なんでも許してしまうひとっていうのは、とても怖いものだとわたしは思う。だからあのひとに会ったとき、わたしはとても彼を畏れた。
 そのひとはわたしを怒らなかった。わたしのことどころか誰のことも叱らなかった。喜怒哀楽の怒だけがすっぽり抜け落ちてしまったかのように存在していて、それなのにひどく完成されていた。そしてそんな彼のことを皆が慈しんでいた、まるでこの星ができあがるまえからの予定調和だったかのように。わたしは人の輪の中心で光を受けて輝く彼をただじっと見つめるだけだった。
 でも彼との生活を余儀なくされて、わたしにとってそれは仕事のひとつでしかなく、彼が怒らなくても泣かなくてもそれはどうだっていいことで。どうだっていいはずなのにわたしはおかしくなった。おかしな行動を、彼と出会ってからするようになった。
「何を、しているんですか」
 見てわからないのかなあ。鈍い。でも時々鋭い。そして悪気も何もない、このひとは隙のないひと。それなのに隙だらけであやうい、いつも光を纏うひと。
「えっと、足の、間から、出てくれませんか」
 なんでですか。と意地悪く訊いてやると、彼は秀麗な眉を少しだけ八の字にして答える。
「僕は本を本棚に戻したくて。これじゃ、歩けません。貴女を踏んでしまいます」
 踏んだらいいじゃないですか。
「できません」
 やればいいのに。
「ほ、本気で言ってるんでしょうか。僕はそういうことはしたくありませんよ」
 たじろぐ彼を認め、わたしはため息を大げさに吐いてするすると体を移動させた。ちょっとした悪戯。彼が立ったまま一人ぼっちで本を読んでいたので、その両足の間に寝そべって頭だけ突っ込んで、本の表紙と裏表紙と、時折見える彼の小さな顎を見つめていた。それだけ。
 四六時中、仕事以外のときまでわたしと一緒にいるのは彼だってそりゃあ息が詰まるだろうけど、わたしは彼を護衛しなくてはいけないのだ。護ること、それがわたしの仕事。
 困らせることが仕事じゃないのに。
「貴女と仕事をするようになってもう暫く経ちますが、本当に貴女は面白いかたですね」
 しかし彼は困るどころか笑っているのだ。わたしが、就業時間外とはいえこんな悪戯をしたのに。叱らない、怒らない。困っても、嘆いても、それでおしまい。許してしまう。受け入れてしまう。なんでもかんでも抱きとめて許してそれでおしまいなんて、一番怖いことなのに。ねえ気付いてないの。どうして気付かないの。なぜ気付かぬまま生きていられるの。
 わたしはいつも、生意気にも怖がってばっかりなのに。
「怒らないんですか」
 わたしが唐突に彼に言葉をぶつけると、彼は本棚に本を戻しかけた格好できょとんとした顔を向けてきた。
「何をですか?」
 ちょっと頭痛がした。
 大体にして彼はこうだ。仕事上、彼は他人の悩みや愚痴を訊かなくてはならない。だからこそ感情的になってはいけないのかもしれないけれど、それにしても感情を大きく表に出すことがない。彼は、相談しに来る人の心に添って、悲しげな顔になる。本当に切ない相談事を持ち込まれたときは、好物も喉を通らず、一晩中椅子に腰掛けて月明かりで出来た自分の影を見ている。沈痛な面持ちで。だから感情はあるのだ。深く悲しむこともあるのだ。共感だってできるのだ、それなのに。なのに。
 彼自身のこととなると無頓着。近所の子どもたちが本に落書きをしても、心無い大人が暴言を吐いても、窘めるだけ。傷ついてるはずなのに。あんなに深く悲しむのだから、本当は心だって傷ついているはずなのに。
 そういうとき、わたしは怒る。彼が叱る以上に皆を叱る。暴言までは吐かないけど、きついことを叫ぶ。彼より落ち着いてなきゃいけないのに、よりヒステリックになって。わざとそうしてるのかもしれない。でも別に彼の代わりに叫んでるつもりなんかじゃない、これはわたしのもともとの性格。人前で簡単に泣くような女の子にはなりたくないんだけど、必要に応じては、涙だって無理やり出せる。大げさに生きる、それがわたし。
 このひとのせいだ。わたしは毒づいてそして取り消す。違う、このひとはなんにもわるくないの。
 読みきった本を戻し、次に読む本を棚から出した彼が、わたしを見てにこやかに何か考えている。わたしが彼の硝子の目を睨み付けたまま黙っていると彼は「にらめっこですか」と嬉しそうに声をあげた。ちがう。ちがうけど、そうかもしれない。遊びでいいから睨んで。わたしを睨んでみて。
 でも彼はそんなわたしの心には気付かず、あんまりわたしが黙り続けるので見切りをつけたのか、ゆっくりと自分の机へと歩き出してしまった。彼の歩いたあとに光がこぼれる。金の砂、銀の星。水のたっぷり入ったガラス瓶。彼の豊かな黒髪が日光を受けてわずかに揺れている。どこか遠くで賛美歌とパイプオルガンの音が聞こえる。わたしの知らない曲。みるみるうちに植物がのびあがり、色とりどりの花が咲きこぼれる。こんなにうつくしいひとを、わたしは見たことがない。いつもいつも、彼には清いみひかりが差している。永遠というものがこの世界にあるのなら、それはきっとこのひとのかたちをしていると、わたしはわりと本気でそう思っている。

 このひとと出会ってから、ただの水がもっと透明に見えるようになった。憂鬱なはずの朝日が神々しくてたまらなくなった。道端の雑草が、川のせせらぎが、歌っているように見えるの。
 おかしなのはわたしじゃない。きっとこのひとのほう。





 ねえ、
 なんでゆるしちゃうんですか。わたしは心の中で彼を見つめる。まぶしくってとてもじゃないけど、まっすぐになんて見据えていられなかった。でも彼はわたしを見つめる。わたしは目を開けていないけど、瞼の裏に彼の硝子の視線を感じる。
 あなたは本当になんでもゆるしちゃうのかな。どうしてゆるしちゃうの。この世界にはゆるしちゃいけないこともたくさんあるでしょう。恨んでいたって仕方がないですよって、あなたはそう言うのかな。怒ったりするより、笑顔でいましょうって、そう言うのかな。
 ねえ、このままわたしが、毎日悪戯を続けたら。
 あなたはどうするの。他愛のない悪戯に、あなたは慣れてしまうの? 困ることもしないの? 笑って受け流して、いつものことだからとわたしをゆるすの?
 そうしてわたしの悪戯が、どんどん変容していったら、あなたはどんな顔をするんだろう。やっぱりゆるしちゃうのかな。その微笑みで、受け入れちゃうのかな。近所の子どもたちが本に落書きをしても困った大人たちが綺麗な調度品を壊しても最後にはゆるしてしまうように、わたしがそのうちもっと困るような悪戯を毎日しかけるようになっても、あなたはゆるしてしまうの。
 ねえ、もしもわたしがあなたに、絶対に取り返しのつかないことをしたら、あなたはどうするのかな。
 ゆるしちゃだめだよ、だめだよ。どんなにわたしがゆるしてって叫んでも。
 柔らかい声。やわらかい、ひとみ。





 彼はもうわたしをゆるさない。
 どんなことを心の中で訊いても、何をどんなに叫ぼうとも、彼はもう目の前に戻ってこない。彼は二度とわたしをゆるすことがないし、そして同時に恨みも怒りも憎みもしない。
 訊いておけばよかった、あの日。あのときに。永遠なんて高が知れてる。お願い返事をして。ねえつまらないよ。こんな世界つまらないよ。

 あのひとはもうにどと、ほほえまない。






(ずっと光の中に居て わたしがわたしの罪を忘れないように)





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ついのべだかついぶんだかのタグでつらつら投稿してしまったもの。

2014-12-15