セル





 修学旅行の秋の日に五台の大型バスが行儀よくやってきて、早朝六時から校庭に集合だった僕たちはようやくまともな場所に座れることに喜びながら腰を上げた。三百人近くいる生徒たちが立ち上がる光景はオルゴールの櫛歯が一斉に弾かれるさまに似ている。櫛歯と同じで僕たちの中にも立ち上がるのがやや早いものと遅いものとがいて、それは当然ながらひどく目立つ。そうならないよう僕たちは苦心する。歴史ある中学校の校庭は銀杏の実のにおいで満たされていて、そんな場所に朝早くからいたものだから誰も彼もすっかり銀杏くさくなっていた。
 バスのトランクルームはカラフルなスーツケースでモザイク模様ができていた。並んでいた僕はそれを正面から見て何かを思い出しかけたが、そうこうするうちに僕の番がくる。教師と運転手が僕のお古のスーツケースを持ち上げて押し込んだ。トランクルームはものも言わずにケースを呑み込んだ。バスに乗り込む直前にもう一度そちらを振り返る。近くではあんなにカラフルに見えたのに、離れてみればトランクルームはただひたすら黒いだけの空洞だった。
 大型バスというだけあって内装はひたすら豪華だった。明かりはシャンデリアのような形をしているし、窓は広くカーテンタッセルまでついている。長い旅路を予感して早くも僅かに飽き始めているクラスメイトがマイクを見つけ、前の席の者から自己紹介をしはじめる。それを聞き流しながら、天井についているエアコンを指で押して風の向きを変えた。一回通路側に向けて、そしてすぐ窓側に戻す。もう一度それを繰り返す。風が当たって鼻が熱くなる。通路側の席の生徒は居眠りを始めていた。僕も既にかなり疲れていたが、眠る気にはどうしてもなれなかった。退屈な自己紹介があらかた終わってカラオケ大会に移る頃、バスは高速道路に入る。カラオケに参加する気にもなれず、首を伸ばしてクラスメイトを観察してみる。居眠りをする男子は他にもちらほらいる、その寝顔を振り向いて観察する者、カラオケに拍手をするグループ、雑談をしている女子、ぐるりと見渡して、細胞みたいだ、とふと思った。僕の脳裏に教科書に載っていた細胞のイラストが浮かんだ。きっちり詰まった座席のひとつひとつも、それから先ほどのスーツケースもこのバスそのものも、なんなら今さっき配られた弁当も、細胞によく似ている。細胞膜に包まれた細胞質とミトコンドリア、そして中心の核。あるべきところにあるべきものがおさまって落ち着いていた。と思ったところで居眠りをする隣の生徒の肘がこちらに刺さる。僕の細胞は歪む。
 やがてバスは目的地に到着した。広い駐車場におりると同じ部活の生徒が三人やってきたので部活の土産をどう買うかの相談をした。キーホルダーにするか菓子にするかでしばらく揉めて、最終的には十二個入りの菓子を一人一箱ずつ買ってその中身をばらして配ることに決まった。去っていく三人を見送る。三人ともスーツケースを引いていた。左から、メタリックな赤、合皮の茶色のトランク、そして布製の青。あたりを見回す。めいめい好き勝手にしている生徒たちの脇にもそれぞれカラフルな細胞がある。僕にも僕の細胞が付き従っている。ほつれだらけのお古のスーツケース。
 仮眠を取っている運転手を尻目にバスの中に戻ってみると、まだ中にクラスメイトが数名残っていた。運転席のほうから内部を見ると席がきっちり並んでいるのがよくわかる。律儀な席のひとつひとつにクラスメイトが一人ずつおさまる、落ち着いていて、あるべき場所にあるべきもののある、完成された細胞。僕の席には他の生徒が座っていた。彼らは仲間同士で菓子を食べているようだった。
 僕はバスの外にもう一度出た。
 生徒たちにスーツケースを返し終えたトランクルームのドアはまだ閉められていなかった。黒い穴がぽっかりと底なしに口を開けていて、夜に近づく空気を吐き出しているようでもあり吸い込んでいるようでもあった。僕は自分のスーツケースをそのあたりに放置して穴に向かって歩く。ステップにそっと足をかけ、かがんで中に入る。何の音もしなかったし何も見えなかった。反対側に行かないようにまんなかあたりで膝を抱えて座り、ゆっくりと横になる。教科書に載っていた完璧な細胞を思い浮かべて、息を吸ってそして吐く。忍び込んでくるクラスメイトのはしゃぐ声と外灯の光を睫毛で払う。
 目を閉じる。ドアの取っ手に誰かが手をかける音がした。






20/11/21~ #ペーパーウェル05
お題「旅」
不可村 天晴 @nowhere_7