この作品には一部残酷な表現が含まれます。
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 帰宅したら知らない男がにこやかに俺を出迎えた。そいつは当然のように俺におかえりと言った。面食らって言葉も何も出てこない俺に、相手は何も頓着しない。はてこんな知り合いはいただろうか、と俺は、日々の仕事に忙殺されている脳みそを揺さぶって考えたのだが、どう考えてもこんな顔の親戚も知人もいない。おかしい。こいつは他人だ。
「不法侵入か」
 俺がやっとのことで口にしたのはそんな言葉で、相手は人懐っこそうな瞳をくるっと回しながら首をかしげた。ひょろり長い手足が揺れる。
「不法侵入。つまり貴方は僕が勝手にここに入ったって言うんですか」
「だってそうだろう。警察だ、警察呼ぶぞ」
「やだなあ心外です」
 俺はさっと相手を観察する。とりあえずすぐに何か害が起きると言うわけではなさそうだ。凶器を持っている様子もなし。物取りだろうか。愉快犯、それとも俺にストーカー、でも俺も相手も男。考えが悪い方向へどんどん連鎖していく。自分の考えにぞっとして、身震いひとつで俺は思考をひとまず終わらせた。のんびり敵を目の前に考え込むわけにはいかんのだ、早くこいつを追い出さねば。警察に突き出さねば。
「とりあえず出て行け今すぐにだ。あ、でも待て、何か盗んだんなら大人しく出せ、今大声で近所に知らせてやる。同時に通報してやるからな。そこで大人しくしていろ、変なそぶりを少しでも見せたらどうなるか分かってるだろうな」
「どうって、昨日みたいに殺されるんですかねえ」
 喉の奥から変な声が洩れた。今目の前の男はなんと言った。何が何だって。昨日。昨日俺は何もしていない。普段どおりにきちんと出社して、極めて真面目に仕事をこなし、夜はあまりに疲れてまっすぐ帰宅した。あんまり疲れていたので酒を飲むのもそこそこにシャワーを浴びて寝た。そしてまた今日も同じように家を出て、つまり今の今まで俺はひとりだったのだ。会社で人付き合いはあるとはいえ、つまり、俺は、誰とも事件になるようなかかわり方はしていない。それなのにこいつは何て言った。穏やかじゃない。
「あのな。口にしていいことと悪いことがあるぞ。お前は第一俺のことなんぞ知らないだろう。俺はずっと一人で暮らしてきたわけで、昨日は何も起きていない」
「やだなあ、やったほうはすぐ忘れるって本当ですね。殺しでも虐めでも加害者は忘れちゃうんですね、あっけないなあ」
 覚えてないんですか。相手は廊下につったったまま、長い影を俺に落とす。俺は未だに玄関から家に上がれない。黙って相手の精悍な顔を見つめているだけ。覚えていないって何を。今が初対面だ。加害者がどうのってそれは何の話だ、今のこの状況を見ればどっちが加害者かなんて火を見るよりも明らかなのに。それなのに相手はいけしゃあしゃあとのたまうのだ。
「僕はずっとこの家に住んでいましたよ。貴方は一人暮らしなんかじゃありませんでした。ただ、貴方は僕に気づかなかった、それだけです。そして貴方は昨日、僕を殺しましたね。いとも簡単にぷちってやっちゃいましたよね」
 もういい分かった相手は狂人だ。凶器はなくとも狂気にまみれてるって奴だ。ああ、もう早くスマホ出して百十番押さなきゃ。何だってこんな頭のいかれた変質者に遭遇せねばならんのだ、俺は普通に会社に行って悲しいくらい普通に働いてきたんだぞ。自分のデスクでいくら暇だからって関係ないことで遊んだりしなかった。いつも真面目に。それがなんで。理不尽すぎる。
 しかし相手は、俺が必死にスーツのポケットからスマホを出すのを止めもせず、にっこり笑って話を続けるのだ。どこか申し訳なさそうに、困ったように。
「昨日のお風呂の後ですよ。貴方、歯を磨いて髪を乾かそうとして、壁に張り付いている僕を見つけたんです。一緒に住んでるのにそれまで貴方は一度も僕に気がつかなかった。僕もそんなに目立ったことはしてきませんでした。悪さなんて一度もしていない。それなのに貴方、何て言って初対面の僕を殺したか、覚えていますか?」
 ――夜に出るのは不吉と昔から言うからな。恨むなら俺の前に姿を見せたのが夜中だったことを恨め。
「……と、このように言ったんですよ。貴方、勝手ですね。僕あんまり頭にきちゃったんで、閻魔様に頼んですぐ人間としてここに帰ってこられるようにしたんです。でもね、今はね、違いますよ。安心してください。何だかここに戻ってきて貴方の生活の後を見て、そして今貴方を出迎えて、思ったんです。復讐するのっておかしいよなあって。だってずっと一緒だったんですよ。殺されたって恨めるわけないじゃないですか。だから、新しくこの姿でやり直そうと思いまして」
 朝に出るのは仏様の化身。そう俺に教えたのは、もう今はいない父方の祖母だ。田舎にいくたびに祖母は、矍鑠とした姿勢を崩さず俺を教え導いた。子供心にそんな祖母がとても綺麗に見えて、彼女の言うことは守るべきことだと俺は疑わなかった。
 それがどうしてこうなったんだ。 ああそうさ、よくよく思い返してみれば、あの日の夜、俺は疲れきった頭を一生懸命首と肩で支えて、洗面所の前に立って、ふと横を見て、壁をうろうろしているその小さいものを潰しましたとも。あいつがすらすら言った台詞も吐いた気がする。一人暮らしだと独り言が増えて困る。
 そうしてこいつと暮らしだして五日間。どうして本当にこんなことになっているのか、誰か分かりやすく説明してくれなかろうか。いや、説明されてもきっと無駄なのだ、と分かるくらいには俺は冷静になっていた。何しろ俺に理解する気がない。そんな俺に対してどんな説明があったって無駄なのだ。
 とりあえず相手は何の危害も加えてこない。大人しくしている。本当にじっとしている。家に一人で残しておいたら、金目のものを奪って逃走するんではと思って有給とって休んだ日もあった。そんな心配は全然いらなかった。一日中相手はじっとしているので、こっちが参ってしまった。
 だが腹は減るらしい。野菜炒めを出したら青虫じゃないと怒られ、仕方ないのでレトルト食品を机に並べたら宇宙人でも見るような目を向けられた。何が食いたいのか聞くと、虫、と返されて俺は茶をこぼした。こいつはあれか、どこかの南の島の原住民とか、大陸の何とかいう民族の人なのか。俺にした説明っていうのは俺をかついでいたんだな、そうか、そうなのか。やっぱり狂人なんだな。しかし出来合いのハンバーグを出せば喜んで食べたので、これでよかったのかとも思う。実害はないのだ。そこにいるだけ。
 なんで俺は許しているんだろう。
「貴方は優しい人だったんだなあ。あんなことを言われて僕はてっきり、貴方って人間はつくづく酷い人なんだって思っていましたよ。でも僕の思い違いなんですね」
「お前、俺に殺されたって言う割には、俺のこと憎んだりなんだりしないのか」
「しないって言ったじゃないですか、やだなあ。恨んでもいません。ただ、ひとつ約束してほしいんです」
 何だろう。そんな殊勝に切り出されると、こっちもかしこまってしまう。
「朝とか夜とか、関係ないんですよ。だからどうか、僕らを見かけても、そんな偏見で簡単に殺さないで」
 ここが俺もよく分からないのだが、俺はどうしてかそのタイミングで逆上した。自分が怒っていることに気づくまで数秒を要した。狭い居間のテーブルが傾き、上に並べられていた料理がひっくりかえる。
 相手をにらみつければ、そいつはこちらの毒気を抜くような顔で呆然としていた。しかし俺の出所の分からない感情は収まらなかった。立っている俺と、腰を抜かして座り込む相手。殴るには拳が遠い。足癖の悪い俺は、ジーンズとはだしのままでそいつを蹴りつける。
 痛い。
 その声に弾かれるようにしてもう一度相手の顔を見れば、そいつは口だけで笑っていた。声を出さずに唇だけで。でも目は違う、とぼけたような形のままで。少しふらついて、怒りで眩暈でも起こしたかと思えば、俺の右足の下に、そいつの左手があったのだった。
 痛いですよ。やだなあ。
 その言葉とその表情でまた目の前が真っ赤になった。これでもかと言わんばかりに右足を上げ、真下にある骨ばって細い相手の左手を踏みつける。道端で煙草をもみ消すときよりも力を入れた。
 その一瞬糸が切れるような音がした。
 瞬きをしただけで、目の前にいたはずの男は消えていた。何も感触のなくなった自分の右足を、ゆっくりと上げる。足の裏をじっと見た。窓の外は夜。裸足のそこには、ばらばらに潰れた蜘蛛だったものが一匹いた。
 さて俺はどうしてあのタイミングで、あんなに逆上してしまったんだろうね。
「夜蜘蛛」終  初出13年3月6日