70パーセントのぼくら





 ある日、彼女は天から落ちてきて、大地に拒絶された。
 この星は雨季が長く、海がない。ずっと続く曇り空と湿気の中、勤勉な住人たちは作物や家が雨で腐らないように対策を進める。星の反対側に住んでいる友人からも雨季に入ったという知らせが届いた。この星は今、水に支配されている。
 彼女が落ちてきたのは今年の雨季のはじまりのことだ。そろそろ本格的な大雨がくる、と空を見上げていたら、あれよという間に水滴が落ちてきて、彼女になった。それ以来、彼女は水たまりとして我が家の前でじっとしている。
 彼女はもともとこの星の住人だった。親しむ理由はそれだけで十分だった。
 この星の住人は、どんなに身を寄せ合っても、慢性的な寂しさを一生持ち続ける。個として分かれているので、お互い理解しあうことはとても難しい。これは解明されていない風土病のようなものだった。しかし彼女は不思議なほど陽気だ。本人曰く、水はすべてひとつの存在だから寂しさなど感じないらしい。雨として降っていたときの記憶と、そこからまたひとつになって空に戻っていく記憶と、水たまりはすべてを持っているのだという。
 ひとつのものに分かれる前の記憶。そしてこれからどうなるのかということ。
 雨季の間は地面が完全に乾くことはない。雨がやんでも彼女は消えない。今日もつまらなそうに、道にできた小さな後輩たちを眺めている。

 雨季も後半にさしかかった頃、友人が遊びに来た。
 長い雨の日々、僕たちは並んで夜を越す。ばらばらと屋根で雨粒が踊る音を聞きながら、僕たちの話題は他の星のことに移る。タオルケットは湿気を含んでしっとりと重かった。
 僕たちの興味はもっぱら地球のことだった。何しろ地球は僕たちの星とは環境が全然違う。地球では雨季は地域や時季でしっかり決まっていて、海もあるという。山から水が湧き、雨は川となり、池や湖ができ、人間たちの使った水と雨は混ざって海へ流れ、水蒸気になって空に昇り、そしてまた雨となって帰ってくる。耳にごうごう唸り声が聞こえた。屋根を打っていたものが頬をなぞり、わっと叫んでいる僕を置いて首筋を肩を胸を走り抜けて僕の輪郭を作る。浮き足立っていた土がなだめられ、叩きつけられ、すっと黙って絶命する。空気に形と色がつく。目の前が揺れ、誰かに呼ばれたような気がして意識を集中させるも、はっきりしてきたのはすぐ隣で本を読み上げる友人の声だった。
 目を開ける。この星に雨はあっても海はない。水のめぐりについてのトリップはいつもここで途切れてしまう。
 俺はもうすぐ地球へ行くよ、
 深夜、友人が呟いた。僕はそのとき、家の前で眠っているだろう彼女のことを思い出していた。地球の雨と海を見に行くよ、友人は続けてそう打ち明ける。突然のことにどう相槌を打てばよいか逡巡して、混乱した僕はそれから彼女の話をした。友人は口を挟まず聞いていたがやがて、似たもの同士だな、と言ってランプに手を伸ばす。
 命は水たまりによく似ている。ひとつのものから分かれて生まれ、どこにも帰れず寂しがっている。俺たちは水たまりなんだ。生きている限り、この星がある限り、ずっと。

 友人が旅立ってから、僕は海に帰っていく雨を夢に見るようになった。そこは行ったことのない地球の風景で、そこでは雨は上顎と下顎を繋ぐ唾液のようなものだった。
 もうすぐ乾季が来る。彼女も蒸発してしまうだろう。また雨季になったら再び会えるのだろうか。次も家の前に水たまりができたとして、それは本当に彼女なのだろうか。彼女はそうだと答える。たとえ再会できなくても、わたしたちはみんな同じ存在なのだから、安心してほしいと言う。
 僕の安心を待たずに別れはやってきた。晴れ間が続き、空気が乾燥してくると、否応なしに彼女は消えてしまった。話し相手のいない短い乾季はあっという間に過ぎ、新しい年を迎える。そしてまた雨季が来る。
 右往左往していた僕の頭上を雲が覆い、あたりが薄暗くなる。すぐに水滴が落ちてきた。不出来な鼓笛隊のように雨音が響く。息を呑んで腕を差し出した僕をすり抜け、彼女は地面にばしゃんと叩きつけられた。ずぶ濡れの僕の顔を見て、体を起こした彼女は困ったように笑っていた。
 彼女のことが羨ましかった。この寂しさをどうにかしたかった。
 友人の言ったように、僕たちも水たまりのような存在だというのなら、みんな繋がっていていいはずだ。どうしてこんなにくっきりと個を持ってしまったのだろう。何を考えているのか分からない。それぞれ違うことをしてしまう。その証拠に友人はひとりでぜんぶ決めて地球に行ってしまった。
 地球の水たまりは寂しさを感じるのだろうか。
 彼女はじっと僕の頬を見ている。すべての水と同じ彼女には、この涙だけで僕の気持ちなど伝わってしまっているのかもしれなかった。雨が降って濃くなったのが水の匂いなのか、土の匂いなのか、もう、よく分からない。僕はこの星の終わりを考える。はじまりに似た状態へみんなで帰る景色を思う。その日もきっと雨だろう。遠くくぐもった角笛の歌が聞こえる。彼女の足下の水たまりは鏡面になり、寂しい僕と寂しくない彼女を映して揺れている。






19/06/01 #ペーパーウェル02 「水玉・水たまり」
不可村 天晴 @nowhere_7