この物語の抱える問題は、いつまで「センセーショナルなスパイス」として描かれ続けるのだろうか。
 ここに書かれた彼らはただひたむきに他者に向き合い、それに伴うありきたりな悩みに翻弄され、そして決着をつけ、生きようとしているだけだ。ここにあるのは心のぶつかりあいであり、真剣勝負の生きざまである。特別なものなど何もないはずなのだ。
 読者が彼らに魅力を感じてくれたとしたら、私は感謝し安堵するが、ふと恐ろしくもなる。
 物語にはいつも問いがある。ひとはどんなものを、一体どんな理由で、愉快な愛すべき対象だとみなすのだろう。私たちは時に他者や己を「ふつう」ではないと決めつけ、蔑み、あろうことか敬いだすことまである。そして私たちは悔しいことに、自身のそういう愚かさをなかなか自覚できない。
 物語の中で人気者になるような人間は、現実では未だに大体がお荷物扱いだ。
 彼らの物語を見守ってくれた読者が、幾久しく健やかであるように祈る。この物語を愛し、必要だと思ってくれている者ほど、早く彼らから卒業するのがきっといいのだ。近い未来にこの物語の抱える問題は忘れ去られる。それがいい。その時のために、彼らが彼らであるからこそあなたは魅力を感じてくれたのだろう、と私はここに記しておく。生きている限り、心がある限り、私たちはずっと愚かなままなのだろうが、大事なことは愚かさを消すことではないはずだ。愚かさを自覚し、過ちを繰り返さぬように私は書いている。いつかまた私が迷っても目を覚ますきっかけになれるようここに残している。
 彼らの生きざまが、読者の心にもきっかけとして爪痕を残せたのなら、これ以上の幸せはない。


『赤風車』に寄せて   不可村天晴

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