緩めた輪を浮かんでいる友人の首にかけてやり、苦しくないか調整する。新調したばかりの、真っ赤で花の柄のついたかわいらしい、安っぽいリードである。友人の体格に合いそうなものが店にはこれしか残っていなかった。しかたなくわたしが買ってきて、そして友人はうなずいた。背中側から見てばつ字になるように交差させ、残りのベルトを服を着た腹に回して、脇のあたりでかちっとしたいい音がするまでしっかりパーツを押し込んで、背中のばつ字の中心にある金具から伸びる持ち手を自分の腕にきつく巻く。そのあたりの縄でもなんでもよかったのだが、散歩にいくのに縄ではあんまりかわいそうで、わたしは友人にいつもこうしてちゃんとリードをつけてやる。友人が浮かび始めたのがいつだったのかもうよく思い出せない。幼稚園児の頃には友人同士だったはずなのだがそのときはどうだったろうか、既に浮かんでいたような気もするし、地面を歩いていたような気もする。鬼ごっこもかくれんぼもしたはずなのに思いだせなかった。わたしたちはたくさんの学校を揃いで卒業して、いつしか大人になり、気も合うからと一緒に暮らすことになった。
浮かんでいると天井にぶつかる。友人の首はいつも曲がっていて、うつむいたような姿勢になるためか肩凝りもひどかった。わたしはよく友人の分厚くなった肩を揉み解してやった。低い天井の家ならば近い目線で話せるので、わたしたちはハウスシェアを決めた際にそういう小さな家を選んで一緒に住み始めた。リードをつければ離ればなれになることもない。友人が一人で外出するのならば、屋根のあるところを伝ってひっかかりながら進んでいけばいいので、それはそれで楽らしいのだが、わたしと一緒に出歩くとなると話は違う。わたしは浮いていないので、なにも空を遮らないぽっかりとした道路や公園も歩きたくなるし、実際歩く。だから折衷案としてリードを用いた散歩をすることになった。
なにかの祭りをやっていたらしい公園はいつもより賑やかで、まだ人間がたくさんいた。こどもたちが色とりどりの風船を手放して空を見上げるその隙間、二人組のおとなたちがやけに目に入る。彼らのうち片方が片方を抱き締めると、抱き締められた片方はみるみる宙に浮かび、こどもたちの風船と一緒に青に吸い込まれていく。彼らにリードはついていない。錨のない船、紐のない風船たち。残ったほうはいつまでも腕を広げて相手を見上げている。それを見てわたしはそこでようやく、このお祭り騒ぎがなんのためのものなのかを悟った。わたしの円に切り取られたまるい青い空の中心に向かって風船と人がどんどん、どんどん浮かび上がって、点になり、消えていく、わたしはそれを見つめる。こどもたちが青空を指さしておとなたちになにか尋ねる。友人が隣で泣いている。友人はわたしから離れない。わたしか友人か通りすがりの誰かがこのリードを切ってしまわなければ、わたしたちに別れは訪れない。わたしの腕に巻かれたリードは緩む気配がなく、天井のない公園はおめでとうと、さよならと、拍手であふれていた。よく晴れたいい冬の日だった。
浮いている 200120
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