生活の中でいくたびか、思考を焼いたり、あげくに食べたりもすることがある、その度合いが過ぎて私はまた旅に出なくてはならなくなった。人生で何回目になるか数え切れない旅の幕開けは私をほったらかしにして、瞼の裏で着々と決定された。私は私のために、私の思考とともにずっと暮らしてきたがそのかんまったく喧嘩をしなかったわけではなく、一緒にいればどんな恋人同士や家族でも一度は衝突するその例に漏れず、私も私の思考とよくぶつかった。ぶつかったせいで痣がくっきり浮かび上がった。ひどいときには私と痣のどちらが私だったのかわからないほどだった。私たちの衝突に耐えきれず起きる音は烈しく、あまりのことに階下の部屋から住人たちが飛び出して、鼠の溶けたような汚れた道に見物の列ができあがったものだ。
 旅の色は生活より淡い。薄暮。この淡さが薬になる日がある。人混みに戸惑っている彼の影をひきつれて、怒涛にまぎれ客車へとすべりこむ。
 もう少し、上手に、生活ができたらことは簡単だった。彼のもとへ残る私の思考がうんざりしているのは火を見るより明らかだった。わかっていてうまいこと声をかけてやることができず、私は、促されるままに荷物をまとめ、家を出た、空は自室の天井と同じ重さをしていた、彼が追いかけてきて、それでも一緒に行くよという言葉は現れず、代わりに出たものは影。剥がされるように本体から取り外された彼の影は彼に似て文句を好かないようだった。私とともに旅立つことをどう思っているのか顔色から窺い知れない。ベランダから私の思考が私たちを見おろしている。黙って影の手を取って、立ち止まった彼の見送る視線を感じながら、道を進み、駅にたどりつき、生まれたときからそうしてきたように二人でサンドイッチを買って、中身のハムとレタスだけ取り出して先に食べてパンに指を挟みこみ、やたらビネガーのきいたソースに染まる指を眺めながら、人生もこうやってばかみたいに遊べるならどんなにかいいだろうと私は置き去りにしてきた私の思考について考えた。私の思考は私の旅の連れ合いにならない。これまでもなったためしがない。今ここに広がるのは私の思考のしぼりかすにすぎない。
 向かいの席に腰掛けた彼の影がおとなしく窓の外を見ている。彼の影が私の思考になってしまえば楽かもしれない。なんといっても彼の影は従順で、私たちはきっと気が合うのだし、そして何より、私の思考のほうも彼本人と相性がいいのだから、彼の影になりかわって今日から暮らしてしまえばいいのだ。列車は蒸気をホームに撒き散らかしてはごまかすように息をつく。うなだれる大人そっくりの仕草をする。誰も彼も生活に飽いていて、罰や薬としての非日常を喉から手が出そうなほど欲している。さっき食べたサンドイッチのかけらが肉片のように私の歯にまとわりついて歯茎のふりをして頬を押しているのがわかる。荷物を棚にあげ、いずれ隣に座る他者のために余白をとる、余白とは、本来余白とはそれそのものが必要とされる。埋められるのを待ってはいけない。しかし私は、席を求めてさまよう他の乗客たちの目に宿るさびしさや、まだ見ぬ景色を責める弱さとやさしさを勝手に感じ取って、どうぞ奪ってくださいと泣き出すように尻を窓辺へ寄せるのだ。私の思考ならばこの余白に腰掛けるだろうかという意味のわからない空想を足元にひたひたこぼしながら。
 如何ともしがたく呆然と見やる。
 私が私としてそばにおらずとも私の思考は影をなくした彼と暮らしていける。事実と現実の色を生活や旅のそれと比べようとして、もうまともにできないかもしれない、と窓の向こうへ笑いかけたとき、列車は駅からすべりだすように生まれる。淡さこそ異なるが、旅とは生活である。
 
思考と旅と影 / 不可村 / 230814 / Repost is prohibited.