赤なんか意外といいかもしれない。
そうはしゃぎながら、僕は彼女に似合うマフラーのことを考えていた。彼女は青が好きだというから青も考えたけれど、青は寒そうだ、水色はこの季節もっと寒そうだ、と僕は、後ろから追ってくる相手へと言葉を投げた。
他にひとのいないデパート、愛用のブランド服が並ぶ売り場に入り、また来年夏になればこのひとはこのブランドの夏服を着るのだろう、と、並べられている夏物のシャツを見ながら当たり前のように思った。まるで一度も夏の姿を見たことがない、冬にしか会ったことのないような気分でいた。
ふ、と、服の上を移動するこもれびのような光を見つけ、なんだろうとぼんやりそれを目で追った。いつのまにか服屋はひとつの小さな店舗に姿を変えており、外は青い葉の繁る暖かな季節だった。 最早こもれびにしか見えない小さな光が、すらすらと店内をつたい、這い、すべってゆく。
辿り着いた縁側で外を眺めていた老人が、僕の眉間にすっとふしくれだった指をおいた。その、よく日に焼けた指を、腕を、音も立てず静かに一筋伝い、こもれびが光り輝いていく。僕の眉間まで届き、両目の間でちらちらと瞬いている。
それをはっきり、僕は見つめていた。
彼がいう事には、この辺りには神様がいるらしい。時々、偶に、よく、この辺りをこもれびが渡って回るらしいのだ。 それが今まわりをとりまいて、木々や草や縁側や、そこらの影になった部分を伝っているものらしい。

*****

僕はもうすっかり、真っ黒に染めた狩衣に身を包んで、彼女と向き合って川のほとりに立っていた。 せせらぎが聞こえる。青々した葉はそよ風に揺れ、こもれびが笑うように舞っていた。
彼女はというと、純白の狩衣に身を包み、僕の伸びた髪を両手でそっと持ち上げ、背中のほうへと回してくれた。その手つきに微笑む。小さな桟橋のような板の上、ふたり黙って立っていた。つ、とお互いの背中が光り始める。
そうか、もう僕たちは神様になりにいくのだね。僕はそう呟いた。
懐から出した真っ白な短冊を握り締め、互いの額に付け合うように笑った。一度だけ、しっかりと抱きしめあう。手を繋いではじまりの場所へゆくところを誰にも見られないように、周りでひらひらまたたく神様たちにも見つからないように、手を隠すようにして僕らは空中に浮いて泳いでいった。

*****

辿り着いたはじまりでは、敷石が闇の中、段になりぽつり、ぽつり、と浮いている。ふたりでここへ来ると、いずれなりたい神としての色に、石を踏むことによって交互に染めて光らせていけるのだ。隣にいた彼女は不意に厳しい声で、――君は何になる気だ、と問うてきた。
まっすぐ敷石の浮いているのを見ている彼女に、僕は、――黒か青かで迷っているよ、と答える。実際本気で悩んでいた。 すると彼女は、――じゃあ、青にするんだ。俺がここから片方光らせておくよ。君は歩いて石を踏んで、光っていない方の石を光らせていけばいい、
と、そう告げてきた。
ここからは僕が先に行かなければならない。すぐ後ろについていくと言う彼女を置いて、振り返らずに僕は敷石を踏んで跳ねて行った。
石は確かに踏むたび光り、前に続く石も片方は輝いていたが、僕が踏んでも特別青く光りはしなかったように見える。暗いままの石も、あったように思う。

*****

ふと気付けば美術館か映画館の廊下のような場所に出た。柔らかな青紫の落ち着いた絨毯がどこまでもまっすぐ続き、両脇には椅子だとか、硝子ケースに陳列された展示品がある。立ち入り禁止のテープにぶつからないよう、僕は空気を泳ぎ、風をうねらせて空中を進んでいく。
いちいち曲がり角で止まるときにくるりと宙返りしなければ勢いがつきすぎてぶつかりそうだった。なめらかに進んで行くように気をつける。
空気に浮いて泳ぐというのは、結構もどかしいものなのだ。
回廊をうねって進む中、懐かしい人々がいたるところにいたが、それが誰なのかは僕には分からなかったし、彼らも僕をただの光だと認識しているようだった。僕はもう殆ど、こもれびになってしまっているらしい。
ここからはスタンプラリーのように、各所を巡って無地の和紙を捲ってその場に一枚置いていかなくてはいけない。どこがどこなのかいまいち分かりづらい中を僕は泳ぎ、どこにもぶつからないよう四苦八苦しながら、机や棚の上に和紙を見つけては、山から一枚とって返しその横に置いていく。
先に行ったひとびとが紙を積んだ上に、僕も重ねていった。振り返ってはいけないような気がして一度も確認してはいなかったが、すぐ後ろに彼女も来ているのは何となく分かっていた。空気を蹴りながらもどかしく先をゆく。――彼女は、今何を考えてこちらへ向かっているのだろう。

*****

その内、美術館の外へ出た。太陽光が照り付けて一気に眩しい。 外の地面の上には、白く塗られた木の板のようなものが僅かな間を空けて並べられ、通路と庭とを創り上げていた。円形に穴の開いたところからは街路樹のような立派な樹が生えている。
等間隔に続くそれをなぞるように僕はうねうねと泳ぎ、青空の下を進んでいった。 途中、巨大な黒い筆を横に置いて、カメラなんかを持って騷いでいる学生たちにぶつかりそうになる。慌ててその場で宙返りをしてどうにか止まって話しているのを聞く所に寄れば、 神になるものが光りながらその道を進んで旅してゆくのを、見送ったり居合わせたりするのは、とてもよろこばしいことらしい。学生たちは僕のほうを見て写真を撮っていた。僕はもう、本当に、殆どがこもれびらしく、ちらちらと街路樹の影を戯れに照らしてしまうのを黙って撮られていた。
一応まだ全身漆黒の狩衣姿なのだが、もう人々にはそう認識されないのだから仕方がない。光になったお蔭で、カメラを向けられても何も恥ずかしいことがなかった。
と、そこに、はっきりとこちらを見て、ほっそりと痩せた少女が前に出てくる。 ――ここから先は、題を決めないと進めないんです。 懐かしい学生服に身を包んだ、どこか見たことのあるような手足の細い少女はそうきっぱりと言ってきた。
――題? なんのことだろう、とくるりと回る僕へ、少女は、
――そう、タイトル。この旅路の、
と答える。
この旅路の題。僕はそもそも題を決めるのが苦手なのだ。なんだろう、と考え込んで左右をうろうろ見てしまう。

そこに不意に、ここに至るまでの光景が甦ってきた。

一度しっかり彼女と抱き合ったこと。白い短冊を握り締め、一緒に行くのだと笑ったこと。繋いでいる手を誰にも見られぬように飛んで泳いだこと。
――思い出、と、やがて僕は、前の少女でなく左隣のベンチに腰掛けている少女のほうへと告げた。思い出。これが相応しいように思えたのだ。
突然話しかけられたにも関わらず、左隣にいたその少女は、僕の静かな声を聞いて、ゆっくりと微笑んだ。そんなに切なくて寂しそうな笑みをしてほしくなくて、この子は他人のことをいつも心配しているし、とても苦労を重ねて生きてきたのだ、と名は思い出せなくても、分かってしまった僕は、 だから、左手でその少女の頭を撫でてやった。――分かりました、と前に立ちはだかっていた少女が筆を持ち上げ、真っ黒に濡れている穂先で僕の右掌を塗る。ゆるゆるした感触は一瞬で消え、あとに残ったのは黒々とした僕の右手だけだった。
思い出。こもれびとしての神になる旅路の名。

*****

左に座っている少女や、まだカメラを持って楽しそうにしている学生たちから何とはなしに視線を移動させる。腰掛けている少女の隣には、銀髪の不服そうな顔立ちをした青年が、帽子を目深に被って座っていた。 その目が、一度だけ、こちらとあったような、

――   だ。

それだけで分かってしまった。彼だ。空気を蹴飛ばして一気に彼に近づき、そして怯えてまた空気を蹴って背後へ飛んで離れる。風圧でともしびが消えるように、 ふうっと彼の姿が、青空と白いすべての中からいなくなった。

青年の横、ベンチの更に右隣には、純白のタチアオイが咲いている。
燦々と咲き誇る、強烈にたわわな白い花。

もう僕は両手に顔をあて、赤子がむずがるように声をあげるだけだった。ううううええええうあああううう、うあああううええうううう、
頭の中ではずっと、この旅路で音量を増していたミのフラットとミと上のシの旋律が、鳴り響いていた。 ――叫んだとたん、それが止んだ。

*****

それが僕の、旅の軌跡である。
もうそこには行かないのだ。
これはただ冬に見た泡沫、一幕の決別のひかり。

テロメア[終]





 












Feb 13th, 2017