三丁目に天使が越してきた。三丁目の天使に会いに行くといいものをもらえる、と学校ではもっぱら噂になっている。三丁目は前の大戦のときに隣国から逃げのびてきたひとの作った小さめの家屋がもともとたくさん残されており、それらの家屋は平和になった昨今は歴史的価値が高いという理由でとても人気だ。それから、三丁目には花が多い。花を育てるための土が豊富にある。三丁目以外ではそもそも土が貴重なため、基本的に植物は育てられない。引っ越してきた天使というのはたぶん、お金持ちで、そして花や土いじりが好きなのだろうとおれは思った。
 天使のことは噂で聞いただけだった。三丁目に越してきた天使に会いたいという理由だけで三丁目に入るのは気が引けた。建物と地面、何もかもがかたいコンクリートでできているおれの町は三丁目のすぐ隣にあるが、おれ自身は三丁目になじみがない。年に一度の春の祝祭の日でさえ三丁目には行かない。おれにとって土とは要らないものだ。ただ、花には興味があって、毎年祭りの夜には友人にせがんで三丁目の花をとってきてもらっていた。友人が渡してくれる三丁目の花にはいつも土がついていた。三丁目の土は黒く、少しだけ湿り気があり、土以外の何かをいやでもおれに連想させた。
 三丁目の天使の噂を聞いた五日後の昼下がり、午前で終わった学校の帰り、アパートに戻らずに町を出る。春の祝祭日にはまだ遠いためかどこの家の花も咲いておらず、三丁目は緑色とそして壁の黄土色、屋根の煉瓦の赤い色で静まり返っていた。おれの足を受け止める乾いた土はやたらと音を吸い込んで、ふかふかとしていて、おれは少しだけうんざりする。昼の日は高く、それで影がはっきりとおれの前に見えた。天使は自宅とおぼしき古い家屋の脇に立っていた。後ろ手に腕を組み、まだ寒いのに薄着をして、あまり健康そうには見えない筋張った生白い肌をさらしてつまらなそうに表を見ている。おれと目があっても黙っている。おれも黙って立ち止まっている。天使の家の窓に置かれた鉢植えの植物たちが大量の葉と花をしたたらせ、壁には蔦が這いまわり、小さな家はちょっとした森かもしくは惑星のようであった。屋根にも花が咲いている。そこだけ季節が狂ったように、視界の中でその家だけがあざやかだった。おれとしばらく見つめあっていた天使はおもむろに窓辺の鉢を手に取り、そして、それをおれに渡してきた。鉢の中の土は濃く、重く、ほんの少し湿っているようだった。顔をあげる。天使はもう家に入り、今は何か飲んでいるようだった。天使のつけたラジオからひびわれた音が聞こえる。ラジオを通るとどんなに新しい音でも洗われて洗われてひびが入る。おれはずいぶん長い間、その場に立ち尽くしてぼんやりと天使の家を見ていた。
 帰ってから天使に渡された土を鉢ごとベランダに置いた。無機質なコンクリートに置かれた三丁目の土はやはり暗い色をしていて、火にかけたら溶けそうだとおれは思う。一匙だけ掬って口に入れて、その夜はもう、三丁目の天使のことだけをずっと考えてすごす。

三丁目の天使 200223