滅紫 けしむらさき





 横に並んだ同じ年格好の青年を示し、もう一人の青年が頭を下げる。
「私の父です」
 どこからどう見ても双子だ。しかし青年の、周囲に有無を言わせぬ笑顔を見てしまえば反論など喉の前で掻き消え、爽やかに揺れる相手の黒髪へ視線を移しながら当惑を返すことしかできなかった。雇われた身としてはよくない態度だったかも知れないが、一人の若造としては当然の反応だったのではないかと庭師はあの瞬間の自身を顧みて思う。
 困惑している庭師を差し置いて、閑散とした屋敷に青年の声が再び朗々と染み渡る。
「私の父はあわれなもので――ああ息子が本人の目の前で言うものではありませんでしょうか――、両目が不自由なのです。何も見えず、閉じているしかなく、光にも弱いものだから、ほら、こうして」
 ずっと瞼を下ろし、穏やかな面持ちでだんまりを続けていた横の相手に手を伸ばして、青年は彼と瓜二つのその目元に布を巻き出す。あれよと言う間に隣にいたほうは目隠しをされてしまい、二人の青年の共通点は目元以外になってしまった。ほどよい短さの艶やかな髪と、無駄な肉のついていない頬、首、使い古された濃い褐の着物。違いはひとつ、目隠しをされているか否か。
「そういうわけで、我が家は肩身が狭いのです。父はこんな有り様ですから自分のことも覚束ない。父の世話がありますために私は遠くに働きに出ることはできない」
 私が一人、家族を食わせて家を支えるしかないのです。
「広い庭が手付かずであることがずっと気掛かりでしたが、こうして貴方を雇えたのだからこれからは安心というものだ。庭師さん、きっと庭をよくしてください」
 しっかりと見据えられ、声をかけられた庭師はここで漸く背を伸ばして返事をする。そろそろまともに会話をしなければ折角得た信頼も泡だと焦ったのだ。そんな庭師に、青年は終始崩すことのなかった笑みを無邪気に深める。
「まあ、貴方がどんなに庭を綺麗にしようとも父は見ることなどできませんが、ここにいる私の心は間違いなく慰められましょう。頼みましたよ」



 と言われても困る。ほとほと困る。この庭師、駆け出しの新米だというわけではなく、実のところ庭師でさえなかったからだ。決まった仕事にありつけず、金に困り果て流れに流れた与太者である。ただ金ほしさ、食うものほしさに嘘八百を並べ立て、恰も偉い職人に指南を受けた新人であるかのように振る舞い、道具と見掛けをやっとこ工面し、どうにかこの度の屋敷にたどり着いただけなのだ。近くに顔を知る者もいないところに来たのだから、嘘を見破られることもない。腕が散々だと咎められたとて、経験が浅いからだと言い訳をして切り抜ければいいだろう、という腹積もりの、卑しく青い男である。
 それがどうしてこんなややこしいことに巻き込まれねばならぬ。
 毎日働き庭を綺麗に整頓する代わりに飯と寝床を貰えるのは有難いが、こんな事情は聞いていない。しかしぐちぐち胸の内をほじくりかえしても仕事が決まってしまったのだから放り出すわけにもいかない。苦労して得た食い扶持なのだ、手放すのは避けたかった。
 仕方なしに形だけでもと剪定鋏を動かし、伸び放題の生垣の躑躅を取り敢えずちょん切りながら、似非庭師は溜め息をついた。庭の説明を受けたとき、この躑躅は白でも紅でもない色で咲くのだと青年に悪戯っぽい仕草で教わったのが印象に残っているのだが、こんなに無学な男が手入れするのだから、翌月花をきちんと愛でることは生憎叶わなそうだ。
「あら、お坊ちゃん、今日もお父様のご飯のために?」
 ふと垣根の向こうから聞こえてきた女性の声に庭師は思わず視線をそちらへ放る。
 会話は表の道で行われているらしい。声の主はといえば、質素な着物に身を包んだ近所の奥方と、この屋敷の例の青年だった。成る程ああして食べ物を分けてもらうのか、と庭師は彼の持つ骨董品が婦人へ渡るのを目敏く見やる。
「ええ。父は今日も部屋で外の音を聞いています。何か手だけで遊べる玩具でもあればいいのかもしれないが――受け取ってもらえなくて。でも今朝もちゃんと食事をとったんですよ、私が顎に指を添えて、こう、箸から菜を口に運んで。私がいないと何もできないものだから、私はきちんとしないと」
「そう。相変わらず仲がよろしいようであたしも嬉しいですよ、お父様もあなたみたいな孝行息子をもってどんなにか幸せでしょうねえ。あたしにできることなんてこれっくらいしかなくって、なんだか悪い気もしますわ」
「とんでもない、小母さんにはよく助けて頂いていますよ。しかし蔵の中身もそろそろ尽きそうで、私は本気でどうにかして働くことを考えなくちゃあならないところまで来てしまったらしい」
 それは大変ね、と婦人はしんみり言いながら、青年へと立派な魚の開きを数本手渡す。彼の稼ぎは物々交換なのだ。近所の連中は皆、それを把握している。庭師は流れ者だからたった今気がついた。
「ええ、まあ、暗い話題はこれきりにして――そういえば庭師を雇いましてね。蓄えもあまりないのにどうしようか実のところかなり悩んだのですが、庭を荒れたまま放っておくのもよくないととうとう思い切ったのです。小母さんも楽しみにしていてください。きっとひと月もすれば見違えるくらい整っている筈ですよ」
 青年が楽しげに話す言葉を最後まで聞くことなく、庭師は慌てて突き出していた顔を直して仕事に戻る振りをした。話の流れで婦人がちらとこちらを向いた気がしたのだ。つられて青年にも見られてしまっては決まりが悪い。何とか真面目に垣根と向き合っている表情を作り上げ、しかしちゃっかり耳だけは道のほうへ開いておく。
「庭師ねえ、それはようござんすけど、あなたのおうち、滅多に他人をあげないでいたのに、どういう風の吹き回しでしょう」
「そこも思い切ったんです。大丈夫、父の世話は変わらず私が一人でやるのですから、何にも悪いことはないのです。それに花が綺麗に咲き揃えば父だって触れて楽しむこともできましょう」
 先程よりも聞こえはよくはなかったが、何を言っているかぐらいは分かり、似非庭師は気紛れでこの職を選んだことを悔いた。あの息子は父親を花に触れさせるつもりだったのだ。荒れ放題の庭を簡単に片付けて金や食い物だけもらってさっさと消える算段が、これではおちおち手抜きも出来やしない。そもそも剪定のせの字も知らない似非庭師には、何が手抜きになるのかさえ判断がつかないのだが、とにかく面倒になってきたことには変わりがなかった。
 ややこしい家にややこしい庭。楽をしたい一念で生きているというのにどうしてこうなったのか。
 さて表の会話は恙無く終わったらしい。別れの挨拶が昼に響き、ややしてから門の開く音が続く。青年の戻ったのを確認し、似非庭師は肩を回しながら一度伸びをして、土埃に咳をひとつ、そして顔を前に向けてから固まった。
「難儀なものだこと。ねえ庭師さん、あわれな一家をよろしく面倒見てあげて頂戴ね」
 骨董を抱えた先程の婦人が囁き置いて雑踏へと消えて行くのを、声をかけられた庭師は呆然と見送るばかりだった。



 それでも二十日も世話になれば、いくらなんの取り柄もない与太者といえど馴れや情というものが出てくる。元与太者の似非庭師はすっかり一端の顔つきをして庭と屋敷の一室とを出入りし、何にも脅かされない日々を送るようになっていた。
 何しろあの雇い主は人柄がいい。毎日規則正しく起床し、少ない飯でも黙って食い、庭師の働くのを見かければあの罪のない笑顔を向ける。隙なく蔵の中身を片付け、近隣の者と談笑し、廊下の掃除や洗濯も忘れない。倹しくまめまめしく生きている。庭師に飯を出すときに労いの言葉までくれるときた。それでいて父の面倒もきっちりと見ているのだから見上げたものだ。
 目隠しをされた父のほうもこれまた気性が穏やかのようだった。関わるのは専ら青年ばかりで庭師はまだ直に話したことはないのだが、着替えや食事を青年に世話されている際に、明るい話し声の隙間から低い相槌が聞こえてくることは庭師も気づいていた。口元は常に緩やかな上弦の月のような弧を描き、目が不自由だというのに不機嫌さを顕にして怒鳴ったりすることもない。もう慣れたものなのか、手探りで厠に立ち、音もなくするするとまた部屋に戻ってくる。青年が近くにいないときは、じっと自室で正座をして布越しに何かを見上げたり見下ろしたりしているようだった。
 庭師の最近の悩みごとといえば、仕事とはまた関係のない、この害のない青年二人のことだ。
 確かにこの雇い主たちには短所など見当たらない。だが、どうしても、父子でなく双子に見える。背丈も同じ、横幅もほぼ同じ、肌の白さも髪の揺れかたも相違がない。いやしかし、年頃が近く見えるというだけであって目隠しのほうが実は老成しているのかもしれない。年齢が体に出にくい、若作りがひどいというやつだ。もしくは食事をくれる青年のほうが落ち着きすぎているだけで、実際はまだまだ小僧なのかもわからない。目隠しのほうは外に出ることがないが、それでも近所の連中も皆あの二人を父子だと扱っている様子であるからして庭師の疑念も一層ねじ曲がるというものである。
 だが、彼らが真実父子なのだとしたら、気になるのは年の差だ。十そこらなら充分男として務まるだろうが、そうだとしても何故こんな町中の立派な屋敷でそんなことが起きるのか。荒れ果てて住人も二人しかいないとはいえ奇妙である。しっかりした屋敷というものは、家族揃ってしっかりしているものではないのか。仕事が決まったときに、母親はとうの昔に死んだ、と聞かされたあの言葉はなんだったのだろう。その女は一体誰と交わり誰を産み落としたのか。仏壇を見ても、学のない与太者の似非庭師には何がなんだか判断がつかない。とにかくそこに誰かが眠っているということしか分からない。
 しかし、基本、屋根と衣服と食い物さえあれば似非庭師にとって他のことなどどうだっていいのであった。余計な好奇心を働かせて結果放り出されるようなことになるよりは、黙って仕事をしているほうが余程性に合った。もうこの際父子で構わない。どうせ他人の家なのだ、飯さえくれるならもう何でもいい、と庭師は悩んだ末にいつも結論付ける。
 そうやって思考を放り投げて、仕事以外は自堕落に暮らしていたとある日のことだった。土を落として玄関から上がり、昼下がりの仕事の疲れを宛がわれた自室で寝て癒そうと廊下を歩いていたところに、くだんの青年の明るい声が差し込んだのである。
 ついと足を止め彼らのいる部屋を盗み見れば、畳の上で息子のほうが父の着物を替えてやっていたところだった。父親がいつも無言で座っている部屋だ。藍と紅とが絶妙に混じり合った深い褐の着物を父の肩に恭しくかけ、息子は――例の青年は――実に満ち足りた顔で父に話しかけている。
「ててさま、着物の具合は問題ありませんか。よろしいようなら次は帯を回しますね」
 ほんの少し俯いて立っている父の背後に回り、青年はゆっくりと腰紐と角帯を巻いてやっている。挙動をいちいち相手に教えてから行う様がなんとも甲斐甲斐しかった。
 己の家族もこの一家もどうでもよいと心底から思っている筈の似非庭師でさえ、つい溜め息を漏らしそうになるほど、密やかに眩く光るやり取りだった。畳には影が多く落ちており、どちらかといえば暗がりのほうが屋内を占めていたが、それが却って庭のほうから射し込む陽光とそれに照らされる二人とを際立たせている。
「ててさま、今日もよい日和です。先ほど燕が飛んでいくのを見かけました。残念なことに探しても巣を見つけることはできませんでしたが、あれはきっとこどもに虫を食わせようと出掛けていたのでしょう。てて様にもお見せしたかった」
 呟きながら帯を貝の口で締め終えた息子に、父親は何も返さず俯いている。息子とそっくりな目元は今も布に覆い隠され、どんな目付きでいるかはとんと窺い知れなかったが、口元はいつもと同じ緩やかなものだった。
 息子である青年はというと父から返事をもらうことなど期待していないのか、父と向き合う位置に戻ってきて積んであった着物たちをまさぐっている。やがて探し物が見つかったのか、ゆっくりと膝を立て、のびあがり、震えているようにも見える手で、父の目隠しをほどいていった。
 古びた畳の香りが鼻腔をくすぐる。
「ててさま――今日も――今日もよい日和です、実に。向かいの小母さんも、隣の奥方も、みんなみんなお元気で、今日も笑っておりました」
 話しかけながら恐る恐る外された目隠しの向こうには、庭師がここに雇われたあの日と同じ、閉ざされたままの両目が沈黙していた。今や会話を食い入るように聞いて見つめている庭師は、無意識でさっと息子の目元へと視線を移動させる。
 何かやわらかな芋虫の動くのを見守るような面持ちで睫毛を震わせ、息子はまばたきをした。一瞬閉じきった目元は、やはり父親と瓜二つだった。
 その青年の唇から、睫毛と同じほどに震えた声が出て屋敷に吸われていく。
「ててさま。ててさまにもお見せしたい、春のみ空はあんなに澄んでいてお天道様も健やかで、私は表に出て皆さんとお話しして、庭もみるみる片付いてきて、今日は燕の飛ぶのまで見てしまったというのに、」
 ――ててさま、
 そこで声は途切れて静寂が四方に散る。
 まだ何か話すだろうかと聞き耳を立てる庭師の存在には露ほども気づいておらぬ様子で、息子はかぶりを振り、話の続きを吐息に混ぜて終わらせてしまう。結局今日も閉じられたきりだった父の目に、息子は新しい清潔な布を丁寧に巻いていく。父の頭の後ろに長く骨ばった腕を回し、きゅ、と音を錯覚しそうなほどきっちりと結び、そこでようやっと青年は再び口を開いた。
「ててさま。きつくはありませんか。眩しさが痛くはありませんか」
 返事を聞く前から全て分かっているような声に聞こえた。先ほどまで所在ない口調だった癖に、何故今はこんなに地に足の着いた声音で喋るのか、庭師のいぶかしんでいるうちに、もうひとつ、これまではなかった声が響く。
 ああ、という短くも確かな相槌を寄越した父に、今度こそはっきりと目に見えて青年の横顔が綻んだ。今まで似非庭師が見たことのあるどの花よりも蕩けるように瞳が潤み、口元は歪んで揺れている。
 庭師が呆気に取られているうちに青年はその顔をやめてしまった。口を閉じてまた首を前に傾けてしまった父と、同じように目を伏せて替え終わった布を握りしめている青年。さやさやと髪や睫毛のこすれる音が聞こえそうなほどに恐ろしく世界が静まっている。
 暫く空気に呑まれていた似非庭師がそっと場を後にする頃も、まだ二人は同じ姿勢で向かい合っていた。すっかり脳裏に焼き付いてしまったその影を思いなぞりながら庭師は廊下を忍び足で進んでいく。その途中でふと青年の、何かを帯びたあの問いかけがよみがえった。きつくはないか、痛くはないか。なだらかなあの声、あれに滲んでいたものは、安堵の色ではなかったか。
 大丈夫だという、父の「ああ」を受ける前に、あの青年は安心しきっていたのだ。父からの返事などもう分かりきっていたからだろうか。そうだとすると目隠しを外している間の空間が何かそぐわない気もする。では――そうではないのなら――あのとき伝わってきた安堵は一体、なんだったのだろう?



 更に数日後のある夜のこと、似非庭師は焼き魚の出る夢を見た。
 これがまた香り高く光るのだ。青年がまたいつもの物々交換で手に入れてきたのであろう立派な魚が焼き色も鮮やかに皿に並べられている。そこから立ち上る熱と匂いにくらくらしているうちにも、青年は少し離れた場所で七輪に新しい魚を載せてゆくのである。身をほぐし、食べきれない食べきれないと味もわからぬまま口に詰め込み、熱さにうんうん唸っている、そんな夢を――ぱちぱち炭のはぜる音までくっきりと耳に鮮やかな――
 そこで似非庭師は飛び起きた。焼き魚の匂いではない、これは屋敷の柱が焼けている臭いと音だ。出所は何処だ。こんな夜更けに――しかし真冬でもないのだから火など使うことはない筈だ。煙草は誰もやらないと聞いたからその線はないだろう、では寝床の灯りか。いやあれこれ考えてはいられない。
 すわ一大事、取るものも取り敢えずこそ泥のような恰好で似非庭師は一人庭に飛び降りたが、はたと思い付いて夜空の下で立ち止まり、ついには屋敷にとんぼ返りしてしまう。ここで雇い主の青年とあの父親を助けておけば借りを作っておけると判断したのだ。さっさと己だけの命を優先して逃げればよかろうものだが、元がふらふらとした落伍者なだけに、似非庭師の行動には脈絡がとんとなかった。
 さて屋敷の中だが、火が廊下の奥から部屋の並ぶほうまで回ってきつつある。ぎいぎい悲鳴をあげて地を恋しがる柱や鴨居に巻き込まれぬよう、寝巻きの裾で顔を覆いながら似非庭師の足は廊下を急ぐ。いつもと同じなら、父親は自分の部屋で一人寝ているだろうし、青年は有事の際すぐ動けるように隣の部屋に控えて休んでいる筈だ。
 部屋をあらためていく前に台所のある奥へ目を動かして、似非庭師は慌てて駆ける。色の褪せた寝巻きに身を包んだ青年が、まだ倒れていない大きな柱にすがるようにして立っているのが見えたのだ。昔母が使っていたと案内された部屋のそば、台所にもやや近い、長い廊下の真ん中である。裏口から厠にでも行っていたのか、こんな夜更けに料理をしていたわけでもあるまいに、似非庭師の混乱した顔を見上げて青年は弱々しくも微笑んでくる。
「――貴方でしたか、庭師さん。一瞬誰かと――いえ、もうここは酷い。話すのも惜しい、貴方だけでお逃げなさい。父のことは私が逃がします」
 そう言われても簡単には引き下がれない。似非庭師はいかにも頼り甲斐のある顔を作って青年を引っ張った。父親を連れ出すのも手伝う、今いつもの部屋を探してこよう、と声をかける。
 青年は喘鳴したのち、首を横に振った。確かに煙のせいで呼吸が苦しくなってきたが彼は頑なだった。
「父のことは――ててさまだけは私が――私が手を引かないと」
 会話をしている間にも背後では柱や床板が落ちていく。ここももう駄目だ。やきもきする庭師をよそに、頑固な青年の歩みは止まらない。二人でなんとか廊下を曲がったところで、
「ててさま――ててさま!」
 部屋から這うように出てくる目隠しの男が視界に映った。寝巻きの生地のみならず着崩れかたまでそっくりなのか、と一瞬だけ呆れた庭師をあっという間にその場に取り残して、父のもとへ青年は転がるように駆けてゆく。
 開け放った襖や柱を伝って部屋から出てきた父親の顔は常と同じように布で隠されていた。寝るときも目隠しかと似非庭師が思いかけたのは一瞬で、よくよく見れば目隠しのための布切れを煙避けのために宛がっているだけのようだった。駆け寄った青年に肩を支えられ、父親は一度全身を強張らせて歩みを止める。
「ててさま、私です。驚かないで。どうか止まらないでください――そう、ゆっくりでいい――足を進めて。真っ直ぐゆきましょう。まだ向こうは火の手が回っていないから」
 無事に見つけられたのが余程嬉しかったのだろう、青年は優しい声で父を玄関まで寄り添って誘導していく。もう横の窓や後ろは駄目だ。彼が言うように、今や歩けるのは玄関に繋がる廊下だけだった。見分けのつかない二つの後ろ姿についていくように脱出しよう、と放置されていた似非庭師が決意したときだった。
「ててさま、お手を。足場が悪うございます。一、二で乗り越えて」
 前をゆく二人の姿がまごついていた。どうやら廊下を遮るように倒れていた柱の一本のせいらしい。
 僅かに前をいく青年が先にそれを乗り越え、反対側から両手を伸ばしていた。片手で布切れを押さえつけていた父親が首をこっくりと上下させていたが、青年のほうは迫りくる火に焦りが高じてきたのか、玄関のほうを向いたまま父をよく振り返らずに両腕を動かしている。
 ――声を上げる間もなかった。
 年若い青年の手が、布切れを押さえている父の右腕を思い切り引っ張って――
 はらり、と、目隠しの布切れが板張りの廊下に落ちていくのを、煙と熱で見通しにくい視界の中でも似非庭師の目は確かに捉える。
「――あ――」
 最初に反応したのは父本人ではなく、失態に顔を青くした息子のほうだった。急ぎ膝を折って布を拾って握りしめ、彼は口をはくはくさせて父に迫る。
「いけない、すみません、違うのですててさま、決してわざとでは――腕は大丈夫ですか。布は拾いましたので、あとは貴方が来れば――ててさまがこちらに――ほらもう一度。今度こそ私から手を握ります、そうしたら、一、二で柱を――」
 青年が言いきる前に、ぎし、と彼らの足元の柱が軋んだ。青年と似非庭師の目が一か所に釘付けになる。
 父親の裸足が柱を踏みつけていた。
 息子の手に引かれているわけでもないのにどうしたことか、父親が壁に手もつかずに自分で歩いたのだ。表情を見ようと顔へ視線を移そうとするも、似非庭師からは父親の後ろ頭しか見えないため何も窺い知れない。
 次に動いたのは息子の足だった。こちらは進行方向を背にして振り向いているため全身がよく見える――ず、ずっ、と音を立て、青ざめた顔から一層血の気を引かせた青年が後ずさる。尋常ではなく震えている手を頬やら額のあたりにあて、彼のわななく口から言葉がこぼれた。
「あ、あ――ててさま――いけません、あ、だめ、いけない、ああ――うそだ、」
 点々と落ちていく声を追うように足もどんどん後ろへ下がっていく。父の影はというと――
 矢張り何の支えもなしに柱をとうとう乗り越えた。危なげなく柱の向こう側に落ち着き、そこで一旦静止する。
 対する息子の様子は父とは正反対だった。布切れを握りしめた手でせわしなく顔を覆ったり髪を引っ付かんだりして何か喚いている。
「ててさま、何故――どうして目が――待って、だめです、いけない、目を開けてはだめだ! どうか見ないでください、――私を見ないで――瞼を開けてはいけない!」
 徐に傾いた父親の首の角度のお陰で横顔が僅かに見てとれた。目が――常日頃ずっと布に隠されていた目が、布を替えるときでも必ず閉じていた瞼が――開いているのだ。
 羽化だった。どこかもろい出来立ての翅の動くような様子で、彼は睫毛を震わせる。一瞬だけきつく閉じきった目元は、やはり目前の息子と瓜二つだった。長く閉ざされていた目は澄んで大きく、広がる炎の明るさにまばたきを繰り返し、そうしてからまたゆるゆると世界に触れる。
 息子の慌てぶりもよく分かる。父親の目はすっかり辺りを見渡しているようだった。
 そして父親の足がほんの数歩、玄関のほうへ出る。躊躇いのない足取りだった。背後で火の燃え盛っているのも忘れ、似非庭師が仰天して二人へ声を放ろうとしたところでそれは息子の動揺に遮られてしまう。
「あ、ああ、ああ――ててさま、ててさま? ――、おかしい、あってはいけない、――何故こんな――どうして、ててさま、」
「ひをつけたのは」
 唐突に差した声はあまりに静かだった。すとん、と尻餅をついた青年の喚きがぷつり閉じる。
「この火をつけたのは誰だろうな。――いいや、そう怯えた顔をするものじゃないよ。――誰でもいいのだ、この火の出所など何でも構わない。おれは誰のことも責めたりはしないとも――火のことでは」
 父親の声だった。何度か相槌だけで知っている、あの落ち着いた声が今、こんな状況でも深く響いている。
「て、ててさま、」
 何とか相手を見上げた青年の呼び掛けに、青年と寸分違わぬ顔をした男がやにわに微笑んだ。
「そんなにおかしいか。おれの目の開いているのは」
 青年は――先ほどまで父と呼んでいた相手を前に何も答えられない。板の廊下についた腰を擦って後ろへとひたすら下がっているだけだった。それを追うように、すっかり自由になったもう一人の男の視線が動く。
「おまえはさっき、何故、どうして、と問うたな。何もかもおまえが創り上げたものなのに――それなのに何ひとつわかってはいないのか、おまえは、何も――」
「そんな、何を言うのです――ててさま――いや違う、厭だ、厭、うそだ、貴方は――貴方はまさか」
「おれもひとつ訊ねよう。――たのしかったか?」
「にいさま!」
 弾かれでもしたかのように伏せていたほうの青年ががばりと身を起こす。煙の濃くなってきた中でも高らかに激しく彼の声は方々へ飛び散った。
「にいさま――貴方は死んだひとの筈だ! 肺を病んですぐ、冬を迎えることも適わず、手を施した甲斐もなく呆気なく死んでいったにいさまが、何故、どうして!」
「死んだのは父だろう。あわれなのはおまえのほうだ、――双子の兄を父と呼び、いなくなった父の世話をするのは気持ちがよかったか。片割れの目を塞いで手を引くのがそんなに快感だったか」
「世迷言を! ててさまが死んだなんてそんな筈は、ててさま、今はどちらへ――いない? そんな、嘘、どこにも――うそだ」
 毅然としている父、いや兄とは対称的に、確かに息子であった弟はふらついて手当たり次第部屋を開けていく。望む姿がどこにもないと知ったのか、ついに憔悴しきって廊下の隅にへなへなとへたりこんでしまった。そうしてから体を折り、くの字になって床に額を擦り付けだす。
「――ああ、ああ――あわれなにいさま、黙って私の手を取ればよかったのに――目を開けてしまうなんてどうして! 私は貴方のことが――貴方をあわれに思っていただけなのに――何故こんな」
 咽んで泣き、攣っている彼の背に、細く鋭く火の粉と言葉が降り注ぐ。
「それがおまえの本音か。そうか、それでおまえはしあわせになったのか? ――おまえとそっくり同じ顔をしているおれ、つまり――おまえそのものを――世話なんかして――」
「おおお――おお――」
 兄の問いかけを受け、這ってはまろぶ弟の咆哮に涙が混ざりだしている。もう意味をなす言葉にはとても聞こえなかった。普段聞いていたものからは到底想像もつかない低い嗚咽の奥、更に低い呻きのような何かが地響きになり廊下を波立たせる。
「おお、あわれ、あわれ――なんてあわれなててさま、私も兄も医者も手を尽くしたのに――あわれなこと――、あわれなにいさま、私がいなくてはものも食べられず、着替えひとつできず、外にも出られぬ――なんともあわれな、私なしでは生きられぬ、世界一あわれなひとよ、――」
 もうもうと熱された空気がうねる中、蠢くものは顔を押さえた黒い影ひとつ。弟である青年が――あんなに明朗快活だった彼が――嘆くたびに唱和するかの如く火は爆ぜて粉を散らす。蛞蝓ののたうちまわるように弟の影は青と紅の狭間に揺らめき、惑いの様を彩った。影から伸びた細長いところが布切れを握りしめて離さない。段々と激しさを増す木の軋みとともに声が届くも、やがてその声はすっかり啜り泣きのようになり果て、ててさま、にいさま、あわれ、あわれと繰り返す――
 双子の兄のほうはもう声を出さず、弟の様子を見ながら直立しているだけだった。
 ――ああ、いけない、
 いつかと同じだ、この二人を前にするとすっかり呑まれてしまう。空気に己の意識が溶けてしまったように二人に見入ってしまい、外へ出る暇も彼らに話しかける隙もなかった似非庭師がやっとのことで我に返るも時は既に遅かった。屋敷のにんげんどもを逃すつもりなど元からなかったらしい炎のお陰で、最早行く手は完全に遮られている。そこら一帯火の海だ。息も満足にできないどころか視界もおかしい、煙や熱はこれだから厄介で厭になる。
 絶望とともにうずくまって顔をしかめ、咳を繰り返す似非庭師の耳に、ぼそりと小さな言葉が入ってきた。
「あわれなものだ」
 耳元で呟かれたような近さだった。驚いて思わず上を仰ぐ似非庭師の目に、煌々と照らされた兄の顔が飛び込んでくる。この屋敷に雇われると決まった最初の挨拶の日に向き合ったきりのその顔の、瞼が、この熱気の中でもはっきりと上がって、まるで初めの日のように、兄である男は似非庭師のほうを向いていた。ただあの日と違い、今は似非庭師を両のまなこで捉えている。
 どこまでも弟とそっくりだ。似ていると表すのはもうおかしい。鏡が恥じて自分から割れそうなほど同じ顔だった。
 兄である男は形のいい唇を割る。周囲を取り囲む焔など歯牙にもかけず、初めの日に弟がにこやかに挨拶をした表情とまったく同じ相貌で首を傾け――
「弟が世話になったね、――庭師殿、この屋敷はもうだめだ。今からでもどうにか逃げなさい、きみはそこまで付き合う義理はないのだから。そして――よければさいごに、ひとつ覚えておいてほしい」
 本当に似非庭師を案じているらしく、その証に男の口調はやや急いている。しかし逃げろと言われても無茶だ、どこから出られるというのか。ここで終いだ――そんな諦念の混じった視線で相手を見返せば、相手はというとほんの少し周囲を見渡しながら続きを舌に載せてくる。
「火で一番恐ろしいのは紅のものではない。かといって皆が言う藍のものでもない。いいか、火で一番、恐ろしいのは、――その色は、――」
 忍び込んできた言葉に、何もかもを包む炎が――似非庭師の何度も手入れした――あの躑躅の花に変わる幻影を見る。
 一層勢いを増すのは炎の吐息か弟の呻きか。まだ咲くのには月が早い、一度として咲いたところなど見たことがない筈なのに、熱と煙の中で見事に咲き誇るその花の色は、そう、目の前に蜃気楼のように佇む穏やかな、兄であり父であった男の言い残した――紅でも藍でもない、一番恐ろしい炎と同じ色の名だった。



 結局、似非庭師は生き延びた。
 近所の者が即座に火に気づき、消防組や医者に連絡を入れてくれたのだと後々になってから聞いた。どこからどうやって助け出されたのか、気を失っていたせいでまるで記憶がないのだが、とにかく救助された。火傷の痕も肺や目の痛手も奇跡的に少なく、なんとか一命をとりとめたのだ。
 すっかり元のように歩けるようになったはいいが、その後が大変だった。屋敷は全部燃えたというのに、ぐるりとそれを取り囲むようにしてあった躑躅の生垣は無傷で残り、素人が遊びで剪ったこれが、なんと見事に咲いたのである。腕を買われてかつての似非庭師は今や人気の本物庭師となり、仕事の入らぬときがないほど多忙になってしまった。
 遺されたのは屋敷の燃え滓、炭になった柱や廊下、そして空っぽの小さな蔵、咲き乱れる躑躅の生垣。
 屋敷の主であった双子は、捜索もむなしく未だにどちらも見つかっていない。
 近所の者は彼らの仔細をどこまで知っていたのか、庭師に決して明かさなかった。また庭師も到底訊く気分にはならなかった。燃え盛る夜の真実を胸に仕舞い込み、庭師はその町を後にした。しかし仕事でごく偶に屋敷の跡地の前を通ることがある。その場所では、綺麗に残った生垣の躑躅が、紅でも藍でもなく――この世でいちばん恐ろしい――あの夜の炎の色を纏って、数年経った今も毎年必ず咲くのだという。





〈終〉