首筋を見る。一度も染めたことがないような、日焼けした黒髪が首の両側に流れて川を作り、その間に産毛に覆われた急所が見えた。
「あなたは、じゃあ、わたし以外のわたしに出会ったことがあるの?」
 急に彼女は立ち上がり、ワンピースと髪を翻しながら顔だけ振り向けてくる。彼女からかけられた問いに、ぼくはしばらく心臓を転がして考えた。
「きみ以外のきみが、まったくきみと何もかも同じというわけじゃない」
 ぼくの声が彼女にしみこんでいく。彼女はそれをうとましがりながらも感じ入るように視線を地面へと落としていた。だいぶ時間があいてから、そう、とだけ、どこまでも小さい言葉が戻ってきた。
「あなたはどうやって一番最初のわたしたちの名前を知ったの」
 続けられた声に、ぼくは瞬間、黙る。どこかで雀が鳴いている。
 どうやってだろうね。
 気だるいぼくの返答に、ぼくが真面目に真実を教えない気でいることを感じ取ったのか、彼女は視線を風の流れとともに流した。別に無理して答えなくてもいい、そんな空気をまとわせて彼女の髪が揺れていた。
 ぼくはいつでも、そういう彼女たちの態度に、最終的には救われている。 


 そんなにまでして、満開のひまわり畑を見たかった?
 今度はぼくから尋ねる。
 何も音は返らない。真夏の風が一瞬にして吹き抜け、草原を楽器に変えた。彼女たちの笑い声にも、泣き声にも聞こえるそれらを、ぼくは肌で味わってから、一歩、また一歩と草原へ踏み入る。手を伸ばした先に立っている彼女は、ぼくをまっすぐ見据えたまま、逃げようともしない。
 いつだって夏の終わりだ。きみたちが来るその頃にはもう、花は散っているのに。
 手作りのサンドイッチ。お気に入りのワンピース。親からこっそり無断で借りてきた、年季の入った麦わら帽子。同級生たちに指をさされて笑われた、流行おくれの水色の自転車。彼女たちは様々なものを相棒にこの場所へやってくる。
 きみたちは繰り返す。どうして?
 指先には冷たさだけが残った。まばたきを一回するだけで、簡単に石の十字へ変わる彼女たちを、ぼくは何度見てきたのだろう。懐から時計を出してきて思いっきり螺子を巻き、時間を先に進める。ぜんまい仕掛けのおもちゃのように豪快な音を出し、みるみるうちに針は元へ戻って、またもとの時間を刻み始めた。分かっていることだったのでいっそ笑おうと思ったけれど、また笑えなかった。
 なぜ彼女たちは繰り返すのだろう。どうしてぼくはここに来てしまうのだろう。

 目を閉じる。
 どこまでも続くイエローの海に溺れそうになりながら、満面の笑みで手を振る彼女が見えた。

 瞼を上げ下げすることにももう疲れた。眠ればすぐに満開のひまわり畑だ。改めて、新しく建った墓標に手を沿わせ、確かに彼女がここにいたことを脳に認めさせる。
 こんなにわたしたちがここに執着している理由、あなたはとっくに知っているはずよ。
 まぼろしではない響きを受け、それを両手で握り潰し、そのこぶしを脆い十字にまるでもたせかけるように力なくぶつけた。
 きみたちの名前を知っているのは、ぼくがきみたちと同じ名前だからだ。
 何度も何度もここへやってくる、ゆるしの態度ばかりが同じぼくたちは、まだ見ぬ海への憧れを、断ち切れないで繰り返している。




「八秒間の天国」おわり