からだは嘘をつかない。世の中広しといえど、自分のからだほど面白いものはそうそうないと思う。私はたくさん食べたあとに食べ物を胃腸が消化している音を聞きながら休むのが好きだ。膝を叩くと反射で足が上がるのが好きだ。自分の心臓の音を聞いて眠るのが好きだ。怪我をすると血が出るし、興奮すると鼓動も速くなる。私は私の肉体の動きが好きだ。しかしからだの仕組みというのは自分ひとりでは知ることさえなかなかままならないもので、思い通りに調子を整えるとなると難易度は跳ね上がる。病院にいくと隠されていたことがだいぶわかるので私はそれが小気味よくてたまらず病院通いをやめられない。CTスキャンやMRI、レントゲン、採血の数値、脳波のグラフ、内視鏡検査で映し出される消化器官、自分の体内の様子を見ると安心する。病院で検査してもらうと自分のからだのことが出来のいい観光雑誌の地図のようにはっきりわかってかなり満足できる。他人からは何が楽しいのかいつも怪訝にされるが、誰がなんと言おうと私は揺らがない。私の担当の内科医は聡明で実直で奥ゆかしい人間で、もう何年もつきあいのある気の置けない相手だったが、彼女も最初は不思議がっていたものだった。私のように楽しそうに自分のからだを調べたがる人は他になかなかいないのだそうだ。だいたいみんな夜更かしだの暴飲暴食だの不摂生をしていて、そうでなくとも自分のからだにコンプレックスがあったりして、大病が発覚することを恐れて病院を避けるようになってしまう。もしかしたらそういう心理はちょうど、巡回中の警察官を見かけると後ろめたい気持ちになるのと似ているのかもしれない。病院にはどうしても死のにおいがつきまとうので苦手な人も多いようだ。そうでなくとも、怪我をしたときの記憶、子どもの頃の注射や虫歯のエピソードなどが思い出されて、羞恥や痛みがよみがえり、どうしてもいやな気持ちを抑えられないという人も多いという。でも私にはそういうものがない。病気でもなんでも先にわかってしまったほうがいい、もちろんそういう気持ちも理由としてはあるが、先ほども言ったように私はただ自分のからだについて知ることに夢中になっているだけである。痛みも死も些細なものだった。むしろ痛みも死も私の一部なのだから愛しこそすれ避けるなどもっての他であった。
 炎天下でも私は病院に通い続ける。病院の待合室から見える大きな木には蝉の脱け殻が複数とまっているようだった。もうそんな季節なのだ。診察券の番号で呼ばれた私が診察室に入るや否や、担当医が話し始めた。ほんとうの自分を知ってみたくはありませんか。つまり? 検査をして間接的に知るだけではなく、直接、あなたのからだの中を、あなたは体験してみたいのではないかと思って。担当医はいつもの理知的な瞳でそう言ったのだった。そんなことができるのであればいくら大金を積んでも構わない。意気込む私をほほえましそうに見守る担当医の前で、私は私の中に入ることを決めた。意を決して入り込んだ先の私は熱くてどこまでも暗かった。意外と空洞らしい空洞がないのが面白くて、私はみちみちと音をたてる自分のからだを労ってやった。こんなに傷つきやすい、それなのに生まれて数十年確かに存在してくれた頼もしい私の体に、私はすっかり頭が下がる思いだった。できることならひれ伏してすべてを投げ出したいとさえ感じた。あわれで愛くるしい。柔らかいかと思えば固いところもたくさんある。実際に体験してみると、検査で見るよりも骨も内臓も大事に大事に守られていることがわかった。立体的に走っている様子を3Dで見せてもらった血管もそのままで、私は世界遺産を目にした遺跡マニアのようにはしゃぐ。ぐにゃぐにゃと蛇行するところが子どもの頃の私の煮え切らない性格のようでとても懐かしい。じんわりと体内は湿っており、いろいろなにおいがして、うっすらと血走っていて、私はとたんに恥ずかしくなり、私を見るのをやめる。担当医はこれをいつも見ていたのだと一度気づくと、目の前で年甲斐もなくはしゃいでいるのがみっともなく感じられてどうにもだめだった。私が動きをとめたのがわかったのか、外側で彼女が笑っているのが伝わる。私の肉が震えている。彼女が何か言っているのだ。大丈夫、ずっと見ていたからわたしはあなたを知っています、何をいまさら恥ずかしがることがありますか、ここは病院ですよ。そうか。そういうものだろうか。そうかもしれない。これは医療行為の一環で、ここには彼女と私しかおらず、相手は医者で、気心の知れている長い付き合いの相手で、だから恥ずかしがることも怖がることも何もないのかもしれない。
 やがて私は私の中いっぱいにみっちりとおさまった。この上ない幸福感で私は満たされていた。私が動くと私のからだはそれを素直に受け取って反応する。心の動きを感じ取って動いてくれる。熱いのが心地よい。どこがどこなのかだんだんわからない。私は私の中にとけていく。消える寸前、呼び声が聞こえた気がしてうっすらと目を開ける。私の担当医が私を呼んでいた。返事をする。声が出る。私はここにいたのだった。私は私だった。生まれて初めて私は私になった、そういう思いだった。涙を流している私のことを、私の担当医は慈愛のこもった瞳で見つめていた。どこかで蝉が鳴いている。聞こえる。

産声 200614