羊たち





疾病や障害の可能性があるもしくは治療中である・民事刑事問わず何らかの形で事件に関わったが回復できていない・影響を受けやすくフィクションと現実の区別がつきにくい・以上のような事情を持った知人や家族のためにストレスを抱えている、など少しでも不安定になりやすいかたは、大変恐縮ですが閲覧をお控えください。


第七幕 長期出張営業担当




 ようこそ。殺風景な部屋ですが、さあかけて。
 他に何もいりませんよね。僕とあなたが今日のメインだ。
 さて、お目文字叶って光栄です。挨拶がアクリル板越しである非礼をどうかお許しください。このたびはご多忙な神父様に署内までわざわざご足労いただいて汗顔の至りです。でもよかった、ずっとこうして会ってみたかったんですよ、あなたに。これも弁護士さんのおかげ。無理を承知で頼んでみるもんですね。
 気遣っていただくほどじゃありません。確かに抜くのは端的に申し上げて地獄でしたけどとっくに山場は越えました。それともまだどこか不安定に見えますかね。別に取って食ったりしませんから、心配しないでください。話を聞いてほしいだけです。
 慣れませんか。へえ、あなたは僕が初めてなんだ。まあそのうち平気になるでしょう、あまりお気になさらず。別に何を記録されたって僕は構いません、僕はね。限られた時間です、誰に遠慮することがありましょう、存分に語り合おうじゃありませんか。



 助けてほしいなんて言ってません。
 民が神父を求めるときは何も改心したい場合に限られないんですよ。反省? まあ、反省、はい。してます。していますよ、大丈夫。でもね、悔い改める必要なんて僕にはないんですって。お門違いもいいところです。
 誰かに渡さなければ僕が危険だった。そうするようにノルマを課せられていたんです、だから仕方なくやっただけ。そんなものもうほとんど僕の意思じゃない、僕は悪くない。あいつもあのお巡りもそう、あっちが勝手に首を突っ込んできたんだ、こっちが必死で積み上げているときに周りは何にも考えないで邪魔をしてくる、いつもそうだ。

 恨みつらみなんかありません。
 でもあなたのせいといえばあなたのせいです。冬場にあなたが余計な真似しくさったせいで僕の食事が不規則なコンビニ弁当から規則正しい臭い飯に華麗に進化いたしましたどうもありがとうございます。さだめし愉快なことでしょうが生憎とこっちは人生の一大事で大変なんです。不良神父が律儀に仕事なんかするからですよ。黙って教会に引きこもってりゃよかったのに。
 所持、使用の現行犯、譲渡売買の疑い。くだらない。
 ここには仕事で仕方なく来たんです。こんなに排他的な場所、仕事以外で来たかないですよ。喫茶店で休めば難癖つけられて追い出されるわ、役所に行けば嫌味言われるわ、今回の事件以外にも散々な目に遭いました。
 これでも本社じゃ十年に一度の逸材だって評判でね、僕としてもその評価は落としたくなかった。家族にだって大事にされてきました。期待に応えたかったんです。だから一生懸命やってきた。胡座かいてふんぞり返っていられるあなたとは違うんですよ。身を粉にして働いていただけなんです。質素で清淑、謹厳、たゆまぬ努力、公明正大質実剛健の完全無欠、それが金科玉条なんだ。和を乱すつもりなんてなかった、ルールだって破るつもりは毛頭なかった、何もなくしたくなかった。僕という人生をきれいに大事に磨き上げて疵も曇りもないように走ってきたはずだった、それなのに気がついたらこうなっていたなんてあれおかしいですねこれじゃまるで僕が被害者じゃないですか。



 どうしてあの人たちだったんでしょう。
 僕にもわかりません。強いて言うなら事故みたいなもんだったと思うんです。選ぶ余地も避ける暇も僕には与えられなかった。
 どうせ倒れるならこんなに無愛想なコンクリートの地下じゃなくて実家の布団がよかったのに。
 自己紹介なんかしてませんよ、仲良しこよしじゃないんだから。だからあの宿無しの事情なんて僕は知らないんですって。でも思い返せばどこまでもおかしな人だったな、言い様のない覇気があってね、声がよく通った。あんまり近寄りたくなかったんですけど、冬になった途端なぜだかあっちから距離を詰めてきたんです。言動が意味不明な人ってどうしてあんなに怖いんでしょうね。いったい僕に何を求めていたんだろう。
 お巡りのほうもたいがい変梃でした。こっちも冬入ってから目の色変えてしつこくつきまとってきたんです、ただ公園にいただけなのに失礼極まりない。最初こそ威勢よく注意してきたかと思ったけど、そのあと急に大人しくなっちゃって気味が悪かったな。いえ、ほしがったのは向こうです、僕は何も唆していません。使う様子を見守っただけです。放っておいて凍死でもされたら寝覚めが悪い。
 あの二人が特別に仲よかったようには見えませんでしたよ。それぞれ僕といる時間のほうが長かった気もします。でも結局、なんだかんだ言って似たもの同士だったってことなんでしょうか。どっちも死んじゃった。ひどいですよね。

 ほんとにひどい話です。
 勝手に手を出してきて勝手に退場して僕のことなんだと思ってたんでしょう。あなたぜんぜん想像つかないでしょうけど、こう一人で留置所に横になっていると、むくむくと雑念が湧いてくる。紛らわす方法もないから黙って見ているほかないんです。そうするとその雑念がしっかり影を得て、秒針の音の響く廊下にすっくり立ってこっちを見て囁いてくるんです、
 ひょっとすると憐れまれたんじゃないか。きっとあいつは内心僕を見下していたに違いない、って、こんな具合に。
 覚えている。
 あの目と指を覚えている。
 やかましい黒髪。いけすかない面つき、鬱陶しい潮風と雪。
 どうして僕にまとわりついてきたんでしょう。ジーンズの擦り切れは飾りのためだけにあるようにはどうしても見えなくて、だったらもう少し北国の冬にふさわしい格好でもすればいいのにと僕はいつも思って見ていました。僕自身あからさますぎる目を向けたとわかっているほどなのだから相手にだって伝わっていたでしょうに、どうしてかあの人は一度も僕につっかかってはこなかった。そばに寄ってくるくせして遠慮がち。そういう不似合いに分別くさいところが嫌だったんです。はなっから僕のことなんかどうでもよかったんだとわかる態度じゃないですか。思いやりなんて軽蔑と紙一重です。屈辱。
 思い出したらどんどんむかっ腹立ってきた。
 どういう経緯でああなったか思い出せないけど。とにかく僕の前であの人、いつだって不思議な目の色をしていた。何でもお見通しだとでも言いたげな傲り高ぶった態度です。ぼろぼろの公衆トイレってなんとなく死に似てると思いませんか? 生活に絶対に必要不可欠で、みんなが通るのに、ふだんは意識しない。あの人はなぜだかその場に相応しかった。ドアを、こう、開けて。さしこんでくる控えめな風花を頬で受け止めながら壁に凭れていました。あぶらで照った髪の光のせいでちょっとした冠でも戴いているようだった。影とあの人とで見事な三角ができて、くろぐろずっと伸びていた、息苦しい。違う。僕じゃない。言ってない。押し拉がれた仕切りが鳴きわめいて、違うんです、あの人が、あの人が個室に。
 寄越せって。
 骨張ってもいないけどもちろんふくよかでもなかった。ひびだらけで爪も割れ放題の荒れ果てた指でした。最近になってなぜだかあのとき差し出された手のひらがよく思い浮かぶんです。それから薄汚れた革靴のとがった先。踏みつけた石と流れてきた泥、雪に残る足跡。一度もされたことがないのにおでこでも撫でられたみたいな変な感覚がずっとあって、それがあの人の印象そのものにきっちり結びついている。邪魔するんじゃない。僕は、僕、僕はノルマを、ノルマをこなさなきゃいけなくて、ちょうどいいと思ったんだ。これで助かると、この人はいい人だと一瞬ほだされかけてしまった。向こうですか。あの人は、あの人ほんとにどういうつもりだったんだ? 僕をおちょくっていたんですかね。裏では僕をいたぶりたくてたまらなくて、そのための奸計をめぐらせていたとか。知りません。何も話してないって言ったじゃないですか、僕が聞きたいぐらいだ。いっつも澄ました顔しやがって。こっちの気も知らないで涼しそうにして。「涼しいんじゃなく寒かったんじゃないか」? さあ、
 そうですね。ここは北国であのときは真冬で、積雪だってしてたし、触った床は痛いほど冷たかったでしょう。僕は床に触れるなんて不衛生な振る舞いはしていないはずだけど。

 ずるいです。本当にずるい。
 無責任にもほどがありませんか、死んでいち抜けたなんて。あの人は中毒死。お巡りは首吊り、後追いでもしたかったんですかね。どっちにしたって逃げには変わらない。つくづくお気楽な連中です。ぜんぶ僕のせいにされてしまう。
 どうして僕のみが罪を問われてこんな場所に留め置かれなくてはならないんですか。どんな理由があったって逃げには違いないでしょう。あの人たち、残された人間がどんな苦労をするのか微塵も想像できなかったんでしょうか。
 白状しましょう。滑稽でした。愚かなあの二人が互いを巻き込むまいとそれぞれ違うときに僕の手から同じものを取っていく見事な構図。僕が持っているのを取り上げればもう大丈夫、他人には渡らないと信じ込んでいる浅はかさ。それが一瞬にして崩れ去った日の二人の表情。一言相手に確かめりゃ済む話じゃないですか、なんでそんなこともわからなかったんでしょう。自己陶酔なのか、相手に夢を見すぎていたのか、それとも頭がもう回らなかったのか。



 恨んでなんかないですってば。
 でもそうだ。元はといえばあんたらのせい。あいつが教会の前で倒れるなんて死に方をしなければ。あんたがあいつを見つけて通報なんかしなければ。そもそも教会なんてなければ、
 いつもいつもいつもいつも真面目に生きてる僕がどうして煽りを受けなきゃならないんですか。正直者はばかを見るんです、これが世の真理ですよ神父様。僕が今ここに存在している、罪のない僕が裁きを待たなくてはならないこの矛盾、これこそがあんたの失態なんだ。
 一度会ってみたかったって言ったでしょう。あれは嘘でもおべっかでもない、本音だ。どんなつらしてんのか確かめてやりたくてずっと機会を窺ってたんだ。
 許せないんです、あんたみたいな不真面目なくせに見た目ばっかりしかつめらしい聖職者。僕は生まれも育ちもよそですけど、子どもの時分には聖歌隊に所属していたので教会には馴染みがあるんです。あの当時お世話してくれた神父たちは本当に見上げた方々でした。ずいぶんよくしていただいてね、何か困ったことがあったら駆け込んでいいんだと、教会はみんなの味方で僕を絶対に守ってくれるんだとずっとずっと心の拠り所にしてたんだ。
 ご加護はある、祈りは通じるんだって。
 でも違った。

 知ってるんです僕は。知ってるんだ。
 あんた夜な夜なあいつを引き入れて何してたんですか。聖堂じゃないです、裏手の庭にあるあのちっさい家。あそこあんたの住処でしょう。しらばっくれないでくださいよ。僕は見たんだ、あそこにあいつが入っていくのを、何度も、何度も。あんた堅物だって噂でしたけど実態はとんでもない生臭だったってわけだ。町の人が聞いたらどう思うんでしょうね。どんな甘言で気の毒な宿無しをたらしこんだんですか。ああそれとも誑かしてきたのは向こうでしょうか。博愛に満ちた聖職者が迷える宿無しに居場所を与える、それくらいだったらままあることでしょう、納得できます。でもあんたらはそうじゃなかったんでしょ。冬場の田舎だから目撃者なんかいないと思ってましたか? 何してたんだあんたら。
 何がしたかったんですか。
 わかった神様ごっこですか。勘違いしてのぼせあがっちゃったんだ。神父だからっていうただそれだけで他人をどうにかできると思ったんですね。そんなはずないでしょう、博愛もそこまでいくといっそ清々しいエゴだ。誰に誰が救えるって? 助けられるものなら助けてくださいよ。
 たすけてください。



 手遅れですよ。
 神父様、おかわいそうに。まだ理解できないのなら僕の裁判に招待して差し上げましょうか、そうしたらその木石みたいな頭も少しは柔らかくなるかもしれません。
 目をそらすんじゃない。僕を見なさい。もう一度教えてあげます。僕があんたの罪の具現だ。僕が、今、こんなところにいる、これがすべてです。あんたのせい。その手を見ればわかるでしょう、空っぽじゃないですか。ぜんぶ取りこぼしたんだ。あんたが間違った。取り返しなんかつかない。
 救ってやったのは僕のほうです。勘違いも甚だしい、あいつらが僕に何してくれたんですかね。足引っ張るだけ引っ張っていなくなっちゃった。傍迷惑極まりない。あんたもそうだ。あんたのすかした沈黙と僕の行動、どっちがあいつらの役に立ったかなんて火を見るより明らかです。あんたはぜんぶ空振った、そんなの何もしなかったもおんなじだ。羨ましいでしょう。
 あんた、楽しかったですか。失って満足しましたか?
 ごきげんよう神父様。時間切れです。あはは。無駄、むだ、ぜんぶ無意味。もうおしまい。帰った帰った。しゃべるんじゃなかった。あんたに何かができるわけない。誰も助からない。ぶざま。しんだしんだみんなしんだ、あんたは無力。あはは。はは。いい気味だ。何が神だ。何が救いだ。ひとりぼっちの張りぼてめ。
 救いなどないと知っていれば初めから祈らずに済んだのに。裏切り者。








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