いよいよ働き手が足りなくなったので海から活きのいいのを連れてくることにした。海のものは森のものより働き者だと相場が決まっており、しかし、すぐにかえりたがるのが難点である。たまに里帰りさせたほうがよいとはわかっているが誰も海のものを自由にしないのは、かれらがいったん海に戻るとそれからえいえんに帰ってこなくなる場合がほとんどだからだ。せっかく連れてきた貴重な働き手をみすみす逃したくはない。失うたび別の個体を連れてくるのもあまりに手間だ。そうして海のものは私たちの都合でずっと人里にとどめおかれる。
 比較すると森のものは森に執着しない。森で働かせても、未練のある素振りをいっさい見せない。ただ、森のものは例外なくよく食べるので、面倒を見るなら余裕がなくてはならない。ここらの人間たちは海のものに負けず劣らず働き者だったが、度重なる災害でみんな貧しくなったので最近は森のものを連れてくる家庭がだいぶ減ってしまった。うちには既に、今は亡き遠い親族の連れてきたらしき森のものが一体おり、私一人ではかれの食い扶持を維持するだけでもかなり大変だったため、森からはこれ以上連れてこられなかった。近所の子どもたちは森のものをほしがったがどうしようもなかった。森のものはだいたいが子どもの相手をするのがうまいので、そういった意味で人気が高い。
 さて例に漏れず海からの新参者は望郷の念が強く、泣き言ばかり私にもらす。働きすぎるほど働くが、とにかくしきりに海を見たがった。帰られては困る。かといって縛りつけるわけにいかない。悲しまれては胸が痛む。だがせっかく連れてきたものを失いたくない。しかたなしに帰らないと言葉だけでも誓わせて、手を繋いでときどき海辺に出る。そのときばかりはものも言わず、心ここにあらずといった風体でべたついた潮風にふかれる海のものを見ていると、なんの権利があって私はかれをこの場にとどめようとしているのか、たびたびわからなくなる。私たちにかれらを人里へとどめる権利などない。かれらのやわらかな従順さに私たちが体重をかけてどこにも行かないようにしているだけなのだ。
 私には帰りたいというかれらの気持ちがわからない。野良仕事は家の周りで済んでしまうし、遠くまで行く用事もない。そもそもまずしいのでどこにも行けない。行く気もおきない。ここにしか帰れないことを不満に感じたことなどない。無心に草むしりをしていてふと疲れを覚えて、今日は早めに切り上げて家で眠ろうかと思うことはあるが、これは海のもののいだく郷愁とは異なるだろう。いわゆる里心とはどういうものなのか、私は海のものに訊いてみる。そのとき芋をせっせと選り分けていた海のものは手を止めて遠くを見た。かれは自分以外の口から飛び出した帰るという音を咀嚼しきれないのかしばらく不透明な沈黙に場を渡し、やがてそんな言葉は今初めて知ったとばかりにゆっくりと目を見開いた。そして、かえりたい、と、かえりたい、そう繰り返し、意味を持たない鳴き声のように呟いた。かえりたい。海のものはときどき涙を流す。打ち据えられたわけでもないのに体を抱えて身もだえる。どうやらかれの里心は説明のできないものらしいと悟り、私はこの身から遠ざかる「郷愁」という概念に思いを馳せる。
 不思議なことにかれらは、帰してくれとは決して言わないのだ。探しにも迎えにも来ないふるさとをなぜそこまで愛せるのか。私の問いに海のものはというとただただ頭を振ってはかえりたいと繰り返すのみだった。これを見た森のものはというと、これはどういう反応なのか、怪訝そうに眉をひそめて私を見つめるだけだった。そういえば我が家の森のものを親族の誰が連れてきたのだったか私は知らない。今、なぜ私以外に家族がいないのか、いつからいないのか、家族とは誰だったのか、私は思い出すことができない。海のものが歌う潮騒が雲にすがるように流れていく。木々が風に洗われる。日が暮れる。

海のもの森のもの / 不可村天晴 @nowhere_7 / 211115 / Repost is prohibited.