水銀を飲むことに決めた。つまり具体的にどういうことかというと、ずっと一緒にいてほしかったから恋人を捨てた。夜の埠頭で雰囲気たっぷりの別れ話をして彼女の涙に満足して、その足で真夜中もやっているデパートにかけこんで、彼女の好きだったブランドの服を一揃い買いつけて、彼女と同じ眼鏡を注文し、翌日にはそっくりな髪型にセルフカットした。香水も化粧道具も靴もアクセサリーもぜんぶおそろいにした。家具も似せた。形を整えたらあとは中身のはなしである、おれは彼女の仕草をひとつひとつなぞっていった。好物。嫌いなもの。挨拶の仕方、口調、語尾をときおり上げる癖、流行りのものはなんでも試すところ、買い物するときにものを選ぶ基準、好きだよと言いづらそうに教えてくれるときの照れ隠しの偉そうな態度、誰かの悪口を言ってから決まり悪げに反省するところ、それから別れのとき見せてくれたような静かな静かな涙の落とし方。少しだけ粘度がある、そう、ちょうど水銀のしずくのような。かつて彼女がおれにしてくれたことを今度はおれが他人にするようになって、毎日が楽しくなった。彼女のこと以外はずっとぱっとしない人生だったが、そんな過去は忘れるくらい満足していた。鏡を見るのが幸せで仕方なくなった。覗けばいつでも彼女に会える。しかもその彼女はおれなのである。いつまでもぜったいにいなくならないのだ。こんなにいいことはない。
 しばらくそう過ごしてから、あと足りないのはおれだな、と気づいた。土や雪でこさえるようにおれをもう一人作れたならよかったが、それは無理な相談だったから、おれは妥協してかつてのおれによく似た男を見つけて交際することにした。そして見つけた彼はほんとうに、昔のおれにそっくりだった。似ているところを発見すればするほどおれは幸福をもっと強く感じた。こんなに似ている人っているんだな、所謂ドッペルゲンガーだろうか。自分に似ている人は世の中に三人いるとか聞いたこともあるがそのうちに入るのかもしれない。顔や背格好だけでなくて、内面も含めて似ているとは驚きだが最高だ。おれははしゃいで彼にいたずらをした。毎日軽い罵倒を浴びせて、そしてすぐ不機嫌になって彼を振り回した。おれはまぎれもなく彼女で、彼はまぎれもなくおれだった。
 水銀の作用とはすさまじい。
 何度でも言う。そっくりだった。だから当然の帰結といえばそうだと思う。彼はおれにある夜、海辺を散歩しているときにとつぜん別れを告げてきて、でも、おれにはなんとなくその理由がわかるので、黙って受け入れた。ちゃんと泣いた。静かな静かな夜だったから、波さえ打ち消す空だったから、負けないように静かに静かにおれは泣いてみせた。あまりにすばらしくて最後のほうはほとんど感激して泣いていたかもしれない。そしてひとりになって、しかしおれはこれまで出会って別れた彼女や彼の笑顔を思い描いてみると、これがまだ幸せは続いているのだなと思い知ってしまうのだ。おれと彼女は彼のおかげでたぶんずっと終わらない。それさえわかれば、それだけ叶えられるのならばもうあとは、いい。ほんものなんてなんにも要らない。おれという器に水銀さえなみなみ注がれていれば、それでいい。

水銀の恋人たち 210628