この作品には一部残酷な表現が含まれます。
閲覧の際はご注意ください




 オルゴールの音が聞こえる。
 目を開ければ運転の最中だった。いつの間にこんなところまで来たのだろう、と、どこまでもまっすぐに伸びていく目の前の道をぼんやり見る。右側には赤土が焦土のように平らに広がり、点々と、緑が見えた。見たことのない立方体の植物たちが日の光を浴びて泣いている。涙は大地へとしみこみ、すぐに影になる。他に誰もいないような、砂漠だった。
 対向車も何もない。
 左側を流れる空気はやけに甘かった。蛍光色の尾を引いて天から何かが下りてきている。桃色の小石たちは車に添うようにそよぎ、うみだよ、うみだ、と囁いていた。
 変わり映えのしない車道を、惰性で走っていく。
 しばらく行ったところで、道路の真ん中に何かが立っているのが見えた。アクセルペダルに載せっ放しにしていた足を離し、ブレーキを押し込む。立っていたのは物ではなく、ひとだった。やっと立つことを覚えたかのような年頃のこどもが、ぼろきれを着てそこにいた。遠くからでも何かがあると気づけたのは、こどもの持っているプラカードのおかげだ。
 なんのきなしにプラカードの文字を見る。
 ただ たんじゅんに
 ただ、単純に、何なのだろう。投げやりに切れているつたない字を見ていると、だんだん骨の奥のあたりがむずがゆくなってきた。体をゆすって居心地の悪さをごまかし、車へ戻ることにする。わざとらしく音をたててシートベルトを装着し、切っていたエンジンを再び働かせるために、キーに手を伸ばす。視界に入ったルームミラーには、さきほどのこどもが映っていた。
 こどもはうすよごれたプラカードを抱きしめるようにして、窓の外ではないどこかを見つめ、座っている。>
 また何も遮るもののなくなった道を進んでいく。ごうごう地響きがして、左側にある紫の空にやけに明るい虹がかかった。そこからするりとたくさんの手が生え、伸び、右側にある立方体の植物を覆っていく。点在していた植物たちはいっそう涙を流し、赤土に広がる影は濃く大きくなっていった。
 ルームミラーのほうを、時たま、見る。
 車体に張り付くように泳いでいた石たちが珍しいのか、こどもはそれらと鼻をくっつけるほどに窓へと近づいていた。少しだけ、体にまとったぼろきれが寸足らずになっている。
 煤けた膝小僧を見ていたせいか、唐突に喉の渇きを覚えた。豆乳の小さなパックがあったはずだと記憶のバケツをひっくり返しながら、後部座席には注意を払わず急ブレーキをかける。がつん、と派手な音がしたがいちいち構う義理もない。
 バックドアを開けに行き、目当てのものを引っ張り出す。生ぬるい豆乳を、わざと、そばにあったアルミカップへと注いでやれば、みるみるうちに液体は紅茶へと変貌した。虫を思わせる、けたたましい雄叫びをあげ、空を白抜きにしながら鳥たちが渡っていくのを見送った。最高だ。
 存分に景色と紅茶を味わったあとで、運転席へ戻る。後ろの席にいたこどもは、急ブレーキの衝動で何かにぶつかったせいか、幼い体がふたつに裂けていた。その中心部から顔立ちのいやに整った、成長しきった人間がひとり、生えている。ぴしゃ、とアクセルのあたりで真っ青な水が跳ねた。裂けた体から噴き出したものらしかった。
 最悪だ。
 うまいともへたとも言えない、そして内容もよく分からない、そんなものの書かれたプラカードを、後部座席の人間は後生大事にだきしめている。何がそんなに大切なのだろう。ただの木製のプラカードだ。
 頭の中のオルゴールがいよいようるさくなったので、頭を振って止めるように告げた。驚いたことに、頭を振るのに合わせて鈴の音が響いたので、オルゴールを黙らせるのは至難のようだった。
 黒塗りの遮断機が道を塞いでいる。律儀に棒が上がりきるまで待ち、相変わらず自分たち以外は誰もいない、まっすぐな道を走る。
 いないのではなく、見えないだけなのかもしれなかった。
 テレビを消していてもテレビの裏では番組が流れている。誰かが番組を作っている。作るための人間たちが生きている、そんなふうに。それでもふたりきりの、まるでひとりきりでいるかのようなドライブは、奇妙にいとおしかった。必要だから、ここにあるのだと、白い手が指を立てている。
 赤土も植物も、虹も、小石も沈黙し、とうとう地面が回転したかと思った頃に、天上にさざなみが起こった。
 とまろう。
 うしろから声が届いた。言われなくともそのつもりだったので素直に車を停める。どうせこの先は車では進めない、目の前には、赤信号の山だ。
 進むために捨てる、そのことにためらいも恐怖ももたず、車を置き去りにした。
 近くに寄って見てみれば、赤信号の山は外敵をおそれるかのようにとげだらけで、体はやはり、遮断機のように黒かった。全身が黒に染まってしまい、赤以外の色を忘れている。昔は青だったこともあったろう。ひとびとは進んだはずだ。黄色に明滅したこともあったろう。ひとびとは慌てたはずだ。ぼた、ぼと、と足元が染まり、雨か、と後退しながら空を仰ぐ。透き通った天上にはやる気のない緑のカーテンがひかれていただけだった。
 かわいそうに、かわいそうに。
 どうやってひとりで車を降りていたのか、隣で手を合わせているのは道で拾ったはずの誰かだ。もうすっかり体格や顔つきがこちらと変わらない。どこの言葉かは知らないが、手を合わせ何か呟いていることから察するに、この赤信号たちに祈りでも捧げているのだろう。それを受けてか、雨が強くなった。半径三メートルほどの、局地的すぎる豪雨の中心には、ひとを導く方法を忘れた黄色と青色の信号。
 桃色の小石の言葉が聞こえ、もうかれらは眠ったものと思い周囲を見渡す。濡れた後だけを残し、信号機の山は忽然と消えていた。せわしなく首を振る自分のわきを、翔ぶように同行者がすり抜ける。うみだ、うみだよ、それは、羽でできたように腕を閃かせる同行者のささやきだった。
 ふと今更そばに標識があったことに気づく。星型のそれに描かれているのは、海だ。
 別の何かが呼び起される笑い声を追う。
 他の何も頼りにならない、自然すぎる夜道で、靴裏を擦りながらその場所へとたどりついた。同行者は布きれをよごしながら波打ち際で遊んでいる。うちあげられた魚にまじり、膨張した鯨が夜の腹を見せていた。
 同行者が波を踏みつけるたびに、抱きかかえているプラカードが揺れる。
 きゃらきゃら笑い転げている同行者は、ゆっくりと近づいていくこちらに気づいていないのだろうか。海水たちは貝や魚の形をとっては同行者のむきだしの心臓をなでていた。笑い疲れたのか、同行者はこちらの耳に入りそうなまでの水音を立て、仰向けに倒れる。
 絶望しきった濁りをのせて、並んでいる魚たちとは逆に、頭は遥か沖のほうへ。
 打ち寄せる波の中で、海藻よりもほのかにゆらめく髪をしばらく眺める。
 そしておもむろに掴み上げた。頭の奥で鈴が鳴る。同行者は笑った。むき出しになっている心臓へ手を差し込む。笑い声がひどくなった。相手が体を震わせるためにこちらの頭も振動し、そのたびに鈴がうるさかった。
 やっとだ。
 笑い声によく似たすすり泣きは次第に小さくなり、全身をなつかしいものに浸して座り込む。引きちぎったあたたかいものへ頬ずりをしようとして気が付いた。右手が握りしめているのは、ぶつ切りのコードをぶらさげた、機械の塊だった。
 いっせいに身を跳ねさせ海へ戻りだす魚たちの中、どこにも行けないままで目の前のしかばねを感慨なく見やる。相手からとうとう離れていったプラカードが、わずかに離れたみなもで歌う。
 ただ たんじゅんに
 
 いつしか、オルゴールの音色は、消えていた。魚の逃げた水際に、誰かの心臓を触った誰かがひとり、残るだけだった。

「感情の透明性について」 終