いい子だから





 帰ってくるから散歩であって、そうでないならなんだろう。
 確かに身近なものではあるがよくわからない。散歩なんて小学生のとき以来していないかもしれない。すごく好きだった気もするし、そうでもなかった気もする。もっと幼い頃は散歩に連れて行けと親に駄々をこねていたかもしれない、ほとんどの子どもがそうするのと同じように。わたしは平々凡々な幼児だった。しかし高校生活も終盤に差し掛かり、忙しくなってからは家と学校だけ行ったり来たりする生活で、その余裕のなさと言ったら部活動で怪我をしても絆創膏一枚で終わらせるほどで、なので散歩はほとんど贅沢品と言ってもいいものだ。最近はもっぱら見るがわになっている。なにがいいかは知らないが自宅の前があらゆるいきものの散歩コースになっているので、窓から見放題なのである。だから、わたしは散歩することに無縁であるくせに散歩の存在を忘れられない。たとえば隣の親子は買い物ついでに散歩するらしく、帰りにはいつも袋に食料がいっぱいだ。子どもが道路にねそべって帰りたくないと泣いているのを見たことがある。いい子だから、と説得しようとするくたびれた母親の、既視感があるくせにはっきりとは思い出せない後ろ姿を見ると、なんとなくわたしはわたしを失って、その親子がどちらも自分であるような錯覚に陥る。夕方になると通る、白くてふわふわの犬と野球帽の少年。リードは白によく映える赤。健康を意識してなのか、やたら派手なウェアを着込んで足早にすぎさる男性もいる。野良猫たちが塀の上を悠々と越していく。向かいの家の立派な花壇を必ず観察する老夫婦。いつ通るか、気まぐれな人もいる。そういう人は、たぶんあてどなくうろうろするのが好きなんだろうな、と思う。
 でもみんな必ず戻ってくるのだ。散歩だから。それが散歩だからだ。誰か一人くらい帰ってこなくてもいいのに、ときどきわたしはそう感じる。あんまり律儀なものはわたしの毎日みたいで反応に困る。

 息抜きも必要だ、とまず親、次に教師、更に友人にまで言われて、それで真っ先に思いついたのはわたしの家の前を通るいきものたちの姿だった。わたしはまず小さなケージを買ってきてそれを部屋に置いて、いろいろ詰めてみることにした。発生してこのかた散歩なんて知らないだろうものたちをつれてちょっとした行進をしてやろうと思いついたのだ。それはたとえば、わたしの小さな生徒手帳だったり、弟が昔くれた折り紙の手裏剣だったりした。わたしの勉強に付き合ってくれるシャーペンもあわれだったので入れてあげた。よくよく考えてみれば今のわたしの持ち物はほとんど散歩を知らない。部屋ごと散歩をできたらいいがそれは無理な願いだ。それなら、いちばん散歩に縁がないやつを選んで連れていくしかない。なんとなく何かを忘れているような気がずっとしていたが、ああでもないこうでもないと考えていたらいつの間にかケージは満員になっていた。
 大会が終わって初夏のまんなかにある気の抜けた振替休日、今しかないと思ってケージをかかえて外に出た。案の定ケージはがしゃがしゃやかましかったが、たぶん歓声なんだろうと思ってわたしはよしよしと持ち手を撫でてやる。
 さあいい子だから。
 生徒手帳、折り紙の手裏剣、シャーペン、ごらん、これが外だよ。いいや散歩だよ。わたしたちはこれから散歩をするのだよ。ちゃんと見ていなさいね。充電ケーブル、歯磨き用のコップ、ごらん、よくごらん、これがアスファルトの道路。あれは佐々木さんの自慢の車、あっちは佐藤さんの家の古い物干し竿、さあ歩こうね。上を見てごらん、曇りだから飛行機雲なんて洒落たものは見られないけど面白いだろう。わたしの部屋の窓から見るよりわずかに高く、今日は雲の流れが少し早いから。
 とりあえずそのあたりをうろついて、向かいの花壇の前にしゃがむ、わたしの膝と腕と爪先が視界に映る、そしてわたしはあっと思って、体中の絆創膏を剥がしていった。ざやざや風が真新しい皮膚と皮膚のなり損ないと古い皮膚だったものをなぜていく。風はもうすぐ雨が降ることを教えてくれる。いい子だから、と聞こえたような気がして、それでも振り返らない。

 帰るから散歩だ。帰らないなら。帰らないなら? 花壇の前、指先で絆創膏を撚っている。










不可村 天晴 @nowhere_7
21/06/18~ #ペーパーウェル06
お題「散歩」